<東京怪談ノベル(シングル)>


 □立ち止まった決意□


 オーマ・シュヴァルツは首を上下させた後、ぐるりと回した。
 しかしそんな事をしたのは体操などではなく、単に彼は自らが置かれたこの状況を眺めているだけだった。

「………………」

 上下左右、どこを見ても何もない。いや、何もというわけではなく、一つだけあるといえばあった。
 オーマが立ち尽くすこの世界を覆っているのは、暗闇だった。三百六十度、どこをどう見ても広がるのは果てなどないような漆黒ばかりの光景を確認するようにひとしきり眺めた後、オーマは大きく欠伸をする。異常な筈のこの状態にはもう慣れきっていた。
 いや、慣れさせられたという方が正しいだろう。

「今日も、か。……全く、人の夢の中に一体何の用だってんだ」

 最初は、どこまで行っても広がるのはただ深い深い闇だというこの異常な世界も夢ならさもありなん、とばかりに特に気にしてもいなかったオーマだったが、しかし同じような内容の夢をかれこれ一週間続けて見るというのは、あまりにも異常だった。
 それも闇が広がるだけならばまだ何の支障もなかったが、問題はここからだった。


『オーマ』


 欠伸をやめ、オーマは顔を上げて耳を澄ます。微かに聞こえたそれは、もはや彼にとっては間違いようもない声だった。
 老若男女、全ての声を混ぜ合わせたかのような何とも判別のつかない響きが、闇の先からひたすらにオーマに呼びかける。ある種のおぞましささえ感じさせる光景と声に、けれどオーマは軽く息をついただけだった。
 もし声に悪意が含まれていたのなら、オーマも多少は警戒しただろう。夢の中であったとしても、そこで自由に動ける術はないわけではない。実際、オーマは夢の世界に棲むウォズと過去に戦い、それを封印した実績もある。
 しかし彼はあくまで無防備のまま、口を開いた。

「なあ、お前は……いやお前らか? ま、その辺りはどうでもいいか。お前らはどうしてこう毎日毎日俺を呼んでんだ?」

 異変を異変と理解した初日からずっと続けている問いを向けるが、


『オーマ』


 声はまるでオーマの返答など期待していないかのように、ただ名を呼び続ける。
 その反応もここ数日に何度も繰り返されていたのでオーマも慣れきってはいたが、けれど彼は問いを止めようとはしなかった。問いかけを止めてしまったら終わってしまう、そんな気がしたからだった。
 こんな夢など続いていてもいい事はないと知っていても、オーマは問いを止める事で何かが終わる事を恐れていた。だがそれが何なのかは、彼自身さえ理解してはいない。
 夢という独特の空間の中で漠然と感じる不安に包まれながら、今日も彼は自身の名を呼び続ける声に、ただひたすらに問いを投げ続ける。





 現実の世界でいつも最初に見えるのは、部屋の天井だった。
 眠たげな目をしたまま首をめぐらせると、布をでたらめに繋ぎ合わせたカーテンの向こう側からはまだ日の光が見えてないのに気付き、オーマは長い溜め息をつく。
 こんな風に早朝と深夜の狭間に目が覚めてしまうのも夢を見るようになってからだったので驚きはしなかったが、それとは別に何となく損をしたような気になってオーマは寝返りを打ち、暗がりに沈む自室をぼんやりと眺める。
 いつでもどんなところでも十分に睡眠を取れるのが彼の日常だったが、ここ数日それを覆されているせいか、身体の方にも徐々にではあるが疲労が溜まりつつある。しかしそれでもあの夢の終焉を完全には願わない自分がいるのに気付き、オーマはひとり唇を笑みの形に歪めた。

「らしくねぇな、本当によ」

 自嘲するようにそれだけを呟いて二度寝に入ろうと毛布を引き上げたその時、異変は起きた。

「…………!!」

 眠りの為に閉じかけていたオーマの目が、微かに輝く一対を捉えて見開かれる。
 一瞬前までは何の変哲もなかった自室の壁に、瞳が存在していた。瞳は色彩がなく、まるで硝子玉をはめ込んだようだったが、しかしそれは意思を持って真っ直ぐに、そしてどこか懐かしげに目を細めてオーマを見ていた。
 その視線の意味を掴めないまま、視線を絡ませること数秒。
 やがて現れた時と同じく瞳は溶けるようにして消えたが、その代わりのように壁には。 
 
「呪いか、はたまた嫌がらせってやつか。……どっちにしろ、眠い時に見て気持ちのいいもんじゃあねえ事は確かだな」

 欠伸をしながら起き上がり、オーマはたった今まで瞳が存在していた壁へと歩み寄ると、指を軽く滑らせた。いつもなら埃ぐらいしかつかない指の腹には、冷えた赤色が付着している。
 壁の中央、瞳のあった場所にぎこちない筆跡で残されていた文字からは、鉄の匂いがした。
 オーマは小さな刷毛で書かれたような文字を辿った。ここソーンで使われているどんな文字にも該当しない文字だった為、頭の中に押し込んでいるいつもは使わない知識を総動員させて意味を読み解こうとするが、それも徒労に終わった。オーマが知っているどんな世界の文字にも、思い当たるものはなかったからだ。
 壁の文章は、強いて言うならば様々な言語を組み合わせて混ぜたような文字の羅列だった。

「なあおい、夢の使者さんよ。せめてもうちっと俺に分かる言葉で書いてくれねぇと困るんだが。じゃないとお前さんが俺に何を訴えたいのかすら分からねぇよ」

 求めるように血で描かれた文字へと手を触れさせると、不意に壁が発光を始めた。いや、壁ではなかった。壁に描かれた血液の文章が、血の色をかき消すかのように白色の光を放っていた。
 オーマはその光の異様さに目を見開いた。光は見慣れた蝋燭の明かりでもランプのそれでもなく、ましてや魔法による輝きでもなく、ただ温度の失せた白色としか表現できないようなものだったからだ。勿論、ここソーンにも流入してきた機械類などが人工的に光を生む事は知ってはいるが、ここまで味気のない、言うならば無機質極まりない淡々とした光をオーマは見た事がなかった。
 だが考えている間にも、変化は続いている。触れていたオーマの指を呑み込んだのをきっかけに文字が発光を強め、爆発するような音と共に文字から光の帯が無数に宙を舞った。視界が徐々に帯で埋め尽くされていく。
 見慣れた天井も壁も寝台も何もかもが十重二十重と重なっていく無数の帯によって覆われ、やがてオーマの視界を白だけが支配した。

 オーマはこのような異常な状況に置かれても何ら行動をしない自分に訝しむ暇も与えられずに、完全な白色に包まれる。
 意識が、沈んだ。





 頬に何かが乗っている痛みに目を開けば何故かふわふわの白い腹毛が見えて、オーマは軽く目を見張った。
 乗っていたそれは突如動いた頬の筋肉に驚いたのか、羽音をたてて飛び去っていく。その姿を見てようやく自分の頬にとまっていたのが何らかの鳥であった事に気付いて、オーマは身体を起こした。どうやら大の字になって寝転がっていたらしかった。

 ぐるりと首を回してみれば、そこは小さな円柱状をした場所だった。
 床は冷たく、銀色と灰色の中間のような色をしたパネルが規則正しく埋まっている。オーマがいる円柱の広場のような場所から続いている一本の道にも同じパネルが敷いてあるが、道のパネルより広場のパネルの方が古びているようだった。広場に敷き詰められたパネルの隙間からは草が芽吹き、隅などではパネルが砕け土と草が露出しているところもある。
 円柱自体はパネルと同色の材質で造られているようだったが、今は緑がその大半を覆っていた。ツタが上へ上へと手を伸ばすように絡まりながらパイプを上っており、また下に幾つもあるレバーは黄色い花の住みかになっている。先程オーマの頬にとまっていたのと似たような鳥たちが時折そこかしこにとまり、小さくさえずっている光景は、こんな状況でなければ無条件に微笑ましい光景だっただろう。
 天井は破壊されたのか、それともそういうつくりなのかはオーマには判別がつかなかったが、とにかくぽっかりと開いていた。鳥はそこから出入りをしているのだろうかと考えながら、オーマは空の天井を見上げる。どうやら快晴のようで流れる雲のかけらも見えては来ず、区切られた青空だけがオーマの目を眩しく彩るだけだった。

 やがてオーマは立ち上がり、自身の身体に異常がないかどうかを確認したが、特に怪我もなくどこにも異常はないようだった。
 ふと思い出して血の文字をこすった指の腹を見ても、そこには赤のなごりすら存在してはいなかった。

「……夢の延長ってやつか?」

 しかし眠気があったとはいえそこまで頭の回転は鈍くはないと思い直し、彼は静かにかぶりを振る。あの時は確かに自分は覚醒しており、血の文字に触れたのも事実だという自信があった。
 けれど覚醒の証拠となる筈だった血の跡も存在せず、あまつさえ唐突に見知らぬ場所で寝ていたとなれば、どうしても揺らいでしまう何かがある。
 首を捻っていたオーマの視界にそれが入ったのは、そんな時だった。

「目印のパン代わりにこれかい。分かりやすいが、もうちっと和める目印の方が俺ぁ好きなんだがな」

 苦笑したオーマの瞳がとらえたのは、道の中央をなぞるように点々と落ちている血液だった。それはまるでオーマを導くかのように奥へと向かっている。
 先程はなかった筈の血を垂らした主を見極めようと目を凝らしたが、いくら遠くを見ても何かが動く様子すら掴み取れない事にオーマは息をついて、腰を上げた。

「ま、ぼんやり座っててもしょうがねえか。お招きもあるみてぇだし」

 夢であっても現実であっても、見知らぬ場所に来たのならオーマがする事はたったひとつだった。
 念の為に愛用の銃を具現化させて立ち上がると、たった一本だけあるどこかへ続く道へと躊躇いもなく足を踏み出す。カツ、カツという唐突に響いた硬質な音に驚いたのか、円柱の広場から鳥が一斉に飛んでいく羽ばたきの音が背中越しにオーマの耳へと届いた。





 一本道を進んでいけば、途中で道が三つに分かれた。
 ここまでオーマを導いてきた血痕はちょうど分かれ道に入るところで途切れている。
 この血痕をつけた何かはここで力を失ったのか、それともオーマを試そうとしているのかは判別がつかなかったが、戻ったところで元の世界に戻るあてなどない彼にとって選択肢といえばただ進む、これ一点のみだった。

「さぁてと。進むのはいいが道はどうすっかねぇ」
 
 しばらく迷った後、オーマは棒倒しの要領で手にしていた銃を倒し、それが指す道を選んだ。あてもなく正しい道など分からないのならばと、彼はたったひとつだけ持ち得る最大の導きである自身の運に賭け、そして運命が選んだのは真ん中の道だった。
 真っ直ぐに倒れた銃を拾い上げ、肩にかついでパネルでできた硬質な道を行く。
 その途中には幾つもの部屋があったが、オーマが歩きながら覗き回ったそのどれもに生命というものは存在してはいなかった。がらんと放置された部屋があったかと思えば、未知の機械で埋め尽くされオイルのような匂いが漂う部屋もあったが、一様にねずみ一匹虫一匹見当たらない。しばらく歩いていたオーマはモーター音が連続するのに辟易していた。

「ったく、ガタガタうぃーんうぃーんうるせえったらないぜこの施設。いや研究所か? まあどっちでもいいさ。あーさっきの鳥どもの鳴き声が恋しい」

 しかし部屋にさしかかるたびに聴こえるのは稼動音ばかりだったので、オーマの望みは叶えられない。
 モーターや機械の稼動音などに頭をかき回されるようにしていると、ようやく行き止まりが見えた。が、そこまで行ってみればまた道が分かれている。行き止まりのように見えたのは、今度は単に中央の道がなかったからだった。
 今度もまた銃を床に立てて支えの人差し指を離せば、銃は左右に分かれている道の左へと倒れた。またオーマは進む。

 それから銃によって方向を決定する事、三度。
 いい加減オーマが飽きたような息をついていれば、直線の道の果てに何かが光った。

「ん?」

 目をこらせば、そんなオーマを誘うように再度光は瞬く。小さな四角い窓、光はそこから射しており、不定期な点滅を繰り返していた。
 足を速めていくと、行き止まりにある小さな窓を取り囲むように光の線が走った。それは扉の形をとって近づいてくるオーマをただ待っているようだった。扉の上方、今や覗き窓のようになっている四角い窓から発せられる光はもう点滅してはおらず、冴え冴えとした白い輝きを放っている。
 そして来訪者は扉の取っ手を掴んだ。オーマの目線ときっかり同じ位置にある小さな窓の向こうには、彼をここへ導いた時と同様の白い輝きがある。

 ぽたり、という音に気付いたオーマが視線だけを横にやって音のした場所を見れば、無機質な壁にはまた文字が描かれていた。またオーマには分からない言語で綴られた言葉だったが、何となく彼はその意味を理解したような気がした。きっとここに辿り着いた事が正解であるというのだろう、良い意味なのか悪い意味なのかは彼には分からなかったが。
 血の文字はオーマが確認したのを知ったかのように、何事もなかったかのようにかき消える。オーマもまた視線を戻し、取っ手に力を込め扉を押し開いた。

 



 輝きがオーマの髪を目を頬を口を首を胸を腹を脚を襲い、一瞬の後にすり抜けていった。
 白い光はまるで風のようだった。いや、事実風だったのかもしれない。自分の中を通り抜けられた妙な感覚を追うようにオーマが首をめぐらせれば白の輝きは扉の向こうに行き、廊下の奥へと消えてそれきり戻ってはこなかった。
 顔を前に戻したオーマは、熱を抱いた光に目を細める。
 太陽だ。

 彼が立っている場所に分け隔てなく降り注いでいるそれの下で、子供が駆け回っている。鬼ごっこでもしているのだろうか、一人が追い、他の少年少女たちが笑いながら原っぱの上を逃げ惑っていた。
 上を向けば、オーマは遮るもののない空を見る事になった。外壁らしきものはあるようだが、距離があるせいかここからはとても小さくしか見えない。まるでひとつの小さな国の中にいるような錯覚をオーマは味わっていたが、しかし足元に微かに感じる機械の稼動音が少なくともここがソーンの大地にあるものではないという事実を彼に伝えた。
 ここに来るまでに何度か階段を昇ってきたのだから、ここは空中庭園とでも言うべきかとオーマはひとりごちる。それにしては規模が大きすぎる感はあるが。

 開け放した扉をそのままに歩き出せば、きちんと並んで植えられた木々の間から色とりどりの屋根が見えた。そこで生活を営んでいるらしい者の姿もちらほらと見える。
 バケツを手に井戸へと向かう者、母親の言いつけなのか紙幣を握りしめて走る子供、他愛ない話をして笑う娘たち。
 だがオーマは誰ひとりとして、話しかけようとはしなかった。ただ彼らを見た眼差しは、信じられないものを見たかのように固まっている。
 そこにいるのがただの人間であったのなら、オーマもここがどこなのかを聞いただろう。

 けれど彼は立った今自分の側を笑顔で駆けていった少年の姿を、覚えている。そして、それをまた笑って追っていった少女の事を、知っている。いや、視界に入るほとんどの者の姿を、彼は知っていた。
 今水を汲んでいる青年など、どうして忘れられるだろうか。遙か昔、自分の仲間だった男だった。ウォズとの戦いで死んだはずの男だった。
 バスケットをぶら下げて買い物に出て行く娘。あれは数千年前封じたウォズがとった最後の姿そのものだった。
 そんな娘が青年に声をかける。二人は目を合わせて笑いあい、何かの約束をとりつけたのか、頬を染めて娘は歩き去っていった。

「驚かれましたか、オーマ・シュヴァルツ殿」

 目の前の光景を見つめ立ち尽くしたままの背中に、低くしわがれた声がそっとかけられた。
 オーマがひどく硬くなってしまった首を無理やり動かして後ろを見れば、数歩遠くで彼の腰ほどの背の高さをした老人が腰を曲げてオーマを見ている。

「……驚いたなんてもんじゃねえよ……」

 はぁっ、と大きく短い息を吐き、オーマは肩を竦める。

「以前封印した筈のウォズはいるわ、昔の同僚らしき奴はいるわ……おまけに仲良さそうに暮らしてるときやがった。他のヴァンサーだったらきっと今頃ぶっ倒れている所だろうよ、『あまりにも信じられない出来事が眼前で繰り広げられている』ってな」
「ええ。きっと、そうでしょうな」

 穏やかに老人は言った。ずり落ち欠けた小さな眼鏡を直しながら、オーマの方へと歩み寄る。

「しかしこれは夢でも立体映像でもなく、紛れもない現実なのですよ、オーマ殿」
「だが俺にとってこれを現実と断定するのはちっと難しいんだがな。ウォズの数がひどく多いってのに、匂いがしない。こんだけいるんならたとえ奥の奥にいたとしても、俺の鼻が嗅ぎ付けないわけはねぇ。爺さんよ、俺ぁウォズを嗅ぎ分けるのにはちっとは自信がある。そんな俺がウォズたちの匂いが分からないなんて、ちっとはおかしいとか思うだろ?」
「貴方の能力は皆から聞いてよく存じておりますよ、故にその一流の能力を馬鹿にする気はありません。ですが」

 老人が眼鏡を外し、オーマを見た。皺が寄り奥まった瞳がじっとオーマと視線を合わせる。
 黒の存在しない硝子玉のような瞳がそこにあった。

「……世の中には『例外』という言葉があるように、この世界も『例外』なのです。彼らは以前は確かにヴァンサーやウォズでしたが、ここにいる彼らもまた同じものです。だが、少し違う」

 自らをここへ導いた、自室の壁に浮かび上がった一対の瞳。そして不可解な言葉。
 それらを目の当たりにして言葉を失うオーマへと、老人は静かに呼びかけた。

「どうぞこちらへ、オーマ・シュヴァルツ殿。この場所の過去と未来を、少しだけ語らせて下さいませ」





 住宅地とは少し離れた場所に、老人の家らしきものはあった。

「どうぞおかけ下さい。コーヒーでもご用意いたしましょう」

 勧められるままに腰掛けた椅子は、規定外の体格であるオーマが来る事をあらかじめ知っていたかのように頑丈で、そして丈夫だった。
 老人の家は外見はただの木製の建物だったが、内部はつい先程オーマが通ってきた研究所らしき場所と同じく、寒々としたパネルや壁に覆われている。そんな無機質な家の中にはテーブルが一つと、椅子が二脚あるだけだった。

「まるで俺が来るのを知ってから用意したみたいな家だな」
「実際その通りなのですよ。もっと時間があれば他の家のように木のコーティングや何やらができたのですが、そうも言っていられなかったので最低限のものしか用意できなかったのです。至らぬ点はどうぞご容赦下さい」

 老人が手の甲に浮き出た紋様のようなものをなぞれば、テーブルの上に二人分のコーヒーが姿を現した。湯気がたちこめる白いカップを持って顔に近づければ、確かな湯気といい香りがオーマの鼻腔をくすぐる。口をつければ、豆の香りと苦味が心地良く喉を滑っていった。
 
「さて」

 老人もまたカップに口をつけると、ゆっくりと話し始めた。

「まず、この場所がどうやって造られたのかをお話しましょうか。――――ここは所謂『実験場』として製作された、次元の狭間に漂う世界です」
「『実験場』……だと?」
「はい」

 それは、二人によって進められた計画だった。

 遠い昔から狩り狩られ続ける関係のヴァンサーとウォズ。けれど互いを屠るのではなく、思い合えた稀有な例があった。戦いに疲れた一人の老ヴァンサーと、その側にいる事を誓ったウォズである。
 ウォズと心を通わせた老ヴァンサーは思った。ヴァンサーとしてではなく、またウォズとしてではなく双方が出会ったのならば、そこにはまた別の道があったのではないか、と。
 実際、若いヴァンサーがウォズの娘に思いを寄せ、しかし互いの正体が露見した為に戦わなければならなかった事も、そして幼い子供の姿をとったウォズに親愛の情を向けたが、同じように互いの血を見る事になってしまったことも決して少なくはなかった。ウォズというものは非常に残酷な印象が強いが、けれど人間が全て同じではないように、彼らにも性格というものが存在する。ただの『人間』としてであった時の感情にきっと嘘はなかっただろう、けれど互いが互いを屠るべきものだから、戦う。
 それが彼らの生きる理由でもあったが、しかしそれは悲しすぎるのではないかと老ヴァンサーは訴えたのだという。
 
「けれどそのような訴えなど、ヴァンサーを管理している上の方にはもちろん、当時の若い者たちに届く筈もありませんでした。いくらそういったウォズが存在するとはいえ、所詮は少数のこと。仲良くしなさいなどと、どうして言えるでしょうか」

 しかし老ヴァンサーは諦めなかった。



 『ならば私は潰えた同胞とウォズたちの過去を借り、彼らの想いにて証明してみせようではないか!! ――――この世界に、手を取り合えない命などないのだと!!』


 
 想いを通じ合わせる事と調和。それを望んでいた老ヴァンサーはもうあの時から狂い始めていたのだと、人は言う。
 老ヴァンサーが高かった自らの位置を活用し、膨大なヴァンサーの死亡者リストの中から過去にウォズと心を通わせた経験のある者を中心に選び出して魂を呼べば、その者を愛していたウォズは封印区域に自ら赴くと、凝固した魂を取り出し老ヴァンサーのもとへと帰った。
 二種類の凍りついた魂を持ち出した彼らは既に重い咎を科せられていたが、それでも二人は幾つもの想いを抱えながら逃げて、逃げて――――

「そして辿り着いたのが、異世界により次元の狭間に廃棄されたこの研究所跡だったのです。時と時の狭間にあるここは時の干渉を受けず、ヴァンサーソサエティですら容易に発見のできない場所でした。そして彼ら二人は、ここを『実験場』に決めました……」

 廃棄された研究所とはいえまだ十分に機械は作動する状態にあり、そこにあった技術をもって二人は魂の解凍を行ったが、しかしそれによって甦った者たちには欠陥が生じていた。
 それは、過去の想いの忘却だった。

「忘却?」
「そうです。ヴァンサーとしての記憶も、ウォズとしての記憶も忘れ、彼らは少し異質な『人間』として生まれたのです」

 老ヴァンサーが目指したのは、あくまでヴァンサーとウォズの想いが通じ合う事だった。
 しかしそのどちらでもなくなってから出会ったとしても、意味などあるのだろうか? 老ヴァンサーは悩んだが、してしまった事の取り返しはもうつかなかった。二人はここに留まり、自らが持ち出した魂を見守っていくしかなかった。帰る場所などもうとうになかったのだから。
 
「数千年が経ちました……」

 コーヒーで喉を潤し、老人は力なく呟く。

「時が止まっているここではいつまでも太陽が昇り、それに疑問を抱かないいつまでも同じ歳の者たちがいつまでも生き続けています。そんな彼らを見つめながら、けれど老ヴァンサーは心がさびれ、老いていくのを何故か感じずにはいられなかったのだと聞きました。これ以上老いる事などないというのに」
「………………」
「ただ二つの命が通じ合えればいい、最初はそれだけの願いでした。自分と、そして側にいた者のような暖かな想いを皆が感じてくれたのならば、どんなにか素敵だろうと。今思えば、それは途方もなく勝手な考え方だったように思います。自分が幸せを感じたからといって、人が同じような想いを抱くわけもない……分かってた、分かってたんだ……」

 語り続ける老人の手が声が震え、俯いたテーブルに雫が落ちる。
 もうテーブルの上で重ね合わせていた両手は、皺だらけのそれではなかった。

「――――でも僕はそんな彼女を、愛していた。些細で、けれど途方もない夢を見てしまった彼女がとても、好きだった。けれど彼女は自分を責めながら自分で自分を殺してしまった。時が流れないこの世界の中で、老いていた彼女はそれ以上歳をとって死ぬ事もできなかったから」

 過去形で愛を語るその者は、既に老人ではない若々しい声を発しながら顔を上げ、オーマを見た。硝子玉のような瞳から静かに涙が落ち、頬をつたう。
 オーマは空になったコーヒーカップを置き、今や青年と化した眼前の人物の顔をただ黙って見返す。

「……昔話をする為だけに俺を呼んだわけじゃねえだろう。お前は俺に何を求めている? 片翼を失ったウォズよ」

 低い声に、青年のかたちをしたウォズは吐き出すように言った。

「僕は……」

 貴方に会ってみたかっただけだ。
 その言葉にオーマは訝しげに眉をひそめた。

「ここにいるもとヴァンサー、そしてウォズたちの記憶の中で一番覚えられ、そして明るい記憶に彩られていたのがオーマ・シュヴァルツという名のヴァンサーだった。銀色の髪に緋の瞳をした若者でもあり、また青みがかった黒の髪をしている青年でもある彼の記憶だけは、どんな時代に在っても彼らの胸に残っていた。
 僕は皆の記憶の中にいる、そんな『オーマ・シュヴァルツ』に憧れた。僕らにできなかった、ヴァンサーとウォズが互いを想いあうというとても難しい事をやってのけている彼に。けれどここにいる限り僕は『オーマ・シュヴァルツ』には会えない。……だからこの身に在る力を血に託して飛ばし、貴方を探して探して、そしてようやく見つけたんだ。
 オーマ・シュヴァルツ。我らが叶えられなかった理想を叶え続けるヴァンサーよ、貴方に問いたい」



 僕たちは、どこからやり直せばよかったのだろうか?



 訴えかけるような硝子玉の視線をオーマはしばらく黙って受け止めていたが、やがてふい、と視線を外すと立ち上がり、玄関へと歩き出した。

「教えてくれ、オーマ・シュヴァルツ!!」

 慟哭するような叫びに足を止め、オーマは背を向けたまま呟いた。

「理想だのなんだのを後悔する前に、まず隣にいた一番大事な人を死の誘惑から守れなかった己を悔やめよ」
「そんな……後悔なら彼女が死んだあの時からずっと――――」
「本当に後悔したってぇのはな、坊主。くよくよ悩みながらいつまでもこんな所にしがみついたりしてねぇで、次に何をするべきかを探しに行った事を言うんだよ。なのに何だお前は? 助言一つ乞うにも相手の方から来てもらわなけりゃならねぇのか。それのどこが後悔してるってんだ、思い出に縛られてこの世界から出る事もできないだけじゃねぇか」
「………………っ」

 開いた扉を潜りながら、オーマは続ける。



「お前はただ甘えているだけだ。――――共に夢を追った、彼女の思い出に」

 

 開かれた扉から新しい風が吹き込み、オーマの髪を揺らした。爽やかで暖かく、そして平穏な日々が続くこの世界はウォズの言う『彼女』が理想としたものだったのだろうか。今となっては、それも訊ねる事はできない。
 風に吹かれて足を止めたオーマの後ろで、異音がした。幾つものレバーが動く音とスイッチの点灯音を耳にしても、オーマは変わらずその場に立ち尽くしていた。
 最期に吹いた風は、もしかしたら『彼女』の想いだったのかもしれない。そうオーマは思う。

 ひときわ優しくまた暖かな風が通り過ぎた後にオーマが振り向けば、もう家の中には誰も存在してはいなかった。

『心が、決まった』

 オーマへと語りかけるように、空から声が降りる。

『僕はここを跡形もなく消して、そして――――魂たちを在るべき場所へ、帰してくる。だってもう彼女はここにはいないから』 

 雨が、落ちてきた。ゆっくり、ゆっくりと降り始めたそれは細く、しとしととオーマの肩を濡らしていく。  



『愛していたよ。だけど、甘えたいわけじゃなかった。それだけを覚えていて、僕の、大事な――――』



 その言葉はたったひとりにさえ届けばいいさ。
 オーマはそう呟いて、硝子玉のような目をしたウォズの想いのこもった言葉を聞かないように、そっと耳を塞いだ。





 近所の怪しさ極まりない雑貨屋で大特価の札をつけられていた目覚まし時計がけたたましく鳴り、無理やりに覚醒を促す。
 オーマは手探りでそれを探し当てると、

「だーもう、うるっせぇっつってんだろが!!」

 という声と共に床に叩き付けた。
 しかし目覚まし時計は未だ鳴り続けている。二度手間だとぼやきながら仕方なく起き上がると、よっこらしょとしゃがみ込みながらスイッチを切った。
 そして、ふと気付く。

「…………お?」

 ぐるりと見回したが、特に何の変哲もない自室の中だった。
 
「……今度こそ夢、ってか?」

 にしてはあまりにもはっきりし過ぎている。
 そう思いながら取りあえず着替えでもと寝巻きを脱ぎかけて、オーマは肩が濡れているのに気付き、ほんの僅か微笑む。

「現実だったっていう証拠を残すたぁな」



 ――――なら、いつか遊びにでも来いよ。
 その時はあんなしみったれた話じゃなく、もっと楽しい話をいくらでも聞かせてやるよ。



 そう言って着替えを終え、オーマ・シュヴァルツの一日が始まる。
 いつもと変わらない穏やかな朝が、聖都に舞い降りようとしていた。






 END.