<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


幸せのワイン

<オープニング>
 黒山羊亭の夜はいつでも暖かな光と軽快な音楽に満ち溢れている。焼ける肉の香りとビールそしていい女が傍にいてくれさえいれば、どんな男だって幸せな気分になるだろう。
 無論この黒山羊亭は女性にも子供にも優しい店だ…ベルファ通りの中でのみ比較するならば。その証拠にほら、カウンターの所には一人の少年が座り込み、踊り子エスメラルダを独り占めしている。
「だからぁ。僕の依頼受けてってば、お金は払うんだから!!」
「貴方の気持ちは分るけど。その依頼にこの値段じゃあね…」
 彼の持ってきた依頼書には、つたない文字でこう書かれていた。
『幸せのワイン、探してください。報酬は銀貨3枚。僕の家に持ってきてくれたら、払います。住所は…』
「それにこれじゃ情報が少なすぎるわ。もっと具体的には出来ないの?」
「じゃ! 貼ってくれるの?」
 彼はカウンターの傍にある掲示板を指し示した。そこには他にも幾つかの依頼が貼り付けられていた。冒険者の募集、なくし物の探索、それに肉屋の店番求むの張り紙まで。そして沢山の人々が出入するこの黒山羊亭に依頼が貼られれば、見つからぬものなど殆ど無い。
 エスメラルダは困ったような顔をして、やがて溜息をついた。
「……誰も来なくても、泣かないで。それからもっと色々書きなさい。幸せのワインはおじいさんのために欲しいんでしょ?」
 彼の祖父は腕の良い料理人であったが、今は病に伏せっている。祖父は時折「誰もを幸せにする幻のワイン」が欲しいと孫である彼…ミルーに呟き漏らしていたのだそうだ。それを思い出した少年は、是非にもそれを探し出し、祖父に飲ませて上げたいのだという。そうすれば元気になるに違いないと。
「うん、分った。」
 エスメラルダの言葉に頷いた少年は、一心に書き始めた。
『幸せのワインは、水と太陽と幸せが一杯あるところにあるそうです。そこには天使が住んでいて、ワインを守っているそうです。探してください。お願いです。』

***

<ラモン・ゲンスイ>
 暖かい喧騒の中で一人カウンターに座り、温まった酒を心地よさそうに煽っていたラモン・ゲンスイが、その少年に気づいたのは今よりほんの少し前の事だった。
(酒場に子供?)
 黒山羊亭は遠方の様々な国から取り寄せた酒を多種扱う事で、故郷を懐かしむ旅人たちにも地元民にも人気の酒場である。お使いを頼まれた子供がやってくる事も少なくないし、一見子供に見えても年齢の高い、シルフの様なものが居ることもあった。だが今彼の直ぐ隣でエスメラルダと何やら言い争いめいたやり取りをしている少年は、明らかに人間の子供だ。
 そして普通の子供がやってくるには、もう日が落ちてから大分時間が過ぎている。
 2人の会話に耳をそばだてながら、彼は平たい円錐型をした見慣れぬコップに、これもまた珍しい、口元のくびれた器から酒を注いだ。
 ラモンは、かなりの長身と褐色の堅固な体躯と、雷の軌跡を描くように切れ上がる銀の眉を鋭い目の上に持った男である。腰には『無吐竜』と呼ばれる大太刀を携え、外見から言えば迫力がありすぎて正直近寄りがたい。
 そして太刀もしくは剣を持つと言う事はつまり、彼が戦闘に適し、戦闘を一種生業としているという事だ。更に言えば胸元で重ね合わせる形の独特な衣装と、その下に着込んだこれもまた独特な鎧、この辺りでは余り見かけないその格好は、彼がその手に持つ酒同様、遙か東方にあると言うサンという地からやって来た旅人である事を伝えていた。
(病気の爺さんを喜ばせる為…か。感心な事だな)
 2人の様子を見守っていた彼は、酒を最後の一滴まで堪能すると、少年がペンを置くのを待ち構えて声を掛けた。
「“水と太陽と幸せが一杯ある”というのは、つまり全部がたくさんあるのか、それとも幸せが一杯ある所に水と太陽もあるのか?」
 ラモンに突然話しかけられたミルーとエスメラルダは、驚いて振り返った。
 ミルーの背後からまるで覆いかぶさるように依頼書を覗きこんだいかつい大男、しかも腰にはミルーの背ほどもありそうな大太刀だ。驚かないで居られるほうがおかしい。
 それに気付いたラモンは、困ったように襟足を掻いた。
「その…済まん。驚かせたみたいだな」
(どうも俺は、初対面の女性と子供には評判が良くない。ならさて…一体どうやって、俺は恐くないと伝えようか)
 いつも悩む所なのだが、まさかこの少年に向かって赤ん坊にするように、いないいないばぁとして見せるわけにも行くまい。…赤ん坊だって泣き出す事があるのだから。
 だが、この外見に似合わず大らかな冒険者の困惑を鋭く感じ取ったのか、きょとんとした顔のミルーがスツールの上で身を捻り、思い切り顎を上げてラモンを見上げた。
「おじさんが、依頼を受けてくれるの!?」
「おじ…」
 ラモンはぐっと言葉に詰まって彼の顔を見下ろした。確かに年齢は34歳。見る人間によってはおじさん呼ばわりされても仕方あるまい。
 ミルーの手を、エスメラルダがこっそり突付き、軽く首を横に振る。ミルーははっと気付いて慌てたように言い直した。
「御免…お兄さん。貴方が手伝ってくれるの?」
「ラモン。俺の名前はラモン・ゲンスイだ。おじさんでもお兄さんでもなく、ラモンって呼んで呉れればいい」
 おじさんは自分がほのかに傷つくし、お兄さんと呼ばせるのも何だ。
「僕はミルー・エルモア。普通にミルーって呼ばれてます」
 エスメラルダには生意気な口を利いていた少年が、まだ気圧されているのか丁寧な口調で言った。やれやれ、と思いながらラモンは肩を竦めた。
「ミルー、先刻の質問なんだが」
「水と太陽と幸せのこと? 僕は聞いただけだから…分んないよ。分ってたらもうとっくに自分で取りに行ってる…行ってます」
 この分なら敬語が取れるのも時間の問題だな、とラモンは軽く笑った。
「よし、なら俺に心辺りが無くも無い。明日の朝、天使の広場で待ち合わせよう」
 確信は無いが、直感で勝負だ。
「じゃあ…」
 ラモンの言葉が徐々に身に染みてきたのか、ミルーの顔に笑みが浮かぶ。
「また、明日な」
 ラモンはミルーの頭をクシャリと撫でて、カウンターに小銭を置くと出て行った。



<鈴々桃花(リンリン・タオホワ)>
「わいん? て何? 食べ物? 美味い?」
 舌足らずな片言で、黒山羊亭のエスメラルダに絡んでいる少女が一人。カウンターの上に身をを乗り出しその上仰向けになって、まるで猫のような上目遣いで看板美女を見上げている。
 東方にあると言う中国と呼ばれる地の出なのだろう。一見タイトなワンピースのように見える短い服裾には両脇にスリットが入っており、桃の花を模った縁飾りの奥から若々しい足が覗いている。
 だが今はもう明け方近い時間。さしもの黒山羊亭でも人が掃け喧騒も過ぎ、木製の椅子はテーブルの上に上げられて、店じまいの様子を見せていたから、彼女の足を好奇の目で眺めるものは幸い居ない。いたのは困ったような顔をしながら、それでも桃花の相手をしているエスメラルダと、これは長く掛かるだろうと見たのか、奥へ引っ込んでしまった寡黙なこの店の主人だけである。
 そしてごろごろとエスメラルダに懐いている彼女の隣には、浅い皿に出されたミルクを幸せそうに目を細めて舐める黒猫の梅花(メイファ)が居た。その足元には、ミルーが書いた依頼書が置いてある。
 ミルーの依頼はラモン・ゲンスイと名乗る男が引き受けてくれたので、エスメラルダはこれを掲示板に貼る事をつい忘れ、出したままにしてしまったのだ。
 そこへ桃花が店じまいの邪魔をしに来て…勿論本人はただ活動時間になったので遊びに来ただけなのだが…それを見つけたというわけだ。
「そうね、美味しいと思うかどうかは人によるでしょうけど。美味しいと思う人が多いからウチはやっていけてるのね」
 エスメラルダの言葉に、桃花は深く頷き、綺麗に塗った細い指で依頼書をなぞる。
「これ、なんて読む?」
 桃花が片言なのは、まだこちらの言葉に慣れて居ないが故の事。勿論字などそれ以上に読めるわけが無い。エスメラルダがミルーという少年の願いを桃花に伝えると、彼女は青く丸い瞳を輝かせた。
「分った。桃花、悪魔…でも手伝う!!」
「え。手伝うって…」
 エスメラルダが止める間も無かった。彼女は店を飛び出して行き、エスメラルダは後に残された黒猫梅花と顔を見合わせる。梅花は分ったような顔をして最後のミルクを舐め取ると、しゃなりとカウンターを飛び降りて、落ち着きの無いご主人さまの後を追って出て行った。

***
 けたたましく叩かれる扉の音で少年ミルーは真っ暗闇の中目を覚ました。
「桃花、来た、開ける、早く!」
 表で年若い少女の声がする。タオホワ、って誰だ? 知らないぞ。そんな事を考えながら、ミルーは薬で眠っている老人…彼の唯一の身内である…の目を覚まさぬように、慌てて起き上がり恐る恐る扉を開いた。
 するとそこには大体自分と同じくらいの背の高さの、くりっとした青い瞳とピンクの髪をした少女が立っていた。
 突然の事にぼんやりしていると、足元をするりと抜けて何かが家に入って来た。
「え…」
「梅花」
指差されたベッドの上には既に黒猫が一匹、我が物顔をして乗り込んでいた。「桃花も、入る」
 桃花は、ミルーの書いた依頼書を持って彼の自宅までやってきたのだった。勿論現在の時刻が、普通の人間なら熟睡しているであろう時間である事や、夜中に大きな声と音を立てては迷惑という事など彼女は全く意識しておらず、寝ぼけた顔をしたミルーに向って、自分を指差し屈託無く微笑んだ。
「桃花。宜しく♪」
 水・太陽・幸せ。ワインのある場所は天使の広場なのではなかろうかと、彼女は彼女なりに推察していた。相棒の黒猫はその考えにちょっと莫迦にしたような顔をして見せたが、彼女は気にしない。
 そして行く先が決まったら、即実行が彼女の性格だった。
 自己紹介と共に自分の書いた依頼書を鼻先に突きつけられたミルーは、漸くこの珍客の目的を知った。勿論、自分を無理やり押しのけて家に入った少女が、古文書に載っていた悪魔に憧れて我流で悪魔を目指す、悪魔見習いであるという事までは理解できなかったが。
 部屋の中を見渡した桃花は、目ざとく老人の姿を見つけて歩み寄った。彼はこの騒ぎにも関わらず深い息をついて眠っている。
「おじいちゃん…病気…」
 桃花はミルーを振り返り、悲しそうな目をした。もしこれが彼女の祖父だったら、きっと凄く心配するだろう、泣いてしまうだろう。だから、桃花にはミルーの気持ちがよく分った。
「うん…病気なんだ」
 心配げに祖父を見下ろす少女のほっそりとした背中を見て、ミルーは決心した。一体何処の誰かわからないが、この娘にも一緒に来てもらおうと。
「桃花、ココア好き? 夜明けまで少しあるから、一緒に飲もうよ」
 まさか彼女が自分より大分年上であるなどと思わずに、ミルーは椅子を指差して彼女を座らせた。


<天使の広場>
 約束の時間までに剣の修行でもしておくか、と夜が明ける前に起き出し旅の宿を出たラモンは、自分より先にミルーが広場に到着していたことに驚いた。
 更にその隣にミルーとほぼ同じ年頃か少し上か、と言う位の少女を見つけて首をかしげる。だがミルーの方はラモンの姿を見つけると大きく手を振って駆け寄ってきた。
「おう、早いな。まだ太陽も昇りきってないぞ」
 やって来たミルーにラモンが言うと、彼は肩を竦めた。
「ちょっと事情があったんだ」
そう言って後ろを振り返る。そこには桃花が満面の笑顔で立っており、紹介されるのをじっと待っていた。「彼女は桃花って言うんだ。手伝ってくれるんだって。桃花、この人がラモンさんだよ」
 ラモンは、桃花が居るせいか少し背伸びしたような物言いをするミルーに苦笑する。大人のように振舞ってみたい年頃なのだろう。
「そうか。それは有難い」
そう言って差し出された無骨な手を、桃花はまじまじと眺めてぎゅっと掴んだ。握手というには掴み方が妙であったが。
「桃花、わいん、探す」
 丸い目をくるりとさせて、彼女は屈託無く微笑むと、ラモンとそれからミルーの手を取って、広場の中央にある噴水に近づいた。
 天使のオブジェが大きな翼を広げてそこに立っている。夜明け間近の薄明かりの中で白い頬に陰影が刺し、ふっくりとした唇は何かを言いたげに3人を見下ろしていた。
「天使…」
 桃花の呟きに、ラモンが頷いた。
「そうだな。『天使が住んでいてワインを守る』とするとここが一番の候補だろう」
 水もある。そして…。
「夜が明けるね」
 ミルーの呟きの通り、家々の屋根の向こうから日が差し始めた。まず最初に一筋の光が天使の胸元を指し示す。そして見る見る内に広場は光で満たされていった。
「これで光も十分だ。…あとはヒントを探して待つしかないな」
 ラモンは言った。
 ソーンは周辺地域の中で一番大きな港町だ。北と西は海、南には草原が広がり、東へは果てない大地へ続く道が伸びている。そんなソーンの中心にこの広場はあり、毎日のように市場が立つ。噴水の傍に腰を落ち着けた三人の見守る中で人が徐々に集まりだし、やがてあたりは活気づき始めた。
「南方産のラッパの実だよ! 安くしとくよ!」
「壊れた籠を編むよ。鍋も打ち直すし包丁も研ぐ。修繕ならウチでやっときな!」
 威勢のいい掛け声が響く。大人・子供・馬・鶏に魚。生きるものも食べるものもありとあらゆるものが揃っていた。それを見ていた子供たちがうずうずとし始めたのは言うまでも無い。
「桃花・待つ・嫌い」
すっくと立ち上がり、桃花はミルーの手を取った。日の光の下で見てみると、二つに分けて結った彼女のピンクの髪の毛は、先端が紫に染められていた。「行こ、ミルー!」
「桃花!?」
 腕を引っぱられながら少年がラモンを振り返ると、考え事をしていたラモンは軽く手を振った。行って来いという意味を込めて。

***
「幸せのわいん・知ってる?」
 桃花はミルーの手を引っ張ったまま、手当たり次第に尋ね始めた。考えるのは少し苦手である。ならば街の人々に聞くのが一番良いではないか。彼女はそう思ったのだ。
「ね。幸せ・ワイン…」
 だが商売に忙しい人々は良くて困ったような顔をしてみせる位で、大抵は見向きもしてくれない。ぷぅっとむくれた桃花の横顔を見て、ミルーははらはらし始める。なにせ真夜中に家の扉を叩いた娘だ。邪険にしたら何をしでかすか分らない。そう思ったときだった。
 桃花が懐から何かをずるりと取り出した。
 黄色と緑と赤の、細い筒状をしたものが紐で連ねられている。そしてその先には導火線…
「桃花・怒った」
「えっ…ちょっと桃花!」
 ミルーが止める間も無かった。桃花はこれまた懐から取り出したマッチを擦ると、導火線に火をつけた。けたたましい音が連続して起こる。
「うわぁ!」
「火薬に火がついた!?」
 桃花が火をつけたのは中国でお祭りや祝いに使われる爆竹だった。彼女としては辺りの人間を振り返らせる為の手段だったのだが、結果辺りは騒然となり、話を聞く所の騒ぎではなくなってしまった。
「桃花!!」
 ミルーの手が桃花の袖を引っ張って走り出す。ここに居たら怒られる事必須だったから。
「ミルー、桃花、こっちだ!」
 いつの間にか近くに来ていたラモンが二人を手招く。ミルーは桃花を捕まえたままで細い路地に飛び込んだ。
「全く何をしてるんだ」
 長い銀髪に指を通して首筋を掻き、呆れたように言ったラモンの声に、桃花は唇を尖らせた。
「だって桃花、ちゃんと聞いた」
 彼女は彼女の祖父に教えられたとおり、礼儀正しく尋ねたのだ。なのにあの態度は一体何か。
 訳を聞いたラモンは、つい笑ってしまった。良く発達した犬歯が大きくむき出しになる。
「ははは…成る程。悪戯じゃなかったんだな」
 その言葉に桃花は少し考えて頷いた。
「そう。でも桃花、悪魔。だからいたずらも、する」
 そういえば今日はまだ悪い事をしていないなぁと、桃花は思ったが、今日は忙しくて無理そうだった。後でまた頑張らなければ。
「でも大騒ぎになっちゃって、もう出て行けないよ」
 ミルーの言葉にラモンは頷いた。
「そうだな。夕方になって人が居なくなるまでは無理だろう。だが後少し待とうじゃないか」
 ラモンには先程から考えていたことがあった。勿論ワインの在り処についてである。
 桃花とミルーは、それを感じ取ったのか大人しく頷いた。


<ワインを守るもの>
 夕焼けの光が広場から消えてゆく。辺りはもう既に店じまいを済ませた人々の帰る波が去った後。
「そろそろいいだろう。行こう」
 ラモンはじっとしている事に痺れをきらせた桃花と、ミルーをつれて広場に出た。そして天使の像を前にして2人を振り返る。
「俺にも自信は無いんだが、あそこを見てくれないか?」
 指差した先には、今正に消えようとする夕日が天使の胸元を差していた。
「光…」
 桃花が気付いた。その場所は今朝彼女が天使を見上げた時に、朝日が指し示していた場所と同じだという事に。
 ラモンは一日じっとこの天使の像を見ていたのだ。そして光が常に差している場所がこの広場の中で唯一その天使の像の一点だけであることに気付いたのだった。
(まさかとは思っていたが、やはりこの天使像が持っているに違いない)
 ラモンはミルーをひょいと抱えあげた。
「うわぁ!」
 慌てるミルーを更に肩の上に担ぎ上げ、彼は噴水の縁に立って言った。
「その胸元を探ってみてくれないか? もしかしたらそこにあるのかも知れん」
 言われたミルーは手を伸ばす。
「うーん、届かないよ」
 天使像は街のシンボルであり、相当に大きかったからだ。そこで桃花が手を大きく上げた。
「桃花も、乗る」
 それからは早かった。ラモンの肩に乗ったミルーの肩に、桃花が危なっかしく乗り、天使の胸元にスライドする場所を見つけたのだ。
 そこには一枚の羊皮紙が入っていた。
「ここに…た…たちよ。…せのワインは…」
 しどろもどろに読み始めた桃花。どうもおかしいとミルーが受け取ると、彼女は読めない部分を飛ばしていたらしい。
「ここに来た者たちよ。幸せのワインは地下にある。取っ手を引けば扉が開く…桃花、何か見える?」
「うん」
 桃花は羊皮紙の入っていたその奥に取っ手を見つけた。そして思い切り力を込めて引っ張る。
 鈍い音がした。2人を肩に乗せ流石に大変そうな顔をしていたラモンの目の前で、天使の裳裾が左右に開いたのだ。
「扉だ…」
 ラモンが身を屈め、桃花とミルーがその肩を飛び降りる。扉の奥は真っ暗で、書かれている通り深く地下に続く階段があった。
「わいんだ!」
 ためらい無く水を飛び越えたのは桃花だった。先に探りを入れるとか、この状況を疑ってみるとか、そういった考えは皆無らしい。
 あっという間に姿を消した桃花。後に残されたラモンとミルーは顔を見合わせた。
「行くしかないな」
 ラモンはミルーに向かって頷き、腰の太刀に手を添えると油断無く足を踏み入れていった。

 悪魔見習いの桃花は、暗闇の中で目を凝らした。左右に幾つもの棚が並んでいる。それをワインセラーというのだと、ワインがなんなのかさえ良く分かっていない桃花には理解できて居なかったが、そこに詰め込まれた幾本もの瓶にはしっかり見覚えがあった。黒山羊亭ではこれを楽しそうに飲む人々の姿が良く見受けられたし、エスメラルダも大切に扱っていたからだ。
「こいつは凄いな」
 背後の声に桃花は振り返った。ラモンと、小さな火の精霊を掌に乗せたミルーがそこに立っていた。
 ソーンに居るものたちは守護聖獣に守られて過ごしている。そして火・水・地・風の属性のいずれかの力を持ち、多かれ少なかれそれを操る事が出来るのだ。
 ミルーはどうやら火属性・エシュロンの召還力を使っているらしい。
 ラモンはミルーの作った光を透かして地下を見渡した。大体30メートル四方という所だろうか。誰かが…多分天使の像と広場を作った誰かがこのワインセラーを作ったのは間違いない。
「だがさて…この中の一体どれが幸せのワインなんだ?」
「わいん? これがわいん?」
その言葉に桃花が反応する。「桃花、わいん貰う」
 言うが早いか、セラーからワインを引き抜いていた。しかも一本だけではなく、何本も両手に抱えるようにして。
「桃花、ワインは一本で十分なんだよ。そんなに飲めないよ」
「みんなにあげる。みんな喜ぶ」
 桃花はせっせとワインを引き抜いて、持てるだけ持とうと四苦八苦している。その時だった。
 ゆらり…と背後に殺気を感じてラモンは振り返った。
「誰だ!?」
 今の今までその気配に気付かなかった自分にラモンは舌打った。仮にも国では隊長職を努めていた侍がここまで傍に寄られてしまうとは。だが相手の姿を認めたラモンは驚いた。そこには、手に光る剣を掲げた天使が立っていたからだ。
 広場の石像と同じ硬い頬をした天使は足音もさせず、それどころか歩む足先さえ見せぬ。驚くべき速さで空を這うように向かってくると、無言のまま剣を振り上げた。剣先には桃花の細い背中がある。
「桃花、危ない!!」
 ミルーの声に桃花は顔を上げた。
「ひゃ…」
 桃花の手からワインが滑り落ち、派手な音を立てて割れた。ラモンが彼女をぐいと引き寄せたからだ。それでもまだ幾本かのワインを抱えた彼女の鼻先を、天使の剣が掠める。
「一体どういうわけなんだ!?」
 ラモンは桃花とミルーを背中に庇うと抜刀した。闇の中で名刀・無吐竜が鈍く煌く。
 その輝きを見ても、天使は無表情なままだった。
「天使が守るワイン…」
 ミルーの呟きが地下に響いた。
「成る程…そういう意味か」
 ラモンは大きく肩で息をして、それからすっと呼吸を整えた。ワインに惹かれてこの地下室を発見した人々が、今までもこうして殺されかける…もしくは殺されていたならば、手加減する気はさらさら無い。
 天使が歩み寄ってくる。そして剣を振り上げる。ラモンはその隙を狙って天使の胴を横薙ぎに振り払った。だが。
「何!?」
 無吐竜の一撃は天使の身体をすり抜けた。
(実体が無いのか!)
 返しの一撃を受ける為、掲げた左腕を切られることを覚悟して、ラモンは歯を食いしばる。しかし痛みはいつまで経ってもやってこなかった。その代わり彼の背後で声が上がった。
「きゃうー!!」
 桃花だった。桃花はラモンの身体をすり抜けて天使の刃が自分に振り下ろされるのを見た。そしてミルーが自分を押し倒して地面に転がるのを。
「桃花、逃げて!」
 自分が無傷なことを知ると、ミルーは桃花に向かって叫んだ。天使は桃花だけを狙っている。その刃が実体を持ち傷つけるのも桃花のみ。
 桃花は深く頷き、更にニ三度転がって刃を避けると、一目散に逃げ出した。
 天使が後ろから追ってくる。
(意地悪天使だ。桃花、なんにも悪い事してないのに!)
「えーい!」
 桃花は懐から取り出した何かを後ろに向かって投げつけた。彼女お手製の虫のおもちゃである。天使を怖がらせようというのである。
 しかし残念ながらその攻撃は効かなかった様子だった。怯みもせず、ただ向かってくる。後もう一つ彼女に策があるとしたら、一番大切にしている大きなペロペロキャンディを差し出して、仲良くして貰う、という事くらいしかなかったが、残念ながら今その交渉をしている余裕はなさそうだった。
 壁際に追い詰められてしまったのだ。
 こんなに天井の低い場所では、得意の飛翔魔法を使って逃げる事も出来ない。
 万事休す! 硬く目をつぶった瞬間、彼女の耳にラモンの声が飛び込んできた。
「桃花っ! ワインを地面に置くんだ。手から離せ!!」
 彼女は一瞬うろたえた。それとこれとどういう関係があるのか、と。だがラモンの声には有無を言わせぬものがあり、彼女は殆ど何も考えず、天使の剣を屈みこんで避けると同時に、手に持っていたワインを地面に放りだした。
「………?」
 数本の瓶が土の地面を転がって行くのが目の端に入って、桃花はゆっくりと身体を起こした。
 そこにはほっとしたような顔をしたラモンとミルーの姿があった。天使は何処にも居ない。
「桃花、持って行っていいワインは、一本だけだったんだって」
 ミルーの言葉が良く分からず、桃花はラモンを見上げた。
「あの羊皮紙の言葉には続きがあってな…『幸せは誰にも平等であるべきだ。ワインを見つけ出した者に私は惜しみなく与える。だが限りのあるものゆえ、私は守護天使をおき、過分な分け前を望む者には罰を与える』んだそうだ」
「僕、最後まで読んでなかったんだ。ラモンさんが気付いてくれたんだよ。…御免ね、桃花」
 桃花の丸く大きな青い瞳に、涙がせり上がってきた。こんなに怖い目に遭ったのは初めてだったのだ。
「た…桃花…びっくりした…」
 それから桃花は盛大に泣き出した。


<エピローグ>
「じいちゃん、ワインを持ってきたよ。飲んでみて」
 ミルーの言葉に、うつらうつらとしていた老人は目を覚ました。目の前に、頬に擦り傷を作った孫とそれから見慣れぬ少女、そして部屋の隅にはこれまた見慣れぬ銀髪の大男が居た。
 泣きじゃくる桃花をなだめて3人が家路に着いたのはもう真夜中も過ぎてのことだった。あれから天使は姿を見せず、天使像の扉を閉めてしまうと、広場の下にあのような地下室があるということなど、まるで嘘のように思えた。
「これが幸せのワイン…だと思うんだ。一生懸命探したんだよ。二人にも手伝ってもらって」
 ミルーが祖父に、今日の冒険譚を話す間、ラモンと桃花はじっと傍に立つ。
(ワインは幸せのある場所に…か)
 広場の喧騒を思い出し、ラモンは改めてその意味を考えていた。彼は初め広場に人が集まるように、幸せもああいった場所に集まるものなのかと思っていた。だからはっきりとした確信が無くとも、水も天使も光もあるあの広場を選んだのだ。
 そしてあの地下室を作った人間も、同じ事を考えたのだろう。
 ベッドの端で、桃花の黒猫が大きくあくびをした。そして桃花がその背中を撫でながら、ミルーと祖父の会話を聞いている。
「幸せのワインか…あんな話を良く覚えていたな。…しかしお前、そんな危ない目に遭ってまで…」
老人は言いかけて、だが言葉を止め微笑んだ「…いいや…有難う。お前の気持ちがとても嬉しいよ」
「じいちゃん」
「桃花も! 桃花も、褒めて!」
 ずいと身を乗り出して、桃花が老人の手を取る。どうやら頭を撫でてほしいらしい。
「だけど、これが本当に幸せのワインかどうか、分らないんだ」
 困ったように言ったミルーの言葉に、桃花の頭を撫でていた老人はゆっくりと首を横に振った。
「たとえこれが幸せのワインでなかったとしても、私は十分だよ。お前がこうして私の為に持ってきてくれたものなのだから」
 桃花がその言葉に頷いて、ミルーの目を覗きこむ。
「ミルー、頑張った。桃花、頑張った」
そしてラモンを振り返る「ラモン、頑張った。みんな、満足、みんな、幸せ…だから…これは幸せのワイン。ね?」
 花のほころぶような桃花の笑顔を見て、ラモンは気付いた。
(そうだ、探していたものはここにあったんだ。…初めから)
 地下室にあったワインはただの美味しいワインでしかないだろう。幸せのワインにするか否かは、飲む人間の気持ち次第なのだから。

 数日後、桃花とラモンの元に一通の招待状が届いた。
 ミルーの気持ちが通じたのか、病から回復したミルーの祖父と、ミルー本人からのものである。
 彼の家に足を運んだ二人は、そこで長い時間を過ごす事となった。
 勿論、あのワインと、それに合う大変美味しい料理と共に。

── そう、幸せは…案外すぐ身近にあるものだ。

 ラモンは無言で頷き、桃花はそんなラモンの視線に気付いて、分らぬながらも大きく微笑んだ。
 願わくば、この幸せがずっとこれからも、この4人に降り注ぎますように。
<終わり>
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / クラス】
【4062/ラモン・ゲンスイ/男/34/冒険者(侍)】
【0078/鈴々桃花(リンリン・タオホワ)/女/17/悪魔見習い】
※ 申し込み順に並べさせていただきました。
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■         ライター通信          ■
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お待たせ致しました。『幸せのワイン』いかがでしたでしょうか?
ラモンさん、桃花さん、初めまして。ライターの蒼太と申します。(PC名で失礼致します)
今回、初の聖獣界ソーンの依頼という事で相当緊張と、それから不思議な世界設定に四苦八苦しておりました次第ですが、何とか纏める事が出来てよかったです(ほっとしています/笑)
3人の予定でしたが、締め切る時間の都合上、お二人に限定させていただいたのは、ちょっと申し訳なかったです。この次はもっと沢山のPCさんと絡む事が出来たらいいですね。
ラモンさんには大人で、事件を解く役割を。桃花さんには物語を引っ張ってどんどん展開させていく役割を担っていただきました。参加者によってはまた別の立場に立っていたかもしれませんが、今回はお二人のプレイングにほぼ沿った形で出来上がり、だと思います。うーん、イメージが違っていたらすみません。
でもこうして出来上がると、なんでもありのファンタジー設定というのは面白いものですね。結構無茶をしても納得できるといいますか。楽しんで書くことが出来たので、これからも機会があればソーンのお仕事をやってみたいな、と思っております。
またご縁がありましたら! 是非一緒に物語を作って行きましょう。
では、また!
蒼太より