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<東京怪談ノベル(シングル)>


自分の常識、世間の常識

「困りましたね・・・」
妻から手渡された、「いざという時に役立つ礼儀作法」の本を見ながら、
レオニズはひとりごちた。今日は、地球と月を結ぶ梯子の再興事業、
「ムーンブリッジ計画」の成功に伴うマスコミの取材がある。そのため、
いつもより少し早めに家を出ようとしたレオニズに、妻がさりげなく
手渡してきたものだ。天体観測所に篭りがちなため、ある程度は世間に
疎いのだろう、という自覚もあったレオニズだが、妻が出がけに「普段通りに
してはならない」と言っていた意味が、この本を読むまでは分からなかった。
例えば、宇宙局内での日常的な挨拶は、相手に飛びついて抱きしめる、という
ものだったが、この礼儀作法の本によると、一般的な挨拶は、握手をする、
というものだった。握手のやり方についても、詳しく書かれている。
(えーと、右手を差し出して、握り合う・・・。その際、力を入れすぎないこと)
レオニズは、脇に本をはさみ、自分の両手を使って試してみる。
(まぁ、こんなもの・・・ですよね)
自分の手を使っているので、いまいち力加減がよく分からなかったが、
何となくの感じが掴めたので、よしとした。更に読み進めると、親しい人との
挨拶は、片手をあげてやぁ・おはよう・こんにちは等を使い分けるとあった。
(何と。普通はキスまではしないんですね)
宇宙局内での慣習では、親しい人間との挨拶は、頬にキスを交し合うもので
あったので、少なからず驚いたのである。
(おや?)
ページの余白の部分に、妻のものらしい字で、短い文章が書かれていた。
(一般的には、愛人さんというのは情夫・情婦を、側室さんというのは、
お妾さんのことなので、宇宙局以外の人との会話では使わないこと・・・)
それを読んで、レオニズは思わず本を落としそうになった。自分が当たり前の
ように思って使っていた言葉が、世間では全く違う意図で使われていることに
初めて気づいたのである。
(情夫・情婦にお妾さんですか・・・。一体どうしてそんな言葉が、親友を指すような
言葉になってしまったんでしょうか。しかし・・・いやはや、何とも弱りましたね)
レオニズは知らず、深いため息をついていた。自分が世間に疎い、という自覚は
ないわけではなかったが、思っていたよりも、世間のことを知らな過ぎた。しかも、
何故宇宙局内でそのような慣習になっているのか、という由来も知らないのだ。しかし、
マスコミの取材までもうそんなに時間はない。せいぜい、通勤の時間を有効に
使って、妻に渡された本で常識を少しでも多く学ぶしかないのだ。どこまで
学べるか、覚えられるかは分からないが、最低限のことだけでも、頭にたたきこもうと
必死で読み進めていく。
だが、読み進めていくうちに、ある不安がレオニズの心のうちに生まれ始めていた。
こんな数十分程度、本を読んだだけで、果たしてうまく普段の習慣を出さずに
取材を終えられるのか。習慣の力というものは恐ろしいものである。自分では意識
していなくても、表に出てくることが往々にしてあるのだ。これまで、それが
世間でも常識なのだと思っていた、宇宙局内での過激とも言える慣習を、
付け焼刃の礼儀作法の知識で、押さえ切れるのか。そうこう考えるうちにも、
取材の時間は近づいてくるし、宇宙局も近づいてくる。
(宇宙局の人達は、一体何を考えてああいう慣習を作り上げていったんでしょう)
自分の危機も忘れて、思わずそんな疑問さえ浮かんでくる程に、宇宙局の
慣習は、世間からずれていた。本を読みながら、妻は自分が世間とこれだけ
ずれているのを分かっていながら、普段何も言わないのは何故だろうか、と
疑問に思った。妻の性格から考えて、あえて何も言わず、見守っていて
くれたのだろうという結論に達し、更に妻への感謝の気持ちが生まれる。
きっと、今回のことは彼女も考えていなかったのに違いない。自分に
世間の真実を知らせるかどうかで、悩んだのではないだろうか、と思うと、
申し訳ない気持ちも生まれてくる。それと同時に、普段の自分の素行も
恨めしく思えてくる。
(やはり、少しは外を出歩かないといけませんね・・・)
今回の礼も兼ねて、妻を連れて少しどこかに旅行にでも行こうか、と悩み始めた。
休みが取れるだろうか、どこに行くのがいいだろうか、等と考えを巡らしていたが、
自分は今そんなことを考えていられるような、平和な状況にはないことを思い出し、
旅行のことは今度のことが終わったらゆっくり考えることにし、大慌てで本の方へと、
意識を戻す。
時間は容赦なく進み、取材までの時間はあと三十分程度しかない。宇宙局への距離も
もうほとんどない。せっかく早く家を出たのに、気を落ち着かせる暇はなさそうだと、
深々と、今朝何度目になるか分からないため息をつきながら、少しでも本に書かれて
あることを覚えようと、集中し始めるレオニズだった。こんなに真剣に、何かを
覚えようとしたのは、学生の頃以来ではなかっただろうか、と思いながら。