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■アトラスの日に■

モロクっち
【0173】【武神・一樹】【骨董屋『櫻月堂』店長】
 某月某日、白王社ビル内、月刊アトラス編集部。
 編集長碇麗香が檄を飛ばし、シュレッダーを稼動させ、記者その壱たる三下忠雄が悲鳴を上げる。
 麗香の目を盗むようにして、船舶模型情報誌に目を通しているのは、記者その弐。無口で無愛想な御国将。緑茶が入ったマグカップを傍らに、どこか覇気のない様相で、時折自分の影にちらりと一瞥をくれている。
 どやどやと応接室に外国人数名が入っていった。何でも、イギリスの秘密結社の幹部たちだそうだ。日本が気に入ったらしく、最近よく編集部でその姿を見かける。彼らがこの編集部にやってくるようになったのは、イギリス人の作家兼オカルティストがアトラスに関わるようになってからだった。集団が入った後に、そのイギリス人が黒尽くめの少女を伴って、応接室に入っていく。リチャード・レイと蔵木みさと、ふたりは最早この編集部の『住人』だ。

 多くの冒険者を抱えて、編集部はこの日も回っているのだ。
 ここは地球で、その縮図がここにある。
 シュレッダーに悪戯をするグレムリン、デスクの上に鎮座するぬらりひょん、暗がりの吸血鬼、影の中の蟲、深淵へと続くドア。
 すべてがここに、収まっている。
アトラスの日に


■彼に出来ること■

 彼は見てしまったのだ。光を嫌う黒尽くめの少女が、アトラス編集部の窓辺に立っているところを。金色の目を辛そうに細めて、眉根を寄せていたのだ。彼女が光を嫌うのは、光が彼女にとって危険なものであったからだった。にも関わらず、少女は窓の外を眺めていた。ほんの1分ほどのことだった。
 武神一樹は、そんな彼女の視線を追った。
 賑やかな東京の往来を、女子高生のグループが歩いている。同じ学校の制服に、同じような髪型、それぞれの鞄には流行りのピンクウサギのキーホルダー。いや、ストラップかもしれない。
 そうか、と一樹は低く呟いた。少女はすでに、イギリス人作家がいる応接室に入ってしまっている。
 ああ、そうだろうな、と一樹は呟く。ガラスの向こうの夕暮れに、女子高生が歩いているのは当たり前なのだ。だが彼のすぐそばに、そんな当たり前の1日すら過ごせないでいる16歳がいる。
 蔵木みさとは、しかし、表面的に言えばそんな日常を自ら選んだわけではなかった。生まれたときから、すでに他者によって未来を定められてしまった。彼女はそう思っている。
 一樹は、そうは思わない。光のもとを歩けない身体であっても、自分の道は選べるはずだ。彼女は進んで深淵の道を歩んでいる。
 それならば、と――
 一樹は、少女の手を引いてやろうと考えた。道はひとりで歩めと、誰が決めたというのだ。


「……こんばんはぁ」
 骨董品屋の引き戸を開けたみさとは、少しばかり怖々とした声色で挨拶をしてきた。一樹はすでに玄関先で待ち構えていた。
「来たな」
 笑ってみせると、みさとは唇を噛んで微笑みながら俯いた。彼女は恥ずかしいときに唇を噛むのだ。その癖を、一樹は少し前に知った。
「お久し振りです」
「だな」
 一樹は引き戸を閉めてやり、少女を中に迎え入れた。
 外は、漆黒だった。
「あ」
 居間に通されたみさとは、ちゃぶ台の上に置かれている数冊の本を見て、軽い驚きの声を上げた。彼女が見ているのは、一樹が手に入れた教科書だった。実際に、都内の高校で使われているものだ。現代語1、古典1、数学1とA、化学、経済。
「これ……」
「まあ、とりあえずはそれで行こう。何かやりたい科目があれば探してくる」
「……すごい。こういうのって……学校でないと買えないと思ってました」
 みさとがはじめに手に取ったのは古典だった。
 振り向いて一樹に見せた表情は、まだ『驚き』でしかなかった。

 俺に出来ることは、と一樹は考えた。
 一樹に出来ることは、コネとツテを駆使して教科書を手に入れ、過去にやっていた家庭教師のバイトの経験を生かして、みさとに高校生がしている勉強を教えてやることだった。その話を持ちかけてみると、みさとは初めのうちは困惑していたし、遠慮もしていた。彼女の保護者は多忙かつ変わり者かつうっかり者で、みさとに何も教えていないわけではないのだが、一樹の提案については手放しで一任してきた。保護者たるイギリス人作家が軽く背中を押したので、みさとは緊張しながら櫻月堂にやってきた。
 すっかり無言で古典の教科書に見入ってしまっているみさとの背中を見つめて、一樹はひとり微笑んだ。
「……夕飯は食べたか?」
「あっ!」
 みさとは、不意に話しかけられたと感じたらしい。軽く飛び上がるような勢いで振り返った。
「まだです」
「じゃ、食ってから始めるか。腹が減っちゃ戦は出来ないからな。授業は戦争だぞ」
「そうなんですか?」
「そうなんだ」
 すでに一樹の同居人が、にこやかに夕食の準備を整えていた。白飯と味噌汁と沢庵と、鰤の照り焼き、鶏そぼろ。ちゃぶ台に並んだ夕食を見て、ふわっ、とみさとが微笑んだ。
「わぁ、ふつうのごはん」
 彼女は、食べていないわけではないだろう。
 かつて住んでいた湖のほとりでは、自給自足の食生活。今ではイギリス式の食事に違いない。あのオカルティストは日本が好きなわりに箸が使えない。
「飯のおかわりならいくらでもあるぞ。な?」
「はい」
「ほら、座って、食えよ」
「……いただきまぁす」
 こういった食事を前にすると、日本人は自然と食べる前に手を合わせてしまうものか。みさともそうしていた。
 結局、おかわりをしたのは一樹だけだったのだが、ちゃぶ台の上に並んだ食事はきれいに片付いた。一樹が静岡から取り寄せているこだわりの緑茶を飲んだ後、ちゃぶ台は学習机へと装いを変えたのだった。

「何だ、みさとは古典が好きなのか」
 始めに手に取ったのも古典の教科書だったし、金の視線が向けられているのは、主に古典の教科書なのだ。一樹は、それはそれで嬉しいことだと思っていた。
「古いものには、何となく興味を引かれます。だから武神さんのお店も好き。……でも、この教科書に買いてあること、何にもわからない」
「最初はそうだし、コツがいる」
 一樹は古典1を開き、『枕草子』のところで折り目をつけた。
「『春は、あけぼの』の『枕草子』だ。聞いたことあるか?」
「あ、はい」
「はじめは、聞いたことがあるものから入っていけばいい。何にも知らなければ、始めの頁から読んでいけばいいんだ。俺はそうやって進めるが、それでもいいか?」
「……武神さんにお任せします。先生だもの。生徒は従えばいいんです」
 だが、その手引きを苦にはしていないようだ。みさとは嬉しそうに微笑んでいた。
 ――俺の手がもう要らなくなれば、そこで自分から手を離せ。それまで俺は離さない。
 一樹は教科書から手を離した。真新しい教科書は、すぐに閉じようとした。動きかけるページを、みさとがさっと押さえたのだ。『枕草子』は開かれたままだった。『春は、あけぼの』の一編はなかったが、みさとは『枕草子』を読みたがっているようだった。
「……高校って、科目ごとに先生が違うって聞きましたけど」
「ああ、そうだな、大抵は」
「武神さんは、全部教えてくれるんですか?」
「一通り出来るが、英語はリチャードに習った方が役には立つかもな」
「あ、そっか。……でも」
「ん?」
「学校の英語、どんなのかなぁって……」
「学校で習う英語と、俗に言う英会話は違う――知ってたのか」
「はい」
「じゃ、今度お前が来るときまでには、英語の教科書も用意しておく」
「ほんとうに? ……ありがとうございます」
 そうとも、高校で習うことが、どれほど将来役に立つというのだ。微分・積分、方程式、現在進行形と『枕草子』。政経の知識はあった方がいいかもしれないが、あの日々に大勢と一緒に学び、中間と期末のテストのために脳に詰めこんだ情報が、ほとんど役に立ったためしはない。
 みさとは、もうすでにそれを心得ているのだろう。多くの高校生と同じように。
 それでも、彼女がふつうに学びたがっているのなら――
 一樹はテストを作るつもりもあるし、教科書を揃えていくつもりもある。
 みさとが何度も礼を言って帰っていった。黒い鞄の中に教科書を詰め込んで、今度はちゃんとノートも用意してきます、と言い残して。
 彼女は、保護者と一緒にイギリスと日本を行き来する毎日だ。日本に居る間は、いつでも店に来ていいと、一樹は彼女に言っておいた。みさとは唇を噛みながら頷いた。

 ただ、ここは――
 ほんとうの教室にはなれない。
 武神一樹には出来ないことだ。
 ――ままごとだと言われようがかまわない。俺は出来る限りのことをしてやろう。あいつがそれで笑うなら。
 笑ってくれるなら、ここはほんとうの教室だ。
 武神一樹ひとりでは、ここは学校にはならない。



<了>

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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0173/武神・一樹/男/30/骨董屋『櫻月堂』店長】

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               ライター通信
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 モロクっちです。このたびは完全お任せゲームノベルのご発注、本当にありがとうございました。モロクっちのNPCを使っていただくご依頼というものは、ファンレターの同じくらい嬉しいものです。にしてもみさと嬢が人気です(笑)。不幸だと思っているのは彼女だけで、武神様から心から心配されている彼女は、幸せなのかもしれませんね。
 何だかわたしが幸せな気持ちで書かせていただきました(笑)。調べたのですが、最近の古典にも『枕草子』はちゃんと入ってるみたいですね。