■【楼蘭】蓮・幻夢■
紺藤 碧
【3087】【千獣】【異界職】
 蓮の花を模った杯に称えられた、虹色の虹彩を放つ透明な水。
 いや、ただの水ではない。
 甘い匂いを放つソレは、花から取り出した特殊な樹液。
「それはまだ洗練されていないからね。触ってはいけないよ」
 そのまま触れれば、強すぎる力に、たちまち溺れてしまう呪華。
「そろそろ始まるころかな」
 瞬・嵩晃は、布で蓋がされた壷を手にしたまま、雲の流れと風の匂いを確かめて呟く。
 机に置いた壷の蓋を外し、瞬は蓮の杯にたゆたう水を入れて混ぜる。
 数回杓子を持ち上げ色味を確認すると、彼は顔を上げた。
「君も一緒に行くかい?」
 何処へ一緒にいくのかと言う言葉は一切話さず、瞬はただニコニコと微笑んだ。



【楼蘭】蓮・幻夢 −桃−







 姜・楊朱の洞を後にして、千獣は何処へ行くべきかと考えた。
 千獣が手にしたのは、転化の宝貝と蓮の花。
 結局あの子には会えなかった。
 あの子は無事に産まれただろうか。
 宝貝から痛みが与えられないということは、まだあの子がこの世に生まれていない証。
「瞬……」
 千獣は背から翼を出す。そして、今日の洞から、瞬・嵩晃の庵へと飛ぶ。
 ぎゅっと握りしめた蓮が微かに輝くが、行く先を見つめている千獣は気が付かない。
 瞬の庵へ飛びながら、千獣は2人の仙人から与えられた言葉を考える。
 生むことは、生む側のエゴだ。
――この命はこの世に生まれたいと思っていたのか。
 生まれたばかりではまだ自己が確立していないから、そう思うことは無くても、いつかそれを考える時がくる。
 その時、生まれてきて良かったと、そう思わせることが出来るかどうかは、その命を育む者たちがいかに関わってきたか。それが全てを決めるだろう。
 そして、生まれた命は、この世を知る義務を負う。
――例え、誕生にどんな理由があろうとも。
 これから生まれるあの子は、生きるために必要な“痛み”を無くして生まれてくる。
 誰もが“痛み”なんて本当は感じずに生きて行きたい。だが、人の生とは何時も痛みと共にある。
 自分のため、他人のため。
 自分の痛みが分からない人に、他人の痛みを分からせることは難しい。
 けれど、これが分からなければ世の道徳から外れてしまう。
 言われた言葉が脳裏に甦る。
 結局2人は手を貸してくれたけれど、その過程で肯定した自分の決断は本当に正しかったのだろうか。
 揺ぎ無い絶対の自信なんてあるはずもない。
 痛みは自身を守るためのものでもある。他人を思いやるためのものでもある。
 それが条件だったとはいえ、千獣は人が人らしく、他人の中で生きていくために必要な“痛み”を奪ってしまった。
 無くしてはいけないものだと分かっていても、やはり―――。
(……この子、が、痛い、のは、嫌だ)
 痛みを知らず、痛みを無くして、あの子がどうなるのか。
 まだ何も始まっていない。身体を得て、新たなる生として目覚め、本当に始まる。
 自分はあの子に何ができるだろう、何を伝えられるだろう。
 世には良いことばかりではない。
 良いことだけ伝えていたら、あの子は世界の綺麗な所だけしか知らず、己が気が付かないままに危険に身をおいてしまうかもしれない。
 良いことも悪いこともバランスよく。どちらか一方が偏ってもいけない。
 痛みが無いからといって、倫理観が無くなってしまうわけではないのだから。
 それに、あの邪仙のような存在もいる。一見しただけでは分からない悪の存在が。
 自分はそれらからこの子を守れるだろうか。それらに負けない力を教えられるだろうか。
 “教える”役割を負った自分の責任は重い。
 何が悪くて何が良いのか。
 それだけじゃない。与えられた優しさを素直に受け入れ、その優しさを周りにも配れるような、そんな子になって欲しい。
 考えなければいけないことは、とてもいっぱいだ。
 あまり考えることは得意ではないけれど、この子のために最善の選択をできるように。
 これから、それらに1人で向き合わなければいけない。この国に協力者はいないのだから。そのことに不安や恐怖を覚えないわけではない。
 それでも、変わらないことがある。
 それは、この子が、この世界の中で幸せに生きること。これだけは、絶対に変わらない。
「あ……」
 遠くに六角形の庵が見える。
 瞬が良く好んで滞在している庵だ。
 千獣はトンっと庵の前の開けた場所に降り立ち、翼を仕舞う。
 逸る気持ちを抑え、千獣は軽い足取りで庵の戸口へと向かい、その戸に手をかける。
「…………」
「…………」
 なぜか二つの沈黙が広がった。
「あ…こん、にち、は……」
 内側から開け放たれた戸口の先に立っていたのは、あの時の青年。そう名前は確か桃(タオ)。
 瞬を大切に思っている素振りから、2人が近しい存在なのだということは理解している。
 だから、ここに彼がいることも何ら不思議ではないのだけれど。
「…瞬、居る?」
 その瞬間、桃の口元が険しく引き締められた。
「何の用でここへ着た娘」
 謝るようなことでもないのだけれど、彼の冷たい眼差しが痛い。
「…姜、から、宝貝、受け取った、から……」
 桃は、千獣が瞬と交わした約束を知っているだろうか。
 中を一度確かめるように見て、千獣に向き直ると、桃は後ろ手に戸を閉めて、入り口の前で立ちはだかった。
「師父は、会える状態ではない」
「え…?」
 まさか、あの灰の村で倒れた時の傷がまだ癒えていない?
「瞬…どう、したの? まだ、具合、悪い、の……?」
 すがり付いてでも聞きたいけれど、手には蓮がある。自然と蓮を持つ手に力が篭った。
「姜、の、所に、来て…たのは……」
 瞬のための宝貝を受け取るため? あの壷は、何?
「お前が知ることではない」
「でも、私……」
 言いかけて、止める。
 瞬の体調を無視してまで、押し通す約束ではない。
 桃は千獣の手に抱かれている蓮華を見つめ、眼を細める。
「娘。私は何用で着たと聞いている」
 本当の話の続きを促すように、桃はもう一度同じ質問を千獣に投げかける。
「私、は…瞬、から、あの子の、体を、受け、取りに……」
「あの子?」
 千獣は頷く。宝貝人間の核がもう一度生きるために、その身体を作ってくれると約束した。
 桃は眼を細めて蓮華を一瞥し、低く小さく呟く。
「お前は本当に師父のことを何も知らぬのだな」
 桃の見て分かるほど大仰な溜め息が辺りに響く。
 考えてみれば、千獣は瞬のことを何も知らなかった。自分と同じように――いや、それ以上に――長く生き、普通の人とは違う仙人という存在で、薬に詳しいということくらいしか。
 だがそれは、本当にほんの一部の、誰にでも分かる瞬の生き方。
 瞬のことで千獣が知っていることは多くない。
 千獣にとって故郷の魔法でさえ良く分からないのに、瞬が扱う仙術の類が分かるはずもなく。
 それは、わざわざ聞くようなことでもなかったし、それを知る必要性をあまり感じていなかったのも事実だった。
 瞬の事を知っていたら、何かが変わっていたの?
 でも、それを聞いてしまったら、きっとこの青年は怒る気がして、千獣は庵の中で臥せっているであろう瞬に思いをはせる。
「……瞬、は、良く、なる…?」
「勿論だ」
 当たり前というように答えた桃に、千獣はほっと笑顔を浮かべた。
 いつ元気になるか分からないけれど、また瞬が前のように笑ってくれるようになるまで待とう。
 時間は、一杯あるのだから。
 会話が途切れたことで、話は終わったとばかりに、桃は籠を手にして歩き出す。
 去っていく背中に、千獣ははっと顔を上げると小走りで追いかけた。
「ねえ……私、にも、何か、手伝わ、せて……」
 籠を手にしているということは、これから何かしら野菜の収穫や、薬草を摘みにいくのだろうと予想して。
 桃は追いついてきた千獣に、また溜め息をつく。そして、千獣が何も気が付いていないことに苛立ちを覗かせた瞳で、
「まずはその手にある蓮華を見事咲かせるのだな」
 と、それだけ言い捨てると、姜のように人とは違う足取りで山中へと消えてしまった。
「蓮、を…咲か、せる……」
 花を咲かせることは、瞬の看病よりも重要なことなのだろうか。
 千獣は蓮を手に、ただその場で立ち尽くした。






























☆―――登場人物(この物語に登場した人物の一覧)―――☆


【3087】
千獣――センジュ(17歳・女性)
異界職【獣使い】


☆――――――――――ライター通信――――――――――☆


 【楼蘭】蓮・幻夢にご参加ありがとうございました。ライターの紺藤 碧です。
 茱からの続きとなりますので、実際の季節は変わりましたが、話は続きで書かせていただいています。おかげで現在話の季節はいつよ?みたいな状態になってしまいましたが(汗)
 実は茱の段階で形骸の行方はもう分かりにくく出していますが、最後にビックリでもいいですね。
 そろそろ宝貝人間のお名前をお考え頂き、教えくださると助かります。
 それではまた、千獣様に出会えることを祈って……


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