<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


翼もがれて空を飛ぶ


◆エスメラルダの涙◆
 ベルファ通りに居を構えた、黒山羊亭。毎夜冒険者達が集う酒場の踊り子・エスメラルダが、その夜はどこか元気が無かった。
 踊り子仲間がそんなエスメラルダを心配して声をかける。
「どうかしたの、エスメラルダ?何か元気ないじゃない」
「――そんな事ないわ」
「嘘言わなぁい!!……何かあったの?」
エスメラルダは寂しそうな笑みを浮かべて、肩を竦めるのみ。じっと見つめてくる女の目を見て、そっと視線を横に外す。
「何に無いの、何も……」
「エスメラルダ!?」
「ホントよ。ただ、少し哀しく思うだけ」
「だから何があったの?」
 曖昧に言葉を濁すエスメラルダに、女は食いついて離れない。観念した様に両手を挙げて、エスメラルダは小さく吐息を落とした。
「鳥人って居るでしょ?――私の友達がソレでね、渡り鳥なのだけど」
女がうんうんと頷く。
「彼女がね、十年前の夏に子供を生んだの。可愛くて可愛くて、目に入れても痛くないってくらい溺愛しててね。――空を飛ぶのが大好きで。見てて幸せになる程の、愛らしい笑顔を向けてくれる子で」
 もう一つ、溜息。
「冬になると暖かい土地を求めて、旅をする。春になると戻ってきて、暮らす。だけど今年の春、彼女は戻らなかった」
「え!?」
料理を摘んでいた、女の手が止まる。向かい合うエスメラルダは遠くを見る様な目つきで、酒を一口含んだ。
「何者かに襲われてね。彼女は戻らず、娘のイルは瀕死の大怪我を負った。彼女の翼はもがれて、彼女はもう空を飛べない」
「……そりゃ、アレだけど……でも、命あってのモノダネじゃない!!」
「確かにね。だけど私が何より痛ましいのは、彼女が笑わない事。話さない事。母親が戻ると信じて、動かない事。もうすぐ冬が来るというのに、彼女は森を離れない。何度街へ連れてきても、戻って行ってしまうのよ」
 気がつけば、亭中の視線がエスメラルダと女の二人に注がれていた。エスメラルダの面持ちが気になっていた冒険者達は、密かに耳を欹てていたのだ。
「一度もがれた翼は二度と元には戻らない。彼女の命も、還らない。イルの絶望は解るのよ。……だけど、私の勝手かもしれないけど、イルには笑っていて欲しいと思うの。いつもいつも、笑顔でいて欲しいと思うわ」
 しーんと静まり返る亭に、エスメラルダの涙が一粒、落ちた。


◆初見の日◆
 一夜が明けた。昨夜の黒山羊亭ではエスメラルダの涙を見るという珍事に出くわした、アイラス・サーリアス。彼は一人、森の中を行く。
 向かう先は、渡り鳥の集落。とはいっても、今の集落はもぬけの殻。鳥人達は暖かい大地を求めて飛び立った後だろうが。――ただ一人を残して。
 アイラスの目的はそこ。エスメラルダの涙の理由、翼をもがれ大切な人を失ったイル――彼女の助けになれたらと。自身も大切な人を失くし、辛い痛みを知るアイラスである。それに、これから寒さも増すというのに、その最中に放って置くことなど出来はしない。
 程なく行くとアイラスは集落へと辿りついた。
 話通りの寒々とした空間には、葉を落とした冬の木々が立ち並ぶ。所々に生活の跡らしきモノが見れる。
 そして、彼女も。
 イルは一際太い幹の根元に、足を抱えて座っていた。
「こんにちわ」
アイラスは少女へと歩み寄り、にこりと笑って言った。首を傾げた際に、首元で結った髪が肩から胸へと流れる。
「寒くないですか?」
 イルは視界の端にもアイラスを映さない。ただ前を見据え、アイラスの言葉など歯牙にもかけない。
「僕はアイラス・サーリアスと言います。黒山羊亭の踊り子、エスメラルダさんには懇意にして頂いていて……」
警戒心など露程も無さそうだが、一応自己紹介はしておかなければなるまい。
 ――がやはりイルは無関心とばかりに顔を背けただけ。
「空が蒼いですね……。鳥が本当に楽しそうに飛んでいく……」
 アイラスもその反応は最初から予想の範疇だ。受け入れてもらえるとは思っていない。
「空を飛ぶって、それはそれはイイ気分なんでしょうね……。もしこの腕が翼で、僕の体が風を受けて空を泳ぐのだとしたら……それは一体どんな気分なのでしょう?こうして想像するだけでも、とても胸躍る瞬間なのですけれど」
イルの隣に腰掛けて、同意を求めてみるが――やはり応えは無い。
「それにしても寒いですね?イルさん、眠る時とかどうしてるんですか?」
――無視。
「食べ物……はやはり、森から探してくるんでしょうか?どんなものが美味しいです?」
――更に無視。
「雨が降ったらどうするんです?風邪とか平気ですか?」
――やはり無視。
「街は暖かいですよ?露店とか見た事あります?色々なモノが並んでて、そして美味しいものも沢山あって。気さくで明るい人々と触れ合うのも楽しいものですし」
――どこまでも無視。
「それから…………」

 こうしてこの日、アイラスの一方的な会話は長々と続けられた。


◆雨の日◆
 それからのアイラスは、まるで恋人に会いに行くかの様に足繁く森へと出向き、ただひたすらにイルに話かけ続けた。その間もまだ十と少しの少女は、容赦無く口を開かない。
 ただ、通いつめた成果はあるにはあった。
 まず二日目には、嫌そうな顔で木の天辺へと避難された。ビュウビュウと吹きすさぶ風に身を震わせる彼女に、諦めて一時間もしない間に退去。しかしこの時点で、アイラスを認識している事がわかった。
 三日目には言葉の数を減らしたアイラスの隣に、座り続けた。
 四日目には視線が合うようになった。
 ――十日目には、アイラスの問いに頷いたり首を振る様になった。
 だがやはり、エスメラルダの言う様に笑わない、泣かない、怒らない。そして喋らない。街へと促してみても、嫌々と首を振る。
 それは、中々に難儀な少女だった。

 森は最早冬の色、気温も低下を見せ寒い日が続く。特に夜などはその寒さも非では無い。
 更にその日は、雨まで降っていた。
 アイラスは大荷物を背負い、足早にイルの元へと向かった。荷の中には、ずばり防寒具に暖かいお茶。
「イルさん……お早うござい……」
 絡まり合った枝が調度傘の様に、雨を退けるその下にイルの金の髪を見つけたアイラス。走り寄って掛けた言葉は尻すぼみに消えた。
 スースーと静かに寝息を立てて、イルは眠っていた。その膝には新しい毛布が掛かっている。彼女の横には、食べたばかりだと思われる汚れた皿。昨日まで無かった筈の衣類が背後の枝に吊るされている。
 ああ、エスメラルダさんが来たのですね――。
 自身も荷物の中から毛布を取り出して、イルに掛けてやりながら、アイラスは思った。
 眠りにつく少女の傍らへと腰を落ち着けると、アイラスはどんよりと曇った空を見上げた。それを背後に吐き出される息は白かった。
 少し濡れた所為か、風が吹くとブルリと震えがくる。手の先や足の先が強張り、冷たくなって行くのを感じる。
 心なしかイルの顔も蒼白い。それもそうだ。暖かいソーンしか知らない彼女には、この寒さは堪える事だろう。
 そろそろ街に入らねば、本当に最悪の結末になってしまう。
 アイラスは眉根に深い皺を刻みながら、少女の寝顔を見つめていた。


◆決断の日◆
「イルさん」
 また何時もの様に、アイラスはイルを訪ねた。だが発せられる声音は固く、見つめてくる青い瞳は不思議そうに大きく見開かれていた。
 眼鏡に太陽が反射して、イルからはアイラスの表情が良く見えない。ただ次の言葉を促すように小首を傾げた。
「イルさん、貴方はここでお母さんを待っているのでしたね?」
アイラスの言葉にイルが頷く。
「襲われた日は、春になるにはまだ早い陽気だったとか。――空を飛べないのは辛いですか?」
もちろん、とばかりに、イルは二度大きく頷いた。
「もう一度、空を飛べる様になると……そう思います?そのもげた翼で」
イルの瞳が僅かに歪み、何事かを思案した後に力なく首が振られた。
「では、貴方はお母さんを待つだけの為にここにいるのですね。――本当にお母さんが戻ると思って?」
 瞬間、イルの瞳が剣呑な光を帯びた。怒気を孕む視線が、アイラスに突き刺さる。
 それでもアイラスは尚も言い募る。
「もし貴方のお母さんが生きているとして、では彼女は連絡も取れない程、戻っては来れない程大怪我を負ってしまったのでしょうか?それとも何か他に理由があって?それとも彼女は最愛の貴方を放って置くほど酷い方なのですか?」
「……」
「だけどそれは有り得ない。エスメラルダさんから、聞いているのでしょう?」
 森の外れ。そこで力尽きた鳥人の死体。イルと同じように翼をもがれた無残な彼女の死体。エスメラルダが確認したのだという。
「お母さんは、もう戻らない――いえ、戻れないんです。それはイルさんだって、ちゃんと気付いているのでしょう?それなのに、何故ここに留まるのです。もがれた翼はもう二度と戻らない。お母さんは還らない。あの幸せな日々はもう戻らない」
 滂沱の涙を両の目から流しながら、イルの表情が歪む。血が滲む程固く、拳を握り締める。
「現実は変わらないのです」
 ドンッ
 イルの拳が、アイラスの胸に打ち付けられた。防寒服のお陰で、振動以外のものは運んでこなかったが……。
「あんたに!!何がわかるんだよ!!!」
 初めて、イルの声を聞いた。彼女は肩を怒らせ、アイラスの胸を二度三度と叩く。
「そうさ、母さんは戻らない!!あたしだって、もう空は飛べないよ!!辛くて苦しくて哀しくて痛い……!!あんたになんてわからない!!」
「そうですね。でも多少ならわかるんですよ」
 何時になく穏やかな声でいうアイラスは、イルの頭を優しく撫でた。
「僕も昔、大切な……本当に大切な方を失いました。故郷だって、懐かしい人々だって今は記憶の中にしか居ないんです」
 腕の中で嗚咽を漏らす少女には聞こえているのだろうか。
「だけど人それぞれ悲しみは違うから、似た経験をしようとも僕にはイルさんの気持ちを本当にわかってあげる事は出来ない。でも貴方が望むのはそんな事じゃ無いのでしょう……?」
「……辛くなかったの……?」
「辛かったですよ」
くぐもった声には、苦笑で答えた。
「だけどずっとその場所に留まっている事は出来ないのです。記憶の上でも。だってどんなに哀しくても、僕はお腹が空くのです。時間は必要ですけどね、乗り越えなければいけない問題なのです」
わかるでしょう?と問いかける。
「乗り越えるのは簡単じゃない。そして動き出すのは怖い。……忘れるのが哀しい?」
コクンと小さく頷く頭。
「でもお母さんはそんな事より、イルのこの姿を見た方がもっと哀しいでしょうね」
背中を優しく叩いてやると、少女は大きな声を上げて泣き出した。
 
 やがてそれが掠れた声に変わっても、少女は全てを吐き出すが如く、泣き続けた。


◆笑顔の日◆
 黒山羊亭屈指の踊り子・エスメラルダはその光景を見た時、一瞬唖然としてしまった。
 アイラスに寄りかかるようにして眠っているイル。毛布を幾重にも巻き付けたその子供の瞳は、酷く腫れていた。
「――なっ!!」
 声にならない声が上がる。先日亭を訪れたアイラスは説得するだとか何だと言っていたが……これはどういう事なのか。
 ただただ事情が飲み込めず立ちすくむエスメラルダの手から、用意した朝食が落ちて無残に砕けた音がした。
 その音に、イルががばりと起き上がる。
「……エスメラルダ?」
 開けきらない瞳が痛々しい。だがそんな認識よりも早く、エスメラルダの瞳から涙の粒が落ちた。
「ええ、ええ!!イル、貴方……!!」
「――ありがとう、エスメラルダ」
「え?」
「一番最初に言いたかったんだ。一杯一杯ありがとう」
 もそりと立ち上がる少女に、エスメラルダは走りよって彼女を抱き上げた。
「良かった!!本当に良かった。貴方に何かあったら私……」
 美貌の主は微笑んで、イルの頭を撫でた。嬉しそうな顔に、自然とイルの表情も綻ぶ。
「!!笑った……!!」
強く抱きしめて来たエスメラルダに、イルはくすぐったそうに笑う。惜しげもなく笑う。
 そこには、昨日までの苦しみなど一つも無かった。
「ごめんね、ありがとうエスメラルダ。あたし、街に行くから」
 にこりと微笑むイルの瞳に、また涙が滲みだす。
「本当は、ちゃんとわかってた。だけど嫌で、恐くて……。だけどもう平気。乗り越えていけるよ」
「イル……」
「街に行ったら……母さんの昔の話とか、聞いてもいい?」
再び泣き出した少女の体をもっと強く抱きしめてから、エスメラルダも涙で掠れる声で言った。
「もちろん……!!」

 暖かい陽光が辺りを照らし、澄み切った空が印象的で。
 きっとイルはこの日の事を忘れない。

 毛布にくるまったまま寝息を立て続ける蒼い髪の青年に、イルは笑顔で振り返った。


FIN


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業 / 種族】

【1649 / アイラス・サーリアス / 男性 / 19歳 / フィズィクル・アディプト / 人】

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■         ライター通信          ■
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こんにちわ、アイラス様。ライターのなちです。
「翼もがれて空を飛ぶ」に発注いただき、ありがとうございます。またお付き合い頂けてとても嬉しいです。
アイラス様が何度も足を運びイル嬢に会いに行ってくれたからこそ、イル嬢も街に入る事が出来ました。ありがとうございます。
もしかしたら街の何所かで、イル嬢と出会う事もあるやも……です。

また機会がありましたらば、どうぞよろしくお願い致します。