<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


mad
 どんどんどんどん!
 早朝、まだ店も開けていない内から激しく扉を叩く音に、朝食の支度をしていたルディアが顔をしかめつつ入り口に向かう。
「どなたですか?」
「客だ!」
 どんどんどんどんどんどんどんどん!
 開けるまでは叩き続けるつもりなのか、延々と続くその音に思い切り厭な顔をしつつ扉を開く――と。
「手が痛いじゃないか!」
 どこをどうやったらあれだけうるさい音と声が出せるのか、細身のひょろんとした男がずかずかと中へ入ってくる。栄養が足りているのか白い肌に、丸眼鏡をかけて…だが身なりは悪くなかった。というより、はっきりと『良い』部類に入っていた。
 …叩いてたのはそっちじゃない、と言いたいのをぐっと堪えて口の中でもごもごと「いらっしゃいませ」と呟く。それを聞いているのかいないのか、
「ほう!ここか!なかなか良い場所ではないか。では話に入ろうか」
 ぐるりと食堂を眺め回すと、せっかちなのか椅子に座る事も無くいきなり語り始めた。目を丸くしているルディアに構う事無く。
 聞いていると話が行きつ戻りつループしワープし、一体何を話しているのか分からない部分がほとんどで、しかも大半が自分自慢らしく専門用語っぽい言葉を駆使しまくってくれるからどう扱って良いのかさえ分からない。唯一聞き取れたのは、『兎』という言葉のみ――その言葉だけでも十分以上に警戒心は沸き起こるのだが。
 やがて、自分でも疲れたのかはあはあと息を切らしながら、
「そういうわけで良いかな」
 そう言った言葉が、この男が白山羊亭に入ってまともにルディアに話し掛けた最初の言葉だった。
「何やらこの家で兎を飼っていると聞いたが、彼に是非とも会わせてもらいたいのだ。その前に飼われていたという屋敷に訊ねたところ、ここに移動したと聞いたのでね」
 察するに、あの屋敷の人は度々来るこの男に耐えかねてこの店へなすりつけたらしい…そう気付いて曖昧な笑みを浮かべるルディア。
「会わせてもらえるのなら、仲介料は支払おう。…ところで彼は元気だろうね?」
「あ、あのぅ」
 初めて言葉を挟めたルディアが困ったように笑い、
「飼っているわけではなくて…何処に居るかも知らないんです」
「なんだって!?」
 白い顔だというのに更に血の気がさーっと下がっていく。ここまで来るとパッと見不死者の類に見えなくもない。それに気付いて笑いを堪えるルディア。
「なんてことだ…せっかくここまでやって来たと言うのに」
 すとん、と椅子に力なく腰を降ろし、テーブルにぐったりともたれかかった。
 それはルディアが見ても気の毒になる程の力の落とし様で。
「あの…このお店、人探し…のようなものも受け付けていますけれど」
 おずおずと。
 言ったその言葉にがばっ!と跳ね起きると目をらんらんと輝かせ、
「きっ、君が探してくれるのか!?」
 ルディアの手を取らんばかりの変化にたじっ、と後ずさり、
「わ、私じゃないです、そのっ、冒険者の斡旋をしてるのでっ」
 上ずった声を上げてしまったのは、責められることではないだろう。ふむふむとそれを聞いた男が掲示板にとことこと歩み寄り、ほほぅ、なるほど、等と声を上げていたが、
「よしっ、依頼をしよう!」
 懐から大きな羊皮紙を取り出して大きな文字でがりがりと書き付け、掲示板の真ん中に――他の紙が張ってあるというのに気に留める事もなく――貼り付けて意気揚々と立ち去って行った。
『冒険者求ム
 この街に居ると言う素晴らしい兎様を見つけてもらいたい
 そして私に会わせて欲しい
 報酬は言い値で支払おう』
「…こんなので…来るのかしら…」
 ルディアが大きく息を吐いて、その紙を一番下に貼り付けたのは言うまでもなかった。

     * * * * *

「素晴らしい兎チャンを探してる…ヘ〜エェ」
 お世辞にも上手とは言えない書きなぐりの依頼書に、ニィ…と目を細めて笑う葉子・S・ミルノルソルン。細身の長身を曲げるようにして、短い文章のメモを読み上げると客の相手をして戻ってきたルディアをちょいちょい、と指先で呼んだ。
「はーい。あら、葉子さん」
「ソーだよ葉子ちゃんダヨ♪んー、いつ見ても可愛いネェルディアちゃん」
 いらっしゃーい、とにっこり笑うルディアに今度は無邪気そうな笑みを浮かべ。その言葉にちょっと頬を染めながらもぱたぱたと手を振るルディア。
「ずいぶん上機嫌なんですね?」
「面白そうなネタ見つけちゃったカラさ。――コレ、どんな奴だった?それに…引き受けたって奇特なヤツは誰?」
 にこにこ笑いながら、『依頼は引き受けました。詳しい話は夜にここで』と小さく書かれて依頼書の上に貼り付けてあるメモをとんとんと指先で叩く。
「頼んできたのは、凄く元気そうな人で…」
 依頼人が飛び込んできた所からかいつまんで話し、そして同じように興味を持ったアイラスがこのメモを書いたのだと告げるとホホゥ、と嬉しそうな顔をし、そしてにこりと笑い。
「夜にまた会おうジャネーノ。その旦那も来ればイイね」
 ひらぁりと優雅な手つきで手を振り、口元にはにんまりとした笑みを浮かべて外へと出て行った。

     * * * * *

 べ、と羊皮紙の上から貼り付けたメモが役に立ったのか、アイラスと葉子が再び夜に白山羊亭へ赴くとルディアが目配せをし。
 がたりと奥のテーブルから立ち上がった1人の男がその勢いで2人へずかずかと近寄り、がばっ!と2人の手を有無を言わさず掴んでぶんぶん振り回した。
「キミらこそ素晴らしい目を持つ2人だ!よくぞあの依頼を引き受けてくれた!!」
 どうやら喜んでいるらしい。ジェイアスとだけ名乗った男――30は過ぎているだろう、ひょろんとした身体の男は、興奮でか曇った丸眼鏡を外してきゅきゅっと拭きなおし、そしてテーブルへと戻っていった。
「兎に会いたいということなんですけれど、それって黒い兎のことですか?」
「ああ、黒だったな。他にも様々な色はあったが、最近この辺りで噂になっているのは黒だろう?」
「噂になってます?」
「コンスタンティの家にも行ってみたが黒だったからな、間違いないだろう」
 恐らく散々ごねて聞き出したのだろう。この意気込みようやルディアに聞いていた様子からして、想像は容易かった。
「ジェイアスさんは…研究者なんですか?」
「ああ、そうだな。兎一筋だがまだまだやり続けるつもりだ。周りが何と言おうとな」
 椅子に付いた3人に気を聞かせてルディアが飲み物と食べ物を運ぶのを待ってからアイラスが口を開く。その答えは何処か偉そうに見えるジェイアスの返事だった。――もしかしたら、彼の身内で反対し続けている人がいるのかもしれない。それは、単なる研究者には見えない身なりの良さからも想像出来た。
「でさ、」
 飲み物で口を湿らせた葉子が少し意地の悪い笑みを浮かべ、男に向き直ると言葉を続けた。
「…旦那が募集したのは『見つけてくれ』『会わせてくれ』ダケダヨネ?アトは黒兎の意見を尊重ってコトで。だって俺様カネに困ってネェし、兎とアンタだったら断然コッチの兎くんのが美味そうだし♪」
「なっっ」
「葉子さんっ」
 アイラスが言いかけるも、がば!と激昂した男がテーブルから立ち上がる。
「あの兎様は食べ物ではない!!!!」
 ――論点が著しくずれている。
「ツーカ旦那だったら喰われてもイイって事かヨ」
 マズソー、と続けながらもにま、と笑い。
「あ、あの、とりあえず座って下さい。…それで、僕たちへのお願いは会わせて欲しいというだけなんですか?」
「…うむ、良くぞ聞いてくれた」
 ようやく息を整えた男が、アイラスの言葉にこっくりと頷く。そして目を輝かせ…それは本当に子供のような純真な瞳だった…とうとうと語りだす。その声は時折うっとりとした音を帯び、自分で自分に酔っているのが良くわかる。
「コレを見たまえ」
 ばっ、と目の前に大袈裟な様子で差し出したのが分厚いノートだった。それをばらばらッと開いてあるページで手を止め、指さした先には。
「…能力の、遺伝、固定…化?」
「その通り!」
 ふんっ、と鼻息荒く男が大声を張り上げると、ばんばんと自分の書いたらしいその記述を手の平で叩き始める。
「良いかね?私の長年の研究によればだ、能力を上げたとしても大抵一代限りでその役割を終えてしまうのだよ。これは実に嘆かわしいことだ。そう思わんかね!?」
「――ソレデ?ちゃっちゃと先いきまショ」
 ふむ、そうだな、と葉子の言葉に思いなおしたか、顔を近づけるのは止めてまたぱらぱらとページをめくる。
「この固定化は、何代かに渡って血脈をコントロールすることにより、子孫へと伝わりやすい体質を作り上げるのだ。黒髪の子供が黒髪になるようにな」
 これこれこれこれ、と指でその辺りの記述を見せて回る。…もしかしたら、自分のしていることを誰かに認めてもらいたいのかもしれない。しれないのだが…。
「あの…ところでですね。そのジェイアスさんの足元の鞄…動いているように見えるんですが」
「む?おお」
 穴だらけの奇妙な鞄を持ち上げると床に直置きしていたのも構わずノートの上にどん、と置き、
「そしてこれがその固定化の一歩なのだ」
 ぱちんと鞄を開ける――中に、色とりどりの仔兎たちが、急に明るくなった世界に目をぱちくりさせながら首を伸ばし…アイラスと葉子の視線に会って慌てて中へ引っ込んだ。
「『母体』だよ。彼女たちは特殊な薬草を餌にしてある。知ってるかね?母の持つ情報は子に引き継がれやすいという事を」
「フゥン?それじゃぁ、この可愛コチャンたちも強化兎ってワケ?――柔らかくて美味そ…いやいや」
 二ィ、と楽しそうな笑みを浮かべる葉子の視線からさり気なく鞄をずらしていくジェイアス。
「残念ながら、その時の研究ノートが何処かへ行ってしまってな。多少は能力が向上するよう教育は出来ても、言語を解したり人間並み…いやそれ以上の能力を手に入れたり、と言った最大の目的が上手く行かんのだ。まあ、あの時も偶然出来上がったようなものだったが」
 しゅん、と小さくなるジェイアス。
 ――それってもしかして…。
 兎たちの集落へと行った時に見せられたあのぼろぼろの本。もしや、あの中に大事な記述があったのでは…と。
 だが、アイラスはあの兎たちへ類が及ぶ事を恐れて口をつぐみ、葉子はわざわざ教えるのもツマラナイとにやにや笑うだけで止めた。
「今、別の場所で新たに研究しているその成果が出れば、またあのように素晴らしい方々に出会えるかもしれないのだが…どうして、あの時私を捨ててしまったのか…」
 多分その性格だからだと思う。
 その場に居た2人――そして、奥で昼間から酒をかっくらいながら様子を窺っていた他の客たちとの心が通じた一瞬だった。
「何オンナに振られたみたいに辛気クセェこと言ってんの。これから可愛い仔兎チャンたちを躾けて行けばいいジャネエカ♪」
「葉子さん、その言葉なんだか怪しいです…」
 わざとだろう、目をすぅっと細めて悪いことの相談でもしているかのような態度で口にすると、普通の言葉なのに何か裏の意味を勘ぐりたくなってくる。
「と、とにかく。彼女たちをあの黒兎様に贈ってみることにしよう。さ、何処に居るのか案内してくれ」
「…は?」
 ああもう!とその言葉で全て説明が付いたと思ったのだろう、じたばた足を動かしながらジェイアスが続ける。
「『母体』だと言っただろう?かの黒兎様は私の記憶に間違いがなければ、素晴らしい能力を持っているのだ。その能力を引き継ぐ子供たちを増やすために、この固定化を目的に育て上げた彼女たちをその黒兎様に捧げるのだよ!分かるだろう!?」
「あの…つまり、見合いさせろと?」
 鞄の中で、ジェイアスが言うように他の能力を上げているわけではないらしい小さな兎たちがきょとんとして上を見上げ、または眠り、隅っこでかしかしと野菜を齧っていた。
「そういうことだ。おまけにこれが素晴らしい兎様との交配実験の最初でな、理論は完璧だが成功するかどうかは分からん。だからこれだけの数を揃えてきたのだが」
「ハーレムかネェ。ふぅん…」
 面白そうじゃねえか、もぞもぞ動く兎を覗き込みながらの葉子の目はそう語っていた。

     * * * * *

 翌朝。
 アイラスは餌箱の近くで待つと言う。それを聞いて葉子はちょっと考え、
「ジャア俺は別の場所に行ってみるサ」
 出かける前に、置いたばかりらしい野菜を入れた餌箱を日陰に置いてから店を出た。そうして、白山羊亭の近く…そこの薄暗い路地で自分の仕掛けた『装置』に目標が足を踏み入れるのを、じっと待つ。
 何時もどのくらいで餌が消えるのかはルディアにも分からないだろう。だからひたすら待つしかないのだが、
「飽きたナー」
 まだ日もほとんど移動していないうちに葉子がぽつりと呟いた。
「コレだったら部屋でも取って寝てりゃ良かったカモ」
 ――そう言えばジェイアスはすぐに連絡が繋がるようにと白山羊亭に部屋を取っていた。今日も1日部屋に篭って研究ノートにひたすら理論を書き込んでいるらしい。ゴクローサマ、そう言ってやりたくなるがそれのお蔭で今ここにじっと待っていなければならないわけでもあり、そう考えると放置して何処かへ行ってしまいたくなる。
「マ、あの兎チャンに会うまでだ」
 そう呟き、再び口を閉ざして日陰の中で壁に寄りかかった。

 ――どの位時が過ぎただろうか。
「ン」
 ぴく、と葉子の眉が動き、閉じていた目をゆっくりと開いた。相手の『足』を確保した――その途端、
「――――!」
 ジェイアスの声らしき大声が聞こえて来る。その声に驚いたかその足も最初の影から移動し、別の路地へと降り立ったのが見えた。
 たったったっ。
 足取りが重いのは、手ぶらだからだろうか。ほとんど音がしない軽い体が路地の奥へと消えようとしている。――その先に、ひょろりと長い体が立ち塞がった。――ひょい、と身体を上げ、後ろ足で立ち上がってひくひくと鼻を鳴らす…小さな黒い瞳が目の前に立つ相手を睨み付けた。誰なのか分かったのだろう。
「ハァイ」
 ひら、と手を振ったのは、『闇渡り』で黒兎の先回りをした葉子だった。
「ヤダナァ、そんな怖い顔で見なくても。今日は話に来たんダヨ」
 くるりと踵を返そうとした兎がそれを止め、「?」と首を傾げながら葉子を見上げた。相手からやや距離は取りながら。
「アンタに会いたいって旦那がいてね、探してくれと頼まれたンダヨ。どうやらアンタの身内らしいネ」
 ぴくん。
 耳が緊張したのかぴんと立ち上がり、そして――少し、後ずさった。
「会うマデはコッチの役目。捕まえろとは言われてないし、鍋に入れろとも言われてない…美味そうナノにナァ」
 はー、とあからさまな溜息を付く葉子に、実に嫌そうな視線を向けてくる黒兎。
「と言うわけで会って見ネェ?」
 何がというわけなのか。一瞬きょとんとした黒兎がぷるぷると首を振り、話はそれだけかと言うようにくるんと身体を反転させる。
「――アーア。カワイコチャンもカワイソーに。あんな鞄の中でサー」
 葉子がその言葉を言った瞬間。
 ひゅ、と葉子の頬に風が走った。
 見れば、全身に殺気を込めてとんとんと兎が地面を蹴っている。…今のは警告だろう。『カワイコチャン』と言った葉子の言葉に何かを連想したらしく、それに気付いた葉子がクックッと楽しげに笑い。
「ソウイヤ集落なんてモノもあったっけネェ。あっちの『カワイコチャン』は元気だったヨ?ちびこいのまで生まれてたし――『アンタみたいに頭の良さそうなの』が、ネ」
 アッチの連中でも良かったんだったナー、と独り言のように聞こえよがしに呟いた言葉に黒兎がぶるぶると全身を震わせ、
 ――ダンダン!
 石畳の上で激情を堪えるように数度足踏みをした。
「マ、俺は会ってクレレバ他になーんもイワネーヨ?」
 にんまり。
 恨めしそうな黒兎が最後にこっくりと…物凄く悔しそうに頷くのを見ると、
「ジャア、ごホービ」
 餌箱の傍に落ちていた野菜を影から取り出し、ひょいと兎へ放り、
「日が真上に上がったらまたココで会おーネ♪」
 ひらひらっと手を振って、葉子が踵を返した。――受け取った野菜を手に、立ち竦んでいる兎を残して。

     * * * * *

「コッチコッチ」
 何か、手がかりを掴んでいたのだろう。葉子がそう言いながらのんびりと2人の前を歩いている。葉子の足運びに対しすぐにでも飛んで行きたい顔のジェイアスが焦る気持ちを無理やり押さえ込んで真赤な顔になっていた。
「エート」
 ぴた、と足を止めてきょろきょろと辺りを見回す。
 そして、見つけたのかにぃっと笑ってその長身の更に上から手を振った。
「葉子さん、ちゃんと彼に分かってもらえました?この先で待ってもらっているんですよね?」
「大丈夫ダイジョーブ。もぉ俺の説明バッチリに決まってんでショー、アイラスってば心配性なんだからナァ」
 ひらひらひらひら、と扇子のように手を振り、けらけらと笑い声を立てるその向こうに小さな黒い影がしたん、と降り立った。
 ――何やら物凄くしぶしぶのようなその動きや目がアイラスには不審に映ったが、葉子もジェイアスも全く気にしている様子は無かった。
 …前に見たときよりは、餌の確保が出来ている分違うのか随分毛並みが良くなった黒兎が其処に立っている。
「おぉ…」
 何やら感激しまくっているジェイアス。鞄を下に置いて、両手を胸の前で組み合わせ、じ、っと此方を探るような眼差しで見つめて来る兎にひたすら視線を注ぎ。
「おぉ、おぉ」
 感極まっているようでそれ以上言葉が出てこないらしい。意外に純真なのかも、と思いかけてふっと首を振り、気付けば何か聞きたそうな目で見られているのにアイラスが気付き、
「あ、この方は…その、あなたたちのような兎を作り上げる研究をしている方だそうです。今日ここに来たのは、えーと、お見合いだそうで」
「た、只の見合いじゃないぞ。貴方様のような素晴らしい兎を世に送り出すための母体たちなのだ。彼女たちとの間に子供が出来れば間違いなく貴方様のような兎がもっともっと増える筈で!」
 ぱちりと鞄の蓋を開けて広げ、中の兎たちがきょとんと顔を上げて周りを見――黒兎と目を合わせた。
 ひくひく、と鞄の中の兎たちが一斉に匂いを嗅ぐ。同じ兎と気付いたのか、それとも外の空気を嗅いでいるのかは良く分からなかったが。
「………」
 黒兎はその場から動こうとしなかった。いや…戸惑っているのが、落ち着きのないその顔と、ぱたぱた小さく足踏みをしている足で良く分かった。
「頭イイのは分かるんだけどサァ?…何言ってるのかワカンネーのが問題だと思わネェ?ねーねージェイの旦那、次のは喋れるのにシヨーよ」
「う、うむぅ…魔法生物ではないのでな、そういったモノは構造上難しいのだ…」
 物凄く悔しそうな顔をしているところをみると、研究はしているらしい。
「成功率は?」
「良くて1パーセント行くか行かないか、だな。今のところはだぞ!」
 とん、とん、とん…
 小さな足踏みの音が聞こえる。苛立ちを押し殺すために地面を叩く兎に向かうとジェイアスの顔がたちまち惚けてしまった。…どうやら、見惚れているらしい。
「で、」
 暫くそのままで待ってみたが進展は無く、アイラスが困ったように言葉を継いだ。
「どうするんですか?このままずっと待ちます?」
 日が暮れてしまいますよ、そう続けたアイラスにはっと顔を向け、「おお…そうか、もうそんな時間か」と黒兎にしばし視線を向けてほぅ、と息を付く。
「気に入ってくれなかったのだろうか…」
 外の世界が珍しいのか辺りを見回し…だが、外へ出ようとしない小さな兎たちは、やはり気になるのか黒兎に時々目を向けていた。その視線に興味を惹かれるものの、爛々とした瞳を眼鏡の奥で輝かせてじぃぃぃぃっと見つめ続けているジェイアスが邪魔なのか、ちらちらと何度も葉子たちに物言いたげな視線を送ってくる。
「あの…僕たちがいると近寄れないんじゃないでしょうか?」
 恐る恐る申し出でみたアイラスの言葉に、
「なに」
 何か言おうと思ったか口を大きく開けたものの、反論する言葉が上手く出てこないのかまたぱくんと口を閉じた。
「…せっかくあんな近くで私のやってきた結果が居てくれるというのに、この場を離れろと言うのか…」
「そりゃ、出来の悪いオヤジに四六時中ラブコール送られてる息子の見合いと来ちゃ居るだけでジャマだろうナァ」
「誰が出来の悪い親父だっっ!?」
 ――目の前の男、と。
 その場に居た全ての…無垢な『彼女ら』を除いたほとんどの目は、はっきりとそう告げていた。
「うぅぅぅぅぅぅぅ」
 物陰で地面にのの字を書きながらべそをかいている男。押し出しの弱そうな男には実に似合いの光景であったが、
「上手く行ってる?」
「さあ…そんなの、彼に聞いてみないと判りませんよ」
 兎たちの様子を観察している2人にはとりあえず関係の無い話で。
 ――黒兎は、すぐ近くにアイラスたちが残って見ていることには気付いているらしい。だが、目の前で凝視されるよりはマシと見たのだろう、すぐにぴょこぴょこと鞄の傍へと近寄っていく。
 それにすぐ反応する仔兎たち。好奇心と新しい匂いに誘われ、次々と顔を出し――物怖じしない仔らしく、すり…と黒兎に頭を擦りつけた。仲間と思ったのか、それとも単なる匂い付けか、そこまでは判らなかったが。黒兎も仔兎たちに何か懐かしいものでも感じているのか、ぴこぴこと耳やら鼻やら動かして何かしきりに話し掛けているように見えた。
「仲良くしているみたいですね」
 こっそりと、まだ激しく落ち込んでいるジェイアスに告げたアイラスの言葉に「本当かね!?」と飛び上がり、慌てて物陰の隙間にぎゅぅと身体を押し込んで来た。
「ふふふふふふふ、流石私だ」
「何がですか…」
 すっかり元通りになったジェイアスに、ほんの少しだけ、放置したままでもよかったかも…と思う。

「さ、さあ、どうだね!?気に入ってもらえたかと思うがっ!」
 口調は偉そうなのに声色は哀願調。
 対峙している2人?を見ながら、アイラスと葉子は顔を見合わせて苦笑した。
「………」
 警戒心が強いのか、じっと…ジェイアス、葉子、アイラスの順に眺める黒兎。
「それじゃ早速研究所へ戻って実験開始と行こうか!」
 おい待て。
 先走り過ぎなジェイアスがだっと駆け出し、黒兎を思い切り抱きしめようと両手をぐばっと広げる。
 その直後。

 ――べしべしべしべしべしッッッッ!

 結果は見ずとも判った。何やら呼吸まで乱している黒兎が顔中足跡だらけになっているジェイアスを、全身毛を逆立てながら睨みつけている。
「ぐは…っ」
 比較的整った顔に赤々と散る細長い足の跡に手を置きながら、呻くジェイアス。
「…当然ですよね」
「俺だったらモット容赦シネェけどなぁ」
 知能を発達させたものたちに、『感情』が発生するとは思ってもみないのだろうか?
「思ってないんでしょうね…当人を目の前にして、動物実験云々を言い切ってるわけですし」
 兎たちがあの男を見捨てて逃げ出した理由が良く分かるような気がする。
「な、何故…やはり私は嫌われているのか…」
 おぉぉぅぅぅ、膝を付き身を揉んで人目はばからず大声で嘆く、30過ぎた男。
「何故って言うカネ」
 くっくっと楽しげに笑う葉子。普通に立っているのにも飽きたか空中にふよんと浮いて腕を組む。
「あ、あの…」
 アイラスがそっと言葉をかける。
「いいんですか?放っておいて…行っちゃいますよ」
 大きな声で言うのも気が引けるのか、こっそり、といった感じで。当然ジェイアスの耳になど届く筈もなく、おうぉうと自らの不幸加減を嘆いているようで。「ン?」と葉子がアイラスの視線の先を見…そしてにんまり、と笑った。
「ホォ〜ウ。味なコトしてクレンジャネエノ」
 見れば。
 ずる、ずる、と。
 自分の体より大きな鞄を、今だ怒った目のまま運んでいく黒兎の姿。その中に居る仔兎たちはきょとんとした目のまま、逃げることは考えていないのか、それとも楽しいのかきょろきょろと辺りを見回しては自分たちの進む方向と去っていく方向を、鞄の縁に前足をちょこんと乗っけたまま見つめていた。

     * * * * *

「――はっ!?あ、あの仔らは何処へ行った!?」
 薄闇が街を覆いかけた頃、ようやくがばと身体を起こしたジェイアスが今まで鞄が置いてあった場所に這い蹲り、そして身体を跳ね上げて2人へと食って掛かった。
「僕は言いましたよ、何度も。行っちゃいますよ、って」
 小声で、とは言わず、しれっとした顔のアイラスが言い。
「よーっぽど気にイッチャッタみたいだしいーんジャネーノ?」
 にやり、にやりと人の悪い笑みを浮かべたまま、空中でん〜っと伸びをしてみせる葉子。
「ま、また私の手元を離れるのか…」
 がくりと膝を付くその様子は哀れではあったが。
「…そうなれば次は喋るパターンと魔法特化と…ああっ、また1からやり直しなのかぁぁぁぁぁっっ」
 ――全然懲りてなさそうなので慰めることはせずに置いた。

     * * * * *

 何処かの孤児院の前に鞄に入った仔兎が置かれていたらしい。とても大人しく人懐こいタイプで、全て雌兎なので集団で飼っても子供が増える気遣いはないと…わざわざ毛並みの良い、大人しく躾けられた兎を黙って置いて行った奇特な人にシスターが感謝している、と言う噂がひそやかに伝わっていた。
「奇特な『人』ですか」
「ツマンネェな、せっかくハーレムが作れるチャンスだったってノニ。心臓チッチェー」
「聞いたかねっ!?」
 どばん、と扉を蹴り開けるようにしてジェイアスが飛び込んでくる。散々落ち込んでいたくせにもう復活したのかと思いつつ身体を向けると、慌てたように近寄ってきて、
「あ、あの仔らが、捨てられていたと…ッ」
「違いますよ」
 ひらひら、と手を振ってあっさりとその言葉を否定するアイラス。
「…これから実験に使われると聞いて放って置けなかったんじゃないですか?知恵の回る自分ならともかく、彼女たちは…その『固定化』とかいうものの他は普通の兎だったんでしょう?」
「なにっ。すると何かね、あの黒兎様は私がこれからどんな実験をするのか知っていたと言うのかっっ!?」
「自分で言ってたじゃネエカ」
 ぼそり。
「そうか…そこまで、理解出来る位発達していたのか…これは記録しておかねば。さて次の話だがね」
「まだ何かするんですか?」
 いやいやいやいや、と先程までの雰囲気とは打って変わってにこやかな顔をするジェイアス。こうして見ているだけなら、気の良い青年貴族…そう見えなくもない身なりをしているのだが。
「まああの仔らはまだ幼い者だったのでな、それ程焦ってはいないのだよ。いつでも取り返す機会はあるだろうし」
 何か不穏なことを言ってのけたジェイアスが、今度は何やら酷く熱い視線を――葉子へと向けた。我関せずとテーブルの上のつまみを遠慮なくぱくついていた葉子が、上から下までじろじろと無遠慮に眺められて「ン?」と煩わしそうにじろりとジェイアスを眺めやる。
「どうかねキミ。私の素晴らしい研究にひと肌脱がないか」
「………アン?」
 ぽりぽりと野菜スティックを齧りつつ、片眉をぴくんと跳ね上げる葉子。いつの間にかその顔から――いや、口元はともかく目から楽しげな光が消えていることにジェイアスはまだ気付いていない。
 ――そっと、アイラスは座っていた位置を変えてさり気なく2人から離れていく。
「素晴らしい兎様でこの世界を溢れさせるためにその能力を調べたいのだ。空を飛ぶ彼らを見てみたくはないかねっ!?」
 落ち込んで戻って行ったと思ったら…次の案を考えていたらしい。それもどうやら、一般に知られている魔法のように呪文や身振りを必要としない、空に浮いている葉子を見て思いついたのだろう。フゥン?と葉子が笑みを含んだ顔のまま次の言葉を促す。
「多少は痛いかもしれないがまあそれも壮大な世界を得るための条件と思って」
 にっこり。
 見た目純真な笑みと、純粋な瞳が対峙し――
 バチィィンン!!!!
 一瞬の出来事だった。
 ジェイアス自身、自分に何が起こったのかよく判らなかっただろう。激しい衝撃に吹き飛ばされ、服をずたずたに切り裂かれた姿で気を失ってしまっていて。
「さーて。ヨソの店で飲み直サネェ?」
 ふっと強張った気配が解け、葉子がアイラスの答えを聞かずさっさと立ち上がる。
「え?どうしたのこの人」
 ルディアが音に驚いたか奥から飛び出してきて目を丸くした。サア?と葉子が肩を竦める。
「グーゼンどっかから魔法でも飛んで来たんじゃネーノかな」
「どこかからって…」
 きょと、と店内を眺め回すルディア。窓を開放してある訳でもなく、入り口も開いておらず…そして、葉子が楽しそうに笑っているのに気付いたらしい。めっ、と軽く睨む真似をして、アイラスへちらっと視線を送った。
「葉子さんで人体実験しようとしていたらしいんです」
 その目の意味に気付いて苦笑いをしてみせるアイラス。なるほど、と呟いたルディアが溜息を付き、
「…変にごねたら弁償してね?服とか」
 それだけ言うと起き上がる前に出たほうが良いとひらひら2人へ手を振った。後はやっておくという意味なのだろう、その仕草に甘えさせてもらい、逃げるように店を出た。

     * * * * *

 その後ルディアに会っても何も言ってくることは無く、また、ジェイアスの姿も見なくなった。介抱していたルディアの言によると、起きるなりノートにせっせと何か書きつけて飛び出して行き、それ以来姿を見てはいないと言う。諦めたのだろうか。
 黒兎は、それでも慣れて来たのかルディアが餌を持って行くと姿を現すようになってきたと嬉しそうに言った。その上何やら店主に頼み込んで裏庭に小さな木の家を作ろうかと画策中だと言う。
「アレを飼うって正気カネ。――また変な事に巻き込まれなきゃイイケドネ〜」
 寧ろ変な事が起こって欲しいという表情をありありと浮かべた葉子に、
「あの兎が落ち着いてくれればそれで良いと思うんですけれどね」
 曖昧な笑みを浮かべたアイラスがそう締めくくった。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1649/アイラス・サーリアス  /男性/ 19/フィズィクル・アディプト】
【1353/葉子・S・ミルノルソルン/男性/156/悪魔業+紅茶屋バイト  】

NPC
ルディア
ジェイアス

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■         ライター通信          ■
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おまたせしました。「mad」をお送りします。
危険人物がようやく登場しました。今回のことで何かを得たのかまた研究に励みに行く事になりそうです。完全に諦めたわけでもないのでしょうが…『自分が何よりも正しい』と信じている人ほど扱いに困ることは無いですね。
まあこの人の場合は作った端から離れて行ってしまうので願望を成就するということは無さそうですが。

それはさておき。
今回も参加していただき、ありがとうございました。楽しんでいただけましたでしょうか?
また別の機会でお会いできることを楽しみにしています。
間垣 久実