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■真夜中の仮面舞踏会 序章 《業火》■

工藤彼方
【7038】【夜神・潤】【禁忌の存在】
ある夜のことである。
都内にある、とある小さなオルゴール博物館が火が出た。
その時間帯は、当然、博物館は閉館しており、セキュリティも作動していたはずだった。防犯カメラのデータにも、不審者の姿は映らなかった。
火の手の勢いは強く、小さくも5階建ての建物は全焼。
100年から200年前に作られた、アンティークのシリンダーオルゴールやディスクオルゴールたちが悉く失われたのだった。
だが、その事件のあと、博物館の人たちは首を傾げたのである。
建物の焼け跡からは、黒くなった陳列台やドアが発見されるばかりで、炭になったはずのオルゴールたちの残骸はただの一片も発見されなかった。
木が燃えて灰になったというのはわかる。
だが、金属製のシリンダーやディスクまでもが姿を消しているのは何故だ?
まるで建物から忽然と姿を消したように。

そして消えたのは、オルゴールばかりではなかったのである。
博物館には、オルゴールを体内に仕掛けられた人形たちが陳列されていたのだ。

手紙を書く道化師。

物憂げな表情でアコーディオンを弾く男。

花籠を抱えて薔薇を売る花売りの少女。

そう、彼らもまた――。
真夜中の仮面舞踏会 序章《業火》

【―1―】

午前2時。
都心の夜は意外に早い。
新宿や渋谷、池袋などの中心街こそ不夜城と言っても過言ではないが、飲食店などの商業施設の少ない下町においては終電の時間も過ぎれば灯りはまばら。とうに眠った自動車モデルルームやオフィスビルに囲まれ、コンビニの無機質な灯りのみが夜闇にぽつんと浮いている程度である。
下町とはいえ、狭い敷地から危うげに伸びる高層マンションは、深夜の闇色をさらに濃くする。
終電も終わり眠りについた高架橋のたもとに、それはあった。
両隣のビルに窮屈そうに挟まれた、暗がりの中にほの白く浮かぶ細長いビル。
元来はとある愛好家がアンティーク・オルゴールの芸術とその価値とを人々に知ってもらいたいという願いから、長年かけて集めたコレクションを展示していたごく小さな店舗型のショールームだった。それが時代を経る間に、人も変わり、建物も新しくなり、博物館という形を取るようになったという。
昼には近隣の住人たちが散歩の合間の憩いを求めて訪れて茶を服し、またあるいは、都内を観光する団体客たちが訪れて、100年も200年も以前に作られたオルゴール――自動演奏機の荘厳な音色に耳を傾ける。

ゼンマイを巻く。
巨大な羅針盤のごとき鉄の円盤が、ゴォという唸りを起こして回りだす。
円盤――ディスクに刻まれたピンが音階の形に歯を並べるコームを弾くたび、古き佳き時代の反映を誇るかのよう、煌びやかに、重厚に、時に軽やかに、そして豊かに、その調べを「今」という時間に復活させる。
昔の家庭電話の傍らに見られた受話器を置くためのオルゴールなどとは比較にならない音色の芳醇さ。
とうに鬼籍に入っている古い時代を生きた異国の人々が、このオルゴールの音色を聞きながら踊り、歌い、語り明かした様子を思い浮かべて情緒に浸る。
そんなひと時を楽しみたい人々にとっての、都心の小さなオアシスとも言えるオルゴール博物館。
その博物館から火の手が上がったのは、町も深い眠りについた真夜中のことだった。



【―2―】

春の柔らかな闇の中を、ただ一台、滑るように走り抜ける車があった。
闇に紛れようにもその艶やかさは紛れようがない黒塗りのマクラーレン・ロードスター。強く優雅な曲線を描く漆黒のボディに、道脇に並ぶ街灯のオレンジ色の光が次々に流れ落ちていく。
夜神潤は、シートに深々と身を落ち着け、ステアを片手に握り、カーオーディオから流れるクラブ・ミュージックを聞くともなしに聞いていた。
窓の外に過ぎ行く街道沿いの景色は暗色に染められている。
歩道の人気はおろか、対向車線を向かい来る車の影もひとつとしてない。
若干奇妙な感覚に陥る潤を乗せて、車は交差点を右折した。
すると、前方に小さく、真昼のように明るい一角があった。
目を凝らすまでもなく、それが勢い凄まじく炎を上げて燃える建物だと潤は一瞬にして悟った。
「なんだあれは…」
炎が夜闇よりも黒いオーラを纏ってビル全体を包んでいる。
アクセルを踏み込む。マクラーレン・ロードスターのエンジンが唸りをあげ、加速する。「嫌な予感がする!」
潤はビルの前に車を止めた。
黒光るガルウィングを跳ね上げて飛び降り、迷わず焼け爛れたビルの入り口へと走る。
牙をむく炎を見つめる潤の漆黒の瞳にも、炎の影が揺らぐ。
潤が対抗する者であることを知っているのか、炎があぎとを大きく開いたの見て、潤は舌打ちした。
「意思を持つ炎か! 煩いッ」
駆けるままに、胸元へと手刀の形に構えた手を引きつける。
扉へと飛び込む瞬間に、構えた手を横に払いざま、拳を作った。
何かを握る形に作られた拳には、――不可視の存在を見ることができる者が見たならば、身の丈ほどもある大振りの白銀の鎌が見えたことだろう。
「我が意の僕、我が意を以て、あれなる炎を…喰らえッ!!」
潤は大鎌を振るい眼前の炎を横一文字に斬り払う。
大鎌の切っ先が炎を食い破り、そして切り裂いていく。
薙ぎ払われた炎は灼熱の突風を巻き起こし、飛散する。
「中もこんなか…!? いったい、何が…!」
潤は吹き付ける熱風から顔を庇いながら、払われた炎をともに黒く大口を開けたドアへと飛び込んでいった。
その後を、しかし、まるで何事もなかったかのように、荒れ狂う火炎が再び入り口を塞いでいったのであるが――。



【―3―】

ビルの中は惨憺たる有様だった。
熱にはがれ落ちた瓦礫で足の踏み場もなく、もはや博物館だったのか病院だったのかマンションだったのかもわからない。潤は眉をひそめた。
「これは酷い…。ガラスはおろか鉄までをも溶解する炎、か…。普通じゃないな…。いったいなぜこんな火災が…?」
潤は眉間に意識を集中させる。この場に何があったのか、物質の中に記憶され残留する過去の映像をリーディングしようという試みだ。
目を瞑ると、暗い視界に炎が現れた。
炎の中に映ったのはすでに燃えている博物館の姿だった。
(違う…。もっと――もっと前の時間の…)
潤がリーディングへの意識を強めると、ふたたび、しかし先ほどとは異なる映像がぼんやりと浮かび上がってきた。
人の、姿。
(…誰か、いる…。もっと――だ。もっと、俺に見せろ…)
ぼんやりとしていた人の姿が、次第に輪郭を鮮やかに象りだす。
赤、緑、紫と、色とりどりのドレスを纏った貴婦人たち。そして紳士たち。
(おまえたちの姿を、もっと――)
潤の眉間に、苦しげな皺が刻まれる。
ベネツィアのマスケラのような柄つき仮面を握るレェスの手袋。
広間の高い天井には貴人たちの笑い声が響く。
葡萄酒のグラスを舐める貴婦人の唇。彼女の顔も仮面に覆われて見えない。
手と手を取り合い、円を描いて踊る貴人たちはやがて、広間の両脇に退いて頭を垂れた。開けた視界の奥、そこに潤が見たものは、金細工を施された重厚な椅子に座る、二人の――
「あなタが哀れなオルゴールたちヲ焼いた放火魔、デシタカ」
背後から聞こえた声に、潤はリーディングに集中させていた意識を解き、とっさに身構えた。
「誰だ?!」
見れば一方の壁面に波紋が生まれ、その中心から掌が一つ突き出ていた。
見る間に肘までが現れ、二の腕が現れ、肩が現れ、そして壁は男の姿を生み出して、波を収める湖面のように静かにもとの堅牢な壁の質感へと戻った。
壁の中から現れた黒衣の男の姿に、潤は身構える。
「俺は放火魔じゃない。おまえは何者だ。」
「あァ…この建物に火をつけたのは貴方ではナイ、と。それはツマラナイ。イえ、失敬。」
「ということは…? おまえは何者だ。」
壁から現れた男が火災の元凶ではないらしいことを知った潤が三度目の問いを向けると、男はバトラーの如く胸の前で手を組み合わせた。
「…ただのサラリーマンですヨ。――名は、デリク。あなたハ?」
値踏みするかの眼差しを、デリクは潤へと投げた。
潤はそんなデリクを見返し、眉を上げて、一言。
「俺は…夜神潤。」
無表情にたった一言のみを返す潤を、デリクは笑った。
恭順の意を示すように胸に手を当て、身をわずか屈めて見せる。
「――Heil,yagami. …潤と呼ばせテ貰いまスよ」



【―4―】

「…というわけデ、私ハ単に通りすがっタだけだったノでスがネ」
疾走する二人は炎一色の前方を見つめたまま、互いに顔色も変えず、口早に言葉を交わしていた。
「デリクが通りすがっただけなら、俺も通りすがっただけだ。ただ、――《闇》の匂いがした。」
看過ごすわけにはいかなかったと首を振る潤は、デリクと共に炎が螺旋を描いて道しるべを作っている廊下を駆け抜ける。
燃えてバラバラになり、焼け杭を突き出したようになっている額縁、階段の手すり。倒れた陳列棚。崩れ落ちた壁材。装飾の施された柱。
瓦礫が高く積み上がった廊下は足の踏み場もない。
「デリク、ここにはいくつ部屋があるんだろうな。外観からして、それほど大きな建物でもないはずだが…。まあ、普通でないと考えるべきか…」
「デすネ。おそらク、空間が捩れていルのでショウ」
デリクが腕時計を見ると、文字盤の中で時計の針が目にも留まらぬ速さで逆方向に回っていた。
「あァ。時間も、でショウかネ。」
「さながら迷宮、ということだな」
「ja」
奥へと誘うように走る炎に導かれ、二人も走る。
と、廊下の行く手に現れた光景があった。
抜け落ちた床と、対岸とも言える向こう側に堆く積みあがった瓦礫の山。
元々細く天井も低い廊下のことである、山となった瓦礫の上と天井との間に大人ひとりが腹ばいになって抜けられるかどうかの隙間しかない。
潤は持ち前の跳躍力で床を蹴り、床の抜けた穴と瓦礫とを軽々と飛び越えた。そして、天井との間にある僅かな空間へと身を滑りこませていく。
しかし、デリクはそうもいかない。掌の魔方陣の力で空間を歪ませ、辛うじて火炎を防ぐ事は出来ている。対岸の瓦礫も、空間を歪ませる事でどうにか抜けることは出来るだろう。だが、いかに空間を歪められても、足場が無いのは少々辛い。大きく開いた穴――6メートルもあろうか――を助走も無く軽々飛び越えるというわけにはいかなかった。
デリクが少々難儀しているのに気づいたのか、振り返った潤が、顔色を変えて叫んだ。
「デリク!! 後ろを見ろ!」
言われてデリクが肩越しに背後を見返るのと同時、それは聞こえた。
廊下奥からの爆発音。
壁面から伝わってきた振動が、デリクの足下をぐらつかせる。
そして、廊下の奥からやって来たのは爆音だけではなかった。
廊下奥から黒煙を巻き込んで迫ってくる、火の玉の如き火炎の塊。
「オフィーリア!!」
潤が右肩を叩いた。
そこに、ぼう、と現れたのは闇色の翼を持つ鳥、オフィーリア。
長い尾を揺らし、主人たる潤の頬へと嘴で口付ける。
潤はオフィーリアを乗せた右手の甲を頭上へと掲げた。
「行け! 行って、デリクの助けとなれ」
オフィーリアは高らかに鳴き、翼を広げた。闇色の翼が寸時に影のように広がり、一尋もあるそれへと変じる。
巨大な魔鳥は風を起こして羽ばたき、潤の肩を離れると滑るように飛翔して、デリクの傍らへと戻っていった。
「デリク、乗れ!」
デリクの足下に降り立ち背を差し出すオフィーリアに、デリクは苦笑した。
「ヤれやレ…借りが出来てしまイましタ」
デリクがオフィーリアの背に身を伏せ、首を捕らえるや、闇色の鳥は飛び立った。
背後から迫り来る炎よりも速く、鳥は翔け上がる。
デリクは、飛ぶオフィーリアの身体のしたに黒々と口を開けている穴を見送って、そして、滞空すべく羽ばたくオフィーリアの背から潤のいる瓦礫へと手をかけた。
瓦礫を赤く燃やしていた炎は今は無い。オフィーリアの力で魔性の炎はかき消されたようだった。
潤が、デリクの手首を掴んで強く引き上げる。
だが、廊下を埋め尽くして突進してくる火球もまた迫っていた。
デリクは視界に唸りを上げる火球を認めて、潤の胸を突き飛ばす。
「うっわ!!」
潤が悲鳴を上げた。
潤に手首を掴まれていたデリクも、諸共に瓦礫の向こうへと転がり落ちる。
そんな二人の頭上、瓦礫と天井の間に出来た隙間から、破裂した炎と熱風が吹き出した。デリクは潤へと覆いかぶさり、目を瞑って炎と熱風とをやり過ごす。
「…大丈夫、でス?」
「ああ…。」
膝を払って潤は髪をかきあげた。
「貸し借りはなしだ。」
デリクの独り言をどのようにして知ったのか、潤がそう呟くのを聞いてデリクは笑った。そして、そんな二人の傍らへと舞い降りたオフィーリアが、静かに翼を収めたのだった。


【―5―】

「困ったな…」
そう呟いたのは潤だった。
「どうしましタ?」
「このビルは外から見た時、5階ぐらいはあったように見えた」
「つまリ、上の階に上がル術が無い、ト…?」
「ああ。エレベーターが潰れているのは当然として、階段が見当たらない。あっても良さそうなものじゃないか? 空間歪曲の術が働いているとしても、『歪んで』いるだけのはずだ。そうであれば、元あったものが無いということはない。どこかにはあるはずだ。非常階段であれ、な。それが、外に出る扉も見当たらない。先刻からどれだけこの中を走っているのかも、俺にはもうわからない。こんなことは、そう滅多にはないはずなんだが…」
「気が合いマスねェ。私にもわかりませン。…魔性…というより、何でしょうカね、…私ハ狂気を感じまスよ。空気かラ、ネ。…客観的に、冷徹に計算しテ構築されタ魔術が働いてイるのではなク。」
デリクは何度も通った気がする廊下を駆けながら、僅かに首を捻った。
潤は目を細める。
「狂気。――荒ぶる魂の暴走、…か?」
デリクは頷いてみせる。
「ともかク。この階だけを回っテいてモ埒がないデショウ。ホラ、向こうニ、エレベーターらしき扉が。潰れているナラ潰れていルで、そノ吹き抜けヲ利用しテ上に上がルことモできマせんカネ」
デリクが指差す先に、焼け焦げて塗装も溶け落ちたエレベーターの扉らしきものが見えた。堅く閉じたそれを見て、潤は頷く。
「ああ」
そして二人は走り出した。



【―6―】

エレベーターのドアはもう目前に迫っていた。
「デリク! 行くぞ!」
「えエ」
潤は、エレベーターの扉を怪力を宿すその腕で打ち破るつもりだった。
だが、その時。
エレベーターの脇と上にある、上下階行きを指示するボタンと、停止階を示すランプ。
それらが点滅し始めたのだ。
「何っ!?」
潤は自分の目を疑った。デリクも息をのむ。
もやは電気系統がまともに働いているとは思えないこのビルのエレベーターが生きているとはどういうことなのか。
停止階を示すランプは5階で点滅を始め、4階、3階、とゆっくり降りてくる。
中には誰かが乗っているのだろうか。
ダッシュの勢い余ってエレベーター脇の壁にバンと手を突いたデリクが、ランプを見上げてゴクリと喉を鳴らした。
「来ま、スよ…」
2階。
そして、――1階。
潤が身構える。
ガァン、とエレベーターとは思えない轟音を上げて、それは止まった。
そして凄まじい勢いで開いた扉の中から二人の前に現れたのは、不気味なまでに膨れあがった、白く、笑う、仮面。
少なくとも二人にはそう見えた。
身構える間もなく、中から白い仮面をつけ、黒い衣装を身に纏った男女が飛び出してくる。「うわ! なんだ!?」
潤の顔を舐めんばかりに迫った仮面の貴婦人を、すんでのところでデリクが空間を歪ませ、散らした。
それでもあとからあとから飛び出してくる仮面の貴婦人、仮面の紳士。
二人の視界が、舞踏会のドレスと仮面に埋め尽くされる。
エレベーターホールが男のものとも女のものともつかぬ哄笑に包まれた。
「キリがないっ!! デリク、頼む!」
「仕方なイ、でス、ねェッ!!」
デリクと潤がそれぞれに空間を歪ませ、また切り裂き、仮面の貴人たちを異次元に吸い出し――。
高らかな笑い声を上げるままに仮面の貴人たちがデリクの生み出した異次元空間に吸い込まれ、また、潤の空間断絶によって飛散したあと。
潤とデリクは広い空間に佇んでいた。
焼け落ちるのを免れた天井に窺える反響板の形から察するに、演奏ホールと思しい。
「エレベーターの前に、イた、はずなンですがネ。」
「何だか彼らに思いっきり弄ばれている気がするよ…」
苦々しく呟く潤を横目に、デリクはホールの中を見回した。
聴衆が座る客席。
装飾豊かに施されたアンティーク・ピアノ。
教会の尖塔に載るカリヨンを小さくしたかの模型。
それらの狭間に、デリクはあるものを見つけた。
抱えられるほどの大きさの円柱を、輪切りにしたような形の台座である。
その上には、木で出来た小さな書き物机と椅子が据えられてあった。
辛くも火からは免れていたようで、天板の隅が少し黒く煤で汚れている程度のそれ。
机の上には、ランプが一つと、書きかけらしき便箋が一枚。そしてインク壷とペンが置かれている。そして、椅子を見れば、座面に小さな穴がいくつも開いているではないか。
「……何デしょうネ…? まるデ、人が座っテいタようナ…。」
「デリク、これを見ろ」
潤の声にデリクが振り返ると、潤の指差す方向に、今度は小さな看板の載った台座があった。花屋の店先で見かけるような、足のついた看板である。チョークで花の絵が描かれており、看板の足下には藤蔓で編んだ花籠がおいてあった。
それらを載せた台座の上面にも、小さな穴はいくつも開いていた。
まるで、それらの穴に刺さっていた何かが抜けたかのように。
「潤、あちラにもありまスよ」
見れば、先に見た二つの台座に似た形の台座が、もうひとつ、少し離れたところに置いてあった。その上にはこれまた小さなアコーディオンが一台。
そして、ひっくり返った中折れ帽がひとつ。
帽子は生まれたての赤ん坊がようやく被れるほどの、実に小さなものだった。
潤が帽子の中を覗き込んでみると、中には外国の硬貨を真似たような硬貨が3枚。それから同じく玩具の紙幣のような札が一枚。摘んでみると、どれも帽子の底にしっかり接着されていて離れない。
デリクが花籠が設えてある台座を持ち上げ、底を覗き込んだ。
「ゼンマイがあリますネ…。仕掛けのあるオルゴール、といっタところデしょうカ」
「机に、花籠に…アコーディオン…。あちらの机には人形が座って手紙を書いていたのだろう。花籠があるということは、花売りか? ともかく、あちらの台座にも人形がいただろうし…このアコーディオンも、主がいたはずだ。これはさしずめ、街角のアコーディオン弾きを模した人形、といったところかな。しかし、台座だけ残して上の人形だけが無い、とは…。ここに火をつけた者たちに奪われたのか…。」
「さァ…? 今まデもオルゴールらしキものハありませンでシタから、そレらト同じなノでハ? でスが…、ナるホド。この建物の中で花売りノお嬢さンが迷子になってイルというわけデスカ…。それハそれハ、さぞカし怖い思いをシテいることデショウ。私、デリク=オーロフが探し出しテあげなけレバ。――さしあたッテ、先ほド襲ってきタ仮面のご婦人あたりニ聞いテ見まスかネ。――潤、私は先に行きマすヨ」
そう告げて走り出したデリクだったが、返事どころか身じろぎすらしない潤に気づいて再び足を止めた。
見ると、ホールの中の一点を見つめて潤は佇んでいた。
「何をしていルのデスか。うかうかしテいルと火が回っテしま…」
言葉をしまいまで言えなかったのはデリクだった。
もぬけの殻の台座からは少し離れたところ、それまで崩れ落ちた天井の残骸に阻まれて死角になっていたホールの奥深く。そこだけ避けたように、壁を舐める炎から切り取られている暗い片隅があった。そう、まるで黒色のスポットライトでも落ちているかのように。そこにあったのは、厚いビロウドが張られ金細工で装飾された、玉座。
そこに座る者の姿は無い。
潤はデリクの声にも気づかない様子で一点のみを見つめている。玉座の据えられた一点を。「…リーディング…でスか」
デリクは薄らと目を眇める。
デリクも、魔術教団では名の知れた男である。潤が使う能力にも、さすがに察しがついた。「後ほド情報をいただキますかネ…」
暢気に呟いたデリクの視界の端に、目にも留まらぬ速さの閃光が過ぎったのはその時だった。
とっさに横跳びに飛び退ると、耳元を風の音が切っていった。
見ると、長身の人影が躍り上がってデリクへと銀色の円盤を投げつけてくるところではないか。
飛んできた直径40センチほどの円盤を、すんでのところでやり過ごす。
円盤の主を探すと、少し離れたところで涙を一滴垂らした仮面の男が、スペード模様を散らした道化衣装を身に纏い、デリクを見つめていた。
デリクを襲った円盤が、ブーメランのように道化の手へと帰っていく。
膝を突いていたデリクは足下の床を思い切り叩いた。
「"影"!!」
デリクの足下に落ちていた影が、とたんに歪み、伸びて床面を侵略しだした。
黒インクをこぼした様に広がった影は、厚みを帯びて、瞬く間に獣の形へと凝固していく。見る間に影は、車ほどの大きさの獣へと変じた。
四足の爪を床に刻み、咆哮を上げて跳躍する。
獣の向かった先は、道化。
黒い獣が、大きな口を開け、牙をむき、真紅の舌から涎を垂らして頭を振りかぶる。
道化は片手に持つ円盤を振りかぶり、獣の額を割らんとする。
道化の円盤が獣の額に食い込み、獣の額から黒い靄のようなものが噴き出した。
「甘いッ!!」
デリクは両手の魔方陣を翳し、獣の額を割った空間へと向ける。
魔方陣から生まれたプラズマがデリクの両腕を覆い、掌の先から発されて、獣へと走った。「あるべき物ハ、あるべき形に! 我が命ヲ受けて戻レ!」
デリクの僕たる獣は二つに割れた影を元のように一つの身体に戻し、そのまま床をひと蹴り。飛びのこうと跳んだ道化の下半身をがぶりと喰らう。
小さく息をつき、ふん、と小さく鼻を鳴らしたデリクだったのだが。
獣の口の中に収まらずに胸元を覗かせたままだった道化が、胸元に手当てて深々と辞儀をするのが見えた。
(……?)
訝るデリクの視界に、しかし、またもや突如、大写しで現れた影があった。
ヴィクトリア朝風の帽子と外套に身を装った男。彼もまた、黒い仮面で顔を覆っている。目の前に立ちはだかった黒仮面の男が、デリクが避ける間もなく、首を跳ね飛ばす勢いでその腕を伸ばした。
「!!」
黒仮面男の腕を阻んだのは潤だった。
「デリク! 危ないっ!!」
デリクを押しのけ、潤が黒仮面男の腕を掴み、ねじり上げる。
その潤の頭のすぐ近くを、風を起こしてアコーディオン弾きの男のもう片方の手が掠めた。鋭い爪でも持っているのか、断ち切られた潤の黒髪が空に散った。
「オフィーリア!!」
潤の叫びが場を貫く。
間を置かずして、潤の頭上に現れた闇色の鳥が高らかな鳴き声を上げ、大きく羽ばたいた。オフィーリアは、黒仮面男の身体を鷲づかみに掴もうと爪を開く。
二歩、三歩と退った黒仮面男は、床を蹴り、跳躍しながらオフィーリアの胸を貫かんと腕を突き出した。
「"影"!!」
デリクが叫んだ。
道化を口に咥えた黒い獣が、宙を舞い、中空を駆ける黒仮面男へと体当たりを喰らわせる。跳ね上げられた黒仮面男の身体をがしりと掴んだ爪があった。
オフィーリアのものだった。



【―7―】

デリクと潤の僕に捕らえられた二人――道化と黒仮面男は、顔から仮面を外した。
能面のように表情の無い白い顔をした若い青年と、眉間に物憂げな皺を刻んだ中年の男だった。
それを見て、潤は思わず声を上げた。
「おまえ達が、あのオルゴール人形だったのか…」
彼らオルゴール人形を探していたのは、デリクだけではなく、潤も同じだった。
潤はリーディングした記憶を手がかりに彼らの姿を探していたのだが、先刻見た台座の大きさからして、もっと小さな人形だと思い込んでいた。
よもやまさか、人間と等しい大きさ形をして、さらに歩き回っているとは思わなかったのだ。
「おまえが、あの手紙の机の…で、おまえがアコーディオン弾き…なんだな…」
いささか驚愕を禁じえない様子で呟きを漏らす潤の後ろで、
「とスるト、ですネ」
灰に塗れたスーツを払い、デリクが身を起こした。
「花売りのお嬢さンは、ドチラなんでショウかネ?」
すると、二人のさらに後ろで、小さく応える声があった。

「――はい。ここに。」



【―8―】

デリクと潤が見返ると、小柄な少女が街娘風のスカートの端を摘み上げて深々とお辞儀をしていた。
「お二方…どうぞあなたがたの御名をお聞かせくださいませ。」
細く小さな声だった。
娘の灰色のガラスのような瞳に見つめられ、デリクと潤は顔を見合わせた。
「俺は、潤。」
「私はデリク、ですヨ、お嬢サン。」
見ればデリクはいつの間にやら花売り少女の白い手を取り、焦げ付いた指先へと口付けを落としている。いつ敵意をむき出して攻撃してくるかもわからないものを、さすがと言えばいいのか、潤はそれを見て口の端を引き上げていたのだったが。
白い陶製の頬に涙をひとつ垂らした長身の道化が、不意に潤たちの前にひざまづいた。
胸に手を当て、面を伏せる。
アコーディオン弾きがもまた、ひざまづいて深々と頭を垂れた。
道化が言った。
「デリク殿、潤殿。貴方がたはお強い。どうか我々の願いを聞き届けて頂けまいか」
深々と頭を下げたままそう言う道化の声は、澄んでいた。
アコーディオン弾きが、道化の後を受けて、言葉を続ける。
「我々はこの博物館に眠っていたオルゴールです。訳あってこの博物館はこの通り、炎に喰われつつあります。こうなってしまっては最早我々の手には負えません。どうかあなた方のお力を貸しては頂けませんか」
皺嗄れた声には、熱意さえ感じられた。
潤は、困惑して問い返す。
「それで、俺たちは何をすればいい。もう、時間もないだろう? この建物が持ちこたえられるのもあとどれだけか…」
そう言って潤は背後で爆発音と共に崩れ落ちる天井を見返ったのだが、
「いいえ」
遮るように口を開いたのは道化だった。
「たしかにこの火は尋常のものではございませぬ。無論、触れるものを溶かし、貴方がたを害する炎ではありますが、この建物の中は時間の流れが歪んでおりますれば…。やがてはこの建物をも燃やし尽くすでしょうが、すぐには。デリク殿も潤殿も、その歪みについてはゆくゆくお分かりになる筈にございます。今はただ、これらの炎が、心を燃やして生まれた炎である――とだけ。」
「心を燃やして?」
「さようにございます。」
畏まる道化の言葉に、アコーディオン弾きもまた畏まった。
「デリク殿、潤殿。御覧になったのではありませんか。これらの炎が孕む幻を。そして、二つの玉座を。」
潤は黙り込んだ。
たしかに見たのだ。
ここへと至るまでの間、リーディングに念を入れていた潤には見えた。
先刻の反応からして玉座自体はデリクにも見えたのだろうが、潤にはさらに見えたものがあった。
空の玉座に重ねるように、亡霊のように透けた姿が見えた。
金色の冠を抱き、重たげなガウンを纏った白髪の老人。そして、同じく冠とガウンを身に纏い、ドレープ豊かなドレスで着飾った女。細い身体をしていた。
(――身なりからして明らかに、王と女王。)
潤はそう見ていた。
「なるほど。玉座の主がこの火事の鍵…ということか。」
「我々にも確たることはわかりかねますが――おそらくは。我々は既にこの建物の中を探したのです。あの玉座から消えてしまわれた御方を。ですが、我々には行き着けないところがありました。」
「5階の収蔵庫の扉のみが開かぬのです。」
「5階…」
潤は、先刻のエレベーターを思い出した。
「収蔵庫…デスか。開かなイ…。言葉通り鍵デモかかっていルのでハ?」
「我々もこのような身でありますれば、鍵のかかった扉など造作もありませぬ。ですが、我々の力を以ってしても開かぬのです。そうこうしている内に、こうまでも火の手が回り…」
道化が無念そうに首を振った。
潤が見えない5階を見るかのように天井を仰ぐ。
「デリク。おまえはどうする。」
デリクは考え込むように腕を組んだ。
足元を見れば花売り乙女が折れそうな手を伸ばし、デリクと潤のスラックスの裾を両手にそれぞれ握っている。潤の顔を不安そうに見上げていた。
「私は――このお嬢さンのオ願いヲ聞き届けたいデスがネ…。さァて、どうしまショウか。」
花売り乙女の金色の髪は、毛先を火に焼かれたのか、焦げて縮れていた。
痛々しく乱れた髪をデリクの手が撫でる。
潤とデリクの前に、王に仕える家臣のごとく、頭を垂れる道化とアコーディオン弾きの姿があった。
どうか、力を貸してほしい、と。
そして、二人は見たのだった。
彼らの後ろに、音も無く紫紺のオーラを揺らめかせる空洞が開けるのを。
――そこには、階段が。
潤とデリクの行く手を示すかの如き階段が、出現したのだった。



<序章―了>





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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3432 /デリク・オーロフ / 男性 / 31歳 / 魔術師 
7038 /夜神・潤     / 男性 /200歳 / 禁忌の存在
NPC/花売り乙女    / 女性 /???/ オルゴール人形
NPC/アコーディオン弾き/ 男性 /???/ オルゴール人形
NPC/手紙を書く道化師 / 男性 /???/ オルゴール人形

(※受注順)

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■         ライター通信          ■
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序章への参加、ありがとうございました。
いかがでしたでしょうか、工藤です。
まずは、潤さんの車を勝手に描いてしまいましてすみません。
潤さんには黒くて大きいスポーティーな車が似合いそうだ!と
思ってしまったらもう、出さずにはいられなかった…です。
それと、潤さんは割合やわらかい若者口調なのかなと思ったのですが、
今回の工藤版ではややアダルトを目指してみました。
もし宜しければ、第一章にもご参加くださいませ。

<第一章のプレイングについて>
第一章では、三人の人形たちと共に行動する事になります。
第一章で人形たちから過去の話を聞き、第二章で一緒に行動する人形を
三人の内から一人選ぶ、という流れになります。
ので、プレイングには人形たちから聞き出してみたい事を書いてみてください。