<東京怪談ノベル(シングル)>


月に向かう蝙蝠

 穏やかな月光の降り注ぐ夜だった。風は止み、窓の外の緑は動かぬ闇と化している。音と言えば聞こえるのは、途切れ途切れにホオと無くフクロウの声だけであった。他には何も聞こえない。静寂と深閑が、広い屋敷の中を満たしていた。
 青年は一人、ため息をつく。長く深くはき出した吐息さえも、沈黙は飲み込んでしまう。微睡んでいる眼差しは、憂いているようでもあり安らかでもあった。肉厚のソファーに預けた長身が、動く事は無い。その姿は、眠っているようにも見えた。
 青年は一冊の本を膝の上に置いていた。親が、形見と残した本である。中に刻まれているのは、文字では無い。映像であった。開けばそこに、不可思議な出来事がビジョンとなって動き出す。そうやって物を見、事を知る。誰もが所持できる本ではなかった。『青年の親』だからこそ、持ち得た本であろう。
 だが、それすら青年のため息を遠ざける事は出来なかった。
 もう、二十四年になる。両親は亡くなる時、本と一緒にこの屋敷を残した。そして青年は自分の年齢の全てを、この屋敷の中で過ごしてきた。外へ出る事は、無かったと言っても過言では無い。
 何故なら青年は『背徳の子』として虐げられていたのだ。外へ出れば、人の目は冷たく青年を射抜く。そっと手で覆った唇が何を囁いているか、青年には容易に想像がついた。
『ダンピール』
 と。
 何度と無く聞いてきたその台詞を、人は忌み嫌いながら呟くのだ。静かに、時にあからさまに罵倒を浴びせられる事もある。
 青年の名は、セシル・M・ジレットと言った。白い顔に華奢な輪郭。一見して女のように繊細な雰囲気を漂わせている。彼は人と吸血鬼の間に生まれた子供であった。人である母が身ごもったのは、父である吸血鬼の子供だった。そして何より、人々を騒がせたのは、母の持っていた肩書きであった。母は聖職者――シスターであったのだ。
 吸血鬼の子を産むなど、禁忌以外のなにものでもなかった。
 そうして生まれたセシルは、人であり人ではなかった。バンパイアであり、バンパイアでもなかった。中途半端な存在。ダンピールであった。
 日の光の下、揚々と歩き、十字架を恐れる事も無い。それがますます周囲の者達を怯えさせた。
 セシルが町を歩けば店は戸を閉め、人は顔を曇らせた。自然、セシルは屋敷にこもるようになった。そうした視線や噂が、煩わしかったからだ。
 昼、夜と境も無く。
 ただ一人、静かな屋敷で時を送る。始めは平穏であるなら、それが一番であると思っていた。
 しかし、二十四年も経った今、この安泰は退屈に思える。半永久的に続くこの命を、屋敷の空気に浸しておくのもつまらない気がしたのだ。
「いっそ、ここを離れてみましょうか……」
 それは思いつきであった。宛などありはしない。
 だが、引き留める者のいない屋敷では、思いつきが行動となる。
 抑揚の無い声で言って、セシルは立ち上がった。こうしているのは、もう飽きた。世間の目など、どうでも良くなっていた。今はこの、緩慢で居然とした現状から離れたい。
 片時も手放した事の無い書を小脇に抱え、セシルは窓に近づいた。外では、月が煌々と輝いている。
「良い月ですね……」
 セシルの赤い瞳が、白黄の円を捉えた。その顔には言葉の意味ほどの感情は感じられない。セシルは相変わらず眠たげであった。
 ほっそりとした指で、窓を開け放つ。夜気が忍び込み、部屋の空気と混ざり合った。闇に溶けていきそうな黒髪を、撫でる月光。
「お父様やお母様の他にも、この私を見守るものがいましたか」
 セシルの背後で、バサリと音がした。翼が生えたのである。大きな黒い両翼は、蝙蝠のそれと似ていた。
「では、参りましょうか……」
 事も無げに言い放ち、セシルは窓の外へと向かって羽ばたいた。
 翼が宙を掻く度、屋敷は小さく天になって行く。
「月の元へ向かうのも、良いかもしれませんね」
 笑みの乗らぬ声で言う。
 果たして、どこへ向かうのか。
 それはセシルにも分からない。
 気まぐれに始まった、退屈からの逃避行である。『気まぐれ』に身を委ねれば良い。
 物言わぬ月が、闇にたゆたう背徳の子を、静かに見下ろしていた。



                         終