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<東京怪談ノベル(シングル)>


「生」を狩る者

 降りしきる細かい雨。冷たく、霧のように草原を覆う。遠くは霧の中に霞み、辺りを見通すことはできない。そこにあるのは現実とは隔離された空間。辺りから切り離されたかのように、静かに霧の雨を受け止めていた。
 水を蹴散らす音が近づく。草原の緑が蹴り飛ばされて鮮やかになっていく。そこに少年は飛び込んできた。赤い上着は重たそうに下がり、水気を含んだ袴の裾は少年の足に絡み付いている。
 どのくらい走ってきたのか、はぁはぁと白い息を吐きながら立ち止まる。漆黒の髪が動く度に、含んだ水が弾ける。色白の頬を水滴が流れ、整ったあごから大きな雫が一つ落ちていった。
 少年の名は風道・朱理という。十六歳という歳相応の身長に、ほっそりとした体つき。少年と呼ぶにふさわしくない美しさと、落ち着いた眼差しは、朱理の年齢を分からなくさせていた。
「追ーいつーいたっ!」
 楽しそうな声が聞こえて、とっさに少年は身をそらせた。そこに振り下ろされる腕。少年は真紅の鋭い瞳を、振り下ろされた腕から顔へと移動させていった。
 少女だ。その腕の持ち主は、少年よりも幼いかもしれない、そんな少女だった。殺気だった気配に、とっさに広い場所を求めて走ったが、こんな少女だったとは。浅黒い肌に裾のほどけた短いGパン、袖口をまくった白いTシャツ。活発な印象を与える。
「避けられちゃった。でも次があるとは思わないで」
 愛らしい顔に笑みを浮かべ、少女は朱理に笑いかける。
 朱理は物を見るかのように少女を見返した。一方、少女は少し首をかしげながら朱理をまじまじと眺めながら、ゆっくりと朱理の周囲を一周する。一通り見回すと、納得したかのように一回頷いた。
「……あたしね、綺麗な人しかヤらないの。あたしの獲物にしてあげる。そのために追いかけてきたんだから」
 なんでもないことであるかのように、少女は笑みを浮かべ、朱理を指す。よりによって自分を選ぶとは。哀れというより、愚かに思えた。
 朱理は頬や顔に伝う水滴を、右手で振り払いながら少女の言葉を聞いていた。弾け飛ぶ水滴が朱理の美しさを引き立てる。少女はそれに満足したように、もう一度頷いた。そして不意に少女は笑みから鋭い表情へと変化させる。獲物を狙う肉食獣のように。
 少女は右手を確認するかのように、左手で何度かさする。鋭い視線を朱理に返しながら、少女は右手を握り締めた。
「男であたしの獲物になれるなんて、感謝してよね」
 朱理は落ち着いた様子で腰に差した愛用のナイフを抜き放った。左の親指でそのナイフの背をたどりながら、顔の少し下でゆっくりと構える。この少女もまた、壊れている、そう思いながら。
「平気なんだ。殺されるって分かってて、平気なんだ。変なの」
「……あなたに殺されたりはしませんから」
 朱理の言葉に少女は声高に笑う。
「面白い人ね。ヤりがいがあるわ」
 少女は口元に笑みを張り付けてはいるが、目だけは獣を想像させる。
「……ねぇ、知ってる?」
 朱理の懐に飛び込み、左手を伸ばして掲げたナイフをつかみながら、少女は問う。朱理は予想外の少女の速さと行動に、本能のままにナイフを引き抜き、少女を突き放す。
「何を、ですか」
「綺麗な人は寿命が短いの」
 少女は右手を握り締め、至近距離から突き出す。朱理はその腕をかわし、軽くのけぞった。そのまま両手を地について後ろ向きに回転する。
「だから、あたしがあなたをヤってあげる。寿命が来る前に」
 腕まくりをするような仕草をし、ゆっくりと舌なめずりをする。軽く二・三歩下がってから、朱理のほうを向いて体勢を低く構えた。

 己の信念のために人を殺める。それがこの少女の生きていく理由だろう。それは朱理自身も変わらないのかもしれない。己の生を自覚するために人の生を奪う。それが朱理の人を殺める理由。

「はぁっ!」
 気合の声とともに少女は間合いを詰める。右手に握るナイフを下から上に弾き飛ばし、左手で朱理の右手を制しながら右手を振り下ろす。その少女の無謀とも言える動き、その一方で見せる自信に朱理はようやく少女の能力を悟る。少女自身の体が凶器であり、また防具となる超能力。少女が身体能力を特化することのできる、ボディ能力者であるということ。
「肉体強化、ですか。侮っていました。では、もう少し攻撃的に行かなくてはいけませんね」
 落ちてくるナイフを左手で受け取る。それをそのまま少女の右の腕につきたてた。ぎゃっという小さな叫び声とともに、少女は朱理の元から離れる。朱理はそんな少女の姿を見ながら少し笑みを浮かべていた。
「あたしのこと傷つけるなんて、許さないっ!」
 吠えるように叫んでから、両手をぶんと振る。また肉体を変化させているのだろう。
「望むなら、容赦はいたしませんから」
 血に濡れたナイフを構える。その背を再び左の親指でたどり、構える。霧雨は、少しずつその粒を大きくしていた。
「言ってくれるわね。この世から消してあげる。全部全部消してあげる」
 少女の目が細められる。そのまま朱理のほうへ突っ込んできた。
「その台詞、そのままあなたにお返ししましょう」
 朱理はその視線を笑って受け止める。少女の真紅の血液が、朱理を、生を狩る者へと走らせる。

 激しくなった雨の中、朱理は血液の残るナイフを片手に立ちつくす。
 生を狩り続けたものが、生を狩られる者となる。息絶えるその一瞬だけ、狩る者が狩られる者の心を知る。少女は朱理の目の前で、その瞬間に叫んだ。「死にたくない」と。もしかするとそれは朱理自身となったかも知れない。朱理には狩られる者の心など分からない。分からなくていい。知りたくもない。
 残るのは生か死か。それだけでいい。
 少し顔を上に向け、雨を顔に受ける。全てを流してしまうかのように、体で激しい雨を受け止める。心の中にうずく物を、全て消してしまえるのなら……。この雨で、全てが流れて消えてしまえばいい。何もかも……、全て……消えてしまえばいい……。

 顔に張り付く前髪を後へと追いやる。弾け飛ぶ水が、辺りに散らばるが、辺りの雨の中にまぎれ、消えていく。雨を含んだ黒い髪を絞り、朱理は視線を遠くへと向けた。
 霧雨の時には見通すことのできなかった景色が、冷たく降り注ぐ中に薄暗く浮かび上がる。朱理はその景色を、すっきりとした表情でしばらく見つめていた。何かを吹っ切るかのように、重たい服を気にすることもなく、少し早足に歩き出す。

 草原の緑は雨に洗われ、鮮やかな緑を取り戻していた。