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■真夜中の仮面舞踏会 第1章 《人形たち》・2■

工藤彼方
【7578】【五月・蝿】【(自称)自由人・フリーター】
ある夜のことである。
都内にある、とある小さなオルゴール博物館が火が出た。
その時間帯は、当然、博物館は閉館しており、セキュリティも作動していたはずだった。防犯カメラのデータにも、不審者の姿は映らなかった。
火の手の勢いは強く、小さくも5階建ての建物は全焼。
100年から200年前に作られた、アンティークのシリンダーオルゴールやディスクオルゴールたちが悉く失われたのだった。
だが、その事件のあと、博物館の人たちは首を傾げたのである。
建物の焼け跡からは、黒くなった陳列台やドアが発見されるばかりで、炭になったはずのオルゴールたちの残骸はただの一片も発見されなかった。
木が燃えて灰になったというのはわかる。
だが、金属製のシリンダーやディスクまでもが姿を消しているのは何故だ?
まるで建物から忽然と姿を消したように。

そして消えたのは、オルゴールばかりではなかったのである。
博物館には、オルゴールを体内に仕掛けられた人形たちが陳列されていたのだ。

手紙を書く道化師。

物憂げな表情でアコーディオンを弾く男。

花籠を抱えて薔薇を売る花売りの少女。

そう、彼らもまた――。
真夜中の仮面舞踏会 第1章 《人形たち》・2



【1】

しんと静まりかえったエントランスに夏樹の声が響いた。
「中は表よりも焼けてないみたいね……」
三階あたりまでが吹き抜けになっているらしいそこは、配電盤などもとうに焼け落ちてしまったのだろう。暗く、壁沿いにチラチラと小さく舌を閃かせて燃えている残り火が、ようやく足元を照らす照明代わりになっている。だが、瓦礫が廊下のあちこちに積み上がっているとはいえ、歩けないほどではない。外の火の酷かったことを考えると、意外なほどだった。
「だが、どちらにしろこの辺りの火が消えているのはありがたい。表の火も消せたってことは、退路を断たれることは無さそうだ、が……」
九郎の足の裏に伝わってくる、地滑りの地鳴りのような不穏な響き。
「まだ何かいるみてぇだな」
この後に待ち構えている何かを予感させるその音に気付いたのは神木だけというわけでもなかったようだ。
「うん、何か出そうよね。私、しばらくはこの恰好でいることにするよ」
そう答えたのは夏樹だった。夏樹、と言っても虎の獣毛と斑紋とが体表を覆っている今、かなり凄まじい形相になっている。その目が爛と貴石のような輝きを放った。
「でさぁ〜、夏樹。そのデカいスポーツバッグ、なんなのー?」
いくぶん間伸びした調子で言ってそう指をさしたのは五月だった。
スポーツバッグを肩に負う虎女。少々ギャップが激しい。
夏樹の面影を残した獣面が振り向き、きょとんと瞬いた。
「あ、これ? 着替えよ、着、替、え。オトメのバッグの中身は秘密よ」
それを聞いて「ええー」などと言ったのは五月である。
「……オトメってその姿で言われてもなー……」
「なんか言った!?」
ガバと振り向いた夏樹にヒィ!とばかりに飛び上がって、目の前で手を振りまくる。
「言ってません! これっぽっちも爪のアカほども言ってませんッ!!」
「ほら、うだうだ言ってねぇで、行くぞ。明日のバイトに響かせらんねーんだ、こっちは」
淡々と告げて歩き出す九郎の背中を見て、
「九郎って、絨毯爆撃のまっただ中に今から突撃って時でも飄々としてそうだよなぁ〜……」
頭を庇った体勢のまま五月が呟いた。



【2】

「で、だ」
九郎が薄紫色した硫黄臭い煙の漂う廊下を歩きながら、振り返らずに言った。
「俺の予感が当たれば、遅かれ早かれ俺たちの人捜しの邪魔をするヤツが出てくるだろう。俺は哨戒活動担当だ。夏樹は迎え撃って欲しい」
オッケ、と短く夏樹が答える。
「それから五月には、目標……火に攫われた女を助けてもらいたいが、出来れば援護も頼みたい」
「あ、俺は肉弾戦無理だからねー?」
挙げた両手をヒラヒラとひらつかせて五月は九郎を見返した。
「ん? あんた、ダメなの? まあ、見た感じからして格闘技やれそうには見えないけど」
「うん、たぶん、すぐヘバるよ。俺っちムキムキマッチョじゃないもんね」
ヒク、と夏樹のこめかみがひくつく。
「……それ、私がムキムキマッチョだとでも言いたいっての?」
夏樹の目が据わる。
「だだだだ誰もそんなこと言ってないじゃんっ! 俺は洗脳担当でーって言いたかっただけで! 夏樹、顔が超コワイ……ぐえええぇぇ!!」
五月の首を絞めながら夏樹は九郎の背へと声を投げた。
「ということで、九郎、五月は洗脳専門らしいけど」
「あぁ、それでいい。援護にはちょうど……」
九郎は不意に口を噤み、あたりをゆっくりと見回した。沈黙が落ちる。
しんしんと迫る視線を感じた。肌に感じる圧迫感。それが視線であり、敵意あるいは殺気でもある。
三人を包む静寂の中に、微かな異音が混じりだした。
規則正しく響く、金属質の音。
「何か来るぞ!」
その声を聞いて、夏樹と五月は弾かれたように身体を身構えた。
微かに聞こえた金物が触れあうような音が、だんだんと大きくなる。
硬い床を叩いて崩れて、踏みしめる、石を引っ掻くような音。
「なに……?」
正面には焼け焦げて黒く煤けた壁が立ちはだかっている。三人が向かう先は突き当たりだった。その手前に左に曲がる廊下がある。音はそこから近付いてくる。
ギシ、と何かの軋む音と共に、曲がり角の壁の際に銀色の何かが張りついた。それが壁の角を掴んだ手である、とわかる頃には、異音の主の姿が現れていた。
青銅色の甲冑。中世の騎士物語か何かに出て来そうなものが三人の目の前に仁王立ちに立っている。
「ヨロイ!?」
五月が目を丸くした。
歩く甲冑は目の辺りには深くシェイドを下ろし、重厚そうな円錐形の穂先が突いた槍を、片手に携えて、墓場から出て来たゾンビか何かのように揺れている。
「中身があるんだか、ないんだか。さて、奴さん、穏やかに俺たちと……」
九郎が言い終わらないうちに甲冑が動いた。
鋭い槍先を向けて、九郎へと走り出す。
「話し合ってくれるわきゃねぇか!! 夏樹ッ!」
「オッケィ!!」
夏樹がリノリウムの廊下を蹴った。五月と九郎の頭上を飛び越えていく。
空中でくるりと前転し、獲物に向かう虎さながらに、甲冑へと飛びかかる。
毛で覆われた指先から伸びた黒い爪はまるでサーベルタイガーの牙のようだ。
甲冑が槍先を九郎から夏樹へと向けて振り上げた。
その槍の穂を、夏樹は身体を捻らせて後脚で蹴る。高さのない天井にぶち当たる寸前で天井板をも蹴り返し、速度を増した動きで甲冑の頭に飛び乗った。夏樹の勢いを付けた重みにぐらついた甲冑の首元めがけて、その鋭い爪を叩き落とす。
「こういうのは首の付け根が弱点って相場が決まって……!」
ガシィン、と金属質のもののぶつかりあう音が起きる。
予想に反して、夏樹の爪は甲冑の首根の当て板を貫通出来てはいなかった。
鉄板なのか銅板なのかわからないそれには窪みが出来ている程度だ。
「なんて頑丈なの!」
ガチン、ガキン、と廊下に不穏な金属音が響く。
首元の板の継ぎ目を狙って、長い爪を抉りこませてこじ開けようと爪を差し入れたところで甲冑が歩き出した。夏樹を振り払わんと首を右に左にと回して頭を振りながら。
「夏樹ー、大丈夫ーっ? ……って、うわ! こっちくる!!」
頬に両手を当てて、ムンクの叫びのような顔をしたのは五月だ。
「でも、コイツ、なんだか意志があるみたいだし、ひょっとして俺の力も効くかなぁ?」頬に手を当てたまま、五月がスゥと息を吸い込んだ。
身体を折り曲げて、例の「呪」を乗せた大声を吐いた。
「おーまーえーは、もう、死んでい――……うわあぁぁ!!」
五月は最後まで言い終えることが出来なかった。
目の前に迫ってくる甲冑の姿を見たからだ。
夏樹を頭に乗せながら、鈍く光る甲冑が足音もけたたましく駆けてくる。
そして、五月めがけて拳を突き出した。
「ぎゃぁ!! たすけてひゃくとーばーん!」
目を瞑った五月の耳に、パァン、という割れるような音が聞こえた。ただし、軽くはない。どちらかというと大きなサンドバッグを殴った時のような破裂音だった。
恐る恐る目を開けてみる。
自分の前に九郎がいた。大きく踏み込んだ低い体勢から、動きを止めた甲冑の手甲へと、九郎が掌を押し当てているのが見えた。
暫しの間ののち、重い音を立てて甲冑は床に崩れた。
夏樹が甲冑から飛び上がって後ろに退る。崩れた甲冑の首からガラン、と兜が転げた。
「九郎! ありがとー!! 俺、ブン殴られるかって思ったし!」
「……いや。別に」
顔色一つ変えずに五月の言葉を聞きながら、九郎は兜の中を見た。何も無い。
首から下にも中身はなかった。虚ろな穴だけが覗いていた。
「……なんだこれ。中身入ってないかもって、ちょっとは思ったけどさぁ」
「本当にヨロイの幽霊だったってわけね」
夏樹と五月が、床の上で動かなくなった甲冑をつついたり兜を転がしたりしながら、ああだこうだと言い合っている。
ひとり、九郎だけが、難しい顔で腕を組んだ。
「幽霊、か……」
青銅の塊を足先に転がしながら。



【3】

「美香、大丈夫っ?」
剥落した天井材が床一面を埋め尽くしている。その中を歩こうというのだから、ハイヒールの美香が一番苦しい。先ほどから何度も躓いたり、足首を挫いたりしていた。まして、足は一度挫くと癖になる。
足の痛みに屈み込んでしまった美香をクリュティエは覗き込んでいた。
「……ええ、大丈夫」
あなたたち、というのは、クリュティエと黒瀬のことだ。
美香は何度か裸足で歩こうとしたのだが、黒瀬がそれを止めた。曰く、「足を怪我したら動けなくなる」。言わんとすることはわかったので美香は黒瀬の言うことを聞くことにしたのだが。
「それよりもごめんなさい。私、あなたたちの足手まといになっている気がする」
美香の歩きに合わせるとなると、どうしてもなかなか先に進めなくなってしまう。
心苦しそうに美香が二人を見上げると、黒瀬が「ああ」と呟いた。
「なんで今頃気付いたんだろうな。始めからこうすれば良かったんだ。さぁ、俺の肩に掴まれ」
そう言って美香の前に屈んだ。
「え?」
もしや、と思いながらも黒瀬の肩に手を掛けると、黒瀬は美香の膝の裏に腕を入れて抱え上げた。
「これが一番だろう」
仰天したのは美香だった。
「お、重くない……ですか?」
だが、そんな美香の問いに対して、黒瀬は平然としたものだ。
「何が重い? 君が? まさか。まあ、疲れたらその時はさっさと君を下ろすから安心しろ」
高くなった視界から首を捻って見下ろすと、クリュティエが嬉しげに美香を見上げていた。
「さて、さっきからどれだけ歩いているのかもう分からないが。この先どうしようか。しかも、俺のここに書いた図面が矛盾しまくりだ」
黒瀬はこめかみを「ここ」と叩いて見せた。
「外から見たときは、こんなに広い建物に見えなかったのに……」
美香の呟きに黒瀬が頷いた。
黒瀬は何もめくらめっぽうに歩いてきたわけではない。その時々で東に十数メートル、南に何メートルと、頭の中でフロアの図面を描きながら歩いてきたのだ。
だが、先刻黒瀬がクリュティエの力を借りて突破してきた入り口付近へ戻るはずのところに来ても、見知った窓はどこにも見当たらなかった。
初めて見るドアと、初めて見る消化器。ただし、高温にさらされたためか、破裂したあとでアルミが破れたような形の溶けた鉄屑と化している。
「典型的な"迷宮"だな」
超常現象によくある、何かのきっかけで異空間との狭間に滑り込む現象。
「ええ、もうこのあたりは元の空間とは違ってしまっています」
申し訳なさそうにクリュティエが言った。
「この建物の空間は、いま刻々と捻れています。普段ならほんの数センチほどの空間が、拡がったり収縮したりしながら。……私としてもいち早く他の者に会いたいのですが」
そんなクリュティエの言葉を聞いて、美香はまるで生き物のようだと思った。
「クリュティエ、あなた、全然驚いていないのね。私、こんなことがあるだなんてまだ信じられない気分だけど……」
美香が言うと、クリュティエは肩を竦めた。
「わたくしは……なんと申しましょうか。慣れているのです」
冗談めかした口ぶりだったが、その言葉に何かを諦めているような哀しげな響きがあったのを美香は聞き逃さなかった。
「慣れているって、よくある……ということ? なぜ?」
「わたくしたちはこのようなことに度々遭ってきました。その都度、何の罪もない人々が巻き込まれて――そう、ちょうど今のあなたのように。亡くなった方も少なからずいらっしゃいます。言ってみれば、この火事はわたくしたちがいるせいで起こっていることなのです」
「なぜ、あなたのせいなの? あなたがこの建物に火をつけたわけじゃないでしょう?」
クリュティエは、だが、曖昧に頷いた。
「わたくしが火をつけたわけではありませんが……。美香は気付いているかしら。この火事の火がどんな質のものなのか。……あなたを飲み込んだ火よ。そして誰をも近づけようとしない火」
美香は少し考えた。
「生きているみたいって、この建物には思ったけれど……」
「そう、生きているの。この建物も、この火事も、同じ。生きているのです。意志を持っている。だから、その意志の都合で、空間は捻れるし、火は生き物みたいにあなたや黒瀬を襲ったりしたのよ」
意志、と美香は口の中で呟いた。
「…意志…。それって、誰の?」
クリュティエが言葉を選ぶように少しの間首を傾げた。
「わたくしたちを許すまいとする者の意志、とでも言えばいいのかしら」
今度は美香が首を傾げる番だった。
「なぜ? ……クリュティエ、あなた、何か悪いことでもしたの?」
おそるおそる尋ねると、クリュティエは笑った。
「もしかしたら、悪いことをしたのかもしれません。先は長いですから、追々お話しします。でも、わたくし、何が悪くて、何が良いことなのか――たとえば、あなたをこんなことに巻き込んでしまったこととかもね。……わたくし、もうよくわからないのです」
悪いことをしたのかもしれない、というクリュティエの言葉に美香はそれ以上、何も言えなかった。
ただ、クリュティエが終始笑っている間すら哀しげに見えるのが気になった。
「そう……。あなたが悪いことをするなんて私、あんまり想像できないけれど。……じゃあ、このあと聞かせて? もちろん、あなたが話してもいいと思っていることだけでいいから」
気遣わしげな美香の言葉に、クリュティエはまた小さく笑った。
「ありがとう、美香。でも、私には今更隠なければならないようなことはないのです。ただ、お話しするととても長くなってしまうのが心苦しいだけ」
二人の話を聞いていた黒瀬が難しげに唸った。
「そうか……。外の連中と合流したいが、外に出るにも出られないこんな按配ではそれもかなわないってことか……」
揺れる視界の中で薄暗い廊下が延々とのびている行く手を見つめながら、美香は黒瀬の胸元から伝わってくるほんのりとした温かさをジャケット越しに感じていた。



【4】

「ぎゃぁ! なっちゃーん! 何かいるいるー! 何かいるよ−!」
悲鳴を上げたのは五月だった。
本来ならばとっくに建物の中を歩き尽くしていてもおかしくない距離を歩いているはずだのに、延々と廊下が続く。時々廊下の両側に顔を見せるドアのノブを片っ端から捻ってみるが、びくともしない。
灰が降ってくるか、煙が漂ってくるだけの無表情な廊下に、いい加減疲労困憊して闇雲に走り回っていた五月が、廊下の奥の、珍しく開けている暗がりに何かを見つけたらしい。
「そこ! そこに白いのがっ! なにアレ!」
「え、なになに?」
慌てて駆け寄ってきた夏樹と一緒に暗がりをもう一度覗き込む。
小さな演奏用のホールだったようだ。壁沿いにまるでタンスのような大きさのオルゴールが何台も並べられている。
その向こうにほんのりと見えたのだ。だが、白く光っているように見えたのは、
「……椅子、ね」
背もたれの曲線に彫金を施したもの。どことなく重厚さが窺い知れる。
「椅子が怖いっていうの……?」
夏樹が白い目で見ると、五月はそろりと視線を逸らした。
「怖い、じゃなくて。ほら、何かあるなーと思って……それだけ」
疑わしい、と言わんばかりの目で五月を睨んでから、夏樹は椅子をもう一度見た。
「九郎、あれ何かしら。二つ並んで真ん中に置いてあるけれど。椅子の上に何か乗って見えない?」
そう言う夏樹の言葉に、ようやく明日のバイトのことだけを考えているのか、無関心そうな様子でいた九郎が見返った。
しばらくの間、客席の前のだだっ広い空間に据えられた二脚の椅子を見つめる。
「……冠、じゃねぇのか?」
臙脂色のビロウドを張ってあるらしい座面に、なるほど、良く見ればわかるといった感じにギザギザを並べた冠が見えた。
「誰の?」
「知らん」
即答した九郎の背中を夏樹がバシンと叩いた。
「九郎っ! あんたもちょっとは考えなさいよっ。ここから出られるか出られないかって話になってんだから! 明日バイトに行くつもりなら、ここ出なきゃダメでしょー!? もうっ、今度ごはん奢るからっ! ちょっとは本気になんなさいよ!! このこのこのー!!」
「うわ、ちょっと待て、夏樹! おまえ、奢るとか言っときながらすげぇイテェって! 爪食い込む! ……だって、知らねぇものは知らねぇっていうか……」
夏樹にビシバシと叩かれている九郎から少し離れたところで五月がううんと唸った。
例の椅子に近付いて、冠へとそっと指を伸ばす。
「王冠かもしれないってことはー。……すっごい宝石嵌ってたりして。んで、すっごい高く売れたりして」
そんな心の中の期待をしっかり口にしながら、五月は冠を両手で掴んだ。
と思った、その時だ。
五月の視界の端に、ぼう、と白い靄のようなものが立ちこめた。
それはみるみる輝きを増し、五月を囲みはじめる。
「五月、まわりを見ろ!」
九郎の声が飛んだ。
「うわ!」
ぼんやりと宙に浮かんだ円陣が波打ちながら、冠を持ったままの五月の周囲を回りはじめた。
「なんだよ、これ……」
白い靄は徐々に凝り固まりだし、だんだんと人の形をとっていく。
ステッキを持ち、脚のラインにぴったりとそった膝までの長靴を履いた貴紳たち。髪を高く結い、飾り傘をさして、腰の括れを強調したドレスを身につけた貴婦人たち十人ばかりの姿が、白黒反転した影絵のように浮かび上がる。それらはゆらゆらと揺れながら、少しずつ五月との間を詰めていく。それぞれに五月へ向けて手を伸ばしはじめる。
白い影絵に囲まれた五月を見て、九郎は夏樹に耳打ちした。
「夏樹、五月が危ない。見てみろ、あの白いヤツの手が触れたところ」
九郎に言われて、夏樹は見た。白い影絵たちがゆらゆらと伸ばす腕の先を。
影絵の一人、子犬を連れた貴婦人の姿をしたシルエットの手袋の指先が、冠が載っていた椅子の背もたれに触れた。すると、その箇所はあっという間に白く色が変わり、影絵たちと同じ靄のようなものに変わった。そしてだんだんとその部分を広げていく。見る間に椅子は白い影絵の一つと化した。
「うわわわわ……」
夏樹が顔を青くした。
「どうせあれもあの鎧と同じで意志を持っているんだろ。俺が囮になる。あのモヤモヤしたのを引きつけるから、焼き払えるなら焼き払ってくれ」
「了解っ! ……けど、なんで五月を狙うのかな」
「おそらくあれなんじゃないか。五月が手に持っているヤツ」
「王冠……?」
「誰のものだかわからんが。あのモヤモヤしたヤツらの手の先を見てみろ。五月が狙いというより、五月の手元を狙っている」
「なら、あれから手を離せばいいってこと?」
「さぁ。それで消えてくれるのかどうか。それは知らん」
「じゃ、ダメ元で」
夏樹が五月へと叫んだ。
「五月ーっ!! それ、それこっちに投げて! あんたが手に持ってるヤツ!」
じわじわと迫り来る影絵に、後ずさりしていた五月が、夏樹を見た。
「これ、だって、宝石ついてるかもだし……!」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! ていうか、あとでちゃんと返してあげるから、九郎にパス!」
「……ううう、すっごいヤだけど、こいつら超不気味っ! えいっ!」
五月の手を冠は離れ、揺れる影絵たちの上に放物線を描き、九郎の手元へと落ちる。
冠の重さに、受け止めた九郎の手が弾んだ。
「結構な重さだな。よし。これで奴らをおびき寄せるぞ」
案の定、白い影絵たちは、五月へと伸ばしていた腕を引き、ゆらりと揺れた。どうやら九郎を見たようだった。
一旦動きを止めた影絵たちが、時々紙のように薄っぺらくもなる身体を前後に揺らしながら、九郎の方へと向き直り、そして。
「……むっ!!」
音もなく、飛んだ。獣が飛びかかるような動きで一斉に九郎に躍りかかる。
その意外な素早さに夏樹が悲鳴を上げた。しかも、白い影絵が擦れていった床面も、さっきの椅子のように白く変わり、靄を立ちのぼらせだしたのだから、少しでも触れてしまえば九郎も影絵のようになってしまうに違いない。それが何を意味するのかはわからないが、避けなければならないということだけは夏樹にはわかった。
「九郎!?」
九郎は、弧を描いて飛びかかってくる影絵の下をかいくぐり、右へ左へと身体を躱して広間を駆ける。そして五月からは充分に離れた片隅へと後退り、
「夏樹!」
叫んだ。
ボゥ、と夏樹の全身が炎に包み込まれる。
熱気に髪を逆立てながら夏樹は両腕を前へと押し出した。
足元から腰、背へと這い上がっていく火が肩から先の腕へと集まっていき、
「ハァッ!!」
掛け声と共に、掌から打ち出される。
ボゥン、と音を立てて掌から放たれた火が一直線に九郎めがけて飛んでいく。
しかし、火球が着弾するよりも速く、九郎は全身に溜めた気を身体の前に張り巡らせ、それを盾として影絵たちへと突っ込んだ。
下手な鉄製の盾よりも硬い九郎の気壁のことだ。まして、「気」である。靄のように揺らいでいた影絵たちは吹き飛ばされて、九郎を取り囲んでいた円陣に穴を開けた。
九郎はその隙を逃さずに弾丸のように飛び出した。
九郎の背後で、質量の大きな何かが激突するような音が響いた。
振り返ると、壁が燃えていた。いや、燃えているというより、壁にボコンと大きな空洞が空き、その縁が赤く溶け流れて煙を立てている。
白い影絵たちの姿は消えていた。
「うわぁ……蒸発したし。壁が、一瞬で蒸発……」
五月が茫然と呟いた。
ふう、と肩で息をついた夏樹の元へと九郎が歩み寄る。
「九郎、大丈夫?」
「ああ。それより、おまえの火が効いてよかった」
「そうね。……で、それ、持ってて平気?」
そう言って夏樹が見たのは、九郎の手の中の冠だった。
「別段、持っている分には大丈夫そうだな。また何かヘンなものを呼び出しちまうかもしれんが。五月」
呼ばれて「はーい」と五月が戻ってきた。そしてしげしげと九郎の手の中の冠を見つめる。
「それ、誰の冠なんだろ?」
「さぁな。男物ではあるんだろう。女に乗せるにはあまりにいかつい」
表で建物の看板を見た五月は、「あれ?」と首を傾げた。
「てか、ここ、そういう建物? オルゴール博物館って書いてなかったっけ?」
「歴史博物館ってわけじゃねぇはずだがな。……が、さっきの白い幽霊みたいのも、妙な恰好をしていた。何かあるのかもしれん」
首を捻っている九郎の肩を夏樹が叩いた。
「ねぇ、あの、壁に穴が開いたところの向こうに何か見えるよ。部屋が続いているみたい」
言われて二人が見てみると、なるほど、夏樹が壁に開けた大穴から、薄明かりが漏れている。
「あれー? 明かりついてんのかな……?」
五月が二人より先に、壁の穴の方へと歩いていった。
赤く灼けていた穴の縁からおっかなびっくり明かりのする方を覗き込む。
「あれ? 夏樹ー」
「なに? なんか見えた?」
「えっとね。なんかある」
「……うん、なんかあるのはわかったから、何」
がっくりと肩を落とした夏樹が、手招きをする五月に近付き、一緒に壁穴の向こうを覗き込んだ。
なるほど、「何か」ではあったのだ。説明のしづらい「何か」。
敢えていうならばいくつもの穴が開いた台座とでもいえばいいだろうか。それが一つ、二つ、三つと並んで置いてあった。
「なぁ、夏樹、あれ、なんだと思う?」
「さぁ……。一番奥のには、机と椅子ものってるけど。誰かが座ってたみたいに見えるね」
一番最後からゆっくりとした足取りでやってきた九郎が、後ろから二人に加わった。
「真ん中のヤツの上には箱みたいのが見えるな。……なんだ? アコーディオンか?」
「向こうの端っこの台の上にあるのって、カゴかなぁ? 花か何か入ってんね。看板みたいのもあるけど」
好奇心に負けたらしい五月が、そっと穴に潜りだした。もちろん、穴の縁に触れれば火傷するところだ。そこは慎重に、という仕草で向こう側へと抜けた。
「九郎、夏樹、これ見ろよ。やっぱりなんか変な穴が開いてる。これ、元々何か乗せてあったのかなぁ?」
三つの台を代わる代わるに検分しながら言うのを聞いて、九郎たちも後に続いた。
「うん……。このアコーディオンとか机とかがメインってわけじゃない感じよね」
「夏樹に五月、見てみろ、あっちの壁際」
唐突に九郎が指さして見せた先を見ると、壁際には大きさも形もさまざまな四角いタンスのようなものが並んでいた。よく見るとLP盤よりもよほど大きな金属製の円盤が中にはめ込まれている。
「これが昔のオルゴール? ディスクオルゴールとか言ったっけ……」
五月が、へぇぇ、と呟いた。
「じゃあさ、あっちのタンスの上に座ってるのもオルゴールなのかな」
「だから、タンスじゃなくて、あれもオルゴールだってば!」
夏樹がすかさず突っ込でいる隣で、九郎は目を見開いていた。
九郎の背筋に一瞬にしてチリチリとした刺激が走る。
扉付きの本棚のようにも見えるオルゴールの上に、手脚をダラリと垂れた人形が座っていた。物憂げな表情をした顔は白く塗られており、目の周りが化粧で縁取られている。紫ビロウドのパジャマのような服を着て、爪先の尖った木の靴を履いている。そして、腹の上に抱えているのはベネチア風の羽根飾りの付いた仮面だ。そんな恰好をしたピエロの人形がぐったりと座り込んでいた。
「五月……。夏樹」
低く小声で名を呼ぶ。だが、二人には九郎の声は聞こえていないらしい。
「ああ……私の友達の家にもああいう置物あったなぁ。その女の子の家ってすっごく西洋趣味だったんだ。家の中に入ると、外国の家にいるのかなって思っちゃうくらい」
九郎が背中に感じる細かな電流が流れているような感覚。それはやがて背中だけでなく、肩先から首筋、頬にも感じるようになった。それは九郎のよく知る感覚だった。
殺気。
ひしひしと迫り来るそれは、どこから向けられているものなのかわからなかった。初めのうちは。だが、今、九郎の視線は一点に据えられていた。
「夏樹! 五月! 下がれ!」
言うやいなや、二人の返事も待たず、肩を掴んでぐいと引き寄せる。床へとたたきつけるように伏せさせた九郎の頭上を白いものが突っ切っていった。
鋭く硬い音が九郎たちの背後でした。
「へっ!? なになに!?」
夏樹が振り返ると、すぐ後ろの床にめり込んでいるものがある。
ひび割れた仮面だった。ピエロの人形が抱えていた仮面。
「……見えなかった……」
茫然と夏樹が呟いた。
置物のように見えたピエロ人形は、ゆらりとその身体を起こし、トランプのカードを広げるように仮面をいくつも持ち、いましも投げようとしていた。
「来るぞ!」
夏樹と五月を突き飛ばした九郎が、高く脚を上げ、次々と飛んでくる仮面の横合いから踵を叩き込み、撃ち落としはじめる。爪先で仮面の裏の窪みを蹴り上げる。仮面を蹴るタイミングを間違えてはならない。九郎の蹴りは軌道を変える目的のみの蹴りだ。仮面を破壊するためのものではない。真っ向から喰らってはいけないものだと、仮面をめり込ませた床が語っていた。
「キリがねぇ! 夏樹、アイツだ! アレを燃やせ!」
夏樹の鋭い爪の生えた五指が、何かを掴むような形でピエロ人形の方へと突き出される。鈍い音を立てて燃え上がった腕から、炎の弾丸が飛んだ。隙を与えないよう、二発三発四発五発と続けざまに打ち出す。
機関銃の弾丸のように放たれた炎が、ピエロを包んだ、と夏樹には見えた。
「あぁ!?」
夏樹の炎を躱すように身体を旋回させ、ピエロ人形は大きな装飾を施されたディスクオルゴールの上から跳躍した。それだけならば夏樹は驚かなかっただろう。普通の少し大きめの人形ぐらいに見えていたピエロ人形が、宙にある間に手足が伸びたように見えた。そしてそれは見間違いではなかった。
「で、デカくなった……!?」
五月が驚きの声を上げた。
普通の人間の男ほどの大きさになった元ピエロ人形は、仮面を両手に付けたまま、猛然と駆けて来るではないか。
明らかに、夏樹を狙っていた。
両手に並べた仮面はどれほどの硬度と殺傷力があるのか、後ずさりする夏樹の前に大きく踏み込み、腹と首元を交互に狙って横薙ぎに腕を振るってくる。首に触れたら一発で喉を破られそうだ。
「くっ……!!」
炎を撃ち出す間が無い。
夏樹は歯を食いしばり、床を蹴って高く飛んだ。
腕に纏わせた炎ごと、拳で相手の延髄を殴りつけてやろうという魂胆だった。
もっぱら左右からの攻撃をしかけ来ている以上、急に身体の向きを変えようとしても、体勢を変えるまでには一瞬の間があくに違いない。その隙にと考えていた。
だが。
ピエロは何の予備動作もなく柔軟に身体の重心位置を変え、前傾姿勢から仮面を持った手を頭上へと突き上げてきた。夏樹の方は空中では大きく身体の向きを変えることは出来ない。
ピエロの頭上を越える頃には、突き出された手にある仮面で胸元を切り裂かれる、と一瞬後の自分の姿が予想出来てしまった時。
ピエロが後方に吹っ飛んでいき、壁に叩きつけられて崩れ落ちた。
何事が起きたのかわからないまま夏樹は床に手を突いた。
夏樹の後ろで九郎が片手を突き出して構えた姿勢で、呼吸を収めていた。珍しく荒い動きで肩が上下している。
九郎が気を撃ち込んでくれたことで、自分は助かったのだと夏樹は理解した。通りすがりに九郎の肩をそっと叩いて暗黙のうちに感謝を伝える。
「……ヤツ、まだ生きてやがる。真正面からドテッ腹に相当喰らわせてやったつもりだったが」
九郎が低く言った。
壁際でムクリと身体を起こしたピエロが、今度はゆっくりとした動きで歩み寄ってくる。片脚を引き摺りながら、顔色ひとつ変えず、呻き声も上げずに向かってくる姿はどこか凄まじい雰囲気がある。
調息しながら身構えなおした九郎の隣を、
「おーにさーん、こっちらー!! 手ーのなーるほーうへーっ!」
駆け抜けていったのは五月だった。
「九郎、俺にちょっとやらせて!」
「ちょっと、五月、危ないって!」
ピエロが、五月を見た。九郎たちとは反対の方へと走っていく五月を視線で追う。首がギギギとでも音を立てそうなほどに、不自然な動きをしているところからすると、五月の声の呪縛にかかっているらしい。抗いたくても抗えない様子で、五月の姿を見つめ続けている。
「五月がアイツを視線を逸らさせている間に、俺たちが行くべきだな。速さで言えばあの人形もどきの方が速い。夏樹、あの人形もどきの右に回れ。三方から囲む」
「了解!」
九郎に続いて、夏樹も走り出す。
取り囲むように向かってくる三人をピエロは見ていなかった。五月だけに顔は向けられている。
ピエロは夏樹や九郎からは背けた姿勢のまま、両腕を、ザ、と開いた。拳の中に白い仮面を握りこむ。パキパキと音を立ててそれは砕け。
途中で腰を落とした九郎が大きく広げた両手から気を放ったのと、夏樹が刃の形をした炎を撃ち込んだのと、ピエロが砕けた仮面の破片を九郎たちへと放ったのはほぼ同時だった。火花が弾けるような音がした。
散弾銃の弾のように放たれた仮面の欠片を九郎が広く張った気の壁が受け止めていた。
ピエロの横合いから炎の刃を振り落とした夏樹の眼前でもそれは弾けた。
暫しの間の後、床に倒れたのはピエロだった。
仮面の破片を障壁がわりにも使ったのか夏樹の炎に焼かれこそしていなかったが、衝撃は喰らったらしい。重い音を立てて転がったピエロは先ほどとは違い、身動きもしなかった。夏樹が肩で息をついていた。
しばし黙り込んだ三人の後ろで、男の声がした。
「……お見事」
夏樹がとっさに顔を上げた。
「まだいたのっ!?」
見れば中世ヨーロッパを舞台にした古典劇にでも出てきそうな猟師風の恰好をした男が、至極ゆっくりと手を叩いていた。肩にはアコーディオンを引っかけている。つい今し方どこかで見たような気がするアコーディオンだった。
「貴様もこの変なピエロの仲間か」
九郎が早々に体勢を立て直し、身構える。
「貴殿らのお手並み、しかと拝見いたしました」
何を人を食ったようなことを、と吐き捨てかけた九郎だったが、ふと聴覚が目の前の男のものとは違ういくつもの声を捉えた。
夏樹が開けた穴の方から聞こえて来て、その上だんだんと近付いてくる物音へと耳を澄ます。
やがて穴から三つの顔が覗いた。
「ペアレス! イカルス! ここにいたの!?」
叫んだのは、金に近い栗毛色の巻き毛を肩に垂らした、小さな少女だった。古いビスクドールが生きて動いているようなその少女も、やはり人間には見えない。
「ペアレスにイカルス……? あのピエロとかのことかしら。ってことは、まだこんなに仲間がいたのね……って、あれは?!」
夏樹の呟きが驚いた調子で途切れたのは、三人のうちの一人に見覚えがあったからだ。
ビスクドールのような少女の傍らに、焼けただれた革ジャケットを着た男が一人と、その男の胸元に抱えられてぐったりとしているうら若い女性が一人。
五月が叫んだ。
「あああっ!! 消防車のおねーさん!! 九郎、夏樹っ! あの人だよ! 生きてた! でもっ!」
ビルの外で炎の渦に吸い込まれて建物に飲み込まれていった女性――美香が、男の腕に抱えられているのに目を剥いたのは五月だけではなかった。
「人質に取ろうったってそう上手くいかせないわよ! その人を離しなさいよッ!」
夏樹が憤怒の形相で、腕に燃え盛る炎を纏わせる。
そして問答無用とばかりに槍を投げるようにクリュティエへと腕を振るった。
唸りを上げ、一寸のブレもない真っ直ぐな軌跡を描いて飛んでいった炎が、クリュティエを飲みこまんとする。
ボン、と鈍く大きな破裂音が響いた。
夏樹の放った炎の槍に食われたのは、栗色の髪をした乙女ではなく、革のジャケットに身を包んだ男の方だった。
隣で頭を抱えた美香が悲鳴を上げた。
「待って! ダメ! ああっ!!」
オレンジ色の火達磨の中に黒い影がぐらぐらと揺らぎ、どう、と床に伏した。
「黒瀬さん! 黒瀬さんっ!!」
「あの方の火を消して!」
走りよってきたクリュティエが夏樹の手を握った。
夏樹はまだ腕の炎を収めていなかった。ために、クリュティエの指先に火が移り、それはあっという間に肘から腕までを焼いていく。
「ダメよ、離して! あなた火傷……!!」
夏樹はクリュティエの手を振り払った。
「どういうこと!?」
美香とクリュティエの顔を見比べる。そして床の上を転がり回りながら獣のような呻き声を上げている黒瀬というらしい男を見た。誰が敵で誰が味方なのかわからない。
「黒瀬って……? くッ!」
黒瀬を灰にしようとしている炎を見つめ、眉間に意識を集中させる。
目を瞑る。瞼の裏にちらつく炎の残像を、意識して、散らそうと試みる。
何本もの腕をくねらせる炎が、見る間に色褪せ、そして音もなく、消えた。
「消えた!!」
美香が、夏樹が、顔を腕で庇った恰好で床に倒れたまま煙を上げている黒瀬へと駆け寄った。
「黒瀬さん! 大丈夫です、か……」
「大丈夫……? なんで……」
ジャケットのあちこちが焼けて破れている。
袖から見えている腕も強度の火傷に赤黒く爛れていた。
思わず、美香と夏樹が息を呑む。
顔を青くした美香が黒瀬の肩口をそっと叩くと、
「黒瀬さ……きゃ!」
ズルリ、とジャケットが剥がれ落ちた。
「ちょっとお姉さんそこどいて! 私が応急処置するからっ!」
あまりのことに顔色を真っ白にして頬を強ばらせた夏樹が、黒瀬のそばに素早く膝をついた。
すると。
「……今日はやたらと火責めに遭う……。火難の相でも出ているんだかな」
顔を庇った形のまま固まっているように見えた黒瀬の手の先がピクリと動いた。
「黒瀬さん!?」
夏樹は驚愕に目を瞠った。応急処置をしてみるとは言ったものの、出来遂せる自信はほとんどなかったのだ。自分の火にかかれば、人間などひとたまりもない。そしておそらくこの男は人間だ、と、思っていたのだ。最悪の事態を容易に想像していただけに驚きは大きかった。
「生きてる!?」
「そこの……虎女、かな。君の力を少し借りたぞ」
黒瀬が腕を解いた。髪も焼け、頬や耳元は酷い火傷を負っているが、目鼻は辛うじて無事である様子だ。
「借りた……? 私の力を借りた、って?」
「俺は他人の力を少しだけ、真似ることができる。少しだけ、だが。……しかし、相当な威力だな」
それでこのなりだ、と、だらりと皮膚のめくれた手の甲を指さした。
「でも酷い火傷。黒瀬さん、だったっけ? 大丈夫……?」
あまりな黒瀬の惨状に、夏樹が心配そうに言うと、黒瀬は肩を竦めた。
「君の炎に焼かれて大丈夫なわけがない。力の行使が一瞬遅れていたら、そして、君が火を消してくれなかったら、俺は今頃あの世にいたかもな」
冗談なのかそうでないのかわからないような口調でうそぶいて、黒瀬は起き上がった。
「いつつ……」と呻きながら、それでも立ち上がる。
「さて、俺はこの通りかなりの誤解を受けてしまったわけだが、人形たち、君たちは俺たちに何をさせたいんだ? クリュティエは俺たちに力を貸して欲しいと言った。ああ、俺にではなく、この女性や、君たちに対して、のようだが」
黒瀬が、九郎たちを見て「君たち」と顎をしゃくった。
「力を貸せだと? つい今しがた、俺たちはこのよくわからん人形どもに喧嘩を売られたばかりなんだが」
九郎が明らかに不機嫌な顔になる。
「ちょっと待って」
進み出たのは美香だった。
「クリュティエ……ええと、クリュティエっていうのは、このお人形さんのことね。それに、その後ろの人たち。……あなたたちがクリュティエの仲間の、イカルスとペアレスなんでしょう? この人たちね、力を貸してくれる人を探していたんですって。でも、貸せるだけの力が無いと駄目だから」
「私たちを試したってこと?」
美香の言葉の続きを夏樹が引き継いだ。
すると夏樹たちの後ろでゆらと影が揺れた。
白く塗った顔に、筆で書いたと思われる奇妙な隈取りと口紅。紫色のすとんとした服に身を包んだ道化師姿の男が頭を下げた。
「そういうことなのです。申し訳ございません。大変な無礼をいたしました。改めまして、私の名はペアレスと申します。隣におります者はイカルスと申します。そして、お聞きの通りあの者がクリュティエと」
ペアレスの傍らで中世の町の飲んだくれか猟師かと言った姿をした男がゆっくりと頭を下げた。
ペアレスが言葉を続けた。
「この博物館は我々の寝床でございましたが、ゆえあって、今、このような災難に見舞われております。先んじてご存じの通り、この火事の因は人にあるものではなく、我々の方にあるのです」
「じゃあ、おまえたちがケリをつければいいじゃねぇか」
すげなく九郎が言い放つ。
そんな九郎の耳たぶを夏樹が摘んで引っ張った。
「いてててて!」
ペアレスは畏まった。
「むろん、仰せの通りでございます。本来ならば我々が始末すべき事なのです。ですが、情けないことにこの火事の因は我々の力及ばぬところにございまして。それゆえ我々よりも力のある方にご助力いただけまいかと、お探し申し上げておりました」
「それで、さっき夏樹も言っていたが、俺たちを試したってことなんだな」
「さようでございます」
「じゃあ、そのおまえらの言う火事出したヤツって誰なんだ」
「それは……おそらくは、あるオルゴールなのだろうと」
「……は? オルゴールが火遊びすんのか」
「いいえ、そのようなことはございませんが」
「よくわからねぇが、それでご助力とやらをしろって、具体的にどうすりゃいいんだ」
ペアレスが更に畏まり、跪いた。。
「その火の元であるオルゴールを探していただきたいのです。そのオルゴールは最上階の収蔵庫にあるはずだったのですが、この建物はとうに空間が歪んでおりまして、我々も探しましたが収蔵庫に行き着くことは出来ませんでした。どこにあるのかわからないのです」
「ああー。俺たちさっきどこ歩いてんだかわかんなかったもんなー」
納得したように頷いたのは五月だ。
「でも、空間が歪んでるってことは正解があるのかないのかもわからない迷路みたいなものよね。そんなところを探すのって……どれだけ時間がかかるのかしら」
夏樹が腕を組む。
九郎がパラパラと塵の降ってくる天井を見上げて言った。
「俺の感覚からすると、まだ燃えているところはあるはずだ。火の手が回らない先に、その収蔵庫とやらを探せということか」
「さようでございます。そしてその収蔵庫を開けるには鍵が必要でございます。ですので、その鍵も」
「鍵なら、金庫室とかじゃないのか」
「なるほど。ですが、それもどこにあるやら……」
ペアレスの言葉に皆が皆一様に沈黙してしまったが、その静寂を破ったのは夏樹だった。パン、と手を打った。
「迷路ってことは、考えていてもしょうがないよ。あるはずの場所に部屋がないんだから。こうなったら、手当たり次第に探すしかないんじゃないかな」
そうだな、と九郎が頷いた。
五月も同じく首を縦に振った。
夏樹たちの話を聞いていたペアレスが、こうしましょう、と続けた。
「手分けして探してくださるのならば、我々が道先案内をさせていただきます。空間が歪んでしまったとはいえ、その場に至ればそこが何の場であるかは我々の方がよく存じておりますゆえに」
「なるほど、それはありがたい。なら、あとは俺たちが誰と一緒に行くか、だな」
はたと考え込んでしまった一同の中で、真っ先に手を挙げたのは夏樹だった。
「私は九郎と一緒に行くよ。てことで、私は九郎に任せたから。ちょっと着替えしてくるね」
そう言い残して、スポーツバッグを肩に掛け直し、自分一人さっさと柱の陰の方へと歩いて行く。
「夏樹ってば、早ッ! 九郎に任せるって、そう来たかぁ〜。俺、どうしよっかなぁ」
五月が腕を組んで、ううん、と唸った。
皆の話を聞いていた美香が傍らの黒瀬を困った顔で見上げた。
「手分けして探すことになったとしても、私じゃ探せないのだけど。大丈夫かしら」
黒瀬は片方の眉をひょいと上げ、何ということもないという様子で言った。
「俺がいるだろう。あの、夏樹という娘の力も借りたことだ。火を操る力を少しならば使える」
そう涼しげに言う黒瀬を、だが、美香は不安そうに見つめる。何しろ身体がボロボロなのだ。
そんな美香の心中に気付いたのか、黒瀬が横目に美香を見下ろした。
「……俺は、見てくれよりも頑丈に出来ている」
美香は、不安げというより、今度は心配そうに黒瀬を見ていたが、しばらくの沈黙ののち小さく頷いた。
「……無理は、しないでくださいね」
黒瀬が小さく笑った。
五月はまだうんうんと唸っていた。
「俺たちが選ばなきゃなんないってことかぁ。んーと、どうすっかなー。って、えええ!? 夏樹っ!?」
五月が素っ頓狂な声を上げた。白い体操服と臙脂色のブルマという恰好に着替えを終えた夏樹が柱の陰から出て来たのを見てしまったのだ。
「ぅおおおおお! ブルマ! ぶ、る、ま!!」
うぉぉぉ、と目をひん剥き鼻を押さえた五月の頭を、夏樹がバコーン!と殴る。ちなみに得物はスポーツバッグだった。着替え一式を入れていたものらしい。
「いっでぇ!! おま! それ痛い!!」
「どーゆー目で見てんのよ!」
「いや、フツーにオトコゴコロとして自然な反応って言うか……」
「何がオトコゴコロよ! 体操服なんてふつーの恰好でしょ! アンタもブルマ履けばいいのよ! ブルマ! 似合いそうなんだから!!」
似合いそうなんだから、のあたりにワザと力を篭めて言った夏樹の言葉に、五月は頭を抱えてうずくまった。
「ハートが痛い……ハートが……」
墓穴を掘ったらしい五月が頭の痛みと心の痛みに悶絶しているのを見て見ぬ振りで、夏樹はレインコートをバサと羽織った。
「九郎、どうする? どこにあるんだかわからない鍵を探すんだよね? 誰と一緒に行く?」
「俺は、……そうだな。そっちのアコーディオン野郎と行こうと思う。……おまえたちだったんだな。あの穴だらけの台座から抜け出したものの正体は」
顔に逡巡の様子が過ぎっていた九郎だったが、そう言いながらも何故か、視線はイカルスのアコーディオンに止まっている。
「あんたどこ見てんの? それに、アコーディオン野郎って。名前聞いたでしょ。イカルスだってば」
「アコーディオン……」
イカルスが手に持つアコーディオンにじっと熱い視線を注いだまま、微動だにしない。
夏樹が、ふう、と溜息をついた。
「アコーディオンが気に入ったのね。……じゃあ、さっき宣言したとおり、私もイカルスと行くよ」
「五月様はどうなさいます?」
クリュティエが五月を見上げた。
「んとねー。俺はこの人にするー」
しっかとペアレスの袖を握る。
「だって、面白そーじゃん。道化師だって! 俺、こんな近くで見たの初めてだし! 玉乗りとかしてくれっるかな〜ぁ」
「……五月……ちょっとあんた、遊んでるんじゃないんだから」
とは言いつつも、ペアレスと並び立つ五月の姿に、わずかながら似たものを感じる夏樹である。
「美香、あなたはどうするの?」
クリュティエが傍らに座り込んでいる美香を見た。
「私は、……クリュティエと共に」
少しの間の後、クリュティエが頷いた。その後ろで黒瀬も頷いた。
「よし。これで皆が三方にわかれて探すことが出来るということだな。効率がいい」
ペアレスとイカルスとクリュティエ、そして夏樹に美香がそれぞれの決意を胸にゆっくりと頷いた。
「よし、行くか」と九郎が背を向けると、五月が言った。
「けど、戦力は三分の一ずつになっちゃうよ? 大丈夫かなぁ」
言葉の内容とは裏腹に、今夜の野球は延長戦になるみたいだよ、ぐらいののんびりとした口調だった。だが、本人は至って真面目に心配しているらしい。九郎と夏樹と美香や黒瀬を、意見を求めるようにかわるがわる見つめた。
そんな五月に、九郎は一言。
「そこは気合いで乗り切る」
ホールに五月の異議アリといわんばかりの「えええーっ」がこだましたのは言うまでもない。





<了>




<登場人物>

6855 深沢・美香 20歳 女性 ソープ嬢
8114 瀬名・夏樹 17歳 女性 高校生
2895 神木・九郎 17歳 男性 高校生兼何でも屋
7578 五月・蝿  21歳 男性 (自称)自由人・フリーター

(以上受注順・敬称略)

NPC5310 クリュティエ ???歳 女性 オルゴール人形
NPC5317 イカルス ???歳 男性 オルゴール人形
NPC5318 ペレアス ???歳 男性 オルゴール人形
NPC1381 黒瀬・アルフュス・眞人 32歳 男性 代行者


<ライターより>
とんでもない長さになってしまいました……工藤です。
今回も参加してくださいましてありがとうございました。
ようやく合流出来ました。
と思ったら、次回からは……ですが。
本当に長々しい話を読んでくださり、ありがとうございました。
次回のプレイングについては、シナリオのところに掲載させていただきます。
よろしければ、ご参加くださいませ。
本当にありがとうございました。