<東京怪談ノベル(シングル)>


闇色の声

 旅の途中、立ち寄った安宿や酒場のカウンターで、好みの酒をあおる。
 医療に携わる上に、戦闘や事故などのトラブルが舞い込みやすく、毎日緊張する場面が続くオーマ・シュヴァルツにとって、こうしてくつろげる時間は貴重だ。
「――あら。オジサン、いいガタイしてるわね」
 三倍目の杯を干したところで、突然見知らぬ女に声をかけられる。
 女は年のころは、二十歳そこそこだろうか。ほっそりした体に胸倉の大きく開いた衣服をまとい、首元を細い水晶が連なった豪奢なネックレスで飾っていた。
 酒場の女か、常連の客だろうか。しなだれかかるようなしぐさでカウンターに体重を預け、大きな瞳でオーマをみつめている。化粧が華美すぎるきらいがあるが、そこそこの美人だ。
(……ま、うちのほどじゃねぇけどな)
 愛しい妻の美しい面立ちを思い出しつつ、オーマは冷ややかな視線を女に返した。
「ね、隣いい? いいわよね、座るわよ」
 オーマの返事を待たず、女は隣の席に堂々と腰を落ち着ける。
「おい、誰もいいとは言ってねぇだろ」
 これはさすがに癇に障った。オーマは軽く女を睨んだが、女はひるむどころか、逆ににらみ返してくる。
「いいじゃない、あんたにオゴってくれとか言ってるわけでなし。せっかくこうして会ったのも何かの縁よ。酒の席を共にするくらい許容できずして、男たるもの恥ずかしいと思わないの?」
「まったく思わんね」
「ひどっ」
「大体、おまえが一方的に声をかけて、一方的に席陣取ったんだろ。縁もゆかりも関係あるか」
「あら、私がオジサンっていうナイスガイを見かけたのよ。立派な縁じゃない」
「そりゃまた一方的な縁もあったもんだな」
「人間関係なんて、おおむね一方的なもんでしょ?」
(双方向の感情があってこそ、人間関係っていえるんじゃねぇか)
 オーマは反論の言葉を脳裏に浮かべたものの、それを口にはしなかった。初対面の女を相手に人間関係を語るほど、安い男になるつもりはない。
 オーマの沈黙をどう捕らえたのか、女は小さく笑って話題を切り替えた。
「ね、オジサンって顔に似合いのいい声してるよね。歌とか好き?」
「歌? まあ、聞くのは嫌いじゃないが」
「あら、それじゃオジサンは歌わないの? 勿体なーい。オジサンの声、低くて深くて……黒くて、すごくイイのに」
「黒?」
 声を褒めるにしては奇妙な表現だ。
(なんだ? この女)
 オーマは改めて女を見下ろした。真紅の瞳が鷹のように鋭く、まっすぐに女を射る。
 それでも女はひるまなかった。にい、と唇をゆがめて気丈に笑う。
「オジサン、黄色い声ってコトバ、聞いたことある?」
「……そりゃ、吟遊詩人の詩だの本だので、見聞きすることはあるな。それが?」
「そのコトバ、一体だれが、どうして言い出したんだと思う? あの子の声が黄色い、なんて」
「そりゃ、そういう連想した奴が……」
 答えかけたオーマの言葉をさえぎるように、女は突然立ち上がった。
「答えはね、オジサン。声の色が見える人、よ」
「は?」
「見えるのよ。人の、声の色。女の子の黄色い声、悲しい時の青い声、赤く澄んで綺麗な――」
 口元をゆがめたまま、いぶかしむオーマに顔を近づけた。しゃら、とネックレスの水晶がぶつかりあって耳障りな音をたてる。
「オジサンの今の声は黒いわ。闇のように黒くて、深くて、飲み込まれそうな色をしてる。怖いくらいよ」
「おまえ、何言って――」
「けど、声の色って時々変わるのよ。リラックスしてると淡い色になったり、怒ってると原色に近くなったりね」
 わずかに顔をひきつらせ、オーマは思わず上半身をそらしかける。奇妙な女に関わっちまったと、わずかな後悔が胸をよぎった。
 構わず、女はオーマ耳元に唇を寄せる。くす、と笑みを含んだ吐息が触れてくすぐったい。
「オジサンの断末魔は、何色かしらね?」
「――何?」
 オーマはわずかに目を見開いた。同時に、女の体がオーマから離れる。
 今の言葉は一体どういう意味なのか。問いただそうと席を立ちかけたオーマに、女はあっさり背を向けた。
「ああ、残念。オジサン、あたしもう時間だわ」
「時間?」
「あたしね、ここでちょっとしたステージをやってるの。よかったら聞いてってよ」
 オーマの返事を待たず、女は首だけで振り返る。
「約束よ? 耳ふさいだりなんかしたら、のろっちゃうから」
 小さなウィンクを残して、女はカウンターから離れていった。
「……なんだったんだ?」
 酒場で酔っ払いや勘違いした女に絡まれることは、実はそう珍しいことではない。
 恵まれた体躯と容姿を持つオーマは、どこにいても確実に人の目を集める。
 それをうらやむ者、やっかむ者は後を絶たず、気が緩みやすい酒の席でトラブルを呼び込むことも少なくなかった。
 だが。
(あの女、妙な空気を背負ってやがった……)
 耳元で鳴った水晶の、耳障りな音を思い出して、オーマはわずかに眉を寄せた。
 そのまま背後に顔を向け、狭い店内を見回し、女を探す。
 見れば、女は酒場の隅に立っていた。客に向かって愛想を振りまき、どこからか持ってきた竪琴を構えている。
「なるほど、吟遊詩人か芸人ってとこか」
「歌い手だとさ。ああやって琴と歌で身銭稼ぎながら旅しとるそうだ」
 オーマのつぶやきが聞こえたのだろう。店主がグラスを拭きながら無愛想に応えた。
「へえ……」
 客が好奇の目を集める中、女は慣れた手つきで竪琴をつまびきはじめる。
 旋律そのものは美しい。だが、女の腕前は特別うまくも下手でもない、王都ならいくらでも見かける芸人程度の平凡なものだ。
 次いで歌声が重なる。
 響く澄んだ高音だが、それだけだ。人を動かすほどの力はない。
 ない、はずだった。

 最初は、店主だった。
「ぐ、が……」
 奇妙なうめきが店主の乾いた唇から漏れる。
「お、おい。親父、いったいどうし――」
「ぐあああああああっ!」
 店主は絶叫を発しながらカウンターに並ぶ酒瓶の上に倒れた。ガラスの割れる不快な音が店内に響く。
 それでも女の歌は続いた。客も、オーマ以外は誰一人店主に注意を払わない。
 オーマはとっさに立ち上がり、すぐさまカウンターを飛び越えた。
「おい!しっかりしろ!!」
 店主の体を抱えあげ、しっかり支えて口元に手をかざす。
(よし、息はある……)
 見た限り、怪我もしてはいないようだ。そう、オーマが安堵の息を漏らしかけた瞬間。
「うわあああああっ!」
「い、いやっ! やめ、た、助けてえぇっ!」
 店内のそこここから、悲鳴が上がった。ほぼ同時に、店内中の人間が客と店員という差異もなく、次々と倒れていく。
「ど、どういうことだ、こりゃあ……」
 あまりに突然の事態に、さすがのオーマも息を飲み立ち尽くした。
 だが、それも一瞬のこと。
 すぐに気づく。この奇怪な状況の中にあっても、竪琴の音が鳴り止まないことに。
 竪琴をつまびく女が歌をやめ、恍惚の笑みを浮かべていることに。
「おまえ……!」
 感情よりも先に体が動いた。
 腰を沈め、腕を振り上げ、指を曲げる。まるで、ありもしない拳銃の、硬い引き金をひくかのように。
 それが女の目には滑稽に映ったのか。女は嘲笑と恍惚が入り混じる目でオーマを見ていた。――だが。
 ダンッ!
 銃声が、鳴り響く。
「な……」
 女は手にした竪琴を見下ろし、目を丸くした。
「どうして、壊れて……?」
 竪琴に残った銃弾の痕が丸く焦げ、その熱が弦までもを溶かしている。
 女はハッと気づいて改めてオーマを見上げた。
 まっすぐ伸ばされた力強い腕。曲げられた無骨な指。そこに収まっている、大きな銃。黒い硝煙を上げる銃口がまっすぐに女を狙っている。
 ほんの一瞬前までは影も形もなかったはずなのに、確実にそこに存在していた。
「――ま、さか……ガンナー!?」
「そういうことだ」
 冷徹にオーマは頷く。
 それを待たず、女は身を転じた。
「逃げるか。そこそこに知恵はあるようだな――ウォズ!」
「っ!」
 
 それは、彼の世界より来たる災い。
 具現の力を持ち、この世界を侵す哀しみ。
 人ならざる、獣。
 それこそがウォズ。
 オーマの旅の、理由。

 たった三度の発砲。それだけで女は退路を封じられた。
 一発目は女の足元に撃ち込んで牽制し、二発目で玄関前に高く積まれた酒樽を崩して道をふさぐ。三発目はカウンターの上に掲げられていた大きな絵だ。絵を収めた額縁を支える部品を吹き飛ばして裏口の前に落とし、オーマは女の最後の退路まで絶ってしまった。
「くっ……」
 女は悔しげに唇を噛む。
 今もオーマの銃口は女に狙いを定めている。下手に動けば、それだけで命を奪われるだろう。
 オーマが女に見せた手腕は、そう想像させるに充分なものだった。
「もう逃げ場はねぇ。吐いてもらおうか。おまえ、今ここの連中に何をした?」
「何って――それは」
 女は目をそらしうつむいた。今になって、オーマの赤い目を恐ろしく感じる。
「私は……私はただ、きれいなものを見たかったのよ」
「きれいなもの?」
「だって、だってその声が一番きれいなんだもの!」
 きれいなものが見たかった。
 人の体から吹き出る、あの血よりも透明で美しく赤い、断末魔を。
「だから? だからわざわざ、意味もなく苦しめるのか?」
「そうよ! いけない!? いいじゃない別に。人間なんていつか死ぬんだから、それが今日になったって、ちょっと最後が苦しかったって!」
「ふざけんな!!」
「きゃあっ!」
 再び足元に銃弾を叩き込まれ、女は身をすくませた。
 同時に、オーマはカウンターをひらりと飛び越え――次の瞬間、女の懐に入って、その喉に直接銃口を突きつけていた。
「ひ……っ」
 真赤い瞳が、恐ろしい眼光を放つ。女は間近でそれを見ることを恐れ、ぎゅっとかたく目を閉じた。
「なあウォズ。おまえの言ってることが世に通じるってんなら、おまえだって、今この瞬間殺されても何の文句も言えねぇよなぁ」
「な、ん……」
「そうだろ? おまえ言ったじゃねぇか。それが今日になったって、最後が苦しかったって、そんなもん構いやしねぇってなぁ!」
 違うと、それは人間のことだと言い返すことはできなかった。意思よりも恐怖が勝り、歯がガチガチとなって話すこともできない。
 オーマの声は、怒りでより黒さを深めている。女の目の前に広がるその色は、いまや闇も同然だ。
 この男は本気だ。本気で怒り、自分を憎み、殺そうとしている。
 あまりに深い闇は底なし沼のように女を捕らえてしまう。あの声の向こう側にあるものが、自分の死以外にあるとは想像できなかった。
「いや……」
 女はゆるゆると首を振った。やはりガチガチと歯を鳴らしながら、それでも引き絞るように唇から声を漏らす。それはあまりにもか細すぎて、何の色をしているかなど自分自身にもわからなかった。
「どうせなら、そのでけぇ目ん玉おっぴらいてよーっく見てな。おまえが気に入ってる、そのきれいな色とやらをな」
「いやよ、いや……」
「さあ、てめぇの断末魔は何色だ!?」
「いやあああああっ! 死にたくないぃぃぃぃぃっ!」

 そして、銃声が鳴る。
 さらに水晶が砕ける音と、女の悲鳴が不協和音を奏でた。

「出てきやがったな」
「え?」
 不意に、耳元でオーマの低い声がした。そこに、先刻までの怒りの色はない。同時に、女の肌をザラリとしたものが滑った。
 目を上げると、黒い粉塵が宙を漂っている。
「よっ!」
 女が戸惑うのを横目に、オーマは銃口を粉塵に向けた。そのまま銃を変形させ、長身のオーマをも追い越すほどに巨大化させる。
 粉塵が獣の形を成そうと蠢くところに狙いを定め、何度となく引き金をひいた。
「う、わ……」
 女は呆然とその光景を見上げることしかできなかった。気づけば全身から力が抜けて、床の上にぺたりと座り込んでいる。
「仕上げだ」
 オーマが砕けた水晶を拾い上げた。先刻まで女の胸元を飾っていた首飾りの成れの果てだ。
「よっと!」
 掛け声と同時に、それを自分の利き手と逆の腕に深く突き立てる。
 鮮血がオーマの肌をなぞる。相当深くえぐっただろうに、オーマは痛みに眉ひとつゆがめることなく、傷口を粉塵へ向けた。
「さあて、成仏してもらうぜ。ウォズ」
 黒の粉塵がオーマの体内に取り込まれるまで、そう時間はかからなかった。

「さて、と」
 シンとした中で、オーマの声だけが空気を震わせた。
 周囲を見回して、軽くため息をつく。目に入るのは荒れた店内に、床に倒れ伏せたまま動かない人間たちだ。
「こりゃ後始末がきつそうだ。とても一人じゃ無理そうだな。……ってなけで」
「え」
 オーマにぐいと腕を引かれて、女は呆然とした目のまま彼を見上げる。
「とりあえず、ここにいる全員を宿の寝室に連れて行く。この惨状はおまえの責任だ、手を貸せよ」
「え……ええ? だ、だってこの人たちは」
 自分の竪琴と歌の力で、もがき苦しみながら死んでしまったのに。そう女が告げるより、オーマがにやりと笑みを浮かべる方が先だった。
「死んじゃいねぇよ。確かに苦しんだ挙句気を失って倒れちゃいるが、こいつはただのショックから来る脳震盪だ。全員まだ息がある。ちゃんと手当てを受ければ、そう時を待たず目をさますだろうよ」
「はあ? なんであんたにそんなことが分かるのよ!」
「分かるさ。俺は医者だからな」
「い……医者あ!?」
 この体躯で、この容貌で、あれほどまでにガンナーとして強い力を要していて、この上さらに医者だと?
 この男は、一体どこまで常識を外れれば気が済むのか。女は軽いめまいを覚えながらなんとか立ち上がった。
「じゃあ、さっきオジサンが怒ってたのって、私がこの人たちを殺したからじゃなかったの?」
「ああ。何がきっかけか知らねぇが、おまえは見事にウォズに取り込まれて、操られながら共存してるようだったからな。おまえとウォズを切り離すのに、おまえ自身の人間的な生存本能が必要だと踏んだのさ」
「ってことは、最初から私を殺すつもりなんてなかった?」
「俺は温和な不殺主義者だ。そう簡単に殺生なんてするわけねぇだろ?」
 オーマはしれっと言い放ち、とりあえず手近なところに倒れている客の一人を抱き上げた。
 すべては女をウォズから切り離すため。そして、ウォズを封印と浄化させるため。人が次々と倒れた時こそあわてたものの、オーマはすぐに原因を突き止め、あとはずっと冷静に対処していたのだ。
「こ……」
 ひょいひょいと幾人もの気絶者を抱え上げるオーマの隣で、女はぶるぶると肩を震わせた。
 この事態を招いたのは女だ。きれいなものが見たいあまりに、そして音楽と歌という分野で特別になりたいあまりに、ウォズに魅入られてしまった自分が悪い。
 それは分かっている。分かっているが、しかし。
「こんの、腹黒親父ーっ!」
 悔しげな女の絶叫を背に、オーマは声を出して笑った。
 おそらく今日は後始末で眠れないだろう。それでも、誰を死なせることもなくウォズを封印できたことを、喜ばずにはいられなかった。
 ウォズという哀しみを封印する日々は、これからも続く。オーマの過去も、いつだって絶望の手を伸ばそうとしている。
 それでも、今日という日は苦い思い出にはならなかったのだ。今はそれだけで満足しようと、オーマは笑みを深くした。

MAより
 ご依頼ありがとうございました。ギリギリの納入になってしまって申し訳ありません。
 腹黒同盟総帥の名にふさわしいものをと試行錯誤してみました。少しでもお気に召せば幸いです。
 またご縁がありましたら、是非よろしくお願いいたします。
 それでは今回はこの辺で。失礼いたしました。