■【炎舞ノ抄】夜陰■
深海残月
【3434】【松浪・心語】【異界職】
 何でもない夜道の筈だった。
 ただ、その黒い影さえそこに居なければ――その影がこれから何をするつもりなのか気が付きさえしなければ。

 音も無く、夜道を歩く黒い影。
 張らずとも声が届く距離。ふと足を止め、その影は何でもないように声を発してきた。

「…どちらさんだい。おれに何か用かな」

 静かな声が闇の中響く。
 その黒い影の手の内には、密かに人様を殺める為の武器がある。一見そうは見えずとも、それが可能な物がある。こちらはその事に気付いている。
 研ぎ澄まされたその場の空気。例え常を演じようとも。わかる者ならわかる事。

 こちらの位置を計る影。
 それはこちらも同じ事。
 影が兇手を振るうか否かは、こちら――闇の中からの返答次第。

 ――――――…夜道を歩く黒い影は、これから依頼の標的を屠りに行くところ。
【炎舞ノ抄 -抄ノ壱-】夜陰

 いつも通りのエスメラルダの声を聞いてから。
 黒山羊亭を辞した俺は、一人で夜道を歩いている。
 …本日の仕事は黒山羊亭の仲介で得た要人の護衛。
 それを終えて、本日分の依頼完遂の報告も済んだところが今。
 これから帰路に着こうと言うところ。

 暗夜の路地を歩いていると、夜気が肌を刺してくる。
 春めいて来たと言っても、陽が落ちると一気に冷え込んでくるような気がする。
 そのせいか、あまり人の姿も見えない。
 黒山羊亭のあるベルファ通りのような賑やかな場所ならまだしも、そんな一帯を少し外れると――もう人の姿は疎らにしか見えない。明かりも遠くなる。
 俺は今、そんな暗い路地を歩いている。

 …暫く歩いて。
 不意にこちらの前方、同じ方向に進んでいる黒い着物姿の男が気になった。このソーン世界でもそれなりに見掛ける事がある異界風の服装――義兄の普段纏っている服装ともやや近い形の服装、と言えるかもしれない。ただ、義兄のもの程上等な布地ではなさそうだが。作り自体も、もっと単純な単衣物の着流し。
 前を行くその相手は急ぐでもなくただゆっくりと歩いているだけ。歩いているだけなのだから特に気にする必要も無いのだが――何故か気に留まってしまう。
 護衛の仕事の後で感覚が過敏になっているせいか――それとも男の物腰のせいか、はたまたその両方か。
 何となく、只者では無い気がする。
 隠してはいるが、皮一枚の裏側に殺気があるように思えてならない。
 誰に向けての殺気かまでは掴めない――掴める程のあからさまな殺気では無い。あくまでそんな匂いがした気がする、程度の事で、自分のような稼業の者や――もしくは余程感覚が鋭い者でもなければ恐らくは嗅ぎ取れない程度の殺気に過ぎない。
 元々、歩いている方向は同じ。
 だからと言って今歩いているこの道に続く場所は幾らでもあるが。…ここを歩いているからと言って目的の場所が特に限定されるものでも無い――俺と何か関わりがあるとは限らない。
 けれど、この男が――帰路に着こうとしている俺と同じ方向に歩いている事もまた、確か。
 その時点で、警戒の必要が無いとは言い切れない。
 男から一定の距離を維持して歩き、この男の事を確り見定めようと試みる。
 何を持っている風でも無い手ぶらの姿。
 …に、見せかけている姿。
 実際は手ぶらどころか何かを懐に呑んでいるような――隠し持っているのは仕草でわかる。
 自分は稼業柄、必然的に敵は多い。
 だから何をするにしても何処に行くにしても、警戒は怠る事はできない。
 自分にとって無害であるとわかるまで、気を抜く事はできない。
 …いや、もし全くの無関係であっても、その剣呑な気配に気付いてしまったそれだけで、敵視されてしまう可能性だって無いとは言えない。
 元々疎らだとは思っていたが、周辺にはいよいよ人の姿が無い。
 厄介な事にならなければいいのだが、と思う。
 思ったところで、不意に前方を歩く男の足が止まった。
 まずいと直感する。
 …男が足を止めた理由は、俺だ。
 厄介事を呼び込んでしまったかと悔やむ。…ここは気に留めてなどいないで放っておけば良かったか。
 思っている間にも声が掛けられる。
「…どちらさんだい。おれに何か用かな」
 掛けられた声を聞き、やはり失敗したと思う――これは、気にせず放っておけば俺にとっては無害なままで済んだ相手だとこの時点でわかってしまった。
 だが今となってはもう、遅い。
 こうなれば、努めて刺激しないようにしなければと思う。
 ひとつ間違えればどうなるか、予断を許さない。
 空気が緊張するのをぴりぴりと感じる。
 更に感覚を研ぎ澄ます為に一度瞼を閉じ、開く。同時にさりげなく呼吸も整える。
 それから、口を開いた。
「……人に名を訊ねるのなら…まず貴殿から名乗るものでは……?」
「まぁそうだ。でもその前にな――後尾けられちゃあ声の一つも掛けたくなるってもんだろ?」
「……後を尾けたつもりは無いのだが……」
「初めはな」
 …やはり。
 恐らくは俺がこの男の気配に気付いた――意識に入れた時から、この男の方でもこちらの存在を意識していた事になるらしい。
 警戒し過ぎるのも善し悪しだとしみじみ思う。
 まぁ、性分である以上仕方が無いのだが。仕事帰りで敏感になっていた以上に、もっと根本的な理由として――戦う為に生み出された戦飼族であるが故、と言う部分もあるかもしれない。…臨戦態勢に近いと思しき、敵味方の判断が付かない見知らぬ戦士の姿を近くに見付けてしまえば――警戒はしてしまって当然だ。
 男はこちらを振り向きもしない――こちらの姿を確認する誘惑を抑え、振り向く隙すら作ろうとしない。
 …次の行動に移るのが重い。どう出るべきか――どう動くべきか何を話すべきか。ほんの僅かな加減で、今の均衡はいつでも崩れる。
 下手を打てば面倒な事になる。
 どうする。
 …考え抜いて、決めた。
 実行する。
「…松浪、心語と言う」
 名だけを知らせる。
 余計な警戒を払う為。
 そして余計な情報を与えない為に、それだけを。
 ほんの僅かだが、空気が変わる。
 …悪い方向にでは無い。
 名を名乗る事は、こちらが先に己の手の内の情報を一枚晒した事にもなる。
 俺の名を聞いた時点で、男の気配の流れが――ほんの僅かだが状況は改善したように思えた。
 当然、まだ楽観は出来ないが。
 …俺の名乗りを受け、着物姿の男が口を開いてくる。
「おれのこたァ、ただの影法師とでも思いなよ」
「…こちらは、名乗ったが」
「名前なんぞどうでも良かったんだが」
「そうか。…余計な事を言ったようだ」
 …ここが正念場。
 この男は得物を懐に呑んでいる。
 いつでも揮えるように持っている。
 それは幾らか警戒が緩んだと思える今でも何ら変わりは無い。
 けれど僅かな余裕が出来てはいる――ほんの些細な行動で事態が急変する程の緊張は消えている。
 その事を認めてから、俺はまた口を開く事をした。
 このくらいならまだ、状況には響かない。
「…疲れているので帰らせてもらう」
 仕事の帰りなのだ。
 そう含んで、極力この男を刺激しないように――そのまま何事も無かったように再び歩き出す事をする。止まっていたところから同じ方向に。男に近付く形になる。戦意は見せない。けれど気は抜かない。残っている微妙な緊張。先程までよりはまだましだがそれでも全く無くなった訳ではない。男は立ち止まったまま。気配は変わらない。俺は歩いている。少しずつ男の背が近くなる。…体格では明らかに自分が劣る。この男はどれだけ動ける。仕草から判断する限り油断は出来ない。…もし何か仕掛けられたらどう動く。いや仕掛けられたらと考える事自体が相手の更なる警戒を呼ぶ。けれど万が一がある。二段三段に構えなければ動けない――何も考えないでいてはただ普通に歩き擦れ違おうと試みるだけでも躊躇ってしまうと自分でわかる。…こればかりはどうしようもない。仕方無い。
 足を止めない。急ぎもしない。
 ただ普通にそれまで歩いていたのと同じように、着物姿の男の脇を、擦れ違うようにして通り過ぎる。
 擦れ違い様、視線が向けられたのがわかった。
 けれど反応はしない。
 しない事で――そのまま背を見せ歩き続ける事で、敵意や戦意が無い事を示す。
 着物姿の男は動かない。こちらを追って来る様子も無い。
 ただ、視線はそのまま。ずっとこちらを見ている気配はする。
 擦れ違って数歩進んでも――幾らか離れても、それは変わらない。
 向こうもまだこちらを意識している。
 不意に、それまで感じていた着物姿の男の気配が消えた。
 否、消えたと言うより――何かを切り換えるようにふっと稀薄になる。稀薄になったかと思うと――先程までのような皮一枚の裏側にでは無く、間違いようの無い研ぎ澄まされた殺気が背後で一気に膨れ上がっている。殆ど反射の領域で危険と判断、そのまま地面を蹴り逃げる事を考える――これから自分に届くだろう攻撃にまともに応ずるより逃げる事を選択。振り返る事は考えない。相手の気の探知で事足りる。それだけで相手の動きも攻撃の筋も読み取れる。避けられるだけの余地はある――と。
 思ったが。
 実際に逃げようと地面を蹴る直前になって、相手の殺気の矛先が自分で無い事に気が付いた――矛先となっている新たな存在が二つ接近して来ている事に気が付いた。そちらもこの着物姿の男同様、只者では――少なくとも素人では無い気配がする。そしてその二つの気配もまた、着物姿の男へと殺気の矛先を向けている事に気が付いた。
 気が付いた時点で今度ばかりは状況を直に目で見て確認する事が肝要と判断、来た道を振り返る――俺が振り返るのと、着物姿の男の側でそれまでは影も形も無かった筈の二人が崩れ落ちるのがほぼ同時。今は着物姿の男は俺に背を見せている。位置関係からして俺を見送った背後から二人が来たのだろう。俺を注視していた段階では、着物姿の男にとっても背後だった方向から襲われた――そして瞬く間に返り討ちにした、と言う事になる。
 …一口に只者では無いと言ってもどうやら役者が違ったらしい。
 返り討ちにしたばかりの態勢。腰を落とした低い姿勢を取っている着物姿の男の手に抜き身の匕首がある。
 今の間で揮われた――瞬く間に二人を屠った、それ。
 着物姿の男も改めてこちらを振り返ってくる――俺を見る。
 状況確認の為振り返り、今の仕業を見届けてしまっていた俺と目が合う。
 前後して、新鮮な血の臭いが鼻をついて来る。
 崩れ落ちた二人は動かない。
 その二人の――恐らくは傷口や流れる血から、闇の中淡い湯気が立ち上っているのさえ見えた。
 疑いようも誤魔化しようも無い目の前の光景。
 慣れた仕草で握られた、まだ抜かれたままの、血に染まった匕首の刃。
 こちらを見る、着物姿の男の――感情を殺した酷薄な目。
 …今度こそ、避けようが無いかと俄かに覚悟する。着物姿の男が二人の気配を見てから動くまで、片を付けるまでの今のごく短い間。それだけの動きを的確にこなせるとなれば余程の手練。目撃した俺がこのまま逃げたとして、あっさり逃がしてくれるとは思えない。目撃と言う事実はその時点で俺の口を封じる理由を相手に与えてしまっている事にもなる。
 が。
 着物姿のこの男は、何故か――それっきり俺から興味を失ったように目を逸らしつつ、無造作に得物の血振りを行っている。それから、襲撃に対応する為低く取っていた姿勢を元の通りに戻している。
 と、思ったら。
「――夜霧慎十郎」
 いきなり、それだけ言葉が紡がれた。
 先程まで聞いていた――話していたのと同じ声。
 聞き間違いかと一瞬思う。
 けれど確かに、それは今この男の発した科白で。
 響きからして名前だと思った。
 この場合なら、この着物姿の男自身の。
 …意外だった。
 ただの影法師と思え。…嘯くようにそう出て来られるのならば、名前は隠したままで通すと思った。
 なのに今になって伝えて来た。
 それも、殺しの現場を見られた後になって。
 …何を考えている?
 思っている間に、夜霧慎十郎と名乗ったその男は――たった今揮った得物を鞘に納めている。
 刃を以って人を殺した直後の者特有の、血に酔い昂ぶる気配が微かに感じられる。
 ただ、その昂揚した気配はすぐに抑え込まれ、消された。…すぐにその気配を消せる事で、この男はこういった事に慣れている者だともすぐにわかる。…日常の一端に「これ」がある。
 鞘に納めた匕首自体も懐に仕舞われた。
 かと思うと、ごく自然な所作で着物の衿を整えている――その時点でまるで何事も無かったような態度に戻っている。
 力を抜くように、軽く溜息を吐いていた。
「礼儀、だろ」
 溜息混じりで、それだけ紡がれる。
 思わず目を瞬かせてしまう。
 …それは、まぁ。
 こちらの名を聞いた以上は、自分もまた名乗るべき…と言う事なのだろう。
 だが。
 こんな場面でそう来るとは思わなかった。
 至極真っ当な言い分だからこそ、こんな場面では却ってそぐわない気がしてしまう。
 着物姿の男――夜霧慎十郎は今はもう先程までのような警戒をこちらにぶつけて来るような気配は無い。
 …そう認め、もう一度正面からその姿を見直し確認する――そうは言っても見ていたのは瞬きする程度のごく僅かな時間の事になる。それだけで俺は元向かっていた方向に向き直り、慎十郎に背を見せる。…相手は既に刃を鞘に納めた。ならばわざわざこちらで構える事も無い。今死体になっているあの二人が現れる前までの状況に戻っただけと思えばいい。…少なくともその姿を見る限りでは、向こうもそうするつもりでいると見た。
 俺はもうこれ以上付き合う気も無い。死体が出た以上は余計。巻き込まれては堪らない。新たに来た二人が何者であるのか、あっさり殺した事に何か特別の理由があるのか。背後を歩いていた俺に対しての警戒もそこに絡んでの事だったのかそれとも違うのか。…単なる通りすがりの俺にはわかる由も無いが、だからと言ってわざわざ詮索する気も無い。詮索は命を縮める。余計な事は知らないに限る。
 ただ。
「…覚えておくのと忘れるのと、どちらが良いだろうか」
 名前。
 まだ改めて歩き出さない内。背を向けた状態で、それだけは確認しておく。
 言葉でか行為でか。どんな『答え』がこの男から来るかでこの先の判断が本当に付けられる。…名前の事ではなく今見た光景の事と受け取られるかもしれない。もしくは両方を兼ねて受け取られるかもしれない。…どちらにしろ、それもまた判断材料になる。
『答え』を待つ間の、やけに長く思えたほんの僅かな空白。
 男の気配は変わっていない。
 軽く息が吸われた。
 次に言葉を発する予備動作。
「忘れてくれ」
 …発された『答え』はそれまで通りの声だった。
 内心で密かに安堵する。
 二人を殺した後、名乗りながらも刃を納めた。そんな意外な真似をして来た時点で恐らくはこう来るだろうと思ってはいたが、臨戦の場面で予断は大敵。…夜道で出遭い今に至るまで。これまでに得た僅かな情報だけで、こうするだろうああするだろうと言い切れるものでもない。
 俺は背を向けたまま、男の『答え』に肯じた。
「…わかった」
 それだけを残して、俺は今度こそ歩き出す。
 程無く、慎十郎の――いや、着物姿の男の視線が俺の背から逸れる気配がした。
 同刻。
「じゃあな」
 着物姿の男の声が届く。
 ああ、とだけ受ける。
 …お互い、それだけで事足りる。
 足は止めない。
 そのまま歩いて行く。
 今度こそ、着物姿の男の気配が急変する事も無かった。それまで通り。変わらない。そうは思ってもまだ気は抜けない。警戒を怠る事はしない。着物姿の男のこの気配が完全に消える――とまでは言わなくとも、せめてある程度は離れてからでなければこちらも気を抜いてはいけないと思う。…この着物姿の男がすぐさま動ける間合い。少なくともそこから外れるまでは、まだ。

 ごく短い別れの挨拶を交わし、歩き続けて暫し後。
 今度こそ確実に離れられたと思ったところで、漸く息を吐く。
 もう、着物姿の男の気配は遠い。
 そこまで来てから、気持ちを切り換える。

 …俺と同業か、何か近しい生業の男。
 そうは思ったが、それにしても――妙な奴だった、とも思う。

 ソーンの中心と言われるだけあって、この聖都には様々な者が居るらしい。

【了】

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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

■PC
 ■3434/松浪・心語(まつなみ・しんご)
 男/12歳(実年齢19歳)/傭兵

■NPC
 ■夜霧・慎十郎

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          ライター通信
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 松浪心語様には初めまして。先日お兄様にはお世話になりました。
 今回は発注有難う御座います。
 …当方、依頼系では長文になりがち&目一杯作成日数上乗せの上に納期ぎりぎりになり易いライターではありますが、宜しければどうぞお見知りおき下さいまし。
 今回もまた土日除けば納期前ぎりぎりになってしまっている訳ですので…大変お待たせ致しました。

 初めましてと言う事で、PC様の性格・口調・行動・人称等で違和感やこれは有り得ない等の引っ掛かりがあるようでしたら、出来る限り善処しますのでお気軽にリテイクお声掛け下さい。…他にも何かありましたら。些細な点でも御遠慮なく。

 ノベル本文ですが、特に後半、何だか色々と余計な事にもなってしまっております。
 プレイング外になってしまった気がするところは、PCデータを見る限りの松浪心語様ならこういった反応をしそうかと思った形に描写させて頂きました。…但しお仕事や生い立ち、と言うか種族がやや特殊である事もありますので、それにしては言動が若干甘かったり見当違いになっていないかとやや心配ではあったりしますが(汗)

 夜霧慎十郎からは何故か微妙に変な対応をされていますが(松浪心語様のPCデータ内の何処かの部分が理由だったりしますが)、如何だったでしょうか。
 少なくとも対価分は満足して頂ければ幸いなのですが。

 では、また機会を頂ける事がありましたら、その時は。

 深海残月 拝

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