■戯れの精霊たち〜地〜■
笠城夢斗
【3087】【千獣】【異界職】
「森とは命の集大成だ。そうは思わないかい?」
 ――『精霊の森』にたったひとり住む青年は、会うなりそんなことを言い出した。
「といってもここには、動物がいないんだけれどね。僕と、精霊たちがいるだけ」
 どことなく遠くを見るような目。
 銀縁眼鏡の縁が冷たく光る。
「だけど、その代わりに精霊たちが暖かいんだよ。そう、暖かい――大地の精霊なんかは特に。まるで人間を見ているような気がしてくるね、彼らを見ていると」
 大地の精霊……?
 自分が足をつける地面を見下ろす。その柔らかい土……
「あ、土にはあいにく精霊はいないんだ。この森の場合」
 そう言って、青年は視線をある方向へ飛ばした。
 そこに、ひとつの大きな岩と――一本の太い木があった。
「あれ。あの岩と、木に宿っているのが大地の精霊だね」
 岩と木。
 どちらもとても年季が入っていそうな、古くて、強くて、どっしりとかまえて――暖かい。
 ずっとこの森を見守っていてくれたふたりだ――と、青年は言った。
「彼らはかけらも動くことができない。あの場所にいるのが当たり前のまま何十年――何百年だ。外のことを知りたい。でも知ることができない」
 願いを、叶えてやりたくてね――と、眼鏡の青年は優しい声でそう言った。
「だから、彼らにキミの体を貸してやってくれないかな」
 木と岩は、どこかほんのり輝いて見える。森の外からの来訪者を、歓迎してくれているのだろうか。
「なんだったら、遊んでくれるだけでもいいよ――僕の力で、擬人化させることはできるしね」
 お願いしてもいいかな。そう言って、青年は微笑んだ。
精霊の森〜彼の場合〜

 貧乏暇なし。そんな言葉がふと頭をよぎって、クルス・クロスエアは苦笑した。
「別に貧乏じゃないんだがな……」
 というよりここは精霊の森。貧乏だとか金持ちだとか関係がない。
 銀縁の眼鏡を取り、目のつけねをもむ。――一晩中本を読みすぎた。少し頭が痛い。
 窓を見ると、森にほとんど遮断されてもやはり差し込む陽光が見える。
「今頃……千獣とファードが起きているか……」
 欠伸をしかけて慌ててとめた。この時間帯にはやることがある。
 彼は椅子から立ち上がり、ガラス皿を取りに行った。
 基本的には白衣姿の彼だが、今から会いに行く2人にそんなやぼなことはすまい。
 軽い姿で言いたいのだ。おはよう――と。

 結局着て行った服は、先日エルザード城下にいる友人にもらったとても動きやすい服だった。真っ白な上下。この上に白衣を着たら白魔人だ、と苦笑したら、白衣でいる時間を減らせばいいと友人は言っていた。
 要するに友人は、白衣を着て森で研究に没頭してないで、外にも出て来いと言いたかったらしい。
 まんざらでもなかったので、クルスはその服をありがたくちょうだいした。
 その時に「幸せに暮らせよ……」と友人がぐすっとすすりあげたのはなぜだったのだろうか。

 千獣は――起きているだろうか?
 体に大事はないだろうか。彼女の体は特殊だから。

 クルスはそのまま小屋を出て、ガラス皿を手に、ファードのいる方へ歩き出した。

 クルスの小屋からファードのいる場所まで、あまり近くない。元々ファードのいた場所に、小屋を建てるだけの土地がなかったのだ。
 ようやくファードが見えてくると、
 ファードに顔を隠すようにして、漆黒の長い髪をした少女の姿が見えた。
 クルスは笑った。そして、

「おはよう、千獣」

 千獣の肩がぴくんと震える。少女はもじもじした後、ひっそりと肩越しにこちらをのぞいたようだ。
「く……クルス……」
「うん?」
 クルスはいつも浮かべている笑みで少女に近づいた。
 と、クルスはふと千獣の視線から視線をはずした。
 彼には精霊が見えている。しゃべることができる。
『私にはおはようと言ってくれないのですか、クルス』
 ファードが笑ってそう言った。クルスも声を立てて笑って、
「ああ、悪い――おはよう、ファード」
『おはよう、クルス』
 そう言ったファードはふと千獣に目をやって、
『ああ、不安にさせたみたいね――クルス、何とかしてあげなさいな』
「ん? ああ」
 クルスはもう一度千獣を見る。
 そして、その腰を軽く抱き寄せた。
「心配するな、千獣」
 彼は耳元で、囁いた。
「俺の一番大切な精霊は今腕の中にいて――姿も見えてしゃべることもできる」
「―――!」
「俺の一番大切な精霊からなら、俺の姿も見えて俺としゃべることができる」
 そう言って、クルスはいたずらっぽく片目をつむった。
「く――クルス、の、バカ! バカ! バカ!」
 千獣は突然クルスの胸元に殴りかかった。「痛い痛い痛いって!」とクルスは訴える。
「ば、か……」
 腕の動きをとめ、蚊の鳴くような声で言った後――
 少女はがばっとクルスに抱きついた。
「お……おはよ、う、クル、ス」
 恥ずかしそうにクルスのシャツをぎゅっと握り締めながら。

 さて、クルスが毎日こんな早朝にファードの元にくるのは、別に千獣といちゃつくためというわけではない。千獣に会うためじゃないのか、と聞かれれば首を縦にふれないのも本音だが。
「ファード」
 クルスはファードを見上げる。精霊のファードではなく、樹全体のファードを。
『ええ、クルス……今日もたくさん採れると思うわ』
「そうか……ありがとう」
 ガラス皿一枚だけを手に、もう片方の手と両足を器用に使って彼はファードの幹を登ろうとする。
「ま……ま……って……」
 千獣がクルスのシャツのすそを引っ張って止めた。
「あさ、つゆ、採りに……行くん、で、しょ?」
「? ああ」
「だったら」
 千獣は背中から、ちょこんと獣の翼を出した
「私、の、方、が、早い……」
 クルスは眉をひそめた。
「……いいのか? そういう姿は見せたくないんだろう?」
「く、クルス、と、ファー、ドに、なら、いい……」
『千獣の、その努力する姿は大好きですよ』
 ファードが口をはさんできた。にこにこと、穏やかな微笑で。
「……そうだな」
 クルスは千獣の髪を撫でた。
 さらりと指通りのいい髪が、指に軽くからまってからするりと落ちる。
 と思ったら、ふいに千獣が頭を振ってクルスは驚いて手を離した。
「どうかしたか? 千獣」
「な、なん、でも、ない……」
 ごめん、ね……少女の口からもじもじした声がこぼれる。
 クルスは微笑んで、ぽんぽんと千獣の髪の毛を優しく叩いてから、
「じゃあ、朝露集め、頼むよ千獣」
 とガラス皿を少女に渡した。

 千獣が思い切った様子で背中の獣の翼を大きく開いた。――本当は獣の自分の姿はあまり見せたくないのだろうに。
 ばさり、とひとつはためいて、ファードの本体の樹の上部へ。
 そのあたりが特に、朝露の集めやすい場所のはずだ――
 千獣がこぼさないように、預けたガラス皿にそれを採取していく。
 時々千獣も雫をこぼしてしまう。クルスはなんとはなしにその手に雫を受け止めて、千獣に向かって手を振った。
 千獣はほっとしたように、再び作業に没頭していく――

「こんなにたくさんか。さすが千獣には勝てないな」
 下へ降りてきて翼をおさめた千獣から、樹にあった雫をあらかた集めたほどになみなみと液体が入っているガラス皿を返してもらっったクルスは、うーんとうなた。
 なぜか、おそるおそるといった様子で、千獣が自分の顔をのぞきこんできている。
 クルスは微笑んで見せた。
「ありがとう。これだけあれば次の研究には充分足りる」
 今までの分を足してね――と言いながら、クルスはガラスの中身を少し揺らした。
 きらり、と木漏れ日がガラスに当たって反射した。

 “何の研究をしてるの”――
 何度聞かれても、
 “内緒”
 いたずらっぽくそれだけを返した、それだけ。
 クルスは少しだけ罪悪感を感じる。今はまだ、言えない。君のための研究だよ――と。

 クルスはいったん小屋に戻り、ガラス皿を置いてきた代わりに、朝食用の干し魚と飲み物を手に戻ってきた。ファードの下で食べる方が、千獣が喜ぶためだ。
「いつも保存食で悪いね」
 クルスはファードの根元に座り込みながらも、千獣に苦笑してみせる。
 千獣はふるふると首を振った。――元々彼女にはあまり味覚がない。とりあえず毒さえ入ってなければいいという感覚らしい。
 けれど、そんな千獣でも、ファードの近くで食事をする時は嬉しそうに微笑む。
 本当は肉食である自分を見られるのは嫌だったらしいが、ある日ファードに言われたらしい。動物の輪廻は大切なことだ、と。食べていけないと思っては却っていけない、と。
 ……ファードらしい考え方だ、と思う。
 ファード自身は永久に枯れない常緑樹。だからこそ、動物や雨水の輪廻を語るのだろう――半ば羨ましげに。
 クルスはファードを見上げる。
「……もし枯葉とか落としたかったら、落とせるようにしてやるぞ」
 ファードはくすりと笑った。
『私はこのままでいいわ。このまま……あなたたちの頭上を護って……』

 朝食はクルスと千獣の微笑ましい会話で終わった。
「さて」
 持ってきた干し魚と飲み物が全部なくなったところで、クルスは立ち上がった。
「今日はどうするかな。僕はまだ研究を続行したいところだし……」
 申し訳なく思って千獣を見る。クルスは十中八九小屋で研究に没頭してるから、あまり相手をしてやれないのだ。
 だから千獣はいつも、ファードの足下――もしくはファードに登って、昼寝をして過ごしている。たまに街へ行くくらいだ。
 クルスはあごに手を当てて考えた。彼女が寂しくない方法……方法……
 すると、千獣の方が口を開いた。
「私……なに、か、おつかい、する」
「……おつかい?」
「……研究の、役に、立ちた……い」
「………」
 クルスは千獣の純真なまなざしを見て、微笑んだ。
「じゃあ、お願いしようかな――」

 ++ +++ ++

「……あんなこと頼んで大丈夫だったかなあ……」
 クルスの用件を聞いて、すぐにファードに頭を下げてから森から飛び出していった少女の後姿をみながら、クルスはぽりぽりと頭をかいた。
『……そんなに心配ですか?』
 ファードがつぶやく。
「そりゃあね。あの子はファードに入れ込んでいる――」
『だから、無理だと?』
「……優しい子だからな」
 とりあえず、とクルスは息をついた
「僕が転移魔法も使えるようになってきていて、よかった」

 それからクルスは小屋へ帰った。帰る途中に精霊たちの様子を確かめていくと、皆元気だった。
 いつも不機嫌な暖炉の精霊グラッガをのぞいて。
「………。なんだ? グラッガ」
『お前もいい加減――精霊より人間らしい方を選べよ』
 ぶっきらぼうな青年の声に、クルスはいたずらっぽく笑みを浮かべ、
「選んでいるよ? 少なくとも今は」
『………? お前今、何の研究してやがる?』
「秘密だ」
 それにしても、とクルスは笑った。
「千獣にしても僕にしても不老長寿だというのにな。“人間らしい方”とは不思議な言い方だ」
『………』
 グラッガはしばらく黙り込んだ。そして、早速白衣を着て研究体勢に入るクルスの背中を見、
『……お前らも精霊とかわりがないか』
 クルスは背中で笑った。
「――そうかもしれないな」

 ++ +++ ++

 ――お前らも精霊とかわりがないか。
 グラッガに言われた言葉を思い出す。
 精霊と人間の区別――
 このソーンの世界では、あまりないかもしれない。そもそも人間とは何なのか。
 精霊の定義だってあいまいだ。ただ歴代のクロスエアたちはそう呼んできた。
 クルスも、何の疑いもなく精霊と呼んでいる。
 ――その精霊と一緒、か。
 クルスは何だかおかしくなった。自分は精霊の護り手になりたくて不老長寿になったのに、その結果精霊と同じになってしまうとは。
 けれど――それも悪くない。
 護り手、護り手、と固執しなくても、友人になるのも悪くない。そう、この森に集まってくれる友人たちのように。

 目の前には、こぽこぽと熱湯が泡を立てている。
 火を切る。
 茶こしには、綿密に計算して作った薬草のまぜもの。
 熱湯がよそに跳ばないように気をつけながら、熱湯の入れ物を傾ける。
 茶こしに熱湯がそそがれ、そして――
 魔術をほどこして耐熱となったガラスに、こされた熱湯がこぼれおちてくる。
 ――下に落ちた液体は、薄い桃色をしていた。
 よし、計算通りだ。
 薄桃色の液体を少し冷ましてから、今朝、昨日、一昨日と集めて冷却しておいたファードの朝露を混ぜる。
 よく混ぜる。根気よく混ぜる。
 液体の色が、どんどん色味を濃くしていく。薄い桃色が、さらに濃い桃色に。
 反比例して、液体の量が減っていく。少しばかりねばりけのある液体へと。
 クルスは、よし、と耐熱ガラスの棒でかきまぜるのをやめ、いったんその耐熱ガラス皿を置いた。
 そして部屋の隅にあった桶から水をくみ出し、ボウルへと入れ、さらに魔術で氷を作り出して同じように入れ、そこに――
 耐熱ガラス皿の中の液体を、軽く浮かべた。
 こぼれないよう。こぼれないよう……

『何作ってんだ』
「お前たちには、残念ながら関係ない」
『だろうとは思うけどよ』
 不機嫌そうなグラッガは、そっぽを向きながら言った。『どうせあの女のためだろ』
「勘がいいのはいいことだ、グラッガ」
 ははっと笑ったクルスは、ふと、視線を虚空へと飛ばした。

 ++ +++ ++

 頭の中に、誰かの泣き声が響いてくる。
 いや――誰か、ではない。

 どうしたんだ、千獣?

 千獣と彼のつながりはすでに深くなりすぎた。クルスと他の精霊たちのつながりが強いように。

 どうした? 何が怖いって?
 誰が優しいって? 誰が怖いって?
 癒しの精霊であるファードの傍にいつもいる千獣は、いつも心穏やかに日々を過ごしていた。
 それが急に……なんだ?

 ――……。どうすればいい?

 やっぱりあんな仕事を任せたのが間違いだったのか?
 けれど、知らせたかったんだ。俺のやっていることが何なのか。
 薬草とはどう使われるものなのか。
 無理なら早く帰ってこい。俺が誰より心配するから。
 ――ああ、俺が誰より心配するから。
 ――本当に、キミがいなくては不安だから。
 お願いだ。
 俺やファードの傍から離れようとしないでくれ。
 ファードだってキミを愛している。キミを娘のように愛している。
 俺は、俺はいつだって不器用だから……
 でも考えていることはひとつきりだから、だから、千獣、

 泣き声が聞こえる。赤子のような。

 暗闇の中で少女が頭を抱えてうずくまっていた。

 泣き声が聞こえる。悲鳴のような。

 少女はあたり構わず泣き叫んで――
 そしてふいに、彼女の暗闇に光が指す。暗い光。

 どくん。少女の鼓動が聞こえた。
 どくん。いや――これは彼女のではなく、
 どくん。彼女の中に巣くう――
 どくん!

 ああああああああああああああああ!

 ++ +++ ++

 今すぐ行かなくては。今は研究なんかしている場合じゃない。
 千獣が泣いていた。そして今は――恐らく獣化している。
 千獣、千獣。
 どうか落ち着いてくれ。

 クルスは白衣を脱ぎ捨ててファードの元へ行った。
『クルス……?』
 肩で息をしながら走ってきた森の守護者の青年の姿に、ファードが不思議そうな顔をする。
 クルスは構わず、ファードの幹に触れた。
『クルス、何をするのですか?』
「――お前の傍が一番千獣の気配が強いんだ。だから――」
 ファードの問いの答えにはならないことを言いながら、クルスは息を整える。
 そして――目を閉じた。
 彼の足元に旋風が起こる。ファードはそれを見てすべてを察した。
『気をつけて。どうかあの子も、無事に連れ帰ってきて』
「ああ」
 旋風の中心にいる青年。足元が輝いてきた。
 早く、早く行かなくては。
 ――手遅れになる前に。

 そしてその場の上空についた瞬間、クルスは思い切り重圧系の魔術を千獣を囲む連中にたたきつけた。

 ++ +++ ++

 うまく地面に着地したクルスは、そこにいた異形の存在に顔を向けた。
「千獣、千獣!」
 思った通り獣化している千獣が、ぬぱあと巨大化した口をこちらに向ける。歯はすべてとがり、獲物をかみくだくためにあるようだ。
「………っ!」
 どうしたら元に戻ってくれるだろう。名前を呼び続ければいいか?
 封印魔術なら自分の得意とするところだが……そんな強制的な方法でいいのか?
 ちらっと地面に倒れ付した連中を見ると、どうやらちんぴらとかごろつきと呼ばれる類らしい。
「こいつらに触発されたのか……?」
 しかしそれよりも前に、千獣は泣いていた。苦悩していた。
 誰のせいだ?
 もしかしたら千獣は、その答えを知っていたのかもしれない――
 獣化がまったく解けることなく、むしろさらに爪をパワーアップさせて――
 彼女はその爪を、クルスに向けて振り下ろした。

 鮮血が舞った。

 爪は確実に、クルスの胴体の前の部分を裂いた。
 ――ぎりぎり致命傷は避けたか――
 避けることは最初から考えていない。彼の目的は――
「千獣!」
 こうやって攻撃させた隙に、彼女の体の一部――腕をつかむことだったのだから。
「千獣! 千獣! 千獣!――」
 呼ぶたびに、両腕をからませた千獣の腕がぴくりと反応した。
 千獣は頭を何度も振った。混乱した頭をまとめようとするかのように。
 クルスは千獣の赤い瞳から決して視線をそらさなかった。
 ――真っ赤な炎よりももっと力強い赤。
「俺が悪かった」
 クルスは唐突に言った。
「俺が頼んだことが原因でこんなになったんだろう? 悪かった」
 今の千獣に通じるかどうか――
 それでもクルスは、言葉を終わらせない。
「ただ知っていてほしかったんだ。俺がこういうことをやっているってことを。この先、不意に知られて――嫌われる方が怖かったから……」
 そうだ、卑怯なのは自分の方だ。植物には過敏に反応するだろうことを知っていてやった。
 本当に怖かった。
 隠したままやるのは怖かった。
 まるで、ファードを裏切るかのような行為を。
 ファード自身には、『それも大切なことよ、クルス』と悩みを吐きに行くたびに優しく言われてきたけれど……
 ――血が胸元から脇腹にかけてどろどろと流れている。そろそろ……目まいが……
「く……」
 千獣は泣きそうな声で、その名を呼んだ。
「クル、ス……」

 しゅるしゅると包帯が戻ってきて、千獣の体を人間のものに収める。
 千獣はすぐさまクルスに駆け寄ってきた。
「クル、ス、クルス、ごめん、なさい……」
 少女の華奢な手は血まみれになることも構わず、彼の胸の傷に置かれている。
 千獣の目じりに涙がたまっていく。
 クルスはそれを指で拭き取った。
「泣くな。……キミを苦しめた俺が悪かったんだから」

 ++ +++ ++

 目を覚ましてすぐ、クルスはぼんやりと天井を眺めていた。
 小屋を開ける気配がする。誰かが入り込んでくる気配がする。
 のろのろとそちらに顔を向けると、
「クルス……!」
 持っていた水桶を床に置いて、千獣が駆け寄ってきた。
「……千獣か……」
 クルスは体を起こそうとした。と、腹部に痛烈な痛みが走った。
 ダメ、と千獣は彼の体をベッドに寝かしつける。
「ま、だ。傷、治って、ない」
「………」
 クルスは思い出す。千獣が元の姿に戻った後、自分は気絶したのだと。
 多分出血多量だろう。目まいが激しかった気がするから。
 千獣はクルスを寝かしつけた後、床に放ったままだった水桶をいつもの定位置の小屋の隅に置いた。
 そしてその水桶に手ぬぐいをつけてぬらした後、
「傷口、拭こ、う」
 きゅっとしぼった手ぬぐいを手に千獣はベッドに戻ってきた。
 服の前を簡単に開かれていく。上半身を裸にされる。傷跡はきっちり残っていた。それはいいが……
 千獣に裸を見られるのはなんというか、気恥ずかしい。
 素直に傷口を千獣に任せていると、
『今更恥ずかしがっても無駄だぜ。その女、最初は舐めて治そうとしたからな』
 ……暖炉からグラッガの声。
 いよいよクルスは真っ赤になった。
「どう、した、の? ね、つ?」
 純真な千獣の赤い瞳がなんだかいやにまぶしい……

 ++ +++ ++

 元々不老長寿のクルスは回復が早い。千獣も分かっていたようだ。
 まだ朝と言える時間に獣化した千獣と街でやりあい、その日の夜にはもう起き上がれるようになっていた。
「薬草のこと……やっぱり嫌かい?」
 起き上がれるようになったクルスは、真っ先にそう訊いた。
「………」
 千獣はうつむいた。
「やっぱりだめか……」
 クルスは息をつく。「今作っていたものは、薬草製だからな」
「……な、何、を、作っ、て、た、の……?」
 クルスは立ち上がり、すでに完成していたあのピンク色の少しとろみのある液体を手にした。
 それを半分残して小瓶に入れなおし、
「……キミにあげるために、作っていた」
「私、に……?」
「ついておいで」
 言われるままについていくと、行き先はファードのいる場所だった。
 クルスは千獣の背中をぽんと叩き、
「それを一口飲んで、ファードに話しかけてごらん」
「………?」
 千獣は疑うことなく一口飲んで、ファードに向かい、
「ファー、ド。元、気、だっ、た?」
 今日一日、クルスの看病で傍にいなかったことを詫びようとした。
 すると――
『よいのですよ、千獣』
 千獣が目を見開いた。
 クルスにとっては当然のことが、今、千獣に起こっているはずだから。
『クルスを癒すのは私たち精霊全員の願い。代わりに叶えてくれてありがとう……』
「―――」
 千獣は口をぱくぱくさせた。
 ファードの姿は見えないはずだ。インパスネイト《擬人化》させたわけではないから。
 けれど、ファードの声ははっきり千獣に聞こえているはず。
「一時的に、ファードと耳の感覚が同じようになる薬を作ってみたんだ」
 クルスは成功したことに満足感を感じていた。
「ファード以外の精霊にはきかないし、効き目もあまり長くないけどね――」
 キミに、とクルスは千獣の、小瓶を握る手に触れる。
「キミが喜んでくれるのは何だろうと考えて、……他に俺にはできることがないから……」
「クル、ス……」
 千獣はぎゅっと小瓶を握って、
「ファー、ド」
『何ですか? 千獣』
「ファー、ド、ファード!」
『もう、かわいい娘なんだから』
 千獣の瞳が幸福であふれた。
『かわいい娘。私のかわいい……』
 まるで親娘のようだ。ふわり、ふわりと――

 ++ +++ ++

 その夜、千獣はファードの木の枝の上で寝ることにしたようだった。
「今夜も小屋で1人寝か」
 欠伸とともに背を伸ばすと、暖炉の精霊グラッガが『バカじゃねえの』
 と言った。
『一緒に寝たけりゃそう言えばいい』
「ばかいえ。彼女だって一番一緒にいて嬉しい人の傍で眠る方が幸せだろう」
『……ますますばかだ』
「はあ?」
『お前の鈍感さには呆れる』
「???」
 よく分からなかったが、そのままグラッガが沈黙したので考えないことにした。
「いい夜を過ごしててくれればいいさ……」
 クルスはベッドに座ってから、ふと窓を開けて夜空を見上げた。
 月光が豊かな森に、わずかに光を与えていた――
 美しい夜だ、と思った。
 それよりもずっと輝く瞳を持つ少女が、小屋に向かって走ってきているのも知らず――


 ―FIN―


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3087/千獣/女/17歳(実年齢999歳)/獣使い】

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■         ライター通信          ■
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千獣様
こんにちは、こちらでもお久しぶりです、笠城夢斗です。
こちらはクルス側です。精霊の言葉が出てくるので千獣さんに分からない部分が少しだけ埋まるかと。
両方合わせて読んで頂けると嬉しいです。
よろしければまたお会いできますよう……

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