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■蒼穹の羽 3■

在原飛鳥
【0086】【シュライン・エマ】【翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
蒼穹の羽 3 
-----------------------------------
何の前触れもなく突然に、太巻は皆の前から姿を消した。
見事なまでに、忽然と―――。
突然の蒸発を訝る者たちの前に現れたのが、チェンと、その上司……ウォルフだった。


「榊を捕らえることが出来たら」
チェンを伴って現れた男は、ヨーロッパ系の白人の顔をしていた。すらりと伸びた肢体に、透き通った翠の瞳、プラチナに近いブロンド。整った顔立ちは表情を崩さず、内心を窺わせない。20代と言ってもとおる顔立ちだが、口元や目じりに刻まれた細かな皺が、若くはないことを示している。
日本語が喋れないのか、通訳にはチェンを通した。
長い脚を優雅に組んで、ウォルフは冴えた瞳で居並んだ一同を見回す。
「君たちの存在を、IO2(われわれ)が黙認することを、上層部に掛け合うことも出来る。悪くない条件だと思うが」
ウォルフの伝言を伝えるべく、チェンから直接連絡があったのが、昨晩。太巻は君たちを売ったのだと、ウォルフは表情一つ変えずに告げた。ウォルフに、仲間の情報を売って取引を持ちかけ、それが成立すると忽然と姿をくらませたのだという。
太巻が彼等を裏切った、その証拠が、榊と坂崎の事件に関わったものたちの連絡先の流出である。誰もが、太巻の名を騙った伝言によって呼び出され、こうしてウォルフとチェンに対峙していた。
太巻の携帯電話は、電源こそ切ってはいないが、誰も出ない。どこかへ捨てられている可能性も高かった。
「太巻の行方は、我々も追っている。そう遠くへも逃げれまい。東京のどこかで息を潜めているのだろうが、すぐに見つけるから、君たちが気にすることもない」
どうせ、君たちを裏切った男だ……と、向かい合う瞳に叛意の色を探すように、ウォルフは一人一人の瞳を順々に覗き込んだ。
「榊は、異次元の空間を作り出す技を持っている。これが、厄介でね。特殊能力を持たない私の部下では、心許ない。そこで君たちに、榊の捕獲を依頼したいのだ」
両手の指を組んで、ウォルフは口元を手で覆うような仕草をした。青い瞳は、油断なく居並んだ者の一挙手一投足を観察している。
「追い詰められれば、榊は必ず異次元に逃げ込もうとするだろう。我々が君たちを、ヤツの異次元の世界にまで誘導する。君たちにはそこで、彼を捕獲してほしい」


雨が、降り続いている。
じわりと纏わりつく湿気にか、それとも彼の言う「ジャップ」と会話したことへの不快感からか、ウォルフは不愉快そうに眉を寄せた。
「黄色いサルどもが……」
ごく小声で、しかも英語で呟かれた言葉を、チェンは何も言わずに聞き流した。来客を見送った扉が閉まる直前の言葉だったから、彼の英語の罵声を聞きとがめたのは、チェンだけだっただろう。「黄色いサル」にチェンも含まれていることを、ウォルフはよく承知している。承知していて、差別的な発言を厭わなかった。
「あの山猿はどこへ消えた」
「まだ分かっていません」
チェンの答えに、ウォルフの聞こえよがしな舌打ちが室内を満たす。
「たかが日本人一匹に出し抜かれるほど、俺の部下は能無し揃いか」
「……その『たかが』日本人は、少なくとも100年は生きています」
「だから、どうした?」
「お忘れかと思いまして」
刺すような視線を横に感じながら、チェンは窓の外を眺めた。
ひそやかに窓に打ち寄せる雨は、外の景色を歪ませて見せている…………。

太巻の行方は、洋として知れない。


■時空の狭間―――
「太巻なら、居無ェよ」
店の床を掃いていた少年は、チリンと鳴った入り口にぶっきらぼうな声を投げた。
店内は、いつになく片付いている。副流煙と不精の絶妙なコンビネーションを見せて部屋を汚す張本人がいないせいだろう。鬼の居ぬ間に何とやらで、結城磔也(ゆうき・たくや)は店内を徹底清掃することにしたらしい。
今も紺色のエプロンを掛け、ホウキを片手にした少年は、神経質そうな眉を寄せて、ぞろぞろとやってきた客に視線を投げる。「主人がいないと、この店も案外繁盛してんじゃ無ェか」とボソリと呟いて振り返った。
「太巻を探してんなら、他を当たってくれ。突然店を空けられて、こっちだって迷惑してんだ。……ま、帰って来て貰わなくても良いんだけどな」
元々愛想の無い磔也は、仏頂面のまま腰に手を当て、吟味するようにしばらくじっと来客を見つめる。やがて、諦めたように頭を横に振って嘆息した。
「……妙な手紙を預かってる。アンタらに、太巻が伝言残してないか、聞かれたら渡せって言われてたんだ」
何も聞かれてないけど良いだろ、と磔也は何の変哲もない紙に打ち出された文章をテーブルに放った。

「 幻 覚キノコを狩り に 、
魅 惑 の森にいってきます。
わ かぞうに捕まるヘマはしないので、
好きに さ せてください。
レ インコートを忘れずに。
雨が降 る かもしれ な い。

榊 のことはお前らに任せたので後はよろしく。
うまくいったら後で労 を ねぎらってやる。
こ の件が済んだら酒でも奢ってや ろ う。
そんなわけで精進 す るように な 。


be acquiesced.
言うこときけよ?」


「……後のことは俺は知ら無ェから、宜しくな」
紙だけを残して後片付けを済ませ、磔也は店の奥へと姿を消した。


■...Tears in heaven
また、榊が歌っている。
窓の脇の上がりかまちに腰掛けて片膝を立て、積もった水滴のせいで歪んだ外の景色などものともせずに。
ぽつりぽつりと呟くように言葉が漏れる。
柔らかくて優しくて寂しげなその旋律を、正美は嫌いだった。
雨の日も嫌いだ。
雨の日は、青年の肌を不健康に白く見せる。

Would you be the same...
if I saw you in heaven?

「つまんない」
正美が呟くと、声はふつりと途切れた。
どこか遠くを見ていた青年は、澄んだ瞳を正美に向ける。
「……何?」
「つまんない」
もう一度繰り返して、クッションを胸の中に抱きしめた。
榊は段々、生というものから遠ざかっている。霞んでいくのだ、と正美は榊の様子を表現していた。現世から離れていく幽霊みたいに、少しずつここから遠のいていく。
坂崎は、ちらりと横目で二人を見たが、何も言わずに窓の側に立って、再び外の景色を眺め始めた。
坂崎は殆ど喋らない。榊のボディガードだと聞いていたのに、榊にべったりくっついていることもない。
そのかわり、出かける時には二人で一緒に行動する。
三人をここへ連れてきた男が、正美に厳しく(花ざかりの高校生にはいささか過激すぎる発言で)正美の外出を禁じていたので、正美はますます不機嫌だった。
「今度は何歌ってたの?」
ゆっくりと首を傾げて、「ああ」と榊が呟いた。
優しい「ああ」だ。
「Tears in heaven.」
ティアーズ・イン・ヘブン。
口の中で呟いてみる。
聞いたことがある単語だ。
「……楽園の涙?」
知識を総動員して、そんな意訳を作り出した。どうせ違うんだろうと不貞腐れている正美を見つめ、榊は不意に、綻ぶように柔らかな笑顔を見せた。
「それ、いいな」
ささやかに笑い声も上げるので、正美は唇を突き出した。ここに来た頃には毎日パール入りの白っぽい口紅を塗りたくっていたのだが、それも面倒くさくなってやめてしまった。いくらオシャレをしてみたところで、たった一人彼女の化粧を評価してくれる男は、化粧をしていない時に限って、「今日はかわいい」とか言いやがるのだ。
「からかってんでしょ。マジムカつく」
「マジってなに?」
「……本当にムカつく」
「ムカってなに?」
子どものような問答を繰り返すので、腹立ち紛れに抱えていたクッションを放り飛ばした。
「本当に腹が立つなあっつったの!」
万事この調子だ。彼女の得意とする日常語は、彼には通じない。
まことしやかな顔で正美の「間違った日本語」を訂正する教師よりも、余程話が通じない。
正美の言葉をようやく理解して、榊が「褒めたんだよ」と言い返した。
「どうだっていいけどさぁ。どういう意味それ。楽園の涙じゃないんでしょ?」
視界の向こうで、坂崎が正美の放り投げたクッションを拾い上げて、ソファに戻した。
榊はお兄ちゃん(正美には居なかったが、居たらきっとこんな感じだ)のような表情を浮かべて、「それであってる」と頷いた。
「ウソ」
「嘘じゃないよ。その読み方でもあってる」
「だーかぁらぁ、本当は、その歌自体どういう意味なのって聞いてんじゃん」
つ、と榊の視線が正美から流れて、坂崎を探した。
いつも一つの真実しか見ていない榊が見せる、微妙な空気だった。
「……死んでしまった人のことを想った曲なんだよ」
「なんで、それで楽園の涙?」
そこに、毀してはならない何かを感じ取って、正美は思わず声を潜めた。
「天国には涙を流すこともなく、人は幸せになれる。だから哀しむことはないと、……そういう歌なんだよ」
神妙な顔をした正美に笑って、榊はその部分を口ずさむ。

Time can bring you down
Time can bend your knees
Time can break your heart, have you begging please...begging please

Beyond the door there’s peace I’m sure
And I know there’ll be no more tears in heaven...

やっぱり、正美には「ティアーズ・イン・ヘブン」しか聞き取れなかった。




蒼穹の羽 3 
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何の前触れもなく突然に、太巻は皆の前から姿を消した。
見事なまでに、忽然と―――。
突然の蒸発を訝る者たちの前に現れたのが、チェンと、その上司……ウォルフだった。


「榊を捕らえることが出来たら」
チェンを伴って現れた男は、ヨーロッパ系の白人の顔をしていた。すらりと伸びた肢体に、透き通った青い瞳、プラチナに近いブロンド。整った顔立ちは表情を崩さず、内心を窺わせない。20代と言ってもとおる顔立ちだが、口元や目じりに刻まれた細かな皺が、若くはないことを示している。
日本語が喋れないのか、通訳にはチェンを通した。
長い脚を優雅に組んで、ウォルフは冴えた瞳で居並んだ一同を見回す。
「君たちの存在を、IO2(われわれ)が黙認することを、上層部に掛け合うことも出来る。悪くない条件だと思うが」
ウォルフの伝言を伝えるべく、チェンから直接連絡があったのが、昨晩。太巻は君たちを売ったのだと、ウォルフは表情一つ変えずに告げた。ウォルフに、仲間の情報を売って取引を持ちかけ、それが成立すると忽然と姿をくらませたのだという。
太巻が彼等を裏切った、その証拠が、榊と坂崎の事件に関わったものたちの連絡先の流出である。誰もが、太巻の名を騙った伝言によって呼び出され、こうしてウォルフとチェンに対峙していた。
太巻の携帯電話は、電源こそ切ってはいないが、誰も出ない。どこかへ捨てられている可能性も高かった。
「太巻の行方は、我々も追っている。そう遠くへも逃げれまい。東京のどこかで息を潜めているのだろうが、すぐに見つけるから、君たちが気にすることもない」
どうせ、君たちを裏切った男だ……と、向かい合う瞳に叛意の色を探すように、ウォルフは一人一人の瞳を順々に覗き込んだ。
「榊は、異次元の空間を作り出す技を持っている。これが、厄介でね。特殊能力を持たない私の部下では、心許ない。そこで君たちに、榊の捕獲を依頼したいのだ」
両手の指を組んで、ウォルフは口元を手で覆うような仕草をした。青い瞳は、油断なく居並んだ者の一挙手一投足を観察している。
「追い詰められれば、榊は必ず異次元に逃げ込もうとするだろう。我々が君たちを、ヤツの異次元の世界にまで誘導する。君たちにはそこで、彼を捕獲してほしい」


雨が、降り続いている。
じわりと纏わりつく湿気にか、それとも彼の言う「ジャップ」と会話したことへの不快感からか、ウォルフは不愉快そうに眉を寄せた。
「黄色いサルどもが……」
ごく小声で、しかも英語で呟かれた言葉を、チェンは何も言わずに聞き流した。来客を見送った扉が閉まる直前の言葉だったから、彼の英語の罵声を聞きとがめたのは、チェンだけだっただろう。「黄色いサル」にチェンも含まれていることを、ウォルフはよく承知している。承知していて、差別的な発言を厭わなかった。
「あの山猿はどこへ消えた」
「まだ分かっていません」
チェンの答えに、ウォルフの聞こえよがしな舌打ちが室内を満たす。
「たかが日本人一匹に出し抜かれるほど、俺の部下は能無し揃いか」
「……その『たかが』日本人は、少なくとも100年は生きています」
「だから、どうした?」
「お忘れかと思いまして」
刺すような視線を横に感じながら、チェンは窓の外を眺めた。
ひそやかに窓に打ち寄せる雨は、外の景色を歪ませて見せている…………。

太巻の行方は、洋として知れない。


■時空の狭間―――
「太巻なら、居無ェよ」
店の床を掃いていた少年は、チリンと鳴った入り口にぶっきらぼうな声を投げた。
店内は、いつになく片付いている。副流煙と不精の絶妙なコンビネーションを見せて部屋を汚す張本人がいないせいだろう。鬼の居ぬ間に何とやらで、結城磔也(ゆうき・たくや)は店内を徹底清掃することにしたらしい。
今も紺色のエプロンを掛け、ホウキを片手にした少年は、神経質そうな眉を寄せて、ぞろぞろとやってきた客に視線を投げる。「主人がいないと、この店も案外繁盛してんじゃ無ェか」とボソリと呟いて振り返った。
「太巻を探してんなら、他を当たってくれ。突然店を空けられて、こっちだって迷惑してんだ。……ま、帰って来て貰わなくても良いんだけどな」
元々愛想の無い磔也は、仏頂面のまま腰に手を当て、吟味するようにしばらくじっと来客を見つめる。やがて、諦めたように頭を横に振って嘆息した。
「……妙な手紙を預かってる。アンタらに、太巻が伝言残してないか、聞かれたら渡せって言われてたんだ」
何も聞かれてないけど良いだろ、と磔也は何の変哲もない紙に打ち出された文章をテーブルに放った。

「 幻 覚キノコを狩り に 、
魅 惑 の森にいってきます。
わ かぞうに捕まるヘマはしないので、
好きに さ せてください。
レ インコートを忘れずに。
雨が降 る かもしれ な い。

榊 のことはお前らに任せたので後はよろしく。
うまくいったら後で労 を ねぎらってやる。
こ の件が済んだら酒でも奢ってや ろ う。
そんなわけで精進 す るように な 。

be acquiesced.
言うこときけよ?」


「……後のことは俺は知ら無ェから、宜しくな」
紙だけを残して後片付けを済ませ、磔也は店の奥へと姿を消した。




色素の薄い瞳は、人間とは思えないと思う。
やつは僕らを人とは思っていなかったけれど、僕らにとってはあいつこそが、人の形をした別の生き物だった。
ジェフが岩場から脚を踏み外して、頭蓋骨にヒビが入るような怪我をした時も、彼は表情一つ変えず、いつの間にか姿を消していた。男のそういう行動はいつものことなので、誰一人として気にしなかった。
ごつごつした岩肌を覗かせる岩場はかつての僕らのお気に入りの場所で、どこへ行けば危ないか、どこならば安全か、僕らはよく知っていた。誰もがジェフが不注意で脚を踏み外したのだと、考えて疑わない。
ジェフも何も言わなかった。
夜中に毛布を跳ね除ける勢いで飛び上がることも、悲鳴を押し殺して歯を食いしばることも、あの男を見ると身体が竦むことも、ジェフは無理やりに押し殺して誰にも悟らせなかった。
怪我のせいで、ジェフの視界は不自由になったことだけは、僕の前でも悔しがった。
どれくらいの障害だったのか、細かく聞いたことは無い。
ジェフの片目は焦点を結ばず、白く濁った瞳はどこか別の場所を向いている。もう片方の目も厄介で、紙で丸めた筒程度の広さしか、ジェフの視界には入らなくなっていた。
「父さんが言ってた」
ある日芝生に座り込んで、ジェフがぽつりと口を開く。
「生きている以上の幸せなんてないんだってさ」
目が悪くなったせいで、ジェフの瞳は僕をまともには見てくれない。それでも彼の視界に留まれるように、僕は身体を丸めてジェフを見た。ジェフは表情たっぷりに僕を見返す。意思とは無関係に漂う瞳だけが、彼の顔にそぐわなかった。
僕が返事に困っていると、ジェフの口元から笑みが引く。まるで、何かに気づいてしまったかのように、視線を空へ逃がした。
「おれはもう、宇宙飛行士にはなれないかもしれない」
「そんなこと言うなよ。頑張ったらなれるよ」
「むりだ」
両膝を腕で抱きかかえて、静かにジェフは首を振った。口元に浮かんだ笑みが妙に達観している。諦めるのかと問いただそうとして、そうではないのだと気がついた。
「おれは、宇宙飛行士にはなれない。星を見るのに、目が悪くちゃな」
そして今は見えない夜空を見て、青い空と白い雲に顔を向けた。
「だから、おれは物理学者になることにする。宇宙を数字と数式で解明出来たら、おれはいつでも好きな時に、宇宙を体験できるだろ」
宇宙を勉強するには、頭が良くなくちゃいけないんだぜぇ、と自慢げに笑った顔は、吹っ切れたように清清しかった。
「夢は、見るもんじゃない。叶えるもんだ。でも、夢を叶える道は一つじゃない。おれは星が好きだから宇宙飛行士になりたかった。だけど、宇宙飛行士じゃなくても、宇宙を相手に仕事は出来る。だからリョウ、おまえは宇宙飛行士になれよ。そしたら、おれはお前から話が聞ける。おれはお前に、宇宙のはじまりとか、星のなりたちとか、一杯話すんだ」
「……うん」
かろうじて、返事をした。
僕よりもずっと宇宙を好きだったジェフが宇宙飛行士になれず、彼に釣られただけだった僕にはまだ、夢が残されている。そのことが物凄く間違っている気がした。
神様がいるとしたら、彼は僕ら人間を作るのがへたくそだ。学校で作らされる小学生の粘土細工みたいに、ちぐはぐなものばかり作っている。










■...Tears in heaven
また、榊が歌っている。
窓の脇の上がりかまちに腰掛けて片膝を立て、積もった水滴のせいで歪んだ外の景色などものともせずに。
ぽつりぽつりと呟くように言葉が漏れる。
柔らかくて優しくて寂しげなその旋律を、正美は嫌いだった。
雨の日も嫌いだ。
雨の日は、青年の肌を不健康に白く見せる。

Would you be the same...
if I saw you in heaven?

「つまんない」
正美が呟くと、声はふつりと途切れた。
どこか遠くを見ていた青年は、澄んだ瞳を正美に向ける。
「……何?」
「つまんない」
もう一度繰り返して、クッションを胸の中に抱きしめた。
榊は段々、生というものから遠ざかっている。霞んでいくのだ、と正美は榊の様子を表現していた。現世から離れていく幽霊みたいに、少しずつここから遠のいていく。
坂崎は、ちらりと横目で二人を見たが、何も言わずに窓の側に立って、再び外の景色を眺め始めた。
坂崎は殆ど喋らない。榊のボディガードだと聞いていたのに、榊にべったりくっついていることもない。
そのかわり、出かける時には二人で一緒に行動する。
三人をここへ連れてきた男が、正美に厳しく(花ざかりの高校生にはいささか過激すぎる発言で)正美の外出を禁じていたので、正美はますます不機嫌だった。
「今度は何歌ってたの?」
ゆっくりと首を傾げて、「ああ」と榊が呟いた。
優しい「ああ」だ。
「Tears in heaven.」
ティアーズ・イン・ヘブン。
口の中で呟いてみる。
聞いたことがある単語だ。
「……楽園の涙?」
知識を総動員して、そんな意訳を作り出した。どうせ違うんだろうと不貞腐れている正美を見つめ、榊は不意に、綻ぶように柔らかな笑顔を見せた。
「それ、いいな」
ささやかに笑い声も上げるので、正美は唇を突き出した。ここに来た頃には毎日パール入りの白っぽい口紅を塗りたくっていたのだが、それも面倒くさくなってやめてしまった。いくらオシャレをしてみたところで、たった一人彼女の化粧を評価してくれる男は、化粧をしていない時に限って、「今日はかわいい」とか言いやがるのだ。
「からかってんでしょ。マジムカつく」
「マジってなに?」
「……本当にムカつく」
「ムカってなに?」
子どものような問答を繰り返すので、腹立ち紛れに抱えていたクッションを放り飛ばした。
「本当に腹が立つなあっつったの!」
万事この調子だ。彼女の得意とする日常語は、彼には通じない。
まことしやかな顔で正美の「間違った日本語」を訂正する教師よりも、余程話が通じない。
正美の言葉をようやく理解して、榊が「褒めたんだよ」と言い返した。
「どうだっていいけどさぁ。どういう意味それ。楽園の涙じゃないんでしょ?」
視界の向こうで、坂崎が正美の放り投げたクッションを拾い上げて、ソファに戻した。
榊はお兄ちゃん(正美には居なかったが、居たらきっとこんな感じだ)のような表情を浮かべて、「それであってる」と頷いた。
「ウソ」
「嘘じゃないよ。その読み方でもあってる」
「だーかぁらぁ、本当は、その歌自体どういう意味なのって聞いてんじゃん」
つ、と榊の視線が正美から流れて、坂崎を探した。
いつも一つの真実しか見ていない榊が見せる、微妙な空気だった。
「……死んでしまった人のことを想った曲なんだよ」
「なんで、それで楽園の涙?」
そこに、毀してはならない何かを感じ取って、正美は思わず声を潜めた。
「天国には涙を流すこともなく、人は幸せになれる。だから哀しむことはないと、……そういう歌なんだよ」
神妙な顔をした正美に笑って、榊はその部分を口ずさむ。

Time can bring you down
Time can bend your knees
Time can break your heart, have you begging please...begging please

Beyond the door there’s peace I’m sure
And I know there’ll be no more tears in heaven...

やっぱり、正美には「ティアーズ・イン・ヘブン」しか聞き取れなかった。



■全員
「……つか、気に喰わねえんだけど」
Tシャツからすっきり伸びた腕を頭の後ろに回して、倉塚将之(くらつか・まさゆき)は不満げに天井を仰いだ。
新たに登場したウォルフとの会合を終えて流れ込んだ、セレスティ・カーニンガムの屋敷である。常ならば主人のために茶器を用意する金髪の青年が、今日は見当たらない。変わりに、愛想では劣るが平凡さにおいて庭師に勝る青年が、それなりに慣れた手つきで居並んだ者に茶を淹れた。
「気にしなくても……いいんじゃないかな……」
両手で湯気の立った紅茶のカップを持ってちんまり座った五降臨時雨(ごこうりん・しぐれ)が、暢気な相槌を打つ。
「だーっ、お前は気にしなさすぎるんだよ!なんだってこちtの行動に一々文句つけられなきゃなんないんだよ」
「でも〜……」
「俺は嫌なんだよ!」
「まあまあ。確かに、何から何まで縛られるのは気分が悪いわよね。……将之君は特に、そういうのが苦手みたいだし」
笑みを含んだ声でシュライン・エマが意見を述べたので、「悪いっすか」と不貞腐れた将之が椅子に沈む。
「さて、今回の件でウォルフにマークされたのは、5人……ですね」
来客全員にカップが行き渡るのを待って、セレスティ・カーニンガムが両手の指を緩く組み合わせた。質量のあるテーブルには、先ほどから視線を落として黙っているケーナズ・ルクセンブルクを含めて、ウォルフと顔を合わせたメンバーが揃っている。
「マークされていないのが、そちらのモーリス君と、うちの妹くらいか」
ゆっくりと青い双眸を上げて、ケーナズが腕を組んだまま呟いた。
事態が急変してからこの話を持ちかけられたモーリス・ラジアルと、太巻と直接接触がなかったウィン・ルクセンブルク以外の全員が、IO2にマークされてしまっている。
「二人も自由に動ける人がいるのは、心強いですね。我々の動きは監視されていると見たほうがいいですから」
宥めるようにセレスティは微笑み、さて、と一同を見渡した。
「とりあえずは榊を捕らえる算段でも致しましょうか――」

「まずは太巻さんが残していった暗号だけど……『幻に惑わされるな。榊を殺すな』ってあるわよね?」
シュラインが言って、太巻が残したメモのコピーのうち、左右に空白がある文字だけをピックアップしていく。シュラインが丸で囲んだ文字を繋ぎ合わせると、確かにそう書かれている。
「あ、それそういう意味なんだ」
椅子の後ろ足だけでバランスを取りながら、将之が暢気な声を上げた。
「あ……そうやって読む……んだ」
なぞなぞが解けた子どものような素直さで、時雨が大きな体を丸めて、シュラインの手元を覗き込む。
「太巻……のことだから……どこかで……麻薬、とか栽培……かと思った」
「いやそのマッシュルームじゃなくて。つぅか方向性が間違ってんだろ。あの根性悪そうなのが、お宝の在り処教えてくれるはずもねえし」
「ま、あの人なら有り得るかもしれないけれど」
時雨と将之のやり取りを聞いているうちに、その線も捨て切れないという顔になって、シュラインは手にしたペンでこめかみを掻く。
「幻に……という部分は、ありきたりすぎて何を言われているのかわからないけれど。太巻さんのメモを見る限り、私たちはIO2に売られたのではないかもしれないわね」
交わされる会話に耳を傾けているセレスティは、何も言わずに紅茶を口に運んでいる。ちらりと視線を上げたのはケーナズだった。
「ヤツは仲間を売ったのではなく、我々にIO2の動きを把握させるために情報を流した……というのは、好意的すぎるか?」
腕を組んだまま、意思の強そうな口元に苦笑めいた笑みを浮かべる。
「そこまでは……でも、榊を助けろ、と言っているようには聞こえるかも。セレスティさんはどう思います?」
「理由までは想像もつきませんが……そう考えるのが妥当な気はします」
「私たちを裏切ったのなら、メモなんか残していく理由はないし……無神経だけど、そういう所は計算高いのよね」
褒めたのだかそうでないのだか測りかねる言い方をして、シュラインの手が解読済みの暗号をテーブルに滑らせる。
「舞台は榊の作り出した異世界だし。異世界から出てきたところをIO2に一網打尽にされたりしたら、冗談じゃ済まされないわよね。……あちらさんも、それを狙っていたりして?」
「有り得ますね」
同意を示して、セレスティが頷く。
「IO2にとって、我々は常に、排除すべき対象ですから。今回の条件も、気軽に呑むのは躊躇われます」
「ええ。だからといって、太巻さんのメッセージに逆らう理由もないけれど」
「まあな」
微風で飛ばされかけた紙を押さえて、ケーナズがテーブルをトンと叩く。
「ヤツの言葉に従ってみても、問題はあるまい。これがあの男からの警告なら、榊に手を出す事で、我々に不利な状況が生まれるのかもしれない。……榊を傷つけないように、同意を得て置きたいんだが」
「私はもとよりその気がないわ」
「あー……俺は榊よりもむしろ坂崎が。一回見返してやらないと気がすまねえし」
「え……。ボクも……坂崎……」
「ダメだぞ、俺が先だかんな!」
「で……も、……じゃあ、じゃんけんで……決めよう」
「早い者勝ちだろっ?男がうじうじ言うのは情けないぜ」
「あう……」
「……はいはい、坂崎の事は後で決めましょうね」
時雨と将之の会話を納めて、シュラインとケーナズはセレスティに視線を向けた。
意見を問われた総帥は、沈思するように僅かに首を傾けて、ゆっくりと口を開く。
「私は、屋敷にて待機させていただこうかと思っています。榊が作り出す異世界の正体が分からない以上、全員がそこへ飛び込むのは危険でしょう。モーリス君が私の代わりに参加したいと言っていましたし」
「そうか。確かに、その方がいいかも知れないな。あなたにもしものことがあったら、モーリス君に何を言われるか、知れたものではない」
この件が佳境に入ってからずっと、深刻な翳を纏っていたケーナズが、セレスティの言葉にようやく苦笑した。
坂崎の正体を知ってから、ケーナズの心中は複雑である。何しろ、義弟になる青年の、坂崎は実の父親だと言うのだ。
榊の手で再び生を得た坂崎は、厳密にはこの世に存在するはずのないもので、だから彼の末路は、決して明るいものではないだろう。義弟の、顔も知らぬ父親に対する憧憬を知っているだけに、ケーナズは気が重い。
「足手纏いになっては、恐縮ですしね」
「ご謙遜を。……だが、それならウォルフのことを、少し調べてもらえないだろうか?」
「ええ、もとよりそのつもりでした。こんな状況になったから言うわけでもありませんが……」
「やはりきな臭いと、妹も言っていた。私も個別に調査をするつもりだが、情報は多いほうがいいでしょう」
精緻な花柄の陶器に並んだクッキーを一つ取り上げて、了解したというようにセレスティが顎を引いた。
「IO2の上層部に掛け合えるかどうかも、検討してみるつもりです。どうせ我々の存在が相手に知られているのなら、取引をして条件を有利にしたほうがいいですからね」

執事が戻ってきて、全員のカップに新たに紅茶を注ぎ足した。気がつけば、長い時間が経ってしまっていたらしい。
「正美さんのご両親と連絡を取るのは、難しいかしらね」
礼を言って執事の手からカップを受け取ったシュラインが、
「正美さん本人が無事かどうかも、確認しておきたいのだけれど」
女性ならではの気遣いを見せて、心配げに表情を曇らせる。
先日、無理に榊の元から連れ帰った正美は、その後まんまとセレスティの屋敷を抜け出してからの消息が掴めていない。確実に受けたであろう誤解を解く暇も無かったので、何かがあったとしても、正美が彼等に助けを求めてくる可能性はゼロに等しかった。
「正美嬢のことは、ウィンと話をするといいんじゃないだろうか。あれも同じ心配をしていたようだし、私たちが下手に動いてIO2に彼女の事が知れるのもまずい」
ゆっくりとカップをソーサーに戻して、ケーナズが眼鏡越しにシュラインに頷いた。
「そう、じゃ、そうさせてもらうわ」
「正美嬢の両親については、私が引き受けましょう」
「IO2の監視があるだろうから、無理はしないで頂きたいけれど」
「正美嬢の無事が確認できれば、それでよしとしますよ」
微笑んで、セレスティは閉じたままの瞼を、一同に向けた。
会話の終わりを察して、若者と殺し屋が、最後のクッキーを頬張っている。


■ 回想
閉じたドアの向こうで歌声が聞こえる。正気を失くしてしまった声だ。
はじめはそれと気づかなかったが、今ははっきりと「そう」だと分かる。それに気づいた瞬間から、閉ざされたドアを開けるのが怖くなった。
「ジェフ」
ドアを開けて部屋に入り、部屋に二人きりになる。僕が声をかけても、歌は続く。
密室で二人きりで居る時だけ、僕らは僅かに安心することが出来た。……多分、ジェフもそうだったのだと思う。
「……ジェフ」
壊れたレコードみたいに、ジェフはサビの部分ばかり繰り返す。

夢をみる 夢を見る
夢が叶う瞬間を夢見ている

今とこれからのために、笑顔のために、流した涙のために、一緒に歌おうとジェフは口ずさむ。
だって、明日には神様が君を連れて行ってしまうかもしれないから。

ジェフは、僕には見れない夢を見ている。



■シュライン・ケーナズ・セレスティ・モーリス
「やれやれ、込み入ったことになってきちゃったわね」
「まったく。あの紹介屋の運んでくる仕事で、面倒じゃなかったためしがない」
シュラインとケーナズが、セレスティの家に呼ばれたのは、前回の会見の翌日である。
モーリスが太巻に会った、と電話口でセレスティに告げられてやってきてみれば。
説明を聞いて二人は驚き、次いで呆れ、ついには揃って天井を仰いだ。
「……じゃあ、ずっと店の二階にいたのか?あの男は」
「始めは外を泊まり歩いていたようですよ。でも、うっかりその筋の人の愛妾に手を出して、面倒になったので戻ってきたとか」
言って、モーリスが人差し指で自分の頬を切る真似をした。恙無く日常を過ごす能力に欠ける男である。
太巻の話を信じるならば、ウォルフはIO2の正規な依頼で動いているわけではないのだという。だから、セレスティたちの名前は、IO2にまでは知られていない。
「だったら、何故太巻さんは姿を消したのかしら」
「ちゃんと理由があったのかどうかも、考えるだけ無駄かもしれませんね」
普段から、神出鬼没も甚だしい男である。呟かれたセレスティの言葉に、納得顔で三人は顔を見合わせた。
「……ともかく、ヤツの言葉の真偽を確認してみる必要はありそうだな」
「そうね。IO2の上層部と掛け合ってウォルフとの取引材料を得るにしても、わたしたちのことがまだあちらさんに知られていないのなら、藪をつついて蛇を出すことにもなりかねないし」
「まったく……余計な手間を掛けさせてくれる」
ため息混じりにケーナズが呟き、居並んだ者たちは揃って深く頷いた。こうして太巻の暴走のせいで、計画の調整を余儀なくされている者の身にもなってもらいたい。
……立場が逆転したところで、あの男が自分たちと同じように悩むかどうかは、定かではないが。
「となると、IO2に取引を持ちかける前に、確認が必要ね。ウォルフが本当に、今回の件を任されているのかどうか」
「その程度のことなら、私が聞いてみようか。つてがないわけではないんだ」
ケーナズが買って出る。
「では、状況が分かったらすぐに連絡を回すということで」
「了解した」
「ところで……今後、連絡事項は、あなた方の力をお貸し願えないでしょうか」
ふと、思い出したようにセレスティが口を挟んだ。怪訝そうに、話題を向けられたケーナズがセレスティを見返す。
「ウォルフに、我々が信頼されているとも思えません。通常のやり取りでは、盗聴の危険があるのではないかと」
「この屋敷は、大丈夫ですけどね。わたしが居る限り、そういう不届きな真似はさせませんから」
はっとした二人に、モーリスが言葉を付け足した。
「ああ……勿論、それは構いません。あまり連絡を取らないのも怪しまれるでしょうから、重要な連絡は引き受けましょう」
ケーナズが頷く。そのまま、メガネ越しの視線をシュラインに向けた。
「そう言えば、正美嬢のことだが。妹が、彼女を迎えに行くと言っている。良かったら、一緒に行ってやってくれないか」
「ええ。それは構わないのだけれど……肝心の場所が分からないわよ」
「それなら大丈夫」
にっこりと、モーリスが笑顔を見せた。その手には、顔の高さに携帯電話。
「電話して、聞いてみればいいでしょう」
「……電話って、誰に?」
「誰って、決まっているでしょう」
迷いもせずに、モーリスは手早くボタンを押して、それをシュラインに差し出した。
「……携帯、変えてなかったのか?あいつは」
「借りていたのを返したんだそうですよ。チェンとウォルフが持っている番号は、実は『女友達』のものだそうで」

そう言っている間にも、シュラインが耳に当てた携帯電話の向こうで、太巻が出た。
『あー?』
かったるそうな声だ。電話だから……というわけではないだろう。受話器を取り上げた太巻の声は、明らかに機嫌が悪かった。
「太巻さん?」
『……なんだ、お前か。何だ?』
声で、相手が分かったらしい。脅しつけるように低かった声が、元に戻った。
「何だ、じゃないわよ。まあ、それはともかく……用件を手短に言うわね。正美さんの居場所を知りたいの」
『……ふぅん?』
「わたしたちが異世界に行っている間に、正美さんがうっかり人質に取られてしまったら、今度こそ大変でしょう?」
弟を窘める姉のような口調で、シュラインは電話口に問いかける。
「……それに、あなたが彼女を匿っていることがバレたら、それこそ面倒になるんじゃない?」
『……わかったよ、しょうがねえなぁ』
勿体ぶった声と一緒に、カチカチと微かな音。タバコに火をつけようとしているらしい。やだちょっと「ぐる」ちゃん、おウチの中でタバコ吸わないでって言ってるでしょ……と、野太い男の声が聞こえて、うるせえなあと太巻が答えている。
『つか、住所忘れた。ちょっと待っとけ……』
電話口から声が離れて、太巻が怒鳴っている。『おい、ショウヘイお前、あの部屋の住所何だっけ?』。答える声はやっぱり男で、『何よぉぐるちゃん、アタシだって覚えてないわよ……ちょっと待ってなさいよ……』とかなんとか。
しばらくすると太巻の声が電話口に戻ってきた。すらすらと、メモを取るかもしれないなどという懸念は微塵も無い口調で住所を述べる。
『うまくやれよ。今度逃げられたら、おれは知らんからな』
「はいはい、ありがとう。……それより太巻さん」
輪になってシュラインの周りで聞き耳を立てている仲間をちらりと見て、シュラインは含み笑いを漏らした。
「一緒に居るのが新しい『お友達』なら、今度紹介してね」
電話の向こうでしばらく沈黙があった。
『……庭師はヤツの好みだ。たぶん』
そして通話が切れた。

「わたしの好みかどうかは、また別だよね」
なんとも言えない沈黙の間を、面白がっているモーリスの声が流れていく。


■チェンの記憶
赤黒く膨れた少年の瞼を見た時、チェンは愕然とした。かろうじて表情を見せなかったのは、感情が付いていかなかったからだ。
そうして発した声が平坦だったのは、一瞬燃え上がった炎のような感情があまりに彼に慣れないものだったので、本能で責務と職務に従ったからにすぎない。
怪我をしたのか、とは聞かなかった。時折ウォルフが訪ねてくるたびに、少年が変な歩き方をするのを、今更思い出しただけだった。
「……氷を出して、冷やしておきなさい」
冷たく冴えた目をした少年は、その言葉に微かに顎を引き、ゆっくりとチェンに背中を向けた。少年が台所へ降りて、冷凍庫のドアを開ける音を聞いてから、チェンは踵を返す。階段を上り、廊下を歩くうちに足は速くなった。
二階のはずれにある書斎は、ウォルフが訪ねてきた時には彼の執務室になる。本部で仕事があるのだろう。ノートパソコンを持ってきては、彼はキーを叩いていた。
ノックもせずに、チェンはドアを開けた。
ウォルフは、いつものようにノートパソコンに向かい、足を組んでキーボードを叩いている。
ノックもせずに扉を開けたチェンに、ウォルフはちらりと視線をやったが、咎めることはしなかった。
「あの子に何をしたんです」
カタカタと、小さな音を立ててキーボードは叩かれる。チェンの言葉を聴きながらも、それは続いた。
ちょうどワンセンテンス打ち終わるだけの間をおいて、ウォルフはようやく顔を上げた。ゆっくりと冷たい瞳でチェンを見据える。
やがて、頬杖をついてウォルフは失笑した。
「それは、君の仕事にかかわりのあることか?」
「怪我をさせたんですよ!?」
「怪我の心配は、君の仕事のうちか、と聞いている」
拳を握って睨み付けたチェンの視線を平然と受け流して、ウォルフは手元のレポートを捲った。
「これは仕事だ。慈善事業じゃない。託児所でもない。ここに連れてこられた瞬間、彼らは人間としての一切の権利を失ったのだ。ここで、基本的人権について語ることの無為を、君はよく知っているだろう」
取り付く島もなく、声は冷たい。
「……何故、あんなことをしたんです」
「君が知る必要はない」
「……あなたの返事に興味がある」
「ならば、興味など持たないことだ。このプロジェクトに参加した時点で、君は私とおなじ穴の狢だよ。一人だけ偽善者ぶったところで、賞賛など得られない」
やり場のない怒りに音高く舌打ちしたチェンに、ウォルフは口元で薄く笑んだ。あるいは失笑か苦笑だったのかもしれないが、男の心の鎧はチェンに感情を窺わせない。
「私を責めるのは君の勝手だが……」
「私には、責める筋合いがないとでも?」
「いや。無闇に正義を振りかざしてこられるのには、正直辟易するが」
穏やかな物言いなだけに、むしろ返す言葉を奪われた体で、チェンは口を閉ざした。
ウォルフの指先が、ニスの塗られたテーブルの上に弧を描く。手を離して、ウォルフは椅子の背に凭れた。
「人間の活動は、遍くビジネスだよ。一度始めてしまえば、成功する以外、自らの正しさを証明する術はない。不純な動機で始めた事が人の為になることもあり、逆にどんなに尊い志を掲げたところで、善意と純然たる誠意だけでは生き残れない。何かを始めた以上、成功は果たすべき義務であり、人々はそれに全身全霊を尽くすべきだ」
「……何が言いたいんです」
「君は、始めてしまったんだよ。今更、降りる道はない」
There is no turning back......そう言って、ウォルフは穏やかに微笑んだ。
「君がいる組織とは、つまりはそういうところだ。自分たちが正しいのだということを、拠り所にしている。組織の存続には、その事実が必要不可欠なのだよ」
「……ですが、間違いは誰にでもあるでしょう。子どもに怪我をさせることが正しいことですか?法律にすら認められていないんですよ」
声を漏らして笑い、ウォルフは椅子を僅かに回転させた。
「国家とはそういうものだ。いいか、人の間違いは簡単に正すことが出来る。だが、国はそうは行かない。間違ってはいけないのだよ。だからこそ、われわれは躍起になって、証拠を見つけようとしている」
「……証拠」
「そう」
視線を転じて、ウォルフは窓の外を見た。嵐の前を思わせて黒く重い雲が立ち込め、空の彼方でゆっくりと渦巻いている。
「我々のしていることが正しいという、証拠だ。……事実とは作り出すものだよ。そこにあるものではない」
ウォルフの横顔に宿る感情を、チェンは知っている。
そして、悟った。
この男には、何を言っても駄目なのだ、と。チェンが紡ぎ出すどんな言葉も、感情も、彼を揺るがすことはない。
彼は死んだようなものだった。
もしくは、生を……正を諦めたようなものだった。
そこに至るまでの道なら、チェンにも覚えがある。
――ただ、ウォルフは少しだけ、チェンよりも深い絶望の淵にいる。


■正美を訪ねる
「豪勢な取り合わせねぇ」
正美の隠れているマンションへ向かうべく集まった面々を眺めて、シュラインは感嘆のため息を漏らした。プラチナブロンドを輝かせた絢爛な美女と、これまた夢にでも出てきそうな甘く整った容貌の青年……ウィンとモーリスは、芸能人などよりもよほど目立つ。かく言うシュラインも、道を歩いていれば人目を惹く容貌の持ち主である。
結果として、正美救出のために揃った一行は、非常に目立つ存在となった。
「あなたまで来る必要があったの?」
「主人の屋敷が気に入らないなんて、見上げた子だと思ってね。是非とも会ってみたいと思ったんです」
ウィンの問いに、しゃあしゃあとモーリスが答えた。長い年月を生きてきて、モーリスは退屈に飽いている。誰もがぐらりとくるような主人の美貌と、三ツ星ホテルのスイートでも及ばぬような主人の屋敷に目もくれず、とっとと逃げ出した少女というのは、大変興味深い存在だった。
「それに、何かあった時、女性ばかりでは心配でしょう」
と、明らかにとってつけたように理屈を捏ねた。
そんなわけで、三人は追手の存在に気を遣いながら、太巻から聞き出した住所に向かっている。
東京の外れ、神奈川との県境を越える一歩手前の町だ。
「太巻さんって、こんなところにまで別宅を持ってるのかしら」
半ば呆れて、ウィンが首を振った。仕事の斡旋をするために、隠れ家や別宅など必要ない。さりとて、愛人にマンションを与えてやる甲斐性があるとも思えない。
「知り合いが持っているアパートを借りたみたいよ。……うん、このマンションね」
手持ちのメモと住所を確認しながら、シュラインは立ち止まった。白いタイルで囲まれた瀟洒なマンションだった。小ぶりだが、きちんとセキュリティが付いている。ベランダから布団が下がる日本特有の光景もなく、マンションは景観を保っていた。
「ロックは、ぶち破って迎えに参上しろ、ということかな」
物騒なことを言って、モーリスがガラスの扉に触れる。
「うーん。太巻さんの話では、迎えをやるって……」
シュラインが辺りを見回した時、マンションの向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。白いシャツに黒のスラックス。背が高く、軽く着崩したシャツがよく似合っている。空は暗く、今にも泣き出しそうなのに彼は傘を持っていない。マンション備え付けの駐車場から出てきた事から判断しても、このマンションの住人だと思われた。
「あのひと?」
「向こうは分かるから、って言うから相手の格好は聞かなかったのよ」
ウィンとシュラインが声を潜めて相談している間にも、男はすっきりとした足取りでこちらに向かって歩いてくる。年は30の半ばくらいだろうか。しきりに首を傾げながら三人の前に歩いて来た。
「あの……」
「太巻さんの知り合いの方?」
「あ、はい。そうです」
ずばりと言われて、思わず頷いた。すると男は、一人納得したようにうんうんと頷いて、
「菅野です。正美ちゃんの部屋まで、案内するように言われて待ってたんですよ」
とにっこり微笑んだ。
「さ、こっち。正面から入ってもいいんだけど、裏口のほうが近道だから」
背中を抱くようにして、三人を案内した。
はあ、と恐縮しながら、ウィンとシュラインは菅野と名乗った男に促されて歩き出す。モーリスも、面白そうな顔で後に続いた。
菅野は鍵を使って裏口のドアを開け、人差し指でエレベーターのボタンを押す。押しながら、携帯電話を取り出して短縮ボタンを押した。
「ちゃんと皆さんに会えたって報告しないと」
シュラインたちに気さくな笑顔を見せ、携帯を耳に当てる。はきはきとした態度と落ち着いた物腰が、人に居心地をよくさせる男だった。
太巻にはこういう普通な知り合いもいるんだと、三人がそれぞれの顔を盗み見ながら感心したところで、電話がつながったらしい。くぐもった「おう」という声が電話から漏れ聞こえた。
『ちゃんと会えたのかよ』
「ぐるちゃんが相手の特徴教えてくれないから、ちょっと迷っちゃったわよ!確かにかわいい子が居たからすぐに分かったけど」
突然、菅野の口から女言葉が飛び出した。驚く視線を受けて、菅野は片手を腰にやり、携帯を持った手の小指を上げて、電話の向こうに捲くし立てている。
「せっかくのオフなのに、わざわざここまで来てあげたのよ。これをジャンジャン亭の焼肉食べ放題なんかで済ませたら承知しないんだから。……えっ?そうねぇ……アタシいい店知ってんのよ。男同士で行っても嫌な顔されないとこ。ホテルも近くに……あっ。切りやがった」
最後の一言だけは男らしく、一方的に通話を切られた携帯を見て、菅野は舌打ちした。タイミングよく、チンと音を立ててエレベーターの扉が開く。
そこでようやく、自分に集中している三人の視線に気づいたのか、菅野が振り返った。
「あらヤダ、ごめんなさいね。今の、ぐるちゃん……あ、ぐるちゃんって、太巻さんのことなんだけど」
「あ……ごめんなさい、休みなのにわざわざ」
それ以外に適当な言葉も思い浮かばず、思わず頭を下げた。優雅に手首を翻して、菅野は優しげな笑顔を浮かべる。
「あらぁ、いいのよ。あなたたちは気にしないでね。ほら、乗って。正美ちゃんなら部屋にいるわよ」


「うっわ、またアンタ」
マンションの玄関先で来客を迎えた正美は、シュラインを見るなり途端に嫌そうな顔をした。相変わらず乱雑な態度だったが、着ている服はおとなしい。
「この間は乱暴なことをしてごめんなさい」
射るような視線を向けられて、シュラインは思わず頭を下げる。
「ごめんで済んだら警察はいらねーよ。あれは誘拐だよ、誘拐。あんたら人のことなんだと思ってんの」
「正美ちゃん、そう突っかかるなよ。とにかく、上がってもらって。紅茶でも淹れるから」
と正美の肩を抱くようにしたのは菅野で、先ほどのおネエ言葉など片鱗も見当たらない。どうやら、彼女の前では男言葉で通しているらしい。
正美は不満そうな顔をしたが、それでようやく、シュラインたちは部屋に上げてもらえることが出来た。

「坂崎とは、ちょっとした知り合いなの」
菅野が台所で湯を沸かしている間に、ウィンがそう正美に自己紹介をした。シュラインを挟んで、座ったソファの端ではモーリスが正美を観察している。ちらりとそちらへ視線を向けて、正美はウィンをねめつけた。
「どーゆー知り合い?」
言葉には、はっきり不信が表れている。拒絶と呼ぶほど強くはないが、そこにははっきりと距離を感じ取れた。
「義理の父親……かしら」
嘘をついても意味がないからと本当のことを言ったつもりだが、正美はますます不信を募らせたようである。
「つーか、坂崎ってアンタと年かわんないよ」
「説明すれば長くなるのだけれど……坂崎惣介という人は、私の恋人の父親なのよ」
「聞いてない」
盾にするようにクッションを腕に抱いて、正美は一言で切り捨てた。
「菅野さんが言うからこうして会ってるけどさぁ、あんたら超、不信だよ。なんでリョウを狙ってんの?あいつがあんたらになんかしたっての?言っとくけど、リョウはアンタらより全然、礼儀ってやつを知ってるよ。突然押しかけてきて、人のこと攫ったりしないからね」
「わたしたちは、あなたが誘拐されたというから、行方を捜していたの。……ちょっと、誤解があったみたいだけど」
シュラインが横から口を挟む。あやすように、その表情は柔らかい。言葉を吟味するために、正美は口を閉ざした。
「誤解だったって言うからには、もう誤解は解けたんでしょ。いつ?どうして?」
今まで黙っていたモーリスが、僅かに身じろぎをした。頭は悪くないんだなと、端正な表情にありありと示しているが、正美は気づいたのか気づかないのか、軽くモーリスを睨み付けただけだった。
「結論を言えば、榊リョウが、身代金なんて欲しがってないって分かったからですよ」
「だから、誘拐じゃないんだから当たり前でしょ。リョウはあたしを監禁してたわけじゃないんだからね」
「違うの?」
思わずウィンが聞き返すと、何を言うんだとばかりに正美は頷く。
「だから、あんたたちのほうがよっぽど犯罪者だよ、っての。リョウは、あたしに来るか?って一度も聞かなかった。だから、あたしから言ってやったんだよ。ジジイは仕事だとか言って家に寄り付かないし、家に帰ってもババアは煩いし。あんな家に帰るくらいなら、リョウと一緒に行く。連れてってくれないなら、歩道橋の上から飛び降りて自殺してやるよって」
「……でも、身代金の要求は確かにあったそうですよ」
はっ、とバカにしたように正美は鼻を鳴らした。どこか、すれた感じのする態度である。
「リョウは理由があってあたしに近づいたんだよ。それは知ってた。でも、結局何も言い出さなかったよ。家にお帰りって言ったの。……あたしは腹が立ったから、リョウについていってやるって言ったワケ。ま、最近はリョウのこと狙ってる奴がいるから、あんまり外に出してもらえなかったけどさ」
「ジジイとババアじゃなくて、ちゃんとお父さんとお母さん、と呼びなさい」
苦笑しながら、菅野が5人分の紅茶を運んできてテーブルに置いた。
手を伸ばして、さっそくカップを口につけたのはモーリスで、ウィンとシュラインはつられて手にしたカップを、手のひらで暖めた。
間を埋めるように、それぞれがそれぞれに時間を殺す。やがて、シュラインが口を開いた。
「わたしたちがここへ来たのは、あなたを保護するためなの」
「保護?」
正美は吐き捨てたが、言葉の裏にある嘲笑を隠しもしない。気絶させて連れ帰るのが保護かと、口調が雄弁に語っている。とりあえず、彼女の態度を無視して、シュラインは続けた。
「状況が変わったの。ある組織が、榊くんのことを狙っている。あなたを誘拐した、という理由をつけて、そのことを正当化しているの。あなたがその組織に捕まってしまえば、榊くんは人質を取られたも同然よ。だから、安全な場所に居てもらいたいの」
「あんたたちがここに来なかったら、ここも結構安全だったよ」
「……そうかもしれないわね」
苦笑して、シュラインは認める。正美の声は硬かったが、彼女はものを考えるだけの力を備えている。
正美は三人を睨んだまま黙り、やがて視線を隣に座った菅野に向けた。
「この人たちが言ってることが本当だって、あたしにはわかんないよ」
「うーん」
「菅野さん、保障してくれんの?あのヤっちゃんがいい人だってさ」
ソファに背中を埋めて、菅野が唸った。
「あの人の為におれの信用をかけるのは嫌だなぁ……。でも、まあ保障はする。あの人は善人じゃないが、善人を利用するようなことはしない」
首筋に手をやりながら、自信なさげではありながら、菅野は苦笑いをして断言する。横目でそれを見遣って、正美はため息を吐いた。
「……安全な場所ってどこ」
「私の主人の屋敷ですね」
正美は首を傾ける。
「こないだんとこ?」
「前にいた部屋が不満なら、好きな部屋を使っていい……と、主人から伝言を言い付かっています」
正美はクッションを腕に抱きこんだ。細く剃った眉を寄せる。表情に、初めて心配の色が浮かんだ。
「リョウの敵じゃないんだよね?」
「……むしろ、彼を狙っている組織の方が、折り合いが悪いですからね」
榊と行動を共にしている坂崎には、少なからず恨みもあるが、そんなことを今言っても始まらない。「いい人」を保障されたのは太巻だから、少しくらい言葉に嘘があっても許されるだろう。モーリスは気軽に請け負った。
正美は不信の残るまなざしで三人を平等に睨んでいたが、やがておもむろに立ち上がった。
「言っとくけど、あんたたちが嘘ついてたら、あたしはもう二度とあんたらのことを信じない。逃げ出さないように、いくら気をつけたって無駄だよ。そしたらあたしは、絶対にあんたらの言いなりにならないから」
クッションを放り出して、立ち上がる。
リビングを立ち去りかけて、思い出したように正美はウィンを振り返った。
「ねえちょっと、ティアーズ・イン・ヘブンてどういう意味?」
「え?」
「天国の涙……かしら。有名な曲よ」
瞬きをしたウィンにかわって答えたのは、シュラインである。反応を返すのが早かったのは、仕事柄だろう。
ふぅんと正美は唇を突き出した。
「誰かが歌ってたの?」
聞くと、肩を竦める。
「リョウが。そん時、坂崎サンのこと見てたから、ちょっと気になっただけ」
ひらり、と手を振って、正美は部屋に消えた。
なんともいえない間の後に、シュラインがなんともいえない視線をウィンに向けた。
「あの歌、知ってる?」
「いえ……」
「生きている人が、死んだ人のことを想って歌った曲……というのかしら。死んだ息子に向けて、作った曲なのよ。発表されるまでに二年かかったとか……それだけつらいことだったのね。自分はまだ天国に住めないけど、そこで会った時、自分のことを覚えていてくれるだろうか、って」
「誰のことを歌った曲でしょうね」
重く垂れ込めた空を眺めて、モーリスは僅かに目を細めた。


■全員
ウィンがチェンの記憶を「読んだ」時の話を聞いて、その場の全員が表現のしがたい顔をした。湯気の立つ紅茶がテーブルに置かれた、セレスティの屋敷である。
「つまり……何?榊ともう一人のヤツは、ウォルフに虐待されてたっつー話?」
鼻白んだ顔で、将之が足を組みかえる。
「正美ちゃんのオヤジもしょうもねえと思ったけど、なんだかそっちも感じ悪ぃな」
という将之は、時雨とともに正美の父親に会ってきたという。父親が正美の失踪を黙認していること、それがウォルフの指示によるものだということ……また、金を横領したことで、脅されていることなどは、将之の口から報告された。
それを聞かされた正美は鼻を鳴らし、「あのジジイの考えそうなことだよ。まったく肝っ玉がちっちゃいからさぁ」と豪胆に切り捨てた。
「話を聞いていると……ウォルフは、何かの目的があって子どもたちを虐待していたようにも聞こえますが」
「虐待に目的って」
セレスティの言葉に、ウィンが額を翳らせる。ケーナズは考え事に沈んでいるのか顔を伏せたままで、モーリスは主人の脇に立ったまま発言を控えているようだ。
「個人の……というよりは、組織の意思を感じない?」
口を開いたのは、シュラインだ。
「でも、子どもを虐待してどうなるというの?メリットがあるとも思えないわ」
嫌悪に眉をしかめて呟いたウィンに、同意を示すようにケーナズが顎を引いた。嵩の減ったカップに紅茶を注ぎ足しながら、そうでもないですよ、とモーリス。
「メリットというより、組織には虐待をする必要があったということは考えられます」
「必要……って……。口を割らせる……とか……かな……?」
「闇の世界の住人は黙ってろ。つーか、子どもがそんな大それた秘密を持ってるとも思えねーし」
黙って皆の会話に耳を傾けている主人を代弁して、庭師は給仕の手を止める。
「IO2は、能力者を、排除すべき対象としているわけでしょう。いわば、『危険因子から一般の国民を守る』ことを大義名分に掲げているわけです」
示唆するような台詞を受けて顔を上げたのは、ケーナズだった。
「だから能力者を虐待してもいい、というわけでもないだろう。相手は能力者といえども子どもだ」
「逆ですよ。IO2は、子どもでも能力者は能力者だ、と、思わせておきたかったのではないでしょうか?」
ルクセンブルクの双子は揃って顔を顰めた。彼ら自身、特殊な力を生まれ持ったことで、嫌な思いもしてきている。経験と生来の高潔さゆえに、思わず浮かべた苦い表情も仕方のないことだろう。
「で、なんでそれが虐待と繋がんの?子どもでも能力者は能力者。そんなの、分かりきってることじゃねーか」
椅子の背に肘をかけて、将之は器用に片方の眉を上げた。
「これは私の想像にしか過ぎませんが」
左右の指を緩く組み合わせて、セレスティが口を開く。
「IO2は、当時、まだ発足して間もなかったと思われます。組織の中では、様々な意見や方針が飛び交っていたのではないでしょうか。例えば、幼い子どもの能力者への対応とか」
モーリスが頷く。
「能力者だという理由で、人は他人を異端視することが出来る。それはすでに間違っていることだけれど、人間というのは、得てして差異を差別の理由に変えることが出来る生き物ですからね」
「でも、子どもは違うっつーワケか」
子どもというのは、か弱く、大人の庇護下に置かれるべき存在だ。その考えが念頭にあるから、同じ大人に対しては残酷になれる大人たちも、考えずにはおけない。
守るべき子どもを、迫害していいものだろうか、と。
「少なくとも、組織の一部は、子どもであろうと能力者は危険だと、皆に納得させたかった……そう、考えてみてはどうでしょう」
「そのためには、いくら子どもでも、能力者は危険だと証明しなくてはならない」
シュラインが眉間に指を宛てた。僅かに首を振る。モーリスは、口元に表情のない笑みを浮かべて頷く。
「なのに、能力者の子どもたちは問題も起こさず、静かに暮らしている。……これでは、子どもも危険であると主張した一派は、組織の中で発言力を失うことになる」
「国家防衛が聞いて呆れる派閥争いね」
腕を組んで、ウィンが重いため息を吐く。
「焦った一派は、無理やりにでも子どもに事件を起こさせようとする。それが、ウォルフがラドクリフにした虐待、か」
「その可能性は高いかと」
「嫌な話だな」
ケーナズが吐き捨てたところで、控えめに廊下へ抜ける扉が開いた。中から顔を出した執事が、顔を合わせた一同に視線を向ける。
「榊と坂崎を追い込んだと、IO2から連絡がありました」
さっと、風のように一同の間を緊張が駆け抜けた。
さて、と将之が真っ先に立ち上がる。時雨もそれに続いてガタガタと椅子を鳴らした。
「面倒臭いことは考えていてもしようがねえや。行くんだろ、とりあえず?」


■幻影
ざわり、と肌を撫でられる感覚がある。頭のてっぺんからつま先まで均等に広がり、それが背中に向けて抜けていくと、彼らは見知らぬ場所に立っていた。
ウィンとセレスティを現実世界との連絡役に、モーリスとケーナズ、将之、時雨とシュラインは指定された場所に向かった。
街中で榊と坂崎を発見したIO2は、人海戦術でじりじりと包囲の輪を縮めた。はじめは、路地を通って逃げようとした榊たちは、路地裏でIO2に取り囲まれ、異世界へと逃げ込んだ。そこからが、モーリスたちの仕事である。
「……なんっか、荒んだ世界だな」
抜き身の大剣を持って、景色を眺めたのは将之である。シュラインはその景色に腕を摩っている。
灰色の空に覆われた灰色の街。モノクロの風景にちりばめたように色が咲き、空の色にくすんだ人々の色とりどりの服までもが色彩を失って見える。普段見慣れたその景色でさえ色のない気がしたものだが、ここはそれよりもさらに違っていた。
大きな力でなぎ倒されたように崩れたコンクリートのビル。剥き出しになった鉄筋は、長い間雨風にさらされたかのように赤茶色に錆付いて、その屍を晒している。
黒ずんだコンクリートに切り取られて見える空は、雲ひとつない。なのにそこに見えるのは青空などではなく、赤紫に染まった、見たことのない空だった。
少し離れた背後で、人の気配がする。IO2の連中だろう。姿を現さないところを見ると、監視役なのだろう。
「ご苦労なことだな。こんなところまでついてくるのか」
「余程信用されていないのでしょう。私たちの人徳か、太巻さんの人望かは知りませんが」
「後者は確実に、影響しているでしょうね。……さて、立ち尽くしていても始まらないし、奥に行ってみない?」
シュラインの号令で、一行は歩き出した。どこへ行くあてがあるわけでもないが、IO2に背中を向けて、抉り取られたように中身を曝け出すビルへ向かう。
しんとした世界には生き物の気配はなく、瓦礫を踏み潰す乾いた足音だけが乱れて鼓膜を震わせる。
崩れた壁をまたいで、ビルの中に入った。二階の床は半分ほど抉り取られ、その先にパイプや配管を剥き出しにした二階が見える。
人影は、二階の高さから侵入者を見下ろしていた。驚いた様子もなく、見下ろす瞳には何の感情も窺えない。
時雨と将之が武器を構えた。
「坂崎はどこ行った?」
二階には、榊の姿しか見えない。油断なくあたりを見回したが、慣れない地形に、異質な雰囲気は、彼らが気配を探るのを妨げる。
「手を引かないか?出来るなら戦いたくない」
「今更言う台詞かよ!」
威勢のいい返答に榊が苦笑した。それが合図だったかのように、しんと静まり返っていた瓦礫の影から、人影が飛び出してきた。
一直線に向かってきた人影は、中段に構えられた将之の刃を捕らえる。武器を支える両腕にずしりと重みがかかって、反射的に将之は襲い掛かってきた刀を跳ね除けた。将之の顔のすぐ脇を長刀が轟音を上げて掠め、ついでかっと顔の半面を熱気が襲った。
「いっ……!?」
慌てて身体を引いた将之の先を、紅蓮の閃光が一直線に走って空気を焼いた。
「バカッ、あぶねえだろ!仲間を火祭りにする気か!?」
熱気で顔の半面ばかりが熱い。腹立ち紛れに脇にいた時雨を蹴りつけると、先ほどの素早い動きもどこへやら、「あう」と呻いて体が傾ぎ、2メートルを越す長身が瓦礫に突っ込んだ。時雨も考えなしだが将之も容赦がない。
炎で白く霞んだ視界に、ようやく周囲の凹凸が戻ってくる。十分な間合いを取って、抜き身の落陽丸を片手に持った坂崎が見えた。
前に出た将之と時雨の背後で、シュラインの前に進み出ながらケーナズがメガネをはずして胸のポケットに入れる。
「私はディフェンスに回る。手を貸さなくても平気か?」
「手なんか出すんじゃねー。ヤツには借りがあるんだ」
坂崎の一太刀を受け止めてしびれた手を振り、将之は再び剣を構えた。一体どういう倒れ方をしたのか、瓦礫に服を挟まれている時雨は見ないフリで、坂崎との間合いを測る。手を出す気がないのか、榊は表情の読めない顔で、二階から下を見下ろしている。
「幻に惑わされるな」
低い、男の声が聞こえた。いつもはタバコの紫煙とともに吐き出される、かの紹介屋の声である。榊は怪訝そうに、声のした方に視線を向けた。
「……榊を殺すな」
また、太巻の声。だが、口を動かしているのはシュラインだ。冴えわたった瞳で、彼女はじっと榊を見上げている。
「私たちに向けられた、伝言よ」
誰からの言葉かは、言えない。背後では、きっとIO2の連中が耳を傾けているだろう。少しだけ面食らった顔が、シュラインの声を聞くにつれて苦笑に変わった。
「……あの人らしいな」
榊が一人ごちる。声には、僅かに楽しむような響きすらあった。
「確かに、気をつけたほうがいい。正直、巻き込むのは本意じゃないんだ」
「話し合う余地はない?」
いまだに、榊の目的は分からない。訴えるように声を向けたが、榊は静かに首を振っただけだった。
「残念だけど。ぼくは仲間を持つ気はない」
そして、シュラインから視線を逸らして、遠くへ投げる。瓦礫の向こうへ。
「もう決めたことなんだ」
誰にともなく呟く声が、風に運ばれた。
その声に宿る決意に、ケーナズは眉を寄せる。
―――今なら、まだどうにかなる。やつらに知られることもなく、連絡も取れる
ケーナズの声にならない声は、直接榊と、シュラインたちの頭の中に響いた。会話の送信相手を限定して、声が聞こえるようにしているのだ。
榊が、僅かに沈黙した。めまぐるしく色々な思考が飛び交う気配まで、皆の脳裏にダイレクトに伝わってくる。
―――せっかくだけど。
返答は、同じだった。
―――独りでやると決めているんだ。ぼくの目的を、あなたたちが知る必要も理由もない。
―――だが、私たちは君をむざむざ危険に晒したくない。そんなのを黙ってみていることも出来ない。
僅かに、気配が揺らぐ。それは、迷いのようにも、感謝のようにも感じ取れた。
それでも、確かな意志をもって、会話は途絶えた。それからは、いくら呼びかけても返事は返ってこない。
しばらくして、ケーナズは諦めて回線を絶ち、見守る仲間に首を振った。こちらから話しかけるのは容易いが、返事を返すのには相手の意思が必要だ。
チャキ、と坂崎の刀の鍔が鳴って、一瞬空いた空白を埋めた。将之がすり足で一歩を踏み出す。
「待って……もう一つだけ」
はっとして、シュラインが坂崎に声をかけた。構えも警戒も解かないが、坂崎はちらりと視線をシュラインに流す。
「あなたのお子さんが、結婚するの」
坂崎の持つ刀の切っ先が僅かに揺れた。
「それでも、あなたは」
シュラインに最後までは言わせず、坂崎が微笑む。能面のような表情は相変わらずだったが、瞳が柔らかく揺らいだような気がした。
「……知っている」
切っ先が再びずれて、坂崎は視線を将之に向けて軽く見据える。それで、間合いをつめようとした将之を牽制した。湖のように平らかな黒い瞳は、ちらりとケーナズの上に留まって、面影を探すように目を細めた。
「無理をさせぬように、気遣ってやるといい」
意味が分からず、眉間に皺を寄せたケーナズに笑う。視線は、再びシュラインに戻った。
「心遣いにはいたみいる」
瞳の変化で会話をする人だ、と思う。穏やかにその瞳が和んでいることを、意図して人に伝えられる人なのだ。同時に、結果は変えられないのだと、強い瞳が教えている。
「あの男の警告を聞いておくといい。それが、榊には一番いいのだろう」
そして、モーリスの顔を視線が撫で、坂崎は将之に注意を戻した。
「さて、やるか」
「……言われるまでも、ねえ」
鼓動が腕にまで伝わる。武者震いだ、と将之は思った。ざわざわする。それは相手が強いからだ。ただ、腕を認める相手と刃を合わせることに、全身が熱くなった。
「時雨、しばらくコンクリートに挟まれてろ!」
言い捨てるや、将之はコンクリートの大地を蹴った。


■戦闘
澱んだ空気を切り裂くように、刀が鳴って火花を散らす。
「くそっ」
将之は舌打った。致命傷を狙って全身で打ち込むのに、刃は確かな手ごたえを返してこない。刃が鳴る瞬間、坂崎が僅かに刀の角度を変え、向きを変えて将之のスピードと破壊力を殺ぐからだ。
坂崎は攻撃を受け止め、流すが、フェイントに見える攻撃以外はしてこない。それが余計に将之の癇に障る。
横へ薙ぐ中段を、十字に刃を交わして坂崎がかわす。そこから燕返しに下から剣先を振り上げると見せかけて、面を狙って武器を打ち下ろした。
表情の無かった坂崎の眉が寄る。将之の剣が額を割る寸前、すらりと伸びた刀が出現して、坂崎の額から切っ先を逸らした。ガツリと鉄同士が鈍い音を立てる。かろうじて止めたものの、将之の全身をかけた攻撃だ。坂崎は歯を食いしばり、一歩足を踏み出して、将之の身体ごと押し戻した。
「……弱いと思って油断してるからそういうことになるんだよ」
大剣を振って、瞬間でも余裕が消えた坂崎に、将之は笑う。余裕なのか、自嘲なのか、坂崎もゆっくりと笑みを浮かべた。
「軽んじたつもりはない……が。買い被ってもらえるのは光栄だな」
「言ってろ」
会話は、短い。コンクリートを蹴って、再び将之が襲い掛かった。


「……将之君が圧しているのか?」
「さぁ……、五分五分でしょうか」
剣戟は続いている。シュラインを後方にかばって呟いたケーナズに、モーリスが答える。
「手数は、将之君のほうが断然多いけれど」
ケーナズの作り出すシールドの内部で、シュラインは目の前で繰り広げられる戦闘を見つめる。将之の繰り出す攻撃は鋭い。一度でも受け損ねたら致命傷になりかねない攻撃を、坂崎は避けるのではなく刀で受け流す。
「……体力の消耗が心配ね」
一撃ずつに、渾身の力が篭っているのだ。受け流してダメージを軽減させている坂崎に比べれば、将之の体力の消耗は激しいはずだった。
「死ぬようなことは、ないでしょう」
気軽にモーリスが請け合う。ケーナズがシュラインを守っているのを良いことに、モーリスは一人、二人の側を離れて前に進み出た。
将之の剣を冷静に払い落とす坂崎に視線を遣る。あの男の持つ刀が、主人の喉下に宛てられたのを、忘れたモーリスではなかった。以前軽くあしらわれた将之の不満もさることながら、主人に手を出した敵に対するモーリスの害意は計り知れない。
(「戻す」力が、彼に通じるかどうかは、試してみなくてはわかりませんが)
坂崎は、一度死んで、再び身体を与えられた存在だ。モーリスの「戻す」能力は、死霊をあるべき世界へ返すことなら出来る。怪我を治すことも出来る。だが、「死にながら生きる」存在にその力を行使すればどうなるのか。
何らかの効果は得られるだろう。身体が消滅するか、死霊のようにあの世へ返るか、その狭間で地獄の苦しみを味わうのか。
どちらにせよ、気持ちの良い結果が出るとも思えない。モーリスには関係のないことだった。
元々あるのが害意だから、悪い結果になることに何の躊躇いもない。よしんば思いもかけない結果になったところで、手を変えて相手を傷つければいいだけの話。主人を傷つけられた仕返しだけは、なんとしても果たすつもりだ。
言えば止められるだろうと思ったので、何をしようとしているのか、誰にも言わなかった。足を止めて将之と打ち合っている坂崎に、モーリスは目を凝らす。
身体の内部に混沌と渦巻いているものに、意識を集中する。複雑に絡み合ったパターンに、意味を、方式を、順序を見出して、組み立てなおしていく。

ぐらりと、坂崎の身体が奇妙に傾いだ。隙を見逃さずに伸ばされた剣先に、目頭の上を切っていかれる。
ビルの二階から、それまで事態を傍観していた榊が身を乗り出した。
モーリスのすぐ側の空気が歪む。陽炎が立つように密度を増し、そこを通して見える景色がひずんだ。
ガラガラと、音を立ててコンクリートが崩れる。さして太くもない壁にこれだけの質量があったのかと、驚くほどの瓦礫がモーリスに向けて襲い掛かった。
「……くっ!」
榊の行動に一早く気づいたのは、ケーナズだ。思わずシュラインと自分の周りに張っていたバリアを解いて、モーリスの身の回りを見えない壁で包む。
モーリスに向かって落ちかけていた瓦礫は、ある一点で何かにぶち当たり、がらがらと見えない膜を滑って、彼の足元に瓦礫の山を作った。
「……やあ。世話をかけてしまったみたいですね」
力を行使しようと左手を上げていたモーリスは、より早く彼を守った壁を知ってケーナズを振り返る。
「余計な世話だったかな」
「助かりますよ」
ケーナズが手を出さなくても、身は守れたのだろう。つい反応してしまったケーナズは、モーリスを覆う膜を解き、再び危険がないよう、神経を自分の周りに張り巡らせる。
モーリスの気が逸れたせいだろう、坂崎はすぐに体勢を取り戻して、続いて繰り出された将之の攻撃を見事に受け流した。
空気が、低く振動を伝える。坂崎に再度向き直ったモーリスは軽く眉を顰めた。どうやら、坂崎に集中はさせてもらえないらしい。
「モーリス君、こっちへ」
ケーナズの作り出す壁の中から、シュラインがモーリスの注意を呼ぶ。僅かに迷って、モーリスはケーナズのいるところへ向かった。彼の作り出す壁の中ならば、榊の妨害を気にせずに、坂崎に意識を集中することが出来る。
……視界の隅で、何かが動いたのはその時だった。


ガキッと剣が火花を散らす。
先ほど与えた怪我は、坂崎の左の額をすっぱりと切り開いていた。流れる血のせいで、坂崎の視界は悪くなっている。将之の攻撃を受け流すのも、いくらか辛そうだ。
するりと受け流すのではなく、力押しに将之の剣を押し返してくる。こちらが受ける衝撃も強くなったが、それは相手が追い詰められつつある証拠だ。
体力を少しずつ失っていくのが分かったが、力は緩めない。緩めれば、一方に傾きつつある均衡が、また元に戻ってしまう。
……と、背後で不吉な気配を感じた。ざわりと背中から、嫌な感覚が全身に広がる。向かい合う坂崎には、その不吉なものの正体が分かったのだろうか。決して歪むことの無かった坂崎の瞳が、将之の肩の向こうを見て大きく広げられた。
「余所見してんじゃ……っ?!」
打ち付けた渾身の一撃は、流されることなく、しっかりと受け止められた。ずっしりとした重みと、腕を痺れさせる衝撃が剣を通して伝わってくる。
命中した……。
思った途端、身体が重力に反して圧し戻された。避ける暇もなく、剣ごと身体が押し返される。
「うわっ!!」
ぐるりと上も下も分からなくなった。地面に身体を縫い付けている重力よりも大きな力が、将之を正面から押し返す。どれくらいか分からない間、宙を浮かび、将之の身体はコンクリートの瓦礫に投げ出された。
ゴウッ、と空気を震撼させて轟音が響く。
落下の痛みに眇められた瞳で、将之は見た。
轟音とともに発生した黒い煙が、坂崎を覆いつくしその背後の榊に向かって、迫ってゆく。
事態を確認するべく動いた視線が、人影を捉える。剣を一閃させた、赤い髪…。
「時雨!」
剣の軌道の先に、倒れる見慣れない人影がある。IO2だ、とすぐに悟った。何かを投げたような格好のまま、時雨の攻撃を受けて、その場に崩れ落ちる。
一拍置いて、一度では終わらない爆音が、将之の耳を打った。



はじめに気づいたのはシュラインだった。
ふと視線を向けて、時雨がようやく、瓦礫の山から這い出たのだと気づく。
「時雨くん、あなたもこっちに……」
言いかけた言葉は中途半端に途切れる。時雨は、相変わらずのろのろとした仕草で、瓦礫の山から大刀を拾い上げた。ゆっくりとした仕草。いつもと変わらない。
なのに、どこか違う。
時雨は刀の無事を確認するように刃に目を走らせ、両手でゆっくりとそれを構える。
振りかぶる。
「……ちょっと、待ちなさい!そっちには将之くんが……!」
振りかぶった先、時雨の向こうには将之と坂崎が刃を交えている。そこで、ようやくシュラインは時雨の剣の先にあるものを知った。
黒い服を着た、一人の男だ。手に、黒い、丸いものを持っている。
「……手榴弾!?」
シュラインの声にケーナズが振り返った。すぐに視線は時雨を追い、そこで今にも手にしたものを投げ出そうとしている男を見る。
「ケーナズさん」
「くっ……!」
男の行動を止めるべく、薄く色の付いた皮膜が消失したのは一瞬。
モーリスの短い声に、シュラインの背後のコンクリートがバランスを失っているのに気づく。
思わず頭を覆ったシュラインの頭上で、倒れこんできた重いコンクリートの塊が見えない力に当たって弾けた。
「駄目だ、間に合わない……!」
吐き出すようなケーナズの声。時雨の刃が男を捕らえた時には、黒く小さな塊は、すでに宙へ投げ出されている。
揉み合っていた坂崎と将之の身体が、離れた。将之は投げ飛ばされ、坂崎はゆらりと体勢を立て直す。
ちらりと背後を見遣り、そこに榊が動けずにいるのを確認した。
一瞬の間を置いて爆発した手榴弾が、激しい炎となって坂崎に向かってゆく。
空気を大きく震わせて、炎は容赦なく坂崎に襲い掛かる。
炎を前にして、坂崎は刀をスラリと構えなおした。
避けろ、と叫んだ気がするが、すべては白熱の光と、全てをかき消す轟音に、声になったかどうかすら分からなかった。
炎が、どこかに激突して嵐のような風を巻き起こす。

明かりに焼かれた瞳は、しばらくの間役に立たない。
耳は綿でも詰め込まれたように音が遠く、無事を確かめる声もどこか遠くに聞こえた。
「無事か!?」
「なんとか……将之君は?」
ケーナズの作った防壁が、炎からシュラインたちを守っていた。
白く霞んだ視界をもどかしげに睨んだシュラインは、それまでなかったはずのコンクリートの壁の向こうに、大剣を支えに起き上がる高校生を見つけて安堵のため息をつく。
モーリスが能力を駆使して、壊れていた壁を直し、炎の攻撃から将之を守ったのだろう。
バラバラと、狂ったように襲った炎の名残のように、いたるところでコンクリートが落ちている。何事もなかったかのように立っているのは、時雨だけだ。
「馬鹿っ、てめーおれを殺す気か!?」
将之が怒鳴っている。どうやら、無事らしい……。
ほっと胸をなでおろしたのも束の間、
「坂崎は!?」
二階に居たはずの榊の姿もない。
シュラインが、ケーナズの作る壁の向こうに飛び出した。


業火の名残は、坂崎が立ちはだかった辺りが一番酷かった。コンクリートの敷かれていたはずの大地は深く抉れ、周囲に残ったコンクリートの名残は溶けて、至る所で黒い炎を上げている。
驚いたことに、爆心地のような惨状のその先は、殆ど被害がないようだった。燻った音を上げるそこと、その向こうとの対比が奇妙に感じられるほどだ。
坂崎は、二階の床が張り出したビルの下、壁の下に居た。壁には、何かを投げつけたように、大きな血の飛沫が、坂崎が蹲っているところまでずるりと引きずられたような跡を残している。
坂崎が、息をしているのかどうかは分からなかった。身体を投げ出して座り込んだ坂崎の横に、榊が膝をついている。頭と腕から血を流していたが、それ以外の外傷は見られなかった。
まだ熱を持つ地面を避けて、シュラインは坂崎たちの下へ回り込む。ケーナズが一歩遅れてその後を追いかけた。

「坂崎……」
近寄れば、肉の焼ける臭いがする。坂崎の服は溶け、その間から覗いた皮膚だけが、黒と赤に生々しかった。
ぴくりと反応して、坂崎が目を上げる。白目の部分だけが、黒く煤と……恐らくは炎に焼かれた怪我の中で白い。
口元で、坂崎が笑みを見せた。
榊は、自失したように動かない。
「避けられたんじゃねえのか、お前」
荒く息をついたまま、将之が声を落とす。
「おれのことを庇ってる間に、榊連れて避けられたんじゃねえのかって聞いてんだよ!」
ひゅうひゅうと呼吸のたびに漏れる音が頼りなかった。苦しげに上下する胸が、死を予感させて恐ろしい。
掻き消えてしまいそうな声で、坂崎が「ああ」と漏らした。
「……考えなかった」
「ふざけろよ」
「モーリス君、彼の怪我を治せないの?」
問われて、モーリスは首を振る。
「彼は……生きているわけではないから。私の力は、彼を消滅させるだけです」
なす術もなく、お互いに顔を見合わせた。誰が悪いわけではない。これが予想されていた結果なのだと、分かっている。
それでも……
「……強く」
声よりも、漏らす呼吸のほうが大きい。それでも、坂崎の声はそう聞こえた。
「……強く、……生きろ」
それが、誰に向けられたものなのかは分からない。ただ、はっきりと居合わせたものの耳に届いた。。
坂崎の指先が、肌が、淡い光に包まれる。
まるで砂を飛ばすように、その身体が輪郭を失い、ふわりと掻き消えた。
後には……主人を失った赤い刀身の刀と……、今までそこに無かった、黒い漆塗りの刀の鞘が残っている……。


はじめに動いたのは、自失したように坂崎の隣に立っていた榊だった。
ゆらりと、見えない糸で操られでもしたかのように、身体が動く。
「どこへ行くんです?」
「ここで、立ち止まるわけにはいかないんだ」
歩き出した榊の背に向けて、将之の剣の切っ先が迫る。目測では確実に捕らえたと思った攻撃は、透明な何かにさえぎられて、榊のもとへは届かなかった。
焦土の地に陽炎が揺らぐ。見る見るうちにとろりと流れる渦をなし、その向こうに、ぼやけた景色が見えた。
渦巻く異世界への入り口だけを残して、榊の姿はその渦の向こうへ消えた……。
黒と赤にどす黒く染まった異世界から覗くもう一つの空間には、青い空と、人工の白いビルが、無人の空間に聳えている……。






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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

0086:シュライン・エマ
1481:ケーナズ・ルクセンブルク 
1588:ウィン・ルクセンブルク
1883:セレスティ・カーニンガム
1564:五降臨・時雨
2318:モーリス・ラジアル
1555:倉塚・将之

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■         ライター通信          ■
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お待たせしました・・・・・・(小さく)
お詫びとともに連絡がいってすでにご存知かも知れませんが、有り得ないくらい予定オーバーでした(死にそう)
怒涛の忙しさが過ぎて、「自由の時代が到来したぜ!」とか思った瞬間…風邪引いてしまいました。
太巻が禁煙を決意した瞬間、韓国ヨン様ツアーから帰ってきた草間さんに、お土産にタバコをカートンもらってしまったみたいなタイミングの悪さです。
スタミナつけねば!と熱に浮かされた頭で考えた(らしく)、なぜかコッテリ中華を食べて状況を悪化させる始末。熱があるときは余計なことを考えるものじゃないですね!
料金滞納で電話を止められていたのに気づかず、四日後ぐらいには非常食(主にコッテリ中華←まだ食うか)も尽きて、ちょっと一大事でした。ニコニコ強制送還です。
スタミナローン、ご利用は計画的に!

なにはともあれ遅れて申し訳ありません…。
そんなわけで、医者に笑われ(嘲笑われ)ながら病院とか行ってました…。
皆様風邪には気をつけてくださいね。
それでは……遅ればせながら、蒼穹、もっそりお届けいたします。

在原