<東京怪談ノベル(シングル)>


『これでも変装中? 変装という名の真実』

 眼鏡を外し、テーブルの上に置いた。
「これを‥‥外すのはどのくらいぶりでしょうね」
 紐を外し、肩から外された服は柔らかい音を立てて地面に落ちた。
 顕わになった白い肌の上に硬いレザーの刺さるような冷たさが触れる。
 小さな震えを気にせず彼は胸元をキツく引いた。
 肩、腰、足、肘、無数のベルトと釦、鋲を一つ締めるたび、心が忘れていた何かを思い出すような気がする。
 一つ、また一つ‥‥。
 そして引っ張られて解けた髪紐が柔らかく結んだ首の後ろから、固く結んだ頭の後ろへと移動した時、そこには一人の戦士が立っていた。
 そう、戦士。
 異国風の外見。剣を帯びている訳でもない青年は細い手と指、そして首筋をしていて一目では戦士には見えない。
 だが、彼が戦士であることを疑う者もいない。
 鋭い目、伸びた背筋。そして真っ直ぐに前を見つめる顔。
 そう、彼は紛れも無く「戦士」なのだ。
「さて‥‥行くとしましょうか?」

「あら、ステキ。見違えたわ」
 女性は小さく口笛を吹くと、表情を変え、甘えるよう彼に枝垂れかかった。
 豊満な胸と、細くしなやかな腰をピッタリと包むドレスと同じ色の髪が首筋を軽く擽る。
 彼が少し照れたように身体をかわして場から離れると、甘いあら、残念。と言わんばかりに女は頬を膨らませる。
「こんな美人が誘っている、って言うのにつまらない方ね」
「失礼。でも、これは仕事、これは依頼ですからね。では、行きましょうか?」
 そう言って彼は優雅に手を差し出した。着ている物が礼装ならばまるで舞踏会に歩き出す紳士淑女のようだろう。
 だが、彼らが行くのはそうではない。
 彼女もそれが解っているからこそ、今度はしっかりと彼の腕を取った。
 歩き出す彼らの行く先に見えるのは闇色の世界。
 偽りの光、紛い物の輝きがキラキラと光る、夜の国。
 夜の住人達がまるで羽虫のように蠢く世界に、彼らはゆっくりと足を踏み入れて行った。

 ざわり、入ってきた男と女に場の空気が揺れた。
 エスコートされる女と、エスコートする男。
 そんなものは珍しくも無く、またどこにでもいる。
 そこにも、あそこにも。だが、それなのに彼らは人目を引いていた。
「君? ここはいいかな?」
 いくつものテーブルの中から無造作な一つに声をかけ、彼は彼女を座らせ、彼はその横に腰を下ろした。
「何か‥‥ご用ですか?」
 突然やってきたお客にテーブルを担当する男がかけた無表情の声に、彼は無言で指を鳴らす。
 ピン! 軽い音を立ててコインが一枚、男の手に飛んで、握りこぶしの中に吸い込まれた。
「何か、ってここは何をする所だ? カジノだろう? お茶を飲みに来たわけではない。さあ、準備をしたまえ」
「! は、はい!!」
 まだ、新米なのかもしれない。その男にカードを配るディーラーの手は震えていた。

「15」「18」「20‥‥」「21、私の勝ちだ」
「凄い、また勝ったわよ」
「一体、どのくらい勝ち続けているんだ?」
 周囲のざわめきを一心に受けながらも、青い髪の男はまったく気にも留めずにカードを繰った。
「どうやら、また私の勝ちのようだね‥‥」
「!‥‥‥‥」
 軽い音と共にまた男と女の横にコインが詰まれた。
 驚嘆の声がまた一層強く周囲に広がっていく。
 そして、同じように疑問も漣のように広がっていく。彼らは一体、誰だ?
「20、どうしたね? 降りるのかい。ならば、私の勝ちだ」
 カードがばら撒かれ、四人目の相手が歯の奥を噛み締めながら手を翳す。
 ジャラン! 積み上げられたコインはもう男の横でグラスを傾ける女の顔を隠すほどだ。
「やれやれ、もう少し楽しませてもらえると思ったのだが、期待はずれかな?」
 肩を軽く上げて立ち上がろうとする男を、それに従おうとする女を
「お待ちください」
 呼び止める声がした。気だるげに男が顔をそちらにむけると、そこには見るからに恰幅のいい体格の人物が立っていた。背後には数人の男を従えて。
「何か、御用かな?」
「どうぞ、奥においでになりませんか? 特別なお客さまのための席へご案内いたします」
「ほほう」
 青い瞳がかすかに何かに揺れた。そして今度は楽しそうに立ち上がった。
「さっきよりは楽しませてくれることを期待しているよ」
「必ずや。ではどうぞ‥‥」
 パートナーの手を取り、男はゆっくりと案内されるまま奥の扉へと消えて行った。
 周囲の人間達はあるものは可哀想に‥‥と同情のふりを、あるものはバカなやつらだ‥‥と嘲笑の笑みを浮かべてまた、それぞれの場所へと戻っていった。
 その夜も、闇の蜘蛛の巣に迷い込んだ蝶以外にとっては、ごく普通の夜が過ぎる、はずだった。

 BANN!
 奥の扉がいきなり開かれた。『客』が入っていった扉が開かれることなど、未だかつて無かったのに‥‥
「何だ? 一体?」
 そう言って一番に駆け出した男は、一番に床に伏した。
 後は、二番も、三番も百番さえも関係ない。
 彼らは一人残らず床に転がり、意識を失った。
 何が起きたかも殆どの者は解らぬままに。
 だが、そのうちの何人かは覚えていたかもしれない。
 風のように空間を舞った戦鬼を。流れ落ちる血よりも赤く、冴えた空よりも青い空気と色を纏った存在を。
 何人かは聞いていたかもしれない。
 緩やかな空間を一気に戦場へと変えた劈くような機銃掃射の音を。
 それは何の意味も無いことだったけれども‥‥。

 朝もやの中、お下げ髪の街娘は、青い髪の青年に向き合った。ゆっくりと、思いを込めて頭を下げる。
「お陰で‥‥真実を知ることができました。やっぱり、あそこで‥‥あの人は‥‥」
「いいえ。僕ができることはここまでです。貴女もこれ以上は思いを残さず、自分の人生を生きてください」
「‥‥はい」
 話しながら歩く二人の横を、鋭い目の男達が駈け抜けていく。
「こっちにはいないようだ! あっちを捜せ!」
「あいつら‥‥カジノの書類を奪って、お客を全員気絶させていきやがった。あいつらを捕まえないことには組織の面目丸つぶれだ!」
 人探し顔の彼らだが‥‥その人物は未だに見つからないようだ。
 遠ざかっていく彼らにほんの少し、ホッとした仕草を見せて二人は小さく笑った。
「探し人はあの調子だとおそらく見つからないでしょうねえ」
「まるで別人ですもの。大丈夫ですわ。きっと」
「‥‥では、僕はこの証拠を自警団の詰め所にでも投げ込んでおきますよ。お客達もあれだけの目に会えばもうあそこに行く事はなくなるでしょうし」
「ええ、あのカジノでの被害者が二度と現れないことを、私も祈っています。アイラスさん、本当にありがとうございました」
 もう一度、頭を下げて彼女の姿は人ごみに紛れ消えていった。
 
 通りすがりの店の窓にふと、彼は足を止めた。そこには中世風の衣装を身に纏った眼鏡の青年アイラス・サーリアスが立っている。
「まったくの、別人‥‥ですか‥‥」
 依頼人に頼まれた店に行くために、変装などをしてみたが‥‥あれが本当に変装なのだろうか。
 本当の自分は、今の自分なのだろうか。
 ほんの少し、そんな考えが頭を過ぎった。
 自分の生まれた世界、本当に近しい姿は‥‥決して今の姿ではない。
 しかし‥‥
「まあ、どんな姿をしていようと僕は、僕、ですね」
 そう呟くと、彼は窓に向けて笑いかけた。鏡に映る優しい青色の瞳が彼に笑いを返す。
 窓に映った青が空の青を映して蒼色に染まる。
(「どんな姿でも、僕は僕。どんな空の下にいても‥‥」)
 夜の時間が終わり、太陽が街を、人を、包んで広がっていく。
 その光の中を、彼、アイラス・サーリアスは静かに歩いて行った‥‥。