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■アトリエ村の日々■

しもだ
【7061】【藤田・あやこ】【エルフの公爵】


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atelier village   first
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a part daily life




 駄菓子屋「ラムネ」の運営を祖母から引き継いだ形で任された廣谷は、今日も、午前十一時頃に店を開ける。
 古めかしい木のドアを開き、あらかたのお菓子の補充をしたりカップ麺などの食料品の棚の埃を清掃したりする。それが終わると、未舗装の砂利道に出て、軽い運動をする。腰を曲げ、背を伸ばし、新呼吸をして、丘の上に伸びていく道を、暫し、眺めた。
 村は、独特の匂いを持っている。小学校の時に始めて嗅いだ「図工室」の匂いに似ている。絵の具や油や木工用ボンドなどの科学的な匂いと木や土の自然の匂いが混じり合い、鼻腔にざらざらとした粉っぽさを残す。
 道は、小高い丘に向い、ゆるゆると曲線を描きながら伸びている。時折緩やかに折れ曲がり、途中の林に点在する奇抜な色や形の屋根へと続いていた。赤や黄色や緑といった鮮やかな色の屋根もあれば、コラージュのように様々な色が細々と重ね合わされた屋根もあった。
 とある町のとあるトンネルを抜けた先に広がるこのサイケデリックな色味の村の名は、通称、芸術村。またはアトリエ村と呼ばれる。
 若いアーティスト達が何となく集まった密集地に、どこぞの暇人の金持ちが目を付け、別荘を建てたのが最初なのか、金持ち達の別荘地に意気揚々と若いアーティストが乗り込んだのが始まりなのか、そこには芸術家達だけでなく、新しいもの好きの資産家や好事家の別荘もまた、見える。
 丘の上には近代的な様式の建物がぽつん、と静かに、佇んでいる。文化会館と村の人々に呼ばれるそれは、まるで麓に立つ全てを監視するかのように見下ろしている。いつもと変わらぬそんな風景を何となく眺めて、廣谷は、店の中に戻る。
 本などを読みながらぼんやりとしていると、そこで生活をする若者達が、寝起きの顔で買い物に来る。物凄い寝起きの顔ですけど、朝ご飯というかもう昼ごはんですよね、むしろ昼ごはんにしたって遅いくらいですよね、と毎回心の中で思っているが、別にわざわざ言うほどの事でもないので、黙っている。
 自分だって大柄な方ではないけれど、やってくる人の中には、骨と皮みたいにやせ細った人が居て、今にも倒れそうな気配でラムネを買って行ったりする。
 いやいや、ラムネよりもっと食べるべきものありますよね、と、物凄い思っていそうな顔でお金を受け取っているが、廣谷がそれを口に出して言ったことは、まだない。
「お菓子ばっかり食べてたら絶対体壊しますよ」と、自分もお菓子ばっかり食ってるくせに、毎日お菓子を買いに来てくれる絵描きのお兄さんを見て考えたりし、けれど、お菓子を買ってくれる人が居ないと生活が成り立っていかないのも事実であるので、またどうぞ、などと、あんまり言わないけど言ってみたら、相手が物凄いぎょっとしたので、逆に、ぎょっとした、とかいう日のことを思い出していたら、今日もそのお兄さんがやってきた。
 ぺこ、と頭を下げられたので、下げ返す。
「いらっしゃいませ」とか、こそこそ、言った。


  ■■


「例えばこういうシーンの演出って結構、悩みどころっていうか」
 煙草の煙を吐き出しながら、脚本を指差し、桐山は言った。「だからもうバンって割っちゃうとかこう入ってきて、次のカットではもうっていう」
 吐き出した煙が、屋上に流れる風に乗って、空の彼方へ溶けていく。
「あー」
 隣に並んだ椅子に深く腰を据えていたキャスル・テイオウが呻くように言い、頭上を見上げた。両手を預けていた肘掛け部分を、指でトントン、と打つ。
「それか何かいい手、ありそうですかね」
 脚本から目を上げることなく言った桐山が、煙草の灰を、二人の間に置かれたテーブルの灰皿へ、落とす。
 視線を上げて相手の反応を、窺った。
 すいませんがあれは何処のやくざですかっていうか殺し屋さんですか、っていうか、あれ? 悪魔ですか? というような風貌の男は、ぼーっとしたような目で全く違う方向を見ていたが、ふとこちらに顔を戻すと、小首を傾げた。
「いやちょっと出ないですね」
「まあ撮影入るまでまだ全然日があるんで、もうちょっと考えてみますけど」
 先程までキャスルが見ていた場所に居る、一人の少女と一人の青年の姿を何となく視界の端に捕えて、また脚本に目線を落とした。
「っていうかもう脚本からちょっといじった方がいいのかな」
 思わずそんなことを呟いてみたら、隣のキャスルがえ? とか言ったので、むしろえ? みたいな感じで見つめ返した。
 そのうち彼が「あ、何でもないですよ」とか言ってくれるのを期待して相手任せにしていたら、どうやら相手もそのうち相手が言うだろうなあくらいの勢いで待っていたらしく、気付いた時には、何だか大の大人が二人見詰め合っているんですけどこれは一体どうしたら、というような不自然な状態になっていた。
 こんな人間という人間を蹂躙しにきた気難しく厳しい悪魔巨体の悪魔のような風貌の男と見詰め合ってる俺ってすごいよな、っていうか、この人が本気で殺し屋だったら俺はたぶん次の瞬間は生きてないよなあ、というか、でもレンズ越しに見るよりちょっと華奢に見えるよなあというか、何かいろいろ考えてたら、「何で私のことものすごい見てるんですか」と、キャスルがやっと言った。
「今ちょっと思ったんですけど」
「新しい話とかになっちゃうんですね」
「キャスルさんて」
「はい」
「改めて見ると、何かもうすごいおっそろしい顔してますね」
 向かい合った二人は何だかちょっと無言で見詰め合った。しばらくしてキャスルが「はい」とか、頷いた。「はいそうですね、よく言われますね」
 あ、そこでそんな風に頷くんですね、と思ってみていたら、それじゃあ私はとりあえず頷いておきますから、言いだしっぺの貴方はこのすごいどうしようもない感じを責任とってなんとかしてくださいね、みたいな感じで見つめ返された。
 桐山は何だかもう負けた気がした。
「誰のためにもならないようなこと言ってすいませんでした」とりあえず素直に謝っておいて、台本を閉じ、テーブルの上に放る。椅子に背を預け、大きく伸びをした。
「でもそれ面倒臭くないですか」
「それ? どれですか?」
「髪の毛。長いといろいろ面倒臭いんじゃないかと思って、似合ってますけど」
 以前一緒に仕事をした時には短かった深紅の髪が、肩にかかるくらいの長さに伸びていた。次にやる役で必要だったかららしい。面倒臭いので放っていたら伸びてきたんですよ、とでもいうような、無造作に枯れたようなイメージがある。
「廃墟で黙々と次の依頼待ってる殺し屋みたいですか」
「でもこの人、自分で髪の毛とかちゃんと乾かせないよ」
 そこで少し離れた場所で遊ぶ少女の傍で椅子に腰かけ本を読んでいたレンジが口を挟んだ。「そんな不器用、殺し屋だったら失格だよね。機械との相性もあんま良くないし」
 本に目を落としたままの格好で、自分の皮肉に唇を歪める。キャスルは悪戯を叱られた子供のような顔になり、俯く。
「壊れるんです。普通に使用しているだけなのに。何故でしょうか」
「ドライヤー壊し記録、絶賛更新中ですか」
「普通に使用してると思ってるところに罠がある仕様」
 するとそれまで我関せずといった呈で屋上のコンクリートの地面にチョークで落書きをしていた赤い髪の少女が、呪文みたいなレンジのその言葉に反応するようにして、顔をあげた。子犬が、人間には良く分からない気配を感じ取って、はっとするのに似ている。あ、それ何の呪文ですか、とか思ってそうな顔で、青い目のどこか日本人離れした顔立ちの少女は、椅子の上のレンジを見た。
 レンジは、読んでいた本の影から、ちらっと彼女に目を落とす。
「なによ」
「いまの、なに」
 久しぶりに喋ったからか、前半部分は声が掠れていた。
 口元がちょっと閉じきっていないような、油断しきった表情で、じーっと尚もレンジを見上げている。
「え、なにって、何よ」
 何を考えているのか良く分からない、むしろ何も考えてないかもしれないような顔で、彼女はレンジのことを見つめていたが、何よって言われても別に何もないですよ、もういいですよ、むしろどうでもいいですよとでもいうように、興味をなくしたかのように顔を背けると、また地面に絵を描き始めた。
 時折、顔にかかってくる長い髪をうっとうしそうに、かきあげる。
「一週間でドライヤー二つとか壊してくるしね」
 レンジはピースを作って桐山を見た。「腹立つでしょ、ドライヤーだってタダじゃないんだからさ」
「また見るからに量が多くて堅そうですもんね、なかなか乾かない感じですよそれ」
「だからもうこの人にドライヤーとか使わせちゃ駄目なんだって気付いて、最近は触らせてないわけ」
「あ、そこ気付くまでにものすごい時間かかったんですね」
「なあ、アーリ」
 レンジの声に少女はえー、と無防備な間延びした声で言い、ちょっぴり面倒臭そうに振り返る。
「ちょっとこっちきて」
 手招きされて、アーリは自分の描きかけの絵とレンジを見比べた。「んー」と、気だるげに立ち上がり、とことこと歩いてくる。
「ね、見て見てこの七分だけパンツ可愛いでしょ、このお尻のラインとか。こないだ買ったの、このTシャツと一緒に」
 今何でそんな話したんですか、とか、っていうかえ? 私そのために呼ばれたんですか、とか、何かあそこの二人もそうでもないっていうかまあ普通みたいな顔してますけど私に責任ないですよね、とか、微妙な空気になったら貴方責任とって下さいよ、とか何か、そんなことを考えてそうな居心地の悪そうな顔で、アーリはもじもじとする。
 可哀想なので、別にその服は普通と思っていても、普通ですねとは大人として言ってはいけない気がした。
「あ、可愛い」
 それで頑張って口にしてみたら、びっくりするくらい棒読みだったので、何より自分が一番びっくりした。その場にいた全員が、不自然に、沈黙する。わー何かこれどうしたら、みたいな雰囲気になっている屋上に、集合住宅の下の歩道を走りぬけていく自転車の、カチャカチャとかいう走行音が響いた。
 気付いたら、犯人はお前ですよね、みたいな目でレンジがこちらを見ていた。
 そうそう犯人は貴方ですよ、というような目で、キャスルもこちらを見ていた。その娘のアーリも、あ、犯人の方ですよね、というような目でこちらを見ていた。
「棒読みですいませんでした」
 何かもうその団結力には絶対勝てない気がした。
「アーリ、髪の毛やったげる。絵描いてていいよ」
「いや何か本当に可愛いと思ってたのになあ、おかしいなあ」
「アーリの髪の毛は本当、お父さんと違って柔らかいよね」
「んー」
 またお絵かきに夢中になっているらしいアーリはどこか気のない返事をする。レンジは慣れた手つきでその美しく長い深紅の髪を、頭の上部にぽんとまとめた。「アーリも量は多いよね。遺伝かね」
「レンジさんはほんとに手先が器用ですよね」
「俺はそういうの、得意だからね。そこのごつい人と違って」
「とか言ってますけど」
「私は仕事で忙しいものですから。彼がアーリの面倒を見てくれて助かります」
 キャスルが娘を見る瞳にはいつも、得体のしれない生物を観察しているかのような畏怖や、憧憬が滲んでいる。「私と彼女は正真正銘、血の繋がった親子ですが、時に彼の方がよっぽど彼女のことを分かっている時がある。残念ながら」
「娘が可愛くて堪らないのに、残念ですね」
「全くです」
 断言しておいてキャスルは少し恥ずかしげに苦笑した。酷薄そうなその顔に、初恋の相手を告白する少年のような淡さが過る。「可愛がりたいんですけどね、私の好みで買って帰ったものは、だいたい、彼女の好みと違うんですよ」
「びっくりするくらい可愛い玩具とか、こんなん着て学校行けませんよ、みたいなふりふりの服とか買ってきたりするしね、この人」
「だけどアーリは優し子ですから、私に付き合ってくれるんです」
 自らを恥じるように情けない笑みを浮かべ額をかく。
「母親は何も言わなくても娘の気持ちを察するものである。父親は、説明したとしても娘の気持ちを理解できない生き物である、そういうもんなんですよ、たぶん」
 何だこの人可愛いなあ、と、何だかたびたび思っているようなことをまた思いながら、桐山は言う。
「全く」
 洒脱に言って、肩を竦める。「可愛いと思うのとは別の次元で、私は彼女のことがわからないんですよ。細かい心情の機微を察してあげられない。私は、疎くてガサツな人間ですから」
「頭で考えるからだよ。理屈臭いよね、この人本当に。やんなっちゃう」
 軽快に笑いながら言ったレンジが、また本を開く。
「それにしても、村山くん、遅いですね」
 はいはい、とでもいうようにキャスルはレンジの言葉を聞き流す。それこそ年老いた母親の小言を聞き流す息子、というのに、似ている。
「そうですねー、もしかしたらスタジオ寄ってんのかもしれないですね」
「スタジオ? 画家の、彼が?」
「あ、今度一緒に仕事するんですよ。CGのシーンであいつの絵を使うことになって」
「へえ」
「まあとりあえずもうちょっとしたら、先に始めちゃいましょうよ」
 桐山は顎をしゃくって、屋上の中央部分に置かれたバーベキューセットを指示した。「アーリちゃんもお腹すいてきたかもしれないし」


  ■■


 畳の上に投げ捨てられた包装紙が目についたので、ゴミ箱を引っ張ってきて、捨てた。
「だからさ、何か、絵諦めて、実家帰るって」
 廣谷は何となく沈んだ声で言い、また目についた、スナック菓子の袋を丁寧に折りたたんで、ゴミ箱に捨てた。「何か、折角軌道に乗ってきたとこなのに可哀想だって思うでしょ」
 ちゃぶ台の傍で寝そべりながら、冊子のページを繰っている女性の姿を見降ろす。
 彼女は自分の傍らにストックされてある棒状のお菓子の袋を一つ取ると、冊子から殆ど目を背けることなく、その封を開けた。畳の上にぽろぽろと食べカスを落としながら完食すると、包装紙をまたぽい、と、畳の上に投げ捨てた。
「あの、聞いてる?」
 その投げ捨てられたお菓子の包装紙を手元に手繰り寄せ、ゴミ箱に落としながら、上目使いに、彼女を、見る。
「ふん、聞いてるよ、何かもう超びっくりだよね、あの芸人が結婚しちゃうなんてさ」
「びっくりだけどそんな話はしてないよ」
「え?」
 そこでやっと歌川百合子は雑誌から顔をあげた。「あれなに? あの結婚の話じゃないの?」
「もう、いいです」
 不貞腐れたような表情で言って、百合子の頭の上でお箸が刺さった状態のまま放置されている水あめの瓶を乱暴に掴む。「これ水あめ食べないなら捨てるよ」
「あ、駄目駄目まだ食べるもん」
 慌てた様子で、水から上がってくるトドのような体勢で水あめの瓶を奪い返す。「だから分かったって。話ちゃんと聞くから」
 胡坐をかいた格好でぐるぐると水あめをかき混ぜながら、「いいよ、話して」とか、言う。
「あの絶対何かもうそれ、水あめに全部持ってかれてる気がするんですけど」
「聞いてる聞いてる」
 廣谷は、いや明らかに聞いてないですよね、物凄い今、冊子見てますよね、みたいな目で暫くの間百合子を眺めていたが、従姉のそのような態度は良くあることだし、聞きたくないと言ってるわけではないので、もう一度説明してみることにした。
「だから前に言ったでしょ、ここにさ、何か、結構毎日くらいお菓子買いに来てくれる絵描きのお兄さん居るって。その人が」
「あちょっとねえ、これ、見て見て!」
 またいつの間にか、アトリエ村内で発行されている、フリー情報冊子に目を落としていた百合子が、今までのだらけっぷりが嘘のように機敏な動きで起き上がった。開いたページを指さした。「これこれ、何か漠然とそそられる! あたしが探してたのはこういうロマンなの!」
 まあそうだと思ってたんですよ、どうせ、聞いてないと思ってたんですよ、というような表情で廣谷はその開かれたページを見る。映画監督の桐山とかいう男と、画家の村山とかいう二人組の特集をした記事だった。今度、一緒に映画を作るらしく、そのセットがどうだとか何だとか、書かれてある。
「ああそう」
 差し出された雑誌を振り払う。「はいはいわかりました」
「あ、なにそれ」
「百合子ねえちゃんさ」
「なによ」
 百合子が上目づかいに、廣谷を見上げる。
 ジャージ素材のパンツとよれよれのTシャツや、手垢で汚れた眼鏡のレンズや、一つに纏め髪留めで留めているものの、ぐっちゃぐちゃに跳ねた長い髪の毛を見て、ため息が出た。「もういいよ」
「分かってるよ、友達の画家の新居くんでしょ」
「聞いてたの」
「トシなあ」
「なに」
 百合子は何だかとっても意味深な視線で廣谷を見たが、ふと興味をなくしたように「なあんでもなあい」とか言いながら、首を左右に傾けた。
「そんなだらしない格好してる奴に、意味深な目で見られたくないんですけど」
「ここいいなあ。行ってみようかなあ。あ、見学可だって! ううう、そそられる」
「確か、この駄菓子屋にも二度くらい来たよ。顔、知ってる。あ、この村山薫とかいう画家の方はそういえば昔、ちょっと話題になったよなあ」
「話題? 何、電撃結婚とかで?」
「いやもう結婚は引っ張らなくていいよ」
「なになに何で話題になったの」
「村山薫の絵は呪われてるって」
 廣谷はとっても言いたくなさそうな顔で、言った。「また百合子ねえちゃんが好きそうな話題だよね、怪奇とか呪いとかB級映画とか」
「あたしはその人を小馬鹿にした表情の方が気になるんですが」
「見学できるならしてきたらいいじゃない」
「絶対私のこと、馬鹿にしたよね」
「百合子ねえちゃんなあ」
 廣谷は、何だかもうとっても残念なものを見るような目で、七歳年上の従姉を眺める。「いい歳こいて、ロマンとかさ。もう二十九歳だよ」
「ああ何か最近、耳の調子が本当に悪い、どうしよう、何も聞こえない」
「だいたい、仕事はいいわけ? 世話係っていうか、秘書っていうか、雑用係っていうか、何か、そんなんなんでしょ、そんな奴が休んでいいわけ? 困るんじゃないの、その人」
「病院行った方がいいかなあ、参ったなあ」
「まさかまたクビになったとか言わないよね」
「え? クビ? いや、なってないよ、クビにはなってないよ!」
「聞こえてるみたいだから病院行かなくていいんじゃない」
「私がさ、あんまり頑張ってるもんで可哀想になったから、休暇を与えてくれたんだと思うのね」
「与えて、っていうか、催促したんじゃないの」
「催促なんてしないよ。あー疲れた、とか、あーしんど、とか、気付いたら言ってただけだよ。仕方ないじゃない、口癖なんだもの」
「優しい人で良かったよね」生温かくほほ笑んでみる。「今度の上司はね」
「信頼関係だよね、あたしだって、本当はちょっと、頑張ってるんだもん」
「うん、っていうか、聞こえないとか今時、子供でもやらないと思うのね、二十九歳の大人が、何やってんの」
「二十九、二十九って、私はまだ今年で、二十二歳だよ!」
 うわあ、とか得体のしれない叫び声をあげて、座布団で頭を覆う。
「なんてな」ばた、と仰向けに寝がえり、ため息を吐き出した。「ほんと、やんなっちゃうよね、もうじき三十だよ、やってらんないよ」
「お茶、飲む?」
「うん、ありがとう」
 ちゃぶ台の上に置いてあった急須で入れて貰ったお茶を一口飲み、水面をのぞく。
「昔は自分のこと器用だと思ってたんだよね、何か、勉強とかもそこそこできたしさ、そこそこで生きてたら別に誰も何も言わなかったし。むしろ、歳の割にはしっかりした子とか言われて」
「大人なんてだいたい、表面でしか子供見てないしね」
「年齢って怖いよね、どんどん社会が厳しくなってくる。前は許して貰えてたことが、歳聞くと許して貰えなくなったり。それでやっと気付くの、あ、あたしそんなしっかりした人間でもないな、って」
 んーとか、頷いた廣谷が、ずずずと茶を啜ったり、する。「わかるよ」
「そう?」
「ここにはそういう人がたくさんいる。進んでる人もいるけど、置いてけぼりになってる人も。時が進んでる自覚ない人っていうのかな。俺も二十歳すぎてからの二年早かったしなあ。え、もう二十二なの、みたいな。え、もう二年も経ったの? みたいな。何かちょっと、焦るよね」
「親も歳取ってくるし」
「んー」
 また茶をすする音が部屋に響く。
「この歳でそんな大した人間でもないことに気付いちゃってさ、多分あたし、今の仕事なかったら発狂してたよ。迷路の中で発狂だよ」
「良かったね、いい人と出会えて」
 すると百合子は、エヘヘ、と照れくさそうにはにかむ。
 七歳も年上のくせして、自分だってもうやらないような、悪戯に成功した子供のような顔をまだしている。たぶん、こういう顔を可愛いなあ、と、その雇用主の男は思うんだろうなあ、と思う。それで、ついうっかり甘くなってしまうんだろうなあ、と、思う。
「楽しい?」
「うん、まあ、楽しい」
「だろうね」
「楽しい気分の人の横でそんな何か、憂鬱な顔でため息とか吐くのやめてほしいんですけれども」
「ごめんね」
「だって仕方ないじゃない、新居君だっけ? 自分で決めたんだし、あたしら言いようないじゃない。他人なんだし」
「知ってる」
 廣谷は緩く笑って、急須と湯呑みをお盆の上に片づける。
「さてと、じゃあ僕もそろそろ行こうかなあ」
「え、何処行くの」
「病院、ほら、こないだ貧血で倒れたって言ってたじゃない。ビタミン剤、処方して貰ってるから」
「ふうん」
 またうつ伏せに寝転がった百合子は、足をぶらぶらと交差させる。「お菓子ばっか食べてるからじゃないの」
「だからあのあれ、観に行くのいいけど、裏口の鍵、閉め忘れないでね。店は閉めていくから」
 台所へとお盆を下げる廣谷の背中で、「はいはい、わかりましたよ」とか、呑気な声が聞こえた。



  ■■



「だからボクが見たのは、赤かったの。めちゃくちゃ赤いの」
「いや赤? いや赤とか見たことないですよ」
 広瀬はカルテにペンを走らせながら、曖昧な笑みを浮かべた。小首を傾げる。
「それたぶん、紫とかだったんじゃないんですか」
 顔をあげて、ベッドの上に座るレディ・ファウストを、見た。
 ファウストは、ささと、目線を逸らし、明後日の方を見る。肉付きの薄い背中を丸めて、膝の上に肘をついた。
「しつこい男だなあ」
 付き合ってらんないなあ、全く、とでも言いたげに、明後日を見てぼやいた。「ボクが赤いといったら赤いの。っていうか、ボクが赤いと言ったら紫のものも赤くなるの」
「うんまあ紫のものは紫ですけども」
 またカルテに目線を戻し、続ける。「それ長谷川さんにも言ったでしょ。あれ何か長谷川さんがこないだそれ何か写真撮れとか言われたつって、B地区うろついたって」
「なに、ハセガワ、来たの」
 え? とか顔を上げると、またファウストはささ、と目を背ける。
「い、いやハセガワ来たのかなあ、とか思って」
「来たら、駄目なんですか」
「べ、別に駄目とか言ってないじゃない。来たのって、聞いただけだよ」
 近所の可哀想な子供の出方を見守るような広瀬の視線の前で、悪戯を誤魔化す子供のような顔でエヘヘとか、意味もなく笑う。
 今は無造作に束ねあげられている量の多そうな赤い髪の毛が、本当に量が多そうだったので、病気なんですか? とか思う青白い横顔を見ていたら、重たくないのかなあ、とか、思わず、心配する。
「はい、来ました」
「あ、あれ何かどうしよう、めっちゃ見られてる」
「最悪作らないとだめかなあとか愚痴ってましたよ」
「わかってないなあ。作ったら意味ないんだよなあ。作っちゃ駄目だよ」
 拗ねたような表情でこちらを見た彼は、目が合うと、瞬時に、おっと、まだ見てたんですね、とでも言いたげに視線を逸らす。エホンとか何か咳払いして、傍らにあった雑誌を手に取り、絶対読む気ないですよね、というような手つきでページを繰る。
「ボスが赤いの見たとかしつこく言うから」
「見たもん」
「しかもそれ、写真撮ってこいとか言うから」
「記念に残したいじゃない」
「自分で行けばいいのに」
「ボクはボスだよ。MASAの総帥だよ。ボスが部下を使って何が悪いの、いや全然悪くないですよ、別に」
「あんな無駄に広い敷地を無駄に歩かせて」
「無駄じゃないよ、宝探しじゃない。わくわくするじゃない」
「時間の無駄ですよね、見つけたからって意味ないし」
「ボクが喜ぶ」
「ねえ」小刻みに頷きながら、「本当そうですよねえ」とか、いい加減な相槌を打って、「本当もうびっくりするくらい、馬鹿な上司ですよねー。こういう上司の下で働くと苦労するんですよ、可哀想に」
 くるっと椅子を回転させ、デスクに向かう。カルテ記入に戻った。
「あ、ヒ、ヒロセくん?」
「はい」
「え、な、なんか、怒ってる?」
「別に」
「お、怒ってるんでしょ? エヘヘ」
「怒ったりしませんよ、どうせ無駄だし。僕はね、無駄なことは嫌いなんですよ」
「でも、怒ってるでしょ」
「しつこい」
「お、怒って」
「ってーかうざい」はき捨てるようにぼそっと呟かれた言葉に、ファウストは、びく、と身体を揺らす。
「う、うざ」
「うざいついでに、もうここにちょいちょい遊びに来るのとか本当やめて頂けますかね。僕も忙しいんですよ」
「アトリ、アトリエ村には、うちの絵画部門研究施設があるから、遊びに来るなとか言われても、む、無理だもん」
「いやもうアトリエ村には勝手に来たらいいじゃないですか。僕が言ってるのは、乗り物酔いで毎回来る度にここに運ばれてこないでくださいってことなんですけどね。薬、飲んでくださいよ。処方してんですから」
 ファウストは、涙を堪える子供のように口をすぼめ、俯く。
「いや泣いても駄目ですよ」
 背を向けたままで、見えているのか、と思うようなタイミングで広瀬が言う。
「だ、だって」
 モジモジと掛け布団の端を弄くりながら、呟く。「だって本当にあったんだもん、赤いなすび」
「…………」
「ご、ごめんね」
「…………」
「ご、ごめんなさい」
「…………」
「もう我が儘で部下をへとへとにさせたりしません、すいませんでした」
 ベッドの上に正座した格好で、カリカリとペンを走らせている背中をチラ見する。
「ひ、ヒロセクン」
「はい」
「だからほら、謝ったし! もうしないし! ま、また遊びに来てもいいでしょ、ね、いいよね。っていうかむしろ、いいよね、ね、ね?」
 デスクに向かっていた広瀬の背中が、ふう、と落胆したようなため息をつく。がく、っと項垂れた。
「何かもう、がっかりです」
「え、な、何が」
「何か、物凄い貴方に好かれてそうな自分が、がっかりっていうか、最近、むしろ怖いです」
「ゲヘ」
「何かそんな必死な感じになるの、やめてください。最近、組織の皆が僕に貴方のこと、頼むんですよ。駆け込み寺みたいになってませんか、ここ」
「いやあ、参ったなあ、もう、ヒロセクンたら、本当、怖いんだから。もう君に怒られるとボクは、あれだよ、どうしようもないよ」
「違いますよね、僕だからっていうか、あれですよね、ボスは基本気が弱いから。怒られると結構すぐ謝るじゃないですか」
「ボクを怒れるのは、世界広しといえど、ヒロセクンくらいだから、んもう、この、ボスの片腕野郎め、このこの」
「あの、やめて貰っていいですかね」
「君はこれからも、多分、ボクを叱り続ける運命だ」
 ふふふ、と薄気味悪い笑みを浮かべ、プルプルと震える指先で、広瀬を指さす。が、目線は微妙に広瀬を見ていない。「ボクからは逃げられないんだよ、うへへへへ」
「あのこれって助けとか呼ぶのありのルールですか」
「ねえヒロセクン」
「はい」
「何か困ったこととかあったらいつでも、あの、言ってね」
「いやたぶん、死ぬほど困っても、貴方にだけは言わないと思います」
「ボクって、あ、案外役に立つから」
 うふふ、とファウストは、また薄気味悪く、笑う。
「遠慮するなよ、だ、だって」
 くねくねとか、何か、モジモジとか何か、不審人物のような動きをした。「き、キミはボクのも」
「まあ、何でもいいんですけれども」
 あんまり何言ってるか良く分からなかったので、広瀬は壁にかかった時計を見上げた。「とりあえずもうそろそろ、出てって貰っていいですかね」
「えっ、え?」
「いや、そろそろ、午後の診察が始まりますんで」
「も、もうちょっと。もうちょっといちゃダ」
「ダメですね」
「でもまだ話があ」
「ダメですね。仕事なんで」
「分かったよ」
 はああ、と項垂れたファウストはよっこらしょ、とベッドから降り立ち、のろのろと診察室のドアへと歩いていく。外へと出ていく瞬間、名残惜しそうに振り返った。
「なんですか」
「あの。あのね」
「はい」
「ヒロセクンとあんまりにも一緒に居た過ぎて、い、いつかこの診療所ごと、MASAが買い取ったら、ご、ごめんね」
 そして、出て行った。
 バタン、と診察室のドアが目の前で閉まる。
「えー」
 真面目ですか、と広瀬はがくっと項垂れ額を押さえた。



  ■■



 彼女はどこか物憂い表情で、窓の外の景色を眺めている。
 茶色くカラーリングされた長い髪はつやつやとして、陽の光が当たって金色にも、見えた。
「ねえ、小山ちゃん」
 ピンク色の唇から甘えた子供のような声が漏れた。
「はい」
 ベッドの脇に置かれた丸椅子に腰かけ、文庫本を読んでいた青年が、視線を落としたままで、答えた。「何ですか」
 ページを、繰る。
「ねえ、暇だよー、小山ちゃーん」
 毛先がくるんと愛らしくカールした、ウェーブがかった長い髪は、彼女が動く度バタバタと、柔らかく揺れた。
「どっか行こうよー、ねえ」
 小山は、病室のベッドの上でデロン、と海から上げたばかりのワカメのような格好でダダをこね出した藤田あやこを、見降ろす。
「どうでもいいですけど、社長、身体やらかいですね」
「んもう、暇ひまひまひま、暇ひまぁー、発狂しそうだよ、っていうか、発狂してるよ!」
「上原さんに言ってくださいよ。俺はただの見張りですから」
 視線を感じて本から目を逸らすと、マスカラでぬかりなく丁寧に撫で上げられた黒い瞳とぶつかった。
「何すか」
「小山ちゃんも暇だよね」
 身体を起こして、ムン、とか呻きながら枕を抱きしめる。「こんな天気の良い日に遊びにも行かないで社長の見張りするとかさ」
「いやあ暇でどうもすいませんね」
「恋人とかさ、居ないわけ? 何か遊びに誘いたい人とかさ!」
「はあ」
 小首を傾げた小山は、落ちてきた顎くらいの長さの髪を、もう一度耳の後ろにかきあげる。「何か居るには居たんですけどねー、こないだ振られたばかりなんで」
「あーそうかー、ごめんね。私のせいで振られたやつだよね」
 とか何か言ってみたりして、勝ち誇った表情でほほ笑むあやこと、何を考えているのか良く分からない表情の小山は、一瞬、見詰め合う。
「とか言って俺に八つ当たりとかしてもここから出さないですから」
 文庫本に視線を落とした。
 あやこは、ふうん、だ、と言わんばかりに顔を背け、枕を殴る。
「でも絶対私がいなくても成立しなかったよ。だってあの子、ゲイじゃないもの」
「いやもう何でもいいんですけど、ここからは出さないですよ」
 かさ、とか、ページを繰る音が、病室に響く。「上原さんから、見つけたからには絶対逃がすな、とか言われてますもんで」
「上原もなめた真似するよね、私の見張りに小山ちゃんつけるなんて。見張るなら自分で来いつーの」
「俺だったら誘惑される心配もないんで安心なんですよ、馬鹿ですよね」
 ふん、とか冷たく笑って、組んだ足のすねをかく。「俺も仕事ですから別に言われりゃ見張りますけど」
「だいたい、見張りって何? 私は犯罪者かっつーの」
「社長が気まぐれに失踪とかするからですよ。毎度毎度、付き合いきれないんですよ、上原さんも。一応あの人も名のある企業の社長さんすよ、忙しいんですよ、それなりに」
「しかも何で病院なわけ? 何? 私どこも病んでないんだけど」
「いや病んでますよ、たぶん、何か、中がっていうか、性格が」
「あのさ、そんなことでいちいち病院ん中閉じ込められてたら、世界中の病院には患者溢れてどうしようもないよ」
「あ、性格が病んでるっていうのは、認めるんですね」
「こんなさあ、ちっこい病院の一室をさ、ホテルみたいにして使っていいわけ? どうするよ、今ここで爆発事故とか起きたら」
「だって社長連れて長いこと歩きたくないですもん。いつ逃げられるかも分からないし、トラブルに巻き込まれても洒落になんないし、上原さんに連絡取った手前、ちゃんと社長を捕獲しとかないとダメなんで。いいんすよ、ここの院長と俺、知り合いですから」
「あーもう、どうでもいいけど、つまんないつまんないつまんない。何で私がこんなところでじっとしてなきゃいけないわけ、何これ、何なの、もうやだー、ひまー」
 半泣きの表情でまたでろん、とベッドの上に広がる。
「仕事できない男嫌いなんじゃないんですか」
「仕事ばっかりの男も嫌いなの」
 殴った枕をぐちゃぐちゃに折りたたむ。「仕事でいっぱいいっぱいです、って顔してる男には、魅力感じないよね、余裕のない感じが何か、引くよね」
「たぶんそう思っても大人だったら言っちゃダメですよ、そういうことは」
「でも、余裕見せつけてくる男も同じくらい引くけどさ」
「見せつけようとして失敗してたりする人たまにいますよね、何か、涙出そうになりますよね、泣かないですけど」
「あーあ、とは思うよね、関わらないけど」
「そういえば何か思ったんですけど」
 小山はふと、何かを思いついたような表情で文庫本から顔をあげた。「社長って本当時々ふらっといなくなるじゃないですか。何か煙みたいにふっと消えて。あれ、どうやってんすか」
「んー?」
 とか、枕を抱えながら、あやこは何となく小山を見る。
 そこで病室のドアが、突然、がちゃ、と開いた。青年が、二人の姿を見て「あ」と、戸惑ったような表情を浮かべる。
「あ、すいません、間違えました」
 照れくさそうにもごもごと言い、扉を閉める。その際小さく、「あれ? 廣谷の奴どこ行ったんだ?」と呟いたのが、聞こえた。
「いやいやいや」
 閉まった扉を見つめながら、小山は苦笑する。「間違えたって、ねえ、社ちょ」
 そしてベッドを振り返り、「え?」と、固まった。
 今まさに、その話をしたところではなかったか。
 つい、ほんのつい今しがたまで、そこに居たはずのあやこの姿が、そこから忽然と、消えていた。



  ■■



「じゃあそれで来週の頭くらいにはプロット出せると思うんで、はい、ええ、そうですね〜ええ? ほんとですか、それは困りますよね」
 シュライン・エマは、肩から提げていたバックを持ち直して、畦道をさらに進んだ。
「ええ、ええ、はい。っていうか神埼さんていつもそんな作家ばっかり回されますよね、はは、マジですか、病院行った方がいいんじゃないんですか。ええ、ええ、はいわかりました。いえいえ、そんな全然大丈夫ですよ、はい、今ちょっと余裕あるんでそれくらいのページ数だったら、はい、はい。はは、ちがだから、わかった、そんなに言うんだったら、あれですよ、接待してくださいよ。ぶは、ほんとですか、はい。はい、はい、ええ、あ。あ、いやすいません、何かちょっとキャッチで、あーはい、すいません。そうですね、じゃあ、そういうことで、ええ、はい、じゃあどうもーお疲れですー」
 目的地に向かい歩きながら、携帯電話を操作して通話の相手を切り替える。「はい」と、今しがたと同じよそいきの声を出し、応対した。
「やあ、シュラインくん?」
 電話の向こうから、能天気な声が聞こえてくる。
「俺俺、草間武」
「あ、違います」
 簡潔に言って、電話を切った。バックに仕舞おうとしたところで、また、着信音が鳴った。
「なによ」
 今までとは打って変った低い声で応対する。
「どうしてそんな丸出しな嘘つくのよ」
「だって、私が私かどうか確認したじゃない。したってことは、違う可能性もあるって思ってたことじゃない」
「え? だから?」
「仕事の電話の後、その能天気な声聞くと何かがっかりするよね」
「何してんの」
「仕事」
「嘘でしょー、今、外に居るでしょう」
「外で仕事してるかもしれないじゃない」
「歩いてるでしょ」
「歩いてても仕事してるかも」
「あのさ、そういえば明日さ、こないだ観たいって言ってた映画の公開日でさ。覚えてる?」
「一週間くらい前に話してたやつ?」
「そう、だから、今日泊まりに行っていいでしょ。明日一緒に観に行こうよ」
「それってさ、もう、チケット、買っちゃった?」
「うん買ってあるね、二枚」
 たぶんその現物を眺めてるんだろうなあと思しき声で、武彦が言う。シュラインは、あーあ、と思った。
「じゃあ、ごめんね」と、先に謝っておくことにする。
「じゃあ、ごめんね?」
「武彦さんさ、たぶん私それ、行けないと思うよ」
 色とりどりの屋根を持った山小屋風の建物に囲まれた十字路に来たところで、シュラインは、自らの記憶をたどるように、左右の景色を確認した。右に曲がる。
「何で? 今、アトリエ村に居るから? 別に、迎えに行ってあげるけど」
「まあもう何で武彦さんが私の居場所を知ってるかとかさ、どうでもいいんだけどさ」
「ごめんね、何か得体が知れなくて」
「でも多分、武彦さんがアトリエ村に来ても私、一緒に映画、行かないと思う」
「ふうん、何で」
「あのさ」
「うん」
「前から言おうかなあ、とは思ってたんだけど」
「うん」
「私達さ、とりあえず、別れた方がいいと思うんだよね」
 シュラインの言葉の後に、何だかとっても不自然な間が開いた。
「ん? なに?」
「いや、別れた方がいいと思うんだ、何か結構前からじわじわ考えてはいたんだけど」
「おかしいなあ、何か、電波が邪魔してシュラインくんの言ってること、良く聞こえないんだよな」
 前方に、目当ての建物を発見する。近づいて、店の前に出された立て看板を、ぼんやり、眺めた。黒板に、ピンクや黄色のチョークの文字がおどっている。
「っていうか、この電話のせいでお店入れないから、切っていいかな」
「ここまで振っといて〜?」
「私は店に入りたいんだよ」
「この話より大事な店ってどんなよ」
「なんか」シュラインは、店を見上げてまた黒板に顔を戻す。「ブックカフェみたいなん。前にアトリエ村来た時に見つけたんだけど、時間なくて入れなくてさ。古本の販売と本の展示とか、やってんの。面白そうでしょ、あ、イチゴのタルトだって、美味しそう」
「じゃあ入りなよ、俺は別にいいよこのまま話してても」
「だからとりあえず合鍵返してくれるかな」
 シュラインは店の前を離れると、また歩き出しながら、言った。
「あのどうでもいいけどさ、そういうのってもうちょっと、深刻な声で言うもんなんじゃないの」
「深刻にならなくなるくらい、一緒に居すぎたんだよ、私達。家族だよ、これじゃあもう」
「家族、いいじゃん」
 武彦が立ち上がったと思しき気配が、受話口を通して伝わってくる。「何が気に入らないわけ?」
 声が一瞬遠のき、また戻った。
「恋人である必然性は、もうないと思う。少なくとも、別れ話してんのに金魚の餌とかやりだしてる人とは」
「あ、ばれた?」
「だからそういうことなんだよ、私が何を言っても武彦さんはもうあんまり動じないし、武彦さんが何を言っても、私ももうあんまり動じない。でしょ? これってだらだらするより、一回別れた方がいいと思うんだ」
「そうかな」
「そうだよ、果実酒びんで金魚とか飼うのは、ほんとにやめてほしいよ」
「かじしゅしゅびんなんてマイルドに言えてすごいね」
「いや言えてないですよ」
「だからすごいねって、褒めたじゃない。俺言えないもの、かじしゅしゅびん」
「まだ言えてないよ」
「いいじゃん、びんはびんなんだし、何で金魚飼っても俺の勝手じゃないそんなの」
「って私達何年間もこんな会話続けてきたんだよ、がっかりだよ」
「飽きた?」
「っていうか、何か、携帯の電波みたい。三本立ってても二本立ってても大差ない。そんな感じ。あれって何で三本あるんだろうね。二本と三本の電波に違いなんてあるの? 減ったり増えたりしてこれ見よがしでものすごいうざいんだけど、別に三本から二本になったところであんまり意味ないよね」
 店の付近をうろうろと歩きまわりながら話していたら、いつの間にか、がらんとした原っぱのような場所に出ていた。無駄に土地があるんだなあ、と感心する。ポツンと置かれたカンバス台が目についた。少し離れた場所には、石膏の塊らしきものも、見える。
 シュラインは思わず、「何これ、変なの」とか呟いた。
「え、何が?」
「いや何かさ、アトリエ村っていうくらいだから、何か変なとこに作品とか飾ってあったら面白いな、とか思ってたんだけど。本当に、あったね。ゴミみたいに放置されてるんだけど、むしろ、ゴミなのかな、これ」
 特に草の生い茂った場所に立っているそれを見上げる。長身のシュラインより、少し大きなそれは、ひょろりと細長く、くねくねと点に向かい伸びていた。足元の台座の部分に、タイトルらしき文字が刻印されている。
「昇っていく蛇だって、いや、見たまんまじゃん」
「ふうん、なるほどね」
 どしん、と椅子に座る気配がまた、受話口を通して伝わってきた。
「じゃあいいよ、わかった」
「じゃあいいよ、わかった?」
「そう、わかった」
 煙草をくわえたのか、舌足らずに武彦が頷く。かち、という音と、ふうと煙を吐き出すような吐息が耳元をくすぐった。「合鍵、返したらいいんでしょ」
「あ、やけに聞き分けがいいじゃないですか」
「いやもうそういう時の女の人に何言っても聞き入れて貰えないでしょ。あさりみたいになってるし」
「あさりがもうあんまり良く分からないんだけど」
「悔しい?」
「……何が」
「俺があんまり簡単に、いいよとか言うから」
 シュラインは、ちょうど良く草むらに置かれてあった、木箱に腰かける。
「どうでもいいけど合鍵の合鍵を作るとか、なしだからね」
「そんな小細工するわけないじゃないか」
 力の差が歴然とした、つまらないサッカーの試合に文句をつける時のような口調で、言う。「目に付くように付き纏わなきゃ、相手にダメージ与えられないだろ」
「自分がその相手なんで今回ばかりは賛同しかねます」
「かわいそうに」
 受話口の向こうで武彦は、くつくつと無邪気に笑っている。
「もう気がすんだ? 電話、切っていい?」
 頬杖をつきながら面倒臭そうに言ったシュラインの頭上で、「あの、すいません、そこ、座らないで貰えますか?」と、声がした。



  ■■



「あれ?」
 廣谷は病院で処方して貰った薬をちゃぶ台に置き、隣の部屋を覗きこんで素っ頓狂な声をあげた。
「何してんの、何か、観に行くんじゃなかったの」
「えー」
 畳の上に服を散らかしていた百合子が間延びした声を上げる。「だって何か服が決まんないの」
「何で、何でもいいじゃん別にそんなの」
 苦笑しながら、部屋の仕切りを跨ぐ。
「ロマンに出会いに行くのにだらしない格好できないもん」
「そういう気合いが邪魔なんじゃないの」
 散らばった服の中からレーヨン素材のワンピースを手に取り、何だかなあ、みたいな顔で眺め、仕舞いやすいように折りたたむ。
「えー?」
「そうやって気合い入れるから、段々いろんなことが面倒臭くなってくるんだよ」
「そんなことないよ、面倒臭かったらやらないよ、もう、大人だもん」
「これなんかいいんじゃないの」
 グレーのタックがついたワンピースを手にとって掲げる。
「えーそんな普段着みたいなん? これからロマンに逢いに行くのにー?」
「その定義がもう分からないもん」
 薄手の黒いストールをくるくると捩り、百合子に手渡す。「はい、首にこのストール巻いて」
「んー」
「何その態度、一緒に選んであげてるんじゃん。優柔不断な百合子姉ちゃんに代わって」
「えー私って優柔不断なの」
 ワンピースを身体にあてがいながら、百合子が振り返る。廣谷は胡坐をかいた格好で、頬杖をついた。
「そう聞かれると分からないよね、行動力ないかっていうとそうでもないし」
「行動力はあるけど、優柔不断なのかな」
「さあ、どうなんだろうね」
「んー、よいしょ」
 よれよれのTシャツを脱いでワンピースを着こむ。ジャージを脱いで、紺色のサルエルパンツにはきかえた。
「どうでもいいけどさ、一応、女の子が着替えてんだからさ、何か恥ずかしそうにしなよ」
「男の子みたいな薄っぺらいちっこい身体見せられてもなー」
「まあ微妙に恥ずかしそうにされても気持ち悪いけどさ」
「どっちだよ」
「よし」
 髪の毛を無造作に束ね直した百合子は、背後を振り返りまた前に向き直り、頷く。
「よし、さてと。じゃあ、行こうか」
「え? じゃあ、行こうか?」
「あれ、チャリンコ漕いでよ。面倒臭いから」
「いやもうそんなんだったら原チャで行けよ」
「こんな慣れない土地であたしに原チャ乗らしたら、どうなるか知らないよ。いいの。原チャぼっこぼこにして帰ってくるかもしれないよ、知らないよ」
「歩いて行けばいいじゃないかよー」
 面倒臭そうにぼやきながらも、廣谷は立ち上がった。「それで僕は貴方についてって何、帰ればいいわけ? 送るだけ送って? 俺って、何? 百合子ねえちゃんの何なのさ」
「あ」
 そうだね、とか何か呟いて、ぱたぱたと隣の部屋へ移動した百合子は、ちゃぶ台に置いてあった文庫本を取って、ぽんと手渡す。ついでに、ティッシュペーパーで眼鏡を拭いた。
「はい」
「はい?」
 廣谷はそれを暫し、見降ろして、顔をあげた。「え? はい? いや待ってろと?」
「早く行かないとさ。陽が暮れるからさ」
 また眼鏡をかけ直した百合子は、クイ、と顎をしゃくって歩いて行く。
「いや顎で使わないでほしいんですけど」
「若いんだからさー、何やかんや考える前に行動した方がいいんだよ」
「いやもう何言われてるか全然分かんないから」
 玄関まで歩いて行くと、がらがら、と引き戸が開かれた。
 石塀にしなだれかかるようにして立っている木の緑の葉っぱを、午後の陽がのっぺりと照らし出している。
「チャリンコ、チャリンコ〜」
 裏に消えた百合子を待つ間、あーあ、みたいな表情で、廣谷は何となくぱらぱらと文庫本のページを繰った。そしてふと、それに気付く。
 文庫本の右端の余白に、ちんまい人の絵が描かれてあった。
 えー、とか若干憤り、数枚ページを戻った。
 すると、絵の人物から噴き出しが出ており、「ん」と、言っている。
 ん? 何だそれ、とか思って、更に戻り、始まりと思しき場所から、ぱらぱらと素早くページを繰っていった。
 絵の中の人は、「まあ、頑張れ」と、言った。
 まあ、頑張れ。
「何だ、そりゃ」
 お気に入りの文庫本に落書きされたことに怒ればいいのか、その全然役に立たないアドバイスなのか何なのかに、苦笑いすればいいのか、あるいは、この何となくじんわり恥ずかしいような嬉しいような気持ちに、戸惑えばいいのか、暫く、悩んだ。
「トシ。チャリンコ、取って来てあげたよ」
「あのさ」
 いつの間にか戻って来ていた彼女を見上げ、複雑な表情を浮かべる。「これ、僕、気に入ってる本なんだけど」
「あそうなの」
 百合子はガチャンと、自転車のストッパーを下した。「じゃあ何か、ごめんね」
 廣谷は、暫く、無言で文庫本のページをぱらぱらめくったりする。拗ねた、子供のような表情を浮かべている。
「頑張ったら」
「ん?」
「頑張ったら、新居くん、ここ出てったりしない? 若いし、何やかんや考える前に行動した方がいい?」
 何してんのコイツ、みたいな表情で文庫本を覗きこんだり、廣谷の表情を窺ったりしていた百合子は、はた、と顔をあげすっぱりと言った。
「いやそれは知らないけどね」
「……まあ、ですよね」
 また廣谷は項垂れる。「そんなもんですよね他人なんて」
「いやごめんね」
「じゃあ」
「うん」
「じゃあ、これ持ってて」
「うん、いいよ」
 ポーチの中にそれが仕舞いこまれるのを見届けて、自転車のストッパーをあげる。
「行こうか」
「うん」
 途端に嬉しそうに頷いた百合子が、後部の荷台に手をかけた。
 勢いよく自転車を押しながら、「いやあ、今日もいい天気だねー」と、軽快な声でう。
「はい、いいよ、乗って」
「しっかり漕いでよー、トシくん」
 ドシン、と従姉一人分の重さが、荷台に乗った。



  ■■



「ああ、ごめんね」
 シュラインは木箱から腰を上げた。「何か、あったから座っちゃった」
 声をかけてきた青年を見上げる。
「座る人、多いんですよ」
 と、彼は苦笑した。
「絵描きの人?」
 その手の指先や爪に、こびりついた色を指さし、指摘する。
「ああ、はい、新居と言います」戸惑った笑みを浮かべたままで、青年は頭をかいた。「絵を、描いてます」
「これ、道具だった?」
「あー、はい」
「あーそうなの」
 箱を見降ろし、青年を見る。「いや何か、本当ごめんね。あったから座っちゃった」
「あーはい、座る人、多いんですよ」
 答えた青年とシュラインは、「あ、話ループしてますね」とか考えていそうな、同じような表情を浮かべ、沈黙した。
 暫くの間気まずげな雰囲気の中、無言で向かい合う。
「すいません。じゃあ、僕、行きます」
 やっとそこに気付きました、というような表情で、青年が言った。
「あ、はい、どうも」と、シュラインは彼を見送る。

 と。
 ばさ、とか何か、背後で音がした。
「何かたぶん、良くわかんないけど、あの人、放っておいたら、死んじゃうんじゃないかな」
 聞き覚えのある声がして振り返る。
 縦に大きくフリルが入った、丈の短いサロペットに身を包んだ若い女が、長い髪の毛を面倒臭そうに髪留めで留めながら歩いてくるところだった。彼女の背後に薄く透けて見えていた羽のようなものが、見る見るうちにしぼんでいく。
「あら、アンタこんなとこで何してるの」
「そっちこそ」
 あやこは羽織ったアウターのポケットに両手を突っ込んだまま、そこに立つシュラインをさっと指示した。「興信所の関係?」
「もう何か私って言ったら何でも興信所とか言うのやめてほしいんですけれども」
「ごめんね、ついうっかり」
「っていうか、何、死んじゃうんじゃないかなって」
「ああ」
 あやこは曖昧に小首を傾げ、肩を竦めた。「何となく」
「何か、見えた?」
 シュラインは、とんとん、と自分の左目を指さした。「例のやつ?」
「死にそうな人のこと分かっても全然嬉しくないんだけどね」
 あやこはとんとん、と自分の左目を同じ仕草で指さした。「たまに意識しないでも見えるからさ。今の人も、何か、かなり確立高いね。この村から出た時が危ない。多分無難にお金絡みの何かだね。身内の借金とか、何か。ってまあ、別に、どうでもいいんだけど」
「ふうん」
 青年が遠ざかって行った方を見やり、シュラインは言う。「でもまあそうだね、どうでもいいよね」
「でもねー、無理だと思うよー」
「無理? 何が?」
「草間武彦ねー、別れるの、難しいと思うよ」
 シュラインはきょとんとしたような顔で、あやこを見やり、それから呆れたように肩を竦めた。
「あれ、それ何か、話戻ってるんですか」
「私って言ったら興信所って言わないで下さいって言うから」
「相変わらず、そういうことに関しては情報がお早いんですね、藤田さん」
「あの男、何か、微妙にしつこそうだもん」
「するどいね。ほしかったらあげるよ」
「あやだむりむり、私あーゆータイプダメなんだよね。そもそも金持ってない男にあんま興味ないし。良くあんな男と付き合う気になったよね」
「あんな男は否定しないけど、不倫してる奴には言われたくないよ」
「ふうん、だ」
 あやこは、怒ってるのか怒ってないのか良く分からない表情で、転がっていた石ころをくそ、とか蹴りあげる。
「不倫以外もしてるからいいんだもん。私の周りはいい男だらけ、羨ましいでしょ」
「そこで塞き止められてるからなあ、私のところにいい男が回ってこないのは」
「めっちゃキツそうだからでしょ、怖いもん、姉さん。近づいたら、何かはあ? とか普通に唸られそうだもん」
「いや、唸らないよ。それは唸らないよ」
「凄い美人って案外モテないんだよね、芸能人とかだったらまた違うんだろうけど、黙ってたらツンとしてるようにしか見えないから一般の男なんてまあまず近寄らないよ。それでも寄ってくるのは、身の程知らずの勘違い野郎か、草間みたいなよっぽど自分に自信があるような変人だけだもん」
「それでアンタは何してるわけってまた話戻していいかな」
 あやこはチラ、とシュラインを横目に見やり「いい男ハンティング」とか何か言って、歩きだした。
「脈絡もなく現れてー?」
 何となく後ろに続いて、歩き出す。
「脈絡なく現れるのは私の得意技だって。ちっちゃくなって、飛べるから」人差し指と親指でちっちゃい、を表現する。
「そんなこと言ってまたあれでしょ、上原でしょ」
 振り向くと、切れ長の瞳を愉快そうに細める、シュラインの顔があった。あやこは唇を尖らせる。
「あなたのそういう顔、嫌い。何でも分かってるみたいに上から見てるの。似てるよ、草間と」
「さて今度は何日で見つけるでしょうか、上原。って、アンタも良く飽きないよね」
「いいじゃん。私のためにどんなけ必死になるか見るくらい」
 叱られた子供のような顔で肩を竦める。「私、目に見えるものしか信じられないタイプなんだよ」
「お金とかお金とかね」
「ほら、あれだよ、更新料だよ。定期的に払ってくれないと追い出します、ってやつ。でもあいつ、今度は小山とかいうゲイの男見張りにつけたからなあ。マイナスだよ、一点、マイナス、もっと真剣に探してよ」
「一点なんだ」
「元の点数が低いもの」
「とか言って、多分アンタは上原とは別れられないね。アンタのトラウマもその破天荒な性格も含めて受け止められる懐の深い金持った男なんて、そうそう居ないもの」
「あ、なにそれ仕返しですか」
「だいたい仮にも社長さんがそんなふらふらしてていいわけ?」
「いいのよ、とりあえず、次のショーの準備も終わったし。今忙しくないから。充電充電」
 歩きながら、はあーとか両手を広げ深呼吸する。
「悔しいけど、デザイン悪くないのよねー。モスカジ」
「また招待状出すよ。新作ファッションショーのご案内」
「ありがたく頂戴いたします」
「で、姉さんこれから何かあんの? あ、そうだ、お風呂行かない、お風呂。温泉あるから、ここ」
「さすが詳しいなあ。上原、画商だもんなあ。ここ、仕事場なんでしょ。何だかんだ言って、アンタも可愛い女だよね」
「間違いないね」
「いや別に否定してもいいんだよ」
「私は自分にお金かけてるもん。これで可愛くなかったらどうしてくれんのよ。女に必要なのは金と男だよ」
「時間とかも入れといて貰えますか」
「男に愛されなくなった女の身体なんて悲惨。そんなの、私、やだ」
「アンタのそういう物凄い自分に正直なとこ、嫌いじゃないよ」
「嫌いな奴は離れてくだけだから」
「違いないね」
 笑いながら言ったシュラインは、ぐっと自分も背伸びして深呼吸した。だはあ、とか息を吐き出し、あやこの背中をバックで叩いた。
「お茶してから温泉行かない? 私、いい店知ってんのよ」



  ■■



「ちょ、こ、これ何か煙、凄いんだけど」
 桐山が笑いながら、手を振り回していた。「怒られたらどうしよう」
「笑いごとじゃないんだって」
 隣で村山がやはり笑いながら、それを窘めている。
 香ばしい匂いが、屋上に充満していた。
「アーリ」
 使い捨て皿に焼きあがった肉を乗せ、レンジは絵を描くことに絶賛夢中のアーリの小さな背中に歩み寄った。
 肉をテーブルに置き、傍らに置いてあった濡れタオルを振り向いた彼女に差し出す。「はい、手、拭いて」
 クーラーボックスから、お茶のペットボトルを取り出し、紙コップに注いだ。
「何描いてんのさ」
「みんな」
 端的に答えたアーリが、ぱたぱたと手を払って、コップを受け取ろうとする。
「あ、ダメだよ。ちゃんとこれで手を拭きなって」
 差し出された濡れタオルを、え、何すかこれー、みたいな顔で上目に見上げ、しぶしぶ受け取り、手を拭いた。コップを受け取る。ぐい、とか鼻のあたりを手で擦って、コップを傾けると、ごくごく、と細い喉がなった。
「これは?」
 両手を広げた同じような顔をした人々の中で、一際大きく、花に囲まれて丁寧に描かれた人物を指さし、レンジは問う。
「ぱぱ」
 不器用に箸を使いながら肉を食べるついでに、彼女は答える。
「その箸の持ち方、ぱぱそっくりなんだけど」
 何で箸は二本なんですか、何でこんなに長いんですか、とでも言いたげに、四苦八苦しながら箸を操る顔や手つきを見て、思わず、笑った。「親子だなあ」
 良く噛んで食べるその頬の動きなんかも、そっくりだった。
「ねえ。お前のパパは本当はすごいんだよね。あんまり、気づかれないけど」
 ふとそんなことを言ってみたりして、レンジは照れくさそうにした。
 そんな自分を、何を考えているか分からないようなきょとんとしたような表情で、アーリが見つめている。
「っていうか全然気づかれないんだけど」
 はあそうですか、というような表情を浮かべ、また、肉を食べる作業に戻る。
 レンジは、缶ビール片手にその姿を暫く見守っていたが、「それが時々、凄い残念な気がするんだけど何か」とか、呟いて、汗をかきながら、焼きそばを炒めているテイオウを振り返った。
「に、にんじん。ニンジン嫌いなんだけどなあ」
 いつの間にか乱入していた兄のファウストが、その隣をこちょこちょと挙動不審に動き回っている。「な、なくても誰も困らないと思うよ」
「駄目です。アーリもいるんですよ、いい歳こいた伯父さんが好き嫌いするのなんて見せないでください」
「ニンジン反対! 焼きそばにニンジン入れるの断固反対!」
「ああもううるさいうるさい」
 傍で肉を肴にビールを飲んでいた桐山が、この兄弟げんかおもろいなあとでもいうように、笑いながら八ミリカメラを構えている。
 変な兄弟、とか思いながらちょっと笑って顔を戻すと、どうやらアーリもその様子を眺めていたようで、二人で顔を見合わせた。
「変だけどもう見慣れちゃったもんね」
 意味が分かっているのか分かってないのか定かではないけれど、アーリは頷く。
「だって、この変なのが家族なんだもんなあ」とか言って、ちらっと見ると、また彼女は「はあそうですね」みたいに、頷く。
「でもさ。少なくとも、俺とアーリは、この変なのが家族でいいって、思ってるよね」
 恐らくは本当の意味は分かってないのだろうけれど、何か凄い重要なことを聞かれてる気がしますよ、と、その雰囲気だけを敏感に察知したアーリが、曖昧に、コクンと首を上下した。
「じゃあ。ずっとそう思っててあげてよね」
 レンジは椅子にもたれかかり、ビールを飲み干した。「いつまでもずっと愛してあげようね」
「でもこれ、なくなったよ」
 脈絡ない話を「でも」で繋げた子供ちゃんは、空になったお皿を無邪気に掲げる。
「俺はちょっと休憩」と、テイオウの方を指さした。「パパに貰っておいで」
「うん、分かった」
 お皿とパパを見比べて、小さな背中は、ててて、と駆けて行く。
 まどろみながらぼんやりしているレンジの前で、そっと彼女のか細い手が、節立ったテイオウの手を、取った。























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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号3453/ CASLL・TO (キャスル・テイオウ) / 男性 / 36歳 / 悪役俳優】
【整理番号6536/ RI・− (アーリ・ー) / 女性 / 12歳 / 小学生】
【整理番号7520/ 歌川・百合子 (うたがわ・ゆりこ) / 女性 / 29歳 / パートアルバイター(現在:某所で雑用係)】
【整理番号0086/ シュライン・エマ (しゅらいん・えま) / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【整理番号7061/ 藤田・あやこ (ふじた・あやこ)) / 女性 / 24歳 / IO2オカルティックサイエンティスト】
【整理番号3787/ RED・FAUST (レディ・ファウスト) / 男性 / 32歳 / MASAのBOSS(ゾンビ)】



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■         ライター通信          ■
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こんにちは。
 このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
 愛し子をお任せ下さった皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。