<東京怪談ノベル(シングル)>


来たるべき子供たち

 気持ちいい早朝の空気を、なんの前触れもなく引き裂いたのは悲鳴でした。
 もしもこの悲鳴が可憐な女の子の絹を裂くようなそれであれば、胸躍る事件の前触れにもなるでしょうが、三十路にさしかかった家主さん(男)の裏返った叫び声ではその可能性も期待できません。
 なにやらばたばたと慌ただしい物音の末に、何かが倒れる震動が軽く家を揺るがしました。
 でも、この家の住人たちの誰も、物音の源を確かめに起き出す気配はないのです。なにしろまだ地平線では、夜明けの乙女たちが太陽と抱擁を交わしている真っ最中です。そもそもこの程度の悲鳴に驚いていては、この庵で起居などできようはずもありません。
 でも、ここのところずっと朝は静かだったのに、何が家主さんをそんなに驚かせたのでしょう?

 ややあって廊下の床板をずかずかと踏み荒らしながら、この庵の家主さんである塵さんが現れます。着替えもせずに寝床から飛び出してきたのか、寝巻きはだらしなく前がはだけたまま、髪は寝癖がついてくしゃくしゃです。
 塵さん、今朝はなんの怪現象に起こされたんですか?
 私が首を傾げて塵さんを見つめると、彼はようやく乱れていた呼吸を落ち着けて、憮然とした顔で自分の寝床のあるほうを指さしました。
「……見りゃわかる」
 お言葉に従って見に行ってみることにします。
 寝床の前の廊下を、真ん中に大穴のあいた襖がふさいでいます。きっとさっきの震動はこれでしょう。あわてた塵さんが蹴倒したに違いありません。
 中を覗きこんでみます。
 塵さんの趣味で畳敷きになっている部屋に、何かがいます。人影です。複数です。みんなでなかよく輪になって、真ん中にある塵さんのぬけがら、空っぽのお布団をのぞきこんでいます。そう広くもない寝室に、大所帯の彼らは極限まで詰めて立っています。
 ……もし、ふと目を覚ましてみて、布団のまわりを何者が取り囲んでいたら。
 ……しかもそれが、皆一様に自分を見下ろしていたら。
 たしかに、ちょっと怖い状況かもしれません。何もしないのがまた不気味です。夜襲されたほうがまだましというものです。特に、覗き込んでいるのが彼らでは。
 この家の引き起こす数々の怪現象に慣れた(慣らされたとは、このさい言わないでおきましょう)塵さんも、さすがに起き抜けで心の準備ができていなかったのだと思います。
 塵さんの私室に、隙間なくみっちりと詰まった彼ら。その人数を数えるのも面倒ですが、たぶん人数は四十九人いるはずです。なるほど、透けてる精鋭部隊の皆さんでしたか。



「……取り乱しといてこういうことを言うのもなんだが、まだ誰も起きてこないってのはどういうわけだ」
 塵さん塵さん、ですから、あの程度の悲鳴で驚いていてはこのおうちでは以下略。
「大体、なんで奴らが俺の部屋まで遠征して来るんだ?」
 確かに、言われてみると変ですね。
 精鋭のみなさんは普段、家の片隅にある一室で寝起きしています。いえ、彼らが本当に寝たり起きたりしているのか、私も本当は知りませんが。
 彼らは夜毎に塵さんの手によって、全員がひと部屋に押し込まれ、鯖寿司のごときぎゅう詰めの状態のまま朝を迎えているのです。ずいぶんな扱いですが、塵さんいわく「怪現象に人権はない」そうです。よくわかりませんが、精鋭のみなさんに不満はないようなので多分それでいいのでしょう。
 彼らが塵さんの部屋に来たということは、精鋭さんたちの部屋に、何かあったんじゃないのでしょうか?
「あまり考えたくはないが……見に行ったほうがいいんだろうな」
 私と同じ疑惑に行き着いたらしく、塵さんは重い腰を上げて立ち上がりました。
「……放置してさらなる面倒が起こる前に」
 落とされたため息が重いです。哀愁漂う背中を、私も追いかけます。

 部屋の前に立って、塵さんがまず扉に手をかけました。開きません。
「なんだ?」
 今度はもう少し力を入れたようですが、それでも開きません。
「ますます嫌な予感がするんだが」
 顔をしかめて塵さんは、沈黙する扉の向こうを見つめます。静かです。やっぱり、誰も起きだしてこないようです。それをいいことに、家主さんは葛藤を続けます。
「……このままこの部屋を封印するべきか」
 でもそれでは、精鋭さんたちが寝泊りする部屋がなくなってしまいます。
 それに、ふとしたときに、お客さんがうっかり開けてしまわないとも限りませんよ。
「問題の解決にはならないな……」
 そのとおりです。
「覚悟を決めるか」
 もう一度、今度はしっかりと扉に力をこめました。やっぱり開きません。でも塵さんはめげません。
「むっ」
 無理な力をかけられて扉がたわんでいます。寝巻きから伸びた塵さんの腕に筋肉が盛り上がり、みるみるうちに額に汗が浮かびます。それでも開かないので、柱に片足をかけ渾身の力をこめて扉を引きます。片足を上げたせいではだけた寝巻きのあわせめから下帯がちらちらとのぞくのは、とりあえず見ないふりをしておきます。
「ぬおおおおおおおおおお」
 鬨の声に似た塵さんの気合が廊下に響きます。
「うおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 がたーん。

 扉が開いたけたたましい音と同時に、

 ごぱ。

 部屋の中からなにか黒いものがどっとあふれ出しました。私はとっさに直撃をまぬがれましたが、扉を開いた塵さんは真正面からそれを受け止めてしまいます。
 真っ黒な塊のように見えたそれは、窮屈な部屋の中から解放されたのを知ってか、毛糸玉がほどけていくようにして散り散りばらばらになっていきます。いえ、蜘蛛の子を散らすように、といったほうがいいのでしょうか? でもこれはどう見ても蜘蛛ではありません。
 普通はお台所に潜んでいる、油ぎって触覚の生えた例の黒い虫。「ゴ」のつくアレです。
 無数の黒い虫が足元を通り過ぎていきます。いまや壁といい床といい、彼らは縦横無尽に駆け巡っています。うじゃうじゃと虫たちがさざめくこの廊下中が、悪夢の黒い水玉模様。
 あっ。足に虫が這い登ってきました。私はあわててそれを振り払います。
 精鋭さんたちが逃げてきたのもわかります。ただごとではない大量発生ぶり。一体この部屋のなにがここまで「ゴ」の大繁殖を許したのでしょうか。
「ふ」
 扉の前で塵さんが不気味な笑いをもらします。
 固まっていたのはほんの一瞬だったようです。部屋からあふれ出てきた「ゴ」軍団を真正面から浴びたせいか、まだ寝巻きのあちこちに黒虫がたかっています。それどころか、服の中にも。せめて口の中に「ゴ」が入っていなければいいのですが。
「ふふふふふ」
 抑えた笑い声が聞こえてきます。
 塵さんはそのままの姿でくるりととって返し、慌ただしい足音ですぐに戻ってきました。方角から考えて、たぶん自室に駆け戻って何かを取ってきたのでしょう。
 手にしているのは一振りのハエ叩きです。
 びゅん、と振り上げます。たかがハエ叩きでも、サムライの手にあれば威力は絶大です。狙いはたがわず打ち下ろされた得物は、壁にいた虫の一匹に直撃します。
 ぽろりと壁からはがれた黒い虫は、腹を上にして落下し動かなくなりました。
「ふふふふふふふふふふ」
 それに勢いづいてか、塵さんは次々と虫にハエ叩きを見舞います。
 速い。早い。まさに乱舞です。ハエ叩きは踊るように、ゴキ……例の虫を片付けていきます。
 その間も、塵さんの口元から聞こえてくる含み笑いは途切れることはありません。それどころかますます音量は大きく、高笑いのようになっていきます。
「はーっはっはっはっはっはっはっはあ!!」
 まるでそれまで心に鬱屈していたなにかを、ゴの字のつく虫たちにぶつけているようです。

 何が彼をそんなに追い詰めたのでしょう。
 天井からぶら下がったまま熱い視線を送ってくる女幽霊さんでしょうか。五十人の大台も間近な、半透明の精鋭部隊のみなさんでしょうか。それとも、ことあるごとに池から上がってきては家の中を闊歩する白い鰐さんでしょうか。ヌルヌルした天使さんや、インなんとかやルドなんとかの幽霊さんたちでしょうか。
 それから、ええと、あと、何がいましたっけ?

「はーっはっはっは……きりがないな」
 不意に笑いを途切れさせて、意外に冷静な声音で塵さんは言いました。
 確かに、いくら塵さんが素早く敵を倒しても限界があります。相手は少なく見積もっても何百匹、もしかすると何千匹もいるのです。今のように一匹一匹つぶしているのでは、夜になってしまいます。
「最初からこうすればいいんだよな、うん」
 ぶうん。打ち下ろされたハエ叩きが唸ります。「武神力」をのせられた一撃によって、床に集まっていたひとかたまりの黒い虫たちが、見えない刃に裂かれたように破裂しました。
 確かにこれなら、さっきまでの何十倍も効率的です。おまけに威力があまりに強大なので、ちいさな虫程度では死体すら残りません。
「はははは」
 次々と武神力を放ちながら、塵さんはまた笑います。
「害虫駆除は楽しいなあ。駆除しようと思えば、簡単に駆除できるもんなあ。はははははは」
 何か含むところを感じますが、それどころではありません。塵さんの武神力は、だんだん見境なく放たれるようになっています。巻き添えを食ってはかなわないので、私はあわてて塵さんの後ろに隠れます。
「俺はなあ、俺は」
 塵さんはハエ叩きを大きく振りかぶりました。
 一点に集められた武神力で、空気が陽炎のように揺らぎます。どうやらこの一撃で決めるつもりのようです。不穏なものを感じ取り、来るべき衝撃に備えて、私は伏せました。
「ただ静かに隠居したいだけなんだああああ――!!」

 ずうん。ひときわ大きく家中が揺れました。



 ぺた、ぺた。
 さきほどの震動と物音で、どうやらようやく眠りからお目覚めになったようです。聞きなれた足音が向こうからやってきました。まあ、おはようございます。
 私が頭を下げると、白黒模様も凛々しいその方は、「おはよう」というように、私に向かって軽く片手――つまり羽の先を上げました。私はうれしくなって、その方のおそばへ駆け寄ります。ぺたぺたという私の足音は、その方のものとよく似ていました。
「……おい」
 塵さんが背後から声をかけてきます。
「なぜ、なぜ、ぺんぎんが二匹に増えているんだ……?」
 増えるなんて、失礼な。
 そういえば、私たちが二羽同時に塵さんと会うのははじめてかもしれません。確かに人間の皆さんには、私たちぺんぎんの区別はつきにくいでしょう。塵さんはどうやら今まで、私の事を夫と見間違えていたのです。
 夫の顔を見ると、彼は黄色いくちばしを開けてグワ、と一声鳴きました。ああ、素敵。
「……まさかおまえたち、つがいなのか」
 肯定の意味をこめてぺたぺたと私が両足を踏み鳴らすと、塵さんの顎がかくんと落ちました。
「どうして怪現象どもは、俺の知らない間に増えるんだ……」
 増えたんじゃなくて、最初から二羽なんですってば。増えるのは、これからなんです。
 私はそう伝えようともう一度足を踏み鳴らしましたが、塵さんにはその意味はわからないようです。
 壁にあいた大穴から、眩しい朝日が差し込んできます。
 塵さんの武神力は、壁を貫き、その向こうにあった精鋭さんたちの部屋を横切って、その向こう側の壁にも穴を開けていました。
 気持ちいい風が、穴を通ってきます。とはいえ害虫駆除のためにしては、少々大きすぎる被害です。わずかに生き残った黒虫さんたちは命が惜しいと見えて、そこの穴から外へ逃げていきました。
 そういえばこの穴、このままにしておくわけにはいきませんよね。誰が直すんでしょう?
「……俺が直すのか」
 ようやくそのことに思い当たったのか、塵さんはがっくりとその場に膝をついたのでした。

 結局その日いちにち、塵さんは娘さんに叱られながら、壁の大穴の修復をしていました。
 あんまり忙しそうなので、私はまた塵さんに報告する機会を逃してしまいました。
 我を失って自分の家を破壊してしまったことで、家主さんはずいぶん落ち込んでいるようです。せめて私の報せが、すこしでも塵さんの心を慰められればいいなと思います。
 でも、もうひとつのあらがいがたい考えが、わたしの心を誘惑してやみません。
 私たちだけでこっそり巣の卵たちを孵して、いつのまにか私の子供たちが家の中を歩き回っていたら、住民の皆さんはびっくりするでしょうか。