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■【ふじがみ神社】はた迷惑な夢の国■

夜狐
【3689】【千影・ー】【Zodiac Beast】
 神社に、桜が咲いた。立派な古木に溢れんばかりに。花びらが雪のように降る如くに。立派な立派な、桜が咲いた。
 ――のは、ずいぶん昔のことで、その古木はとうに切られて久しいはず、なのだが。



「桜が咲いてるわね」



 桜は咲いていた。現実と季節と、色々な物理法則をぶっちぎりで無視して咲いていた。
 当たり前だ。あれは夢の中の世界。夢の中の世界の桜が、どういう訳だか現実の神社まで浸食している。

「ごめんなさいすみませんあたしが悪かったですそろそろ下してください佐倉先輩」
「しばらくそこで頭を冷やしなさい天然暴走トラブルメーカー」

 冷淡な声は木の根本。平謝りに謝る声は木の上から、それぞれ聞こえて来る。冷淡な方が嘆かわしげに、呟いた。

「全く。仮にも神様ともあろうものが、<夢魔>に憑かれるなんて前代未聞だわ…」


 夢魔、というものがある。一般的には魔物の一種として伝えられる名称だが、一部の錬金術師にとっては、「望んだ夢を見る為の道具」として伝えられてもいる、一種のマジックアイテム、ないしは使い魔的なもののことだ。対象へ憑依させて使うものなのだが、稀に暴走を起こすため、あまり好まれるものではない。
 ちなみにこの場で桜を咲かせている元凶は、後者の方である。絶賛暴走中の<夢魔>――それがこの、「あり得ない桜」の元凶であるらしい。
 ――そんな風に説明されたことを思い起こしながら、苛立たしげに腕を組む木の根元の少女。そのすぐ目の前、古木に体を預けて、一人の少年がぐーすか寝入っていた。

「しかもこんな肝心な時に、使えないバカは寝てるしね…全く」
「超絶憑依体質の先輩が<夢魔>に憑かれなかったのに、藤が先に憑依されるなんて珍しいね」

 ふと思いついた風な樹上の問いかけに、額をおさえて佐倉は応じた。吐き捨てるように容赦なく。

「このバカはね。あたしを庇って憑依されたのよ。どうしようもないクズだわ。アホだわ。救い難いと思ってたけど私の想像以上に救えないバカだったのねこのバカ。ダイバカ。」
「うわー助けたのにそこまで言われちゃ散々だよ先輩、いくら藤でも可哀想だよ」
「事実でしょうが。…こんな、わけのわからない事態、ただの憑依体質の私にどうしろって言うの。こういうときにこそ、このバカの方が必要なんでしょうに」

 溜息をついて、少女は少年の頭を叩いた。割と本気で叩いたように見えたが、少年が目を覚ます様子はない。樹上につりさげられた――どうやら木の根元の少女がやったらしいが――少女が、ううんと唸った。

「先輩ってツンデレ?」
「私は事実を指摘しただけよ。…それで響名。<夢魔>とやらはどうすれば除去できるの?」
「うーん、ホントなら夢の中に入る必要があるから、特別な魔法なり、能力なり、道具なり必要になるんだけどね。そんで夢を見てる本人をたたき起こすの。でもこの夢、現実側までバリバリ浸食してるからなぁ。多分この桜の咲いてるトコ…神社の裏に続いてるのかな?そっちの方行けば、寝てる本人たちもいるんじゃない?」
「またずいぶんと曖昧なのね」

 佐倉がまた、溜息をつく。樹上の少女、響名を見上げて、冷たい目をした彼女はこういった。

「――これはあなたの作った<夢魔>でしょう、響名」
「いや、あたしもまさかここまでとんでもない性能を発揮するとは」
「お黙りなさいこのへっぽこ錬金術師」

 ぴしゃりと言い置いてから、彼女はまた腕を組んだ。春の匂いがするやたらと優しい眠りを誘う風に抗うように、眉根を寄せてしかめつらをする。――元来、ありとあらゆるモノに憑依されやすい体質の彼女は、ここに居るだけで<夢魔>に誘われそうなのを懸命に堪えていたのだ。

「全く。神社の関係者がこぞって倒れたりしたら、誰がこの桜の説明をするのよ…。響名、あなた、ちゃんと責任とりなさいよ。とらないと後で酷いわよ」
「既にひどいことになってるよ…」

 縄でぐるぐるに縛られた上に桜の枝のひとつにつるされた、ミノムシのような恰好の少女・響名は、呻くように答えたが。
 ――どうやら佐倉には聞こえなかったようだ。彼女は、根元に倒れ込むようにして、眠ってしまっている。
 じたばたと暴れながら、響名は叫んだ。

「せめて縄を解いてから倒れようよ、せんぱーい!」




 少女の甲高い悲鳴を聞きつけたか、それとも場違いな桜の花に惹かれたか。神社に訪問者が訪れるまで、まだしばしの時間が必要だ。
*夜明けのあなたに、目覚めの一杯を。



 ――薄暗がりに妖しく、桜が咲いている。
 冬の夜は長く、しかし空気は乾いて月の灯りも煌々と眩しい程だ。その月明りを集めてでもいるかのように桜が花弁を散らしている。その様相を、いっそ楽しげに頬杖をついて見守る影があった。神社の境内にそびえる藤の古木――その枝に腰を下ろす和装の女性だ。
 その彼女が、扇子で隠した視線を自身の足元、古木の下へと動かした。
 ちりり、と軽やかな鈴の音。その鈴の音に負けず劣らずの可愛らしいハミングは、季節柄だろう、楽しげなクリスマスソングだ。その歌声がぴたりと止まり、古木の下で、小柄な影――千影、という名を持つその少女は、ちょこんと一礼した。
「こんばんはっ」
「先にわたくしに挨拶とは、今時随分と礼儀の行き届いた子だこと。…お嬢さん、こんな夜更けに、神社に何か御用かしら?」
「んーとね、誰かが呼んでいたみたいだったから、来てみたの」
「うふふ。それはあそこで悲鳴を上げているウチの参拝客のことね?」
 古木の上で、女性は手にした扇子を一方向へと向けた。その先には、薄闇にぼんやりと浮かび上がる様に、桜が咲いている。冬だと言うのに、肌がひりつくほどに寒い夜だと言うのに、そんなこと無関係に咲き誇っていた。そこから時々、思い出したように「誰かー!」という助けを求める声が響いているのだ。
 千影はこくりと頷いて、心底不思議そうに首を傾げる。髪飾りについた鈴がちりん、とその度に鳴った。
「静夜ちゃんとも言ってたの。もうすぐクリスマスなのに、クリスマスツリーじゃなくて、桜が咲いているなんて変ね、って」
 言いながら、ね、と彼女が同意を求めたのは腕の中の垂れ耳の黒兎だ。兎の方は同意を示してか、僅かに彼女の腕の中でもそもそと動いたようだった。それを見ながら、樹上の声が応じる。
「あんな立派なクリスマスツリーもそう無いとは思うけれど、そうねぇ。わたくしだって、どうせならモミの木の方がよくってよ。…あれでは派手に飾れないわ」
「あれじゃあてっぺんにお星さまも飾れないよねぇ」
 そうね、と、可笑しそうに樹上の女は笑う。それに被さるように、また、桜の方から悲鳴が響いた。
「ねぇ、誰でもいいからー! 助けてよー! 寒いしー!」
「ほらまた呼んでいるわ。いっていらっしゃいな」
「うん! お邪魔しまぁすっ」
 ぺこりと丁寧に一礼してから、千影は桜の大木の方へと駆け去っていく。それを見送り、和装の女は上機嫌の笑みを浮かべた。
「良い夢を。そしてわたくしの兄様に、良い目覚めを」


 境内の裏手へ続く小道を歩いて一度瞬きをしたら、もうそこは「夢の中」だった。さっきまでひりひりと肌が痛いくらいに冷え込んでいた空気がふわりと温かくなって、千影はぱちぱちと二度三度瞬きをする。
 周りの風景もがらりと変わっていた。遠くからは笛と太鼓のお囃子が聞こえてくる。空が暗いことには変わりないが、周囲にはずらりと屋台が並び、電球が輝き、沢山の人が楽しげに行き交う。からころと響いているのは、浴衣姿の女の子たちの履いた下駄の音か。
「わぁあ…、お祭りだ…!」
 鼻先をくすぐる甘酸っぱい香りはきっと林檎飴。甘ったるいふわふわの綿あめ、きらきら光る金魚の群れ。客寄せの賑やかなざわめきに、千影は我慢できずに屋台のひとつに駆け寄った――のだが。
「あれ?」
 するり、と。
 駆け寄った先で伸ばした手は、裸電球の下で美味しそうな林檎飴にも、屋台に群がる人にさえ触れることが出来なかった。確かめるように腕を振って、千影はひとつ、頷く。
「そっか。夢の中じゃ、どんなに美味しそうでも食べられないものね」
 そんな彼女を、沿道の人々も屋台の賑わいも気にも留めない。それどころか時折、千影の身体をすり抜けて行く。
 さて、どうしようか、腕に抱えた垂れ耳の兎に尋ねるように目線を落とすが返事は無く。
 代わりに、ぞろり、と、屋台の一部が蠢いた。形を崩したそれは突如として木の根や絡まり合う蔦のような姿に転じると、何の前触れも無く、しかし一斉に千影へ襲い掛かる。
 千影はどこかきょとん、とした様子で、自分の方へと襲い掛かってくる植物の塊を見遣っていた。一方で周りの幻の雑踏はまるで動じた様子も無い――多分、「夢の一部」である彼らにとって、この情景は「無いモノ」なのだろう。
 が、その雑踏から、飛び出してきた人影があった。
 ひとつは少年。神主姿で、祓え串を手にしている。
 もうひとつは少女。紅白の鮮やかな巫女衣裳で、飛び込んできた少年の背に一度触れてから、そのまま千影の背後に回り込んで、彼女をひょいと抱き上げた。
「藤! こっち、霊力そろそろ切れるわよ!」
「え、桜花ちゃん充電切れかよ!? 勿体ないなぁ…!」
 叫ぶなり、少年が祓え串を叩きつけるように蠢く根っこにぶつけた。
「かけまくもかしこきふじいろの、ひめがみのみまえにもうす…めんどくせぇ、中略! まもりたまえ、はらいたまえ、さきはえたまえ!」
 キィン、と、植物がぶつかったにしては妙に澄んだ高い音が響いて、大きく辺りの情景が歪んだ。一度辺りの雑踏と屋台が消え去り――しかし、お囃子の音が再び響くと、まるで映像を巻き戻しでもしたみたいに、また同じような雑踏と屋台が並ぶ風景に戻る。
 それを見守ってから、ふぅ、と千影を突然背後から攫った人物が息をついて彼女を地面に下した。千影が振り返るとそこにいたのは16,7くらいの少女である。
「あなた、大丈夫?」
「うん。へーきだよ!」
 自力でも何とか出来たよ、という意味も込めての「へーき」だったのだが、顰め面をする少女には伝わらなかったらしい。
「どこの誰だか知らないけれど、こんな時間に神社をふらつくものじゃないわ。危ないわよ」
「だねぇ。神様が悪戯しないとも限らないし、神域つったって、タチの悪ぃのも紛れ込むからなぁ、ウチは」
 と笑いながら近づいてくるのは神主姿の少年だった。そんな二人を交互に見遣り、千影はまずにっこり微笑んで一礼。
「ええっと、こんばんは。助けてくれてありがとう」
 初めて会う人にはご挨拶。助けて貰ったらきちんとお礼。
 千影はご主人の言いつけはしっかり律儀に守る子なのであった。
「チカはね、チカって言うの」
 にこにこ笑顔の千影に、少年少女は顔を見合わせあった。呆気にとられているように見える。先に立ち直ったのは少年の方で、彼は自分より少し背の低い千影に目線を合わせるように膝を折った。
「俺は藤って言うんだ。そっちの無愛想な巫女さんが俺の未来のお嫁さん……」
「初対面の子に嘘を吹き込まないで、藤。…私は佐倉桜花。桜花でいいわ」
「およめさん?」
「そこは覚えなくていいのよ。ええと、チカ…ちゃん?」
「うんっ」
 元気よく千影が呼ばれて頷くのを見て、腕組みをしていた巫女さんの彼女――桜花は腕を解いた。
「とりあえず、」
 その傍に居た藤がまた祓え串を握り直して、苦笑いする。
「逃げるかぁ。俺の霊力も、桜花ちゃんが今まで充電してた霊力も切れちゃったしなぁ」
 その二人の、背後。
 今度は石畳だ。玉砂利の敷かれた地面がめくれあがり、そこから次々と絡みあう木の根と蔦が伸び、更に噴き出すような桜の花弁が溢れ始める。今まで見えていた桜の花弁と見目には変わらないのに、光景の異様さが手伝ってか妙な不吉さを纏うそれを見て――しかし「きゃあ」と千影が上げたそれは悲鳴ではなかった。歓声だ。
「わぁ、すごいすごーい! え、なぁに、逃げるの、藤ちゃん、桜花ちゃん!」
「当たり前でしょ、あなたも逃げるわよ!」
 楽しげな千影を引っ張って強引に両側から手を握ると、藤と桜花はぴったり息の合った調子で走り出す。その後を追うように地面がめくれ、突如として樹が生え、蔦が伸びて襲い掛かってきた。鼻先まで近付いてきた鋭い枝に、千影はくすりと笑う。彼女の手を取って駆けだした二人は多分、背後のぎりぎりまで近付いている凶暴な枝と蔦には気付いていないのだろう――
「助けてもらったから、お礼しなくちゃ」
 二人には聞こえないくらいの声で呟いた千影の眼前。彼女の影が霞んだ――と見えた瞬間には、肉薄していた蔦が消失している。鋭い刃ででも引き裂かれたように千切れて消えたのだ。
「? 今、何か…?」
 藤の方が振り返ったが、視線を向けられた千影は「にゃ?」と話しかけられたことそのものに楽しそうに反駁するばかりだ。それから彼女は軽い足取りで、今度は逆に二人を引っ張る様に勢い込んで走り出した。
「ねぇ、これって鬼ごっこなの? それならね、チカ走るのも飛ぶのも得意だよ。任せてねっ」
「お、鬼ごっこ…」
 脱力したように桜花が唸りながらも、神社の社殿の陰に走り込む。さっき千影がある程度追い払ったお陰でもあるのだが、例の植物達は少しばかりなりを潜めたようだった。
 桜花と藤が息を整えている横で、欠片も息切れした様子の無い千影が不意に視線をあげた。社殿の屋根の上だ。
「あ、ねぇあれ」
 彼女が指差したのと、同時。
 ――頭上から、桜の花弁と一緒に、無数の蔦が降ってきた。
「加減しろよ、さくらー!!」「も、もういやーー!!」
 抗議しながらも、二人が再度走り出す。その後ろを、こちらは歓声と共に、千影がついて走りだした。
 そこからは、大騒ぎである。
「おっにさーんこっちらー、てーのなるほーうへっ♪」
「チ、チカちゃん、それ洒落にならないわよ、やめて…!」
 影に回り込んでは植物に襲われ、屋台の電灯の下では花弁に視界を遮られ。
「きゃ! あはは、高い高い!」
「…チ、チカちゃん身軽だなー…」
 頭上からは枯葉が刃のように降り注ぎ、油断すれば足元を木の根が絡め取る。境内に溢れるトラップと障害に、2名の悲鳴と1人分の歓声が響き渡った。

 時間にしてどれくらい経過しただろう。散々走り回った二人がとうとう頽れ、倒れ込んだのは、最初に逃げ込んだ社殿の裏手だった。
「動けない…」「さ、さすがに俺ももう…無理…」
 玉砂利の地面に構わず突っ伏す藤と、その隣で座りこんでしまった桜花を横目に、千影がやや不満げに口を尖らせた。――こちらはちっとも息を切らしていない。
「二人とも、もうおしまい?」
 物足りなさそうな彼女に、藤も桜花も息を切らしながら応じた。
「さすがにもう『おしまい』だよ! くそ、さくらの奴、いい加減にしろよな!」
「…チカちゃんはよく平気ね…。ああ、もう、さくらときたらどうしてこう寝起きが悪いのよ…!」
 二人が揃って天に向けて文句を投げる。その姿に、千影の髪飾りの鈴がちりん、とまた鳴った。首を傾げたのだ。
「さくらちゃん、って、だぁれ?」
 千影の、今更、と言えば今更の問いに、二人はまたしても顔を見合わせあった。
「…この夢の『主』よ。表で響名に聞いていないの?」
 眉を顰めた桜花の問いに、千影は「んーと」と顎に手指を当てて考え込む。
「ひびなちゃん、って、表の桜にぶら下がってた、あの蓑虫さん? うん、『そこは神様の夢の中』って言ってたよ」
「その『神様』だよ、さくらは」
 足を地面に投げ出して、今度は藤。汗をかいたらしい彼は袖口で額を拭っていた。これだけ息を切らしていても祓え串を手放さなかったのは褒められるべき根性だろう。
「ここはさ、さくらの夢なんだ。ずっと昔の、神社にいっぱい信者さんが居てさくらが元気だった頃の」
「昔の――夢?」
「そ。あー…せめてさくらの居場所だけでも分かればな…。直接叩き起こせば何とかなるはずなんだよなぁ」
「そうね。せめて居場所が分かれば、夢をお仕舞に出来るのだけれど」
 二人が同時に、溜息をつく。その様子を見ながら、ぱちくり、と千影が瞬きをした。
「なぁんだ、これ、鬼ごっこじゃなくて、かくれんぼだったのね。その『神様』の居る所が分かればいいの?」
 彼女はあっけらかんと言って、迷うことなく一方を指差した。そんなの簡単、と言うように、あっさりと。
「チカ、それなら知ってるよ。すごく綺麗な魂がずーっとあそこに居て、あたし達を見てたから」
 ――爆弾発言であった。
 これまで散々走り回っていた藤と桜花は今度こそトドメを刺されて、がくりと脱力する。霊力も体力も尽きるまで頑張ったのに、ここまでの苦労は何だったのか――と言いたげであった。
「ねぇ、その『さくらちゃん』を起こせばいいの?」
 倒れた二人の肩を交互に突いて千影が問いかけると、すっかり力の抜けた藤がよろよろと応じた。
「…うん…。チカちゃん、頼めるかな…」
「声をかければ起きると思うけれど。無理そうだったら私達を呼んで頂戴、…もう動けないけど、何とかして見せるわ」
「そっか、分かった! 任せて!」
 ちりん、と。勢い込んで立ち上がった千影の髪飾りの鈴がまた、鳴った。




 そこは、幻の縁日が並ぶ一角だった。お面を並べた屋台の前で、迷うことなく千影が足を止める。屋台で店番をしている、狐面を阿弥陀被りにした青年が、その彼女に「気付いて」、にこりと微笑んだ。淡い笑み。
「――さくらちゃん?」
 答えは、無い。だが、多分、彼には聞こえているのだろう、そんな気がした。千影は辺りを改めて見渡す。先程までの馬鹿げた障害物競争がなりを潜めている今、遠くから響く笛の音と、賑わう縁日の風景ばかりが広がっている。
「優しいココロに満ちた場所だね。これはあなたのココロなのかな、あなたの思い出の中なのかな」
 でも。
 ――「昔の夢」と、藤は語っていた。
「…でも、あなたの求める過去は、ここにあるの? …『今』の居場所は、必要ない?」
 藤と桜花が今は息を整えているはずの境内の一角へ、千影は視線をやった。阿弥陀被りのお面の下で、青年の視線も一緒に動いたように思われる。
「桜花ちゃんも藤ちゃんも、『今』ここに居るのに」
 その言葉に。
 ふ、と、空が――揺らいだ。それまで暗い夜の空を映し出していた夢の天井に、明りが差し込んでくるのが分かる。その様子に、千影は顔を綻ばせた。朝の風景。二度寝の布団はとても暖かいけれど、そこに差し込む朝の光や、主の隣に並んでの朝食や――そういうものを思い浮かべて。
 気付けば千影の手の中にはマグカップが現れていた。いつの間に、とは思わない。ここは夢の中だし、この曙光の中ではそうするのがとても自然に思えたのだ。
 鼻先をくすぐる濃いコーヒーの匂い、暖かな湯気。それを吸い込んでから、千影はマグを青年に差し出した。
「これは?」
 ――その香りに覚醒するように、やっと、青年が口を開いた。まだどこか寝惚けたような、ぼんやりとした声ではあったが。
「チカのご主人様はね、いつもコーヒーの香りで目を覚ますの。…だからさくらちゃん、それを飲んだら、一緒に『今』に帰ろう」
 千影の背後の方から、ゆっくりとだが近づいてくる足音が二つある。千影はくるりと振り返って、心配そうに歩み寄ってくる藤と桜花を手招いた。それと同時。
 千影が背を向けた青年が、ふぅ、とひとつ息をついた。嘆息、と呼ぶには短い吐息と一緒に、
「わ」
 千影の視界を、桜色の花弁が覆い尽くした。



 
 目覚めると、冴え冴えとした月が空の真ん中に浮かんでいた。
 名残を惜しむように桜の花弁が僅かに散っているが、見れば、境内にはもう、桜の巨木の姿は消えてしまっている。
 ――夢は終わったのだ。
「またねー!」
 元気よく手を振ってその境内を千影は後にした。藤と桜花、それに古木に腰を下ろした神様達に見送られ、来た時と同じく足取り軽く去っていく。ちりんちりん、という鈴の音と、彼女のハミングするクリスマスソングが遠くなるのを見守りながら――樹上で頬杖をついていた和装の青年、さくらがふと呟いた。夢の中同様に狐面を阿弥陀被りにしているので表情は見えないが、多分笑っているんだろうな、というのが神社の面々にはよく分かった。何しろ冬の最中なのにほんのり暖かな空気がそこから流れて来るのである。
「ねぇ藤、私、今度の奉納品、お神酒じゃなくてコーヒーが欲しいなぁ」
 呆れたような顔をして、藤は唸った。彼は夢の中で感じたブラックコーヒーの香りを思い出しつつ、思案する。
 ――ミルクと砂糖も一緒に奉納すべきだろうか。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【 3689 / 千影 / 女 / 14歳】

NPC:ふじひめ/さくら/秋野・藤/佐倉・桜花