■真白の書■
珠洲
【3087】【千獣】【異界職】
 誰の手によっても記されぬ白。
 誰の手によっても記される白。

 それは硝子森の書棚。
 溢れる書物の中の一冊。

 けれど手に取る形などどうだっていいのです。
 その白い世界に言葉を与えて下されば。
 貴方の名前。それから言葉。
 書はその頁に貴方の世界をいっとき示します。
 ただそれだけのこと。

 綴られる言葉と物語。

 それが全て。

 それは貴方が望む物語でしょうか。
 それは貴方が望まぬ物語でしょうか。



 ――ひとかけらの言葉から世界が芽吹くそれは真白の書。

■真白の書■



 千獣様、と仰います。
 見た感じのお年の割にはなんとなく老成しているような、でもずっと幼いような。
 マスタの説明に首を傾げておられますねぇ。
「……?……文字……?……物語……?」
 あらまあ。マスタってば一気にお話なさいましたね。
 お相手次第でテンポくらい調節なさればいいのに。
 でもペンを受け取って何か記されるご様子。ちゃんとお話聞いて下さっていて私嬉しいです。
「……これで、いい……?」
 ええ十分ですとも。
 言葉とお名前が滲んで広がって。

 どこか風変わりな、お怪我ではなく呪符を織り込んだ包帯を巻いた千獣様。
 貴方の綴られた言葉はどれも短いもの。
 けれど長さなど関係無いのです。

 さあ――有無さえ知れぬ物語、いっときご覧下さいな。


** *** *





 その子供は傷だらけだった。
 明らかに人の手によるものだと知れる打撲の痕が痛々しい。
 折れていないのが幸いだと思える程の酷い痣を千獣は静かに見詰めると膝をついて丁寧にその手を開かせた。ずっと握り締めていた手はぎこちない固さがあって子供はむしろ自分では開けない様子。
「……硝子……?」
 千獣の声に素直に頷く子供の手の中には、大小様々な硝子の欠片があった。
 無論、欠片である以上その端は鋭い。柔らかな手の平は酷い有様で、硝子も赤く濡れている。
「……待って」
 己の端々を包む特別の包帯は外せない。
 しばらく荷物だの懐だの探って結局小振りの布地を探し当ててそれを巻く事にした。
 幾つもは見つからず、やむなく拭うのに使った替えの衣類はいっそ清々しい程鮮やかに赤い染みをつけている。それを見て一度口を開閉させた子供の頭を淡々とした顔ながら手付きは優しく撫でて千獣は治療に際して預かった硝子を渡した。
 布切れは硝子を包む分と包帯代わり分しかすぐには見つからず、だから千獣の替えの衣服は赤い模様をつけることになったのだけれど。あまりその辺りに頓着する性分ではない千獣である。
 おどおどと千獣を見て子供はまた口を開閉させる。
 何かを言いかけている、というよりは声無く言っているという様子に咽喉が自由にならないのだろうなとはすぐに知れた。
「……うん……気に、しなくて……いい……」
 その唇の動きを読み取って言う。
 ありがとうと。
 素直に言う子供をもう一度、表情こそ変わらないものの手付きは優しく撫でてやると荷物を持って千獣は立ち上がる。見下ろす子供はひ弱で、大きな街にはありがちな不遇な立場なのかもしれなかった。
 すいと手を伸ばす。
 怪訝そうに子供が見るので、送る、とぎこちなく言えば驚いたように、そして何処か怯えるように後退り首を振る。それでも繰り返して「ありがとう」と唇を動かすと子供は硝子を抱えて走り去った。
 別に、追おうと思えば追える速さなのだけれど。
 自分の外見も多少異質なものだと自覚している千獣は、子供が今更ながらそれに気付いて拒んだのだとも思ってそれはやめた。痣などは気に掛かりはしたけれど旅先で毎度面倒を見てばかりもいられないというのは外見以上に長い人生の中で理解はしている――つもりだけれど。
「……放して……」
 たいして離れない内に子供はまた絡まれた様子だった。
 時間帯からすると珍しい酒気帯びの男に小突かれている。
 千獣は、その酔っ払いの手首を握り締めて。
 襟元を掴み上げられて今にも殴られそうになっている子供は瞳を瞬かせて自分を助けてくれた長身の女性を見上げて。
「なんだ」
 お前は、と言いかけた男に赤い瞳を眇めて向け、尖った気持ちに誘われたのか身の内の獣がざわりと蠢くのが解る。
 表に出ようとするのは容易く抑えられたが気配までは無理だった。深い、獣特有の唸りのような空気が千獣からきっと滲んでいる。僅かな間の視線の遣り取りだけで気圧され、萎縮した男は大きな音を立てて唾を飲み込むとそろそろと子供から手を離した。
 走り去る背中を追う事はない。
 街を去る予定で良かったと思ったのは、子供に手を伸ばして、結局そのまま付き添って歩く途中の事だった。
 千獣と繋いでいる手とは逆の、空いた手で子供はずっと硝子を大事に抱えている。

 付き添った挙句に街の近くの森まで付き合う事になったのは、結局のところ千獣の優しさだろうか。
 住人の多くは子供をちらと好ましくない視線で見る程度だったのだけれど、千獣が離れかける時に限って同年代の子供にこづかれたりして止めに戻り、ずるずると一緒に歩いて外に出たのだ。
 そうして、外に出ると目的らしき目的も無い千獣である。
 子供と一緒に森に入り、慣れた動きで枝を掻き分けて進むのについていった。
 辿り着いたのは、細いながらそれなりに勢いを持つ川の通る僅かに開けた場所。
 そこで子供は静かに水際に立つとそれまで大層大事に抱えていた硝子の欠片を布を広げて取り出すと、手にまとめて乗せて流れの上にかざす。幾つかが気も早く零れて落ちるけれど多くは大人しく子供の手の上で光を受けていた。
 ちりりと光を弾くのは時に眩しく、千獣は赤い瞳を僅かに細めつつ子供を見る。
 なんなのだろうか、と思って。
 彼女が見る前で、ぱく、と子供の唇が動き誰かの名前を呼ぶ。
 切ない様子でそれを幾度も繰り返してから手を傾ければ硝子の欠片は陽を反射して様々に煌いて。
 微かな音。
 水に潜る音。
 その零れ落ち飛沫を上げる先を見ると小さなそれらは手に持っていた分よりも更に多く、水底に溜まり少しずつ動いているのだと解る。積もり、流れ、鋭さを落とす硝子達。
 子供と二人、千獣はその硝子を水を挟んで眺めていた。
 身の内の獣達も今は暴れる様子も無い。

 静かに、静かにそれを見て。

「――あ」
 千獣には明らかだった気配の主が同じように枝を掻き分けて現れた。


* * *


 街の者の大半がどちらかと言えば疎む類の目つきで千獣を見る中、やたらと親切な人間が何人かいた。
 その内の一人が千獣に雑貨を渡しながら外を見たのは先日の同じ頃合だ。
 店の主人だという彼が閉めるには早い時間にそれほど落ち着かない様子で陽の位置を気にするのは奇妙なのだろうと思われて、千獣としてもなんとなし意識に留めていたのだが翌日に会うとは思わなかった。
 小さな声を洩らして彼が子供と二人佇む千獣の前に現れる。
 人の気配は感じていた千獣は驚く事も無かったが、相手はそうもいかなかったらしく目を見開いたかと思えば慌てて子供の方を見、それから大きく息を吐いたりと忙しい有様だ。子供は――笑うでもなく、怯えるでもなく、すとんと全てを足元に脱ぎ捨てたように表情を消す。二人の態度の違いを千獣が見比べる前で、店主は子供の手に巻かれた布を見てまた声を上げた。
「怪我、怪我を」
 協力するでもなく、抵抗するでもなく、店主が持ち上げるに任せる子供。
「……欠片……握ってた、から……」
「そう――そうですか」
 痛ましげに、その手を撫でてから子供の痣を確かめて回る。
 時折子供に話しかけるのに、子供はと言えば首を動かすだけで他に態度に表さない。
『友達が死んだ子がね、気になるもので』
 やたらと親切に、感じの良い宿だのを教えてくれた店主に千獣が首を傾げてみたときに自嘲する声で彼が零した言葉をふと思い出す。感じの悪い街でしょう、と自分の住む場所なのに言った彼。
「……友達……?」
「え?」
 千獣が一日の後に思い出して繰り返した言葉に、その店主が問い返す。
 微かに首を傾けて千獣は子供を見てまた「友達」と言うがやはり解らないらしい。
「……友達……話の子、かな……」
 昨日、と言ってようやく店主は悟り、沈黙した。
 落ち着かなげに彷徨う視線は後ろ暗いところのある人間と対峙して話す時に千獣もよく見る。
 自然と鋭さを増す千獣の眼差しの前で店主は一度子供を見てから項垂れた。小さな肯定の声。
 彼の手が離れるやいなや、子供は踵を返して川底を浚う。硝子が、と叫ぶ店主の声を無視して子供は尚もそれを続けて止めようとしない。千獣はどうしようかと一瞬思いもしたが、よくよく先程とは異なる位置だと見て取って止めた。
 店主は過保護な親を思わせる様で子供をしばらく見てから大きく息を吐く。
 それは、溜息というにも重過ぎる、肺腑の中を全て出しているかのような息だった。

 ――その友達は少し変わっていたらしい。
 ほんの少し毛深く、ほんの少し爪が硬く、ほんの少し野山に生きるものの匂いがして、そんな「ほんの少し」ばかりだったのだけれど結局、それが積もって人の噂になった。
 両親は居なくて、そういった子達の面倒を見る人の下で育った者同士仲良くしていた子供。
 ある日、切欠は解らないけれど友達は「化け物だ」と追い立てられた。
 追い立てられて、子供がそれに驚いて追いかけて、追いついたのは森の中。
 川縁でその友達は時々旅の人が退治するような獣の姿に半分ばかり変わって倒れていた。
 理由はただ、ほんの少し変わっていて、獣の姿にほんの少しなるから。

 それだけ。

「伝染るかもしれない、病気の類かもしれない、呪いの類かもしれない」
 そんな風に皆考えてたのが溢れたんです。
 腰を下ろして子供を見守る、父親のような態度で店主が言う。
 暗い瞳を見てから千獣は自分の手の先を見た。時に獣の形になる腕、身体。同じではないけれど、気配の違いなんかは少し――解る気もする。自分が人と対峙する時のように、本能的に察知されたりもしたのかもしれない。
「一番仲良くしていたから、あの子も伝染っているかも……今はそう考えて」
 店主の語る追い立てられた子供の友達を少し思う。それから痣の酷い子供自身についても。
 その間にも店主の話は、眼差しだけ水際の子供に向けて続けられていた。
「溜まった鬱屈を吐き出す口実ですよ」
 吐き捨てる口調。
 何かを堪える声に千獣は、今は人の腕の形をしている自分のそれを支えにして店主の方へと身体ごと向き直すと彼の顔を覗き込む。研磨された、透明な赤の瞳が店主を射て。
「……でも、気にする、人が、こうして……悪い人、ばかりでも」
 慰めなのか、千獣としては思ったままに言ってみた声は店主の嘲りを含んだ笑い声に止めざるをえない。
 一瞬のその低い笑いは千獣に向けて放たれた嘲りではなく。
「本性を出した、と誰かが怒鳴っていて」
 立てた膝に乗せていた腕が店主の顔を隠すように上がる。
 頭を抱え込み、伏せるその様に千獣は店主が言う事を簡単に予想出来た。
「綺麗だねぇと笑うのを、何度も聞いた事があって」
「……硝子……?」
「ええ……欠片を」
 普通の子だった、とくぐもった声。
 覗き込むのは止めた。隣から店主の代わりのように子供を見守りながら声だけ聞く。
「あの日」
「……一緒、だった……」
 肩を揺らして、頭を抱えたまま店主は頷いた。
 罪滅ぼしなんだ、と千獣が懺悔を聞く者であるように言う。
「――追い立てた。ここまで」
 そこで止まった話を、促すでもなく千獣は暫く子供の動きを見ていた。
 男が顔を伏せてからはちらちらと此方を気にする様子がある。警戒だとか、そういったものではなく、いつもと違う事を心配するような、そんな態度。
「……今、優しいなら……」
「あの子が友達を見て泣いてたんです」
 顔を上げたら視線が合って、少し関係も良くなるんじゃないかと千獣は思う。
 言いかけた言葉は店主が再開した話に遮られた。
「そのとき、自分は何をしたんだと」
 獣どころじゃない。
 魔物のような、それよりもみっともない、醜悪な。
「魔が差すなんて簡単な話じゃない。ないんです」
 泣き伏すように肩を揺らす店主を、はっきりと気遣う色で子供が見ている。
 本当に、今顔を上げれば話も違うのにと思う千獣だ。
「……心に、獣を、飼って……人の、心だった、人を……」
 水辺の分、空気は冷たく湿っている。
 子供は何かを持って――きっと硝子だろう――千獣達を。
「反省、して、今……あの子に、優しく……する、なら……」
 頷く気配を見てから言葉を続ける千獣の瞳は子供を。
 声は聞こえているのだろうか。聞こえていないのだろうか。
「…………」
 言いかけて、悩む。
 語彙が豊富な訳ではない千獣の中で一度引っ掛かると言葉は中々続かない。
 しばらく天を見据えて言葉を探し、脳内の抽斗を引っ繰り返し。
「……頑張れ」
 ひどく解りやすい言葉ひとつになってしまったのだけれど、それで十分だろうと思う事にした。
 ええ、と店主が確かに応える。
 何度も頷く彼の頭を、子供がやはり不安そうに見て。

 やはり今、顔を上げれば良いのにと千獣は考えるのである。


* * *


『いつか、あの日みたいに誰かが』
 痣だらけの身体を水際から離して戻ってくる子供を、父親のように眺めて店主。
『誰かが怒鳴って追い立てたら、助けようと』
 代わりに死んだっていいくらいだと、本気だと思わせる声で言うからそれにだけ千獣は返した。
『……死んだら……また、泣くと、思う……』
『――でも』
『連れて、逃げて……助けたら……?』
 瞬いた店主の目を強く見詰めて、居合わせたら助けになるよ、と言葉を探す。
 乏しい語彙を掻き集める間に彼には通じたのだろうか。
 はい、と頷いて彼はもう一度顔を伏せた。
 
 集まって大きくなって、そして簡単に溢れる小さな、けれど残酷な魔物は店主の中にはもう居ない。

 立てた膝の間に、川の水でなく滴るのは涙で。
 少しだけそれが落ちて。
 近付いた子供がしゃがみこんで店主を見る。覗き込む。心配そうに。
『……すぐ、起きるから……大丈夫』
 視線を走らせるのでそう言えば、こっくりと頷いて子供は先程から掴んだままの手を差し出した。
 そこに見かけた欠片よりも輪郭を柔らかくした綺麗な――硝子。小さな硝子の、玉。
 瞬く千獣に更に腕を突き出してくるので小物をまとめる袋を一つ開けてしまいこんだ。
 ありがとう、と声に出して千獣が言うのに子供が少し笑うのと、店主が気まずそうに頭を上げるのとは同じ頃。



 そういった訳で、千獣の手には小さな硝子玉がある。
 光を控えめに弾いて煌くそれを転がしてみる度に件の子供と店主を思い出してみるのだ。

 静かに、動かぬ顔に少しだけ笑みを刷いて。





** *** *


 それは、真白の書が映した物語。
 望むものか、望まぬものか。
 有り得るものか、有り得たものか、あるいはけして有り得ぬものか。

 ――小さな世界が書の中にひとつ。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【3087/千獣/女性/17歳(実年齢999歳)/異界職】

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■         ライター通信          ■
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 はじめまして、ご参加頂き有難うございます。ライター珠洲です。
 雰囲気の認識にずれが無いといいなぁという事と、口調の間の取り方が問題無いといいなぁという事を思いつつのお届けです。お話は……まんまな展開なんですが、設定を読んでプレイングの言葉を拝見してとしている間にこの方向で固まってしまいました。お納め下さいませ。

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