コミュニティトップへ



■月隠■

エム・リー
【4790】【威伏・神羅】【流しの演奏家】
 四つ辻を囲む夜の薄闇は、それに差し込む一筋の月光があるでもなく、瞬く星の灯一つあるわけでもありません。
 茫洋とした薄闇。漆黒とまではいかない、どこか薄い墨のそれを思わせるこの闇の中、四方其々に続く大路があるのがお分かりいただけますでしょう。
 この大路を往けば気の善い妖怪共と見える事が出来ますし、四つ辻に住まう住人――すなわち、茶屋の店主・侘助、艶然たる笑みを浮かべる花魁・立藤、常世へと結ぶ橋の守人・則之。其々との出会いにも遭遇出来る事でしょう。
 が、この四つ辻には、時折ぶらりと気紛れに立ち寄るもう一人の住人がいるのです。
 花笠を目深に被り、その面立ちは杳として知れず。羽織る着物は女物で、いつもどこか薄笑いを浮かべた男。名を問えば彼は
「蝶々売りでござい」
 そう返して笑うでしょう。

 さて、この男。この四つ辻にあり、しかしながらどこか異質たる雰囲気を持つ蝶々売り。
 彼は、この四つの大路の他に続く小路を進む事が出来るのです。
 
 小路が続く先は、果たして常世であるのか、現し世であるのか。
 はたまた、或いは――――

月隠


 ごうんごうんと鳴っているのは、薄闇を流れて往く湿りを帯びた夜の風の声であった。
 否、ごうんごうんと鳴っているのではない。余りの静けさ故に、己の耳の鳴っている音までもが聴こえ来ているのだと神羅は頷き、熟れた南天の如きに赤く揺れる双眼を細ませる。
 
 彼岸と此岸との繋ぎ目でもある異界、その呼び名を四つ辻と称されている場所へと足を寄せたのは、此度で何度目になるのであろうか。
 何やら曰くめいた場所でありながら、日頃見えるのは何れも気の善い連中ばかり。夜行であれ何であれ、どこか拍子抜けしてしまう程に安穏とした存在ばかりが顔を揃えているような場所なのだ。
 然し、今日は果たして如何したものであろうか。
 在るのは夜風ばかり。その夜風でさえも音を成さず、只黙々と薄闇を揺らして往くばかりなのだ。

 神羅は何時もとは少しばかり異なる四つ辻の大路を歩き進め、そうして不意に片眉を跳ね上げた。
 眼に見えるは、実に奇抜な出で立ちをした男と思しき影一つ。
 花笠を目深に被り、その面立ちは杳として知れない。が、その頬には毒々しいばかりに紅い彼岸花の彫り物が成されてあるのが見える。女物の着物を羽織り、脛から下は剥き出しになっている。手には煙管が一本。残る片方の手には蝶を結び括っている糸を数本持っていた。
 神羅はしばしその男を見遣っていたが、やがて頬を緩め、眼を細めて薄い笑みを張り付かせる。
「これ、そこな男。そなたこのような場所で何をしておる?」
 訊ねながら歩き進め、腹の奥底から這い登る得体の知れない感情に、小さな笑みを一つ漏らした。
 男は神羅の言葉に対し、僅かに身体を向けて煙管を吹かす。
「商いをしておるんでさァ」
 返したその口許が薄い笑みを浮かべているのを知ると、神羅はひたりと足を留めて首を傾げる。
「斯様な場所で商いなぞしても儲けなど生むまいが。して、何を扱うておるのだ」
「ハァ。あっしはしがない蝶々売りでさァ」
 神羅の問いに、男は手に持っている糸を数本ゆらりと揺らした。
 糸の先端に括られてある蝶が、薄闇の中、幾筋かの光を描きながら飛び回る。
「ほう。……して、そのようなモノ、ここで売れるとは思えんがのう」
 飛び交う蝶が放つ茫洋とした光の筋を確かめながら、神羅はふうと息を吐いた。
 神羅の吐き出した息は蝶の動きを揺るがせ、光は僅かに曇りを帯びた。
「なぁに。こうやって寄ってきてくださる物好きな客も、たまァにいるもんでさあ」
 蝶々売りの口許には、やはり薄い笑みが滲んでいる。
 どうあっても確かめる事の出来そうにない花笠の下にある顔を、神羅はしばし口を閉ざして見定めた。
 容の良い面立ちとすうと通った鼻筋は、男の顔立ちを覗き見る事が出来ずとも、それが整ったものであるのだろう事を知らしめている。
 神羅は鼻先で哂い、静かに頷いた。
「蝶は人の魂魄が生まれ変わった姿であると聞き及ぶ。ましてこの地は彼岸へと続く通り道であろう。そなたのその売り物、それは人間の魂魄と取ってよいのか?」
 問い掛けた後に口を噤む。
 男は神羅が口にした問い掛けに、しばしの間沈黙した。
「まァ、そうですねエ。あっしはこういったモノをあっちへ渡したりこっちへ戻したりってえ事も、まあたまあに務めてもおりまさあ」
 蝶々売りが返したその言葉は神羅が成した問いに対し、正しい応えとは云い難いものだった。が、神羅はふと満足そうに頬を緩め、己の商売道具である三味線を収めたケースを持ち替えた。
「ふ、此方、なかなかにして怪しい奴じゃと見える。安穏としてばかりおる場所かと思えば、此方のような奴までもが出入りしておるとはのう」
 眼を緩めて喉を鳴らし、神羅は再び言葉を継げる。
「ヨシ。ならばこなたのその商売道具、そこな蝶を一匹頂くとしようかの」
 述べながら、片手を持ち上げて一匹の蝶を示しあてた。
 それは先刻の折、神羅の息吹により僅かばかりの翳りを帯びた、純白色の蝶であった。
 蝶々売りは神羅が示した蝶を確かめた後に煙管を吹かし、張り付かせたままの薄い笑みを崩す事もなく返事を告げる。
「オヤ、御代も聞かずに買い取ってくださるたァ、お客さん、物好きなばかりでなしになかなかの太っ腹だと見える」
「ふむ、御代とな。して御代は如何様に手渡したものであろうかの? 銭か、或いは物での支払いとなろうか?」
 頷きながらそう返し、手渡された蝶の糸を指先に巻きつける。
 蝶はゆらゆらと羽を動かし、その都度鱗粉のような光を撒いている。光の線の如くに見えたのは、この鱗粉であったのだ。
「銭なぞ、そんな無粋は云いやせん。……オヤ、お客さん、あんた三味線を嗜んでおいでで?」
「真似事に過ぎぬがの」
「そいつぁいい。どうでやんしょう、御代がわりに一つ、あっしのために一曲弾いてやっちゃあくれやせんかねえ」
 蝶が描く線に見入っている神羅に、蝶々売りは軽く手を打ってそう頷いた。
「……此方の為に、じゃと?」
 神羅の手がひたりと止まり、男を見上げる双眼に微かな疑念のような色が浮かぶ。
 が、蝶々売りは怖気づく事もなく、只飄々と頷くばかり。
 神羅はややの間男を見遣っていたが、終いには小さな溜息と共に薄い笑みさえ吐き出して肩を竦めたのだった。
「良かろう。一曲だけじゃがの」
「そいつぁ有り難え。さ、ほいじゃあソレはもうあんたさんのモノでさあ。煮るなり焼くなり、お好きになすってくだせえ」
 告げられた男の言葉に、神羅は薄い笑みを浮かべて首を傾げた。
「何処ぞの魂魄やもしれぬモノを、私の好きにして良いと云うか」
「あっしの商売ですからねえ」
 ニヤリ。男の口許の笑みが僅かに変容した。彼岸花がじわりと歪む。
「それじゃあ、一つ」
 神羅は男の笑みに対して薄い笑みを浮かべると、糸の先の蝶をひょいと摘み取り、躊躇も見せずに口の中へと投じいれた。
 神羅の腑の中へと飲み下されていった蝶が遺した軌跡が、薄ぼうやりと漂っている。が、それはややの間の後に薄闇の内へと融け入って消失していった。
「砂糖菓子のようじゃのう」
 舌なめずりをしてみせる神羅に、男は事もなげに頷き、笑う。
「今後とも御贔屓に」
「うむ、馳走になったの」
「それじゃア、御代を頂戴しやしょうか。とは云え、立ちっ放してえのも粋じゃあねえや。向こうにいい場所がありやしてね、一つ、そこへ参りやしょうか」
「ホウ、いい場所とな。四つ辻は何処も彼処もさほど変わり映えのない景色ばかりが在るものじゃとばかり思うていたが。どれ、一つ案内せい」
「へい、承知。しかしながらお客さん、あんたア大路の四つきりしかご存知ないとみえる」
 細い笑みを零しながら先導して歩く蝶々売りの後ろを追いながら、神羅はゆらりと眼を細めた。
 蝶々売りの足は大路を過ぎ、一見すれば何も無いようにも思える薄闇の中へと足を寄せる。

さあさあこれより御眼に映りまする時は安政七年花見月。幕府大老井伊直弼が、天誅と称した名目の下十と八名の浪士集団に依り斬殺されました折より数日の後を迎えておりやす。場所は下町の浅草寺を離れまして浅草田圃。葭原より新吉原へと移りました後二百年程を経過した江戸の一角でございやす。
「ほう、吉原とな」
へぇい、左様で。長く現し世を巡っていらした身であれば、一度二度は物見遊山と称し冷かしにいらした事もおありじゃあないでしょうか。
「ふぅふ、確かに」
色里吉原”世の中は暮れて廓は昼になり”との流言も浮かびやした通り、江戸の不夜城たる賑わいでござんす。
「然し此処は吉原と芝居町への入り口であろう」
へぇい左様で。大門へと続く五十間道までの道中でやんす。花川戸を左に折れ、大川を流れに逆らい進みやした場所がここでやんす。これより更に左へと折れやすと色町へと続きやす。曲がらず真っ直ぐ往けば待乳山聖天社と芝居町。さぁて、そいじゃあ色里へと向かってみやしょう。
「日本堤は江戸の郊外だとされていたようじゃが、なかなかどうして人通りは多かったものじゃ」
直に見返り柳が見えてきやしょう。登楼しやすのはなにも町人だけにございやせんでしたからねェ。武士やら商人やら、そら、今通っていきやしたのは、ありゃあ人足の者にありやすねエ。
「四つ辻の大路に横道が通じてあるとは知らなんだ。斯様な場所へ通じておるなどと、今の今まで気付きもせんかったわ」
大路以外に通じる事が出来やすのはあっしと茶屋の主ぐらいなもんでやんす。店主が自らァ腹あ割って話す事もございやせんでしょう。
「ふむ、そうか。……しかしこの場が幕末の時世であれば、こなたと私は異質たる存在になるのではなかろうか」
ははァ、そいつァ心配ご無用ってねえ。御眼に見えてありますは変革の仕様もへったくれもありゃしねえ過去の残像。残り香には触れる事も適いやせん。ひょっこりあっし共の姿が見えちまった人間がいたところで、ここは愛憎渦巻く花街でござい。
「化け物が見えると触れた処でそれを真に受ける相手なぞいやしない」
仰る通り。さァて編笠茶屋も見えてきやした。そぅら、大門が開いていやすよ。

 促され、神羅は大門前に腰を下ろした。
 提げ持ったケースを開ければ、手入れの行き届いた三味線が一丁顔を覗かせる。
 神羅はそれを手に取りしばし調整を施して、そして一息吐いた後、ゆったりと睫毛を伏せ撥をついと躍らせた。

春や春、春爛漫の夢うつつ。響くはチョンと広がる木遣りの音。
色里巡る客足の、総てはひたりと留められて、引き寄せられるは三味線の皮が爪弾く樂の音。
何処よりか現れし春の遣いがひらひらと踊りたるのは春の舞。
春や春、春爛漫の夢うつつ。






□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【4790 / 威伏・神羅 / 女性 / 623歳 / 流しの演奏家】


NPC:蝶々売り

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
          ライター通信          
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

いつもお世話様でございます。
このたびは四つ辻の新シナリオ「月隠」へのご参加、まことにありがとうございました。

幕末の遊郭ということで、吉原への道程などの描写も少しばかり盛り込んでみました。
また「芝居のような」という御指示は、主に後半部分を中心に意識してみましたが、さてさて、いかがなものでしょうか。
お、お気に召していただければと思うのですけれども。

それでは、またご縁をいただけますようにと祈りつつ。