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■過去の労働の記憶は甘美なり■

水月小織
【6678】【書目・皆】【古書店手伝い】
東京では仕事を選ばなければ稼ぐ手段に困らない。
かと言って、紹介する者を選ばなければどんな目に遭うか分からない。
いつものように『蒼月亭』のドアを開けると、こんな文句が目に入ってきた。

『アルバイト求む』

さて、ちょっと首を突っ込んでみようか…。
過去の労働の記憶は甘美なり

 中高生の夏休みが終わったとはいえ、まだ残暑は厳しい。
 差し込む日差しもまだ夏の余韻を残し、地面に影を落とす。
 そんな街の中を書目 皆(しょもく・かい)は、文庫本が入った鞄を持ったまま歩いていた。神田の古書店『書目』次代の主人である皆は、お得意様から頼まれた本の配達のためにこの辺りまでやってきたのだが、どこかで涼んで少し落ち着きたい。
「何処か店は…あ」
 その時、目の前にツタの絡まる三階建ての建物が目に入った。そこには『蒼月亭』と書かれた古い看板が下がっている。取りあえず一旦休憩しよう、そう思って皆はその店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ、蒼月亭へようこそ」
 アンティーク家具の内装、落ち着いた佇まい。そのカウンターの中から色黒で長身の男と、大きな目をした笑顔の少女が顔を上げ挨拶をする。皆が引き込まれたようにカウンターに座ると、レモンの香りのする冷たい水が差し出された。
「アイスティーをお願いします」
「かしこまりました。茶葉や入れ方にご注文はございますか?」
 微笑みながら言う少女の言葉に、皆は思わず考え込む。まさかアイスティーの茶葉の注文を聞かれるかとは思っていなかったのだ。戸惑う皆に長身の男が助け船を出す
「特にないようなら、夏向けの『梅のカクテルティー』とかはどうだ?少々梅酒が入るけど、今日みたいな日にぴったりだから」
「じゃあ、それをお願いします」
 注文をした後、皆は持っていた文庫本も出さずに思わず店の中を観察していた。「サービスです」と言われて出されたクッキーに、年代物のようなランプシェード。何となくここは自分の店に近いような感覚がする。
 長身の男はこの店のマスターなのだろう。カフェエプロンのポケットからシガレットケースを出し、マッチで煙草に火を付けた。今時マッチを使っているというところも、何だか珍しい。
 辺りを見渡していると、その男が笑いながら声をかけてきた。
「お客さん、店にあるものが珍しいかい」
「あ、はい…アンティークが多いですよね。壁に掛けてある時計もねじ巻き式なので、珍しいなと思ったんです」
 そんな事を放していると「お待たせいたしました」という言葉と共にアイスティーと、ガラス容器に入れられたシロップが差し出された。シロップを入れずに飲むと、爽やかな梅の酸味が渇いた喉に心地よい。
「うん、うちこう見えて結構古いからな。新しい物もいいんだけど、使えるうちは使ってやりたくてね…ごゆっくりどうぞ」
 確かにここでならゆっくりとした時間を過ごせるかも知れない。これはいい店を見つけた…そう思いながら、皆が鞄の中から文庫本を出そうとしたときだった。
 『アルバイト求む』
 そう一言だけ書かれた張り紙が目の端に入る。それを見ながら皆はマスターに話しかけた。
「アルバイトですか…今は夏休みの学生も多いし、働き手も見つかりやすいんじゃないですか?」
 アイスティーを入れてくれた少女も、この店のアルバイトなのだろうか。そう言うと、少女はにっこりと笑って手を振る。
「ああ、それはこのお店のじゃないんです。ナイトホークさんの道楽なんです」
「…客に誤解されそうなことを言うな」
 そこで皆は二人の名を知った。マスターの方はナイトホーク、少女は立花 香里亜(たちばな・かりあ)。ナイトホークは溜息をつきながら、皆が座っている席の前に灰皿を持って移動してきた。
「ここ昼間はカフェで夜はバーなんだけど、その他に俺が個人的に仕事の斡旋とかもしてるんだ。東京暮らしも長いし、個性的な奴らが集まるから」
 人懐っこそうな笑みでそう言うナイトホークに、皆は鞄を開け持っていた店の名刺を差し出した。そこには「古書店『書目』」という名と一緒に、手書きで書いた自分の名が書かれている。
「僕はこういう者です。もしかしたら、僕もその個性的な一人かも知れません」
 にっこりと皆が微笑むと、ナイトホークも同じように不敵な笑みを見せた。自分から「個性的」などと言うことは、話によっては仕事をやる気があるらしい。それに古書店の跡取りにふさわしい仕事を丁度良く持っている
「そうみたいだな。書目さん、よかったら一つバイトしてみない?面白そうな依頼があるんだけど」

「本の引き取りですか?」
 それは、話だけ聞けばとても簡単な依頼のように聞こえた。
 ある場所に置いてあるという一冊の本を引き取りに行く…だが、その本の名を聞いた途端、眼鏡の奥にある皆の青い目が真剣みを帯びる。
「その本は『セラエノ断章』…とっても怖い魔導書って訳。持ち主が何処かで手に入れたらしくて、特に必要ないから誰か引き取れる人を探してたんだけど、その本を手にするどころか皆喰われちまうからどうにかして欲しいって。話を聞いて受けるも受けないも書目さんの自由。どうする?」
 『セラエノ断章』とは、一部で有名な邪神について書かれたという魔導書だ。存在しているという話は聞いたことがあるが、この目で現物を見たことはない。
「それは、英語の写本で、完全なものですか?」
 皆は自分が持っている知識を動員して、質問を投げかけた。『セラエノ断章』は英語の写本で存在しているが、あちこちが欠損している物が多いという。だが「人を喰う」という話であれば、もしかしたら完全なものかも知れない。ナイトホークは紙を見ながらふふっと笑う。
「俺が聞いたのは『それが厄介な魔導書で、引き取ってくれるのなら後は焼こうとどうしようと構わない』って事だけ」
「そんな、焼くなんて勿体ないです」
 間が欠損していても、本であることに変わりはない。しかも自分が読んだことのない魔導書であるのならなおさらだ。出来れば自分の手で引き取って、店の目録に加えたい。
「やるなら依頼主に電話するけど、多分危険な仕事だよ」
「いえ、やらせていただきます。虎穴に入らずんば虎児を得ずと言いますし、その本を是非手にしたいですから」
 話をしている間にアイスティーはすっかり飲み干され、グラスの底に水が溜まっている。
 それを見ながら、皆はその魔導書を如何に上手く手に入れるかに考えを巡らせていた。

 その本があるという家は、庭に大きな蜜柑の木がある古びた一軒家だった。都内なのに辺りはのどかで、昔から時が止まってしまったような雰囲気さえ感じさせる。
「お前がナイトホークが紹介してくれた者のようだな」
 そこから出てきたのは黒い短髪で眼光の鋭い三十代前半ほどの男で、皆を家の中へと案内した。
「引き取れそうな者が来てくれて良かった。他の物に紛れて手に入れたのだが、俺には全く必要のない物なうえ、あれがあると必要な物を取りに行くのにもいちいち苦労する」
「それは大変そうですね…おじゃまいたします」
 まず皆は持ち主と相談をして、詳しい内容や仕事の段取りを相談する事にした。座敷に通されると目の前に緑茶が出され、溜息をつく彼に皆は色々と質問をする。
「まず聞きたいのですが、その本は『セラエノ断章』で間違いはないんですね」
「間違いない。中身の欠損もないようだがそのぶんタチが悪い…今まで何人か来たのだが、全員本に喰われたのか帰ってこない。それ故、ナイトホークに依頼した」
 苦労する…と言うことは、少なくとも彼自身は本に喰われることはないようだ。だが、いくら喰われないとはいえ、必要のない物を手元には置きたくないのだろう。
「で、物はどこにありますか?」
 出されたお茶を一口飲む。すると彼は立ち上がって障子を開けた。家の入り口からは見えなかった蔵が目に入る。そしてそこからは何だか近寄りがたい雰囲気が伺えた。
「その蔵の地下の一番奥だ。灯りはないのでヘッドライトがあった方がいいかも知れない」
 地下か…確かに本を置くのには都合がいいだろう。皆の家でも魔導書の類は全て地下に置いてある。それは危険だからというだけではなく、古い書物を劣化させない知恵なのだ。
 皆が自分がどう動けばいいのかを考えていると、自分がいた場所に戻りながら彼は静かにこう言った。
「地下には必要な物も多いから、出来れば暴れたり周りにある本などを傷つけずにお願いしたい。不可抗力なら仕方がないが、貴重な物もあるからな」
「何とか出来ると思います」
 オーダーはなかなか厳しいようだ。
 地下にある魔導書を、辺りを傷つけずに自分の手にする。人喰いという事は本自体の力も強いだろうが、それを上手くそらせなければならない。本だけ手に入れるというわけにも行かないようだ。
「必要な物があれば言ってくれ。出来るだけ用意しよう」
「いえ、僕にはこれがありますから大丈夫です」
 そう言いながら皆は自分の鞄から一冊の本を取り出した。それはタイトルが書かれていない皮の装丁で出来た本で、かなりの時代を感じさせる。それを見て彼は満足そうに目を細めた。
「なるほど。では『セラエノ断章』の引き取りを正式にお願いしたい。本を引き取った後は、好きにして構わない。それがどんなに貴重なものでも、俺にはただの邪魔な書物だ」
 その言葉に皆は黙って頷いた。

「広いですね…」
 蔵の床を開け急な階段を下りると、そこはかなり広い書庫だった。自分の家ほどではないが、かなりの書物が収められている。背表紙を見ると、中国語で書かれた本が多い。
 皆がそこに足を踏み入れた瞬間からキチキチと何かが蠢く音がし、乾ききった血の匂いが鼻をくすぐった。
「邪神の魔導書…どうやら本物のようですね」
 耳の横で風を切るような音がした。それと共に頬に痛みが走り、髪の毛が切られる感覚がする。手にさえしてしまえばこっちの物だが、そこまでどう近づくか。一歩一歩慎重に踏み出すと、足下が張り付くように重い。
「………」
 力のある魔導書は麻薬のようだ。
 持っている者に力を与える代わりに、破滅という代償を取られることがある。おそらく『セラエノ断章』に喰われた者達も、その力を欲してやってきたのだろう。そしてその力を制御できず、本に喰われる結果となった…。
「行きます!」
 その瞬間、皆の身体を切り裂くように風が襲いかかった。それと同時に、皆は着ていたシャツの胸ポケットから星形の物を出した。
「『古き印』よ!僕を守れ!」
 チッ…と言う音がして耳元で風が鳴る。
 手にしていた星形の印が粉になり、風に乗って消える。
 それは皆が用意していた『護符』だった。だが、それは一度しか攻撃を防ぐことが出来ない…持っている護符は残り四つ。それまでに魔導書を手にしなければ、自分も喰われる可能性がある。
 一回目の攻撃で少しは前に進めることが出来た。しかし奥と言ってもそれはまだ遠く、その間に何が呼び出されるか分からない。
「次は何を喚びますか?」
 少しずつ前に進みながら、ポケットから全ての護符を取り出し右手に持つ。すると目の前に生ける死者が現れた。それはまるで体中がタオルを絞ったかのようにねじれ、何も見ていない濁った眼窩が皆の姿を映す。
「本に『喰われた』人たちですか…」
 それが皆に向かって襲いかかってきた。奇妙な形をした人だった物が動くたび、何かが砕けるような不快な音が耳をつく。それが触れようとするタイミングを見計らい、皆は聖句を唱えた。
「汝、土は土に、灰は灰に、塵は塵に…」
 ぱぁっと光が辺りを照らし、死者達が塵へ変わっていく。
 この者達の魂の安寧を願っている暇はない…それに、魔導書を所持しようとするものであれば、魔導書に負けその魂が囚われることすら厭わないのだ。そして過ぎた力を求めれば、破滅へ導かれることもよく知っている。
「まだか…まだ着かないか…」
 風が鳴る。
 触手が身を捕らえようとする。
 その度に右手から砂がこぼれ、風に舞って消えていく。今この場で行われているのは、『セラエノ断章』と皆との純粋な勝負だ。負ければその身だけでなく魂まで魔導書に囚われ、勝てばその書を手に出来る。相手もそれを知っているのか、他の本などには手を出さず皆だけを確実に狙ってくる。
「残り二個…」
 そう呟いた途端、羽の着いた怪物の爪が皆を引き裂こうとした。『古き印』を投げつけると、それはガラスをひっかくような音を立て消えていく。だがこのままでは本にたどり着く前に、自分の手持ちがなくなってしまう。
「くっ!」
 焦ってはいけない。
 こういう時ほど冷静にならなければならない。
 考えろ、考えることをやめてしまった瞬間、自分は負けてしまう。生きている限り、考え得る限り勝てるチャンスは残っている。
 本は既に見えている。後は手を伸ばしそれに触れるだけだ。
 パシッ!という音と共に目の前が弾け、最後の護符が塵となった。皆はスッと顔を上げ、『セラエノ断章』を見据え左手にある本を開いた。
「これが最後の切り札です!」
 魔法陣が描かれたページが何かに導かれたように開き、皆はそれに指を這わせる。
 一か八かの勝負だ。皆はあるものを喚び出そうとしていた。それは『セラエノ断章』に対抗できる大きな存在…。
「…我が名において命じる!『ハストゥールの風』を止めたまえ!」
 闇が揺れた。それと同時に風が少しずつ止み、禍々しい威圧感が辺りに溢れる。大きな力が拮抗するように、地面が揺れ始める。
 それを合図にしたように皆は奥に向かって走った。
 もっと速く…この力を拮抗させすぎると、本を手にするどころか辺りを壊滅させてしまうかも知れない。しかし、危険だがこれが一番確実なのだ。風の邪神『ハストゥール』と水の邪神『クトゥルー』の力を拮抗させ、その間に魔導書を無力化することが。
「………!」
 皆はよろめきながら、奥の台にぽつんと置かれていた『セラエノ断章』を手にした。すると今まで激しく吹いていた風が止み、禍々しい空気が消えていく。魔導書が力を失ったのを知ったのか、皆が喚び出したクトゥルーもまた深い眠りについたようだ。
「我が召喚に応えたことに感謝を…」
 肩で息をしながらも、皆は二冊の魔導書をしっかりと手にしていた。

 仕事が完遂できたことを報告するために蒼月亭に行くと、既に連絡が行っていたのかナイトホークは皆の姿を見た途端、挨拶もそこそこに手を挙げた。
「サンキュー。向こうも感謝してたよ」
「いえ、僕もこれを手に入れられましたから」
 カウンターに座りながら皆は鞄をポンと叩いた。その中には自分の持っていた魔導書と、先ほど手に入れた『セラエノ断章』が入っている。
 『セラエノ断章』自体は、幻の魔導書と呼ばれるほどの力のある物だ。だが、いかなる力が働く魔術書も普通の本のごとく取り扱える皆にとっては、手にさえしてしまえば普通の書物なのだ。
「でさ、結構大変だったみたいなのに、報酬その本だけでいいのか?」
 これは金銭で買えないほどの貴重なものだ。それを自分の手にして読めるだけでも喜びなのに、これ以上を望めば罰が当たる。皆は笑って頷く。
「はい。僕たちのように書物に魅せられた者にとっては、これだけでも奇跡のような出会いです。きっと祖父や父も喜ぶと思いますし」
「そんなもんかね…っと、ご注文は?」
「『梅のカクテルティー』をお願いします。あと、少しここで本を読んでいってもいいですか?もちろん普通の文庫本ですけど」
「かしこまりました。どうぞごゆっくり」
 一仕事したことだし、手に入れた本は家でゆっくり楽しむとして、今はお茶を飲みながらゆっくりと物語の海に浸るとしよう。
 お湯が沸かされる音を聞きながら、皆は満足げに文庫本を開き息をついた。

fin

◆登場人物(この物語に登場した人物の一覧)◆
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
6678/書目・皆/男性/22歳/古書店手伝い

◆ライター通信◆
はじめまして、ご参加ありがとうございます。水月小織です。
ナイトホークからの「危険な仕事」と言うことで、能力などを参考にさせていただいて魔導書を引き取るという話にさせていただきました。『セラエノ断章』はクトゥルー神話に出てくる魔導書ですが、実はこういうのが好きだったりします。きっと家に帰ったらしみじみと読んだりするのでしょう。『梅のカクテルティー』は、スプーン一杯だけ梅酒を入れたアイスティーで、爽やかな香りが暑さを忘れさせてくれる飲み物です。
リテイク、ご意見などがありましたら、ご遠慮なく言ってくださいませ。
またご縁がありましたら、是非ご来店下さい。