<東京怪談ノベル(シングル)>


 大切な日

 天使の広場は今日も平和だ。
 病院に患者が絶えない状況を「平和」と言ってしまうのは問題があるかもしれないが、
 ここ最近の患者と言えば、食べすぎでお腹を壊した子供だのぎっくり腰の老人だの、
 さほど深刻な容体の者はいない。
 なにより、医者たるオーマが何かやたらと上機嫌なのは、やはり平和の象徴と言えるだろう。
「先生、何かいいことでもあったんですか?」
 患者の波が途絶えた僅かな隙に、看護士のひとりが何気なく尋ねてみた。
 が、オーマは締まりのない口元でにやりと笑うばかりだ。
「いや〜、どっちかってーと、これからいいことがある、って感じかな」
「……は?」
「いやいや気にすんな、こっちのことだからよ」
 言いながら、自然に鼻歌まで零れている。
 と、そこではたと気付いた様子でオーマは振り向いて看護士を見た。
「俺ぁ今日は何が何でも定時で上がらせてもらうからな、そこんとこヨロシク頼むぜ」
「は、はあ。それはもちろん構いませんけど」
 さっぱり事情が分からないながらも従順に頷く看護士。
 珍しいことを言うものだ、とその顔には書いてあったが、オーマの目には入っていないらしい。
 よし、と頷いたオーマは鼻歌の続きを口ずさみながらカルテに向かい始めた。
 看護士が首を傾げ、もうひとりの看護士と目を見交わして肩をすくめたことなど
 オーマはまったく気付いていない。

 朝ののどかなひとときであった。

 *     *     *

 夕刻が近づくにつれ、患者の数も少しずつ減り始めてきた。
 オーマはと言えば、ひとり診終わるたびに壁の時計を仰ぎ見ている。
 明らかに心ここにあらずといった風情だが、
 それでも決して診療の手を抜いたりしないのは天晴れと言えるだろう。
「先生、ありがとうございました」
「おう。お大事にな」
 最後の患者の診療が終わったのは、診療終了時刻まであと三十分ほどを残すばかりとなった頃だ。
 窓の外はすっかり暗くなり、日が落ちて久しいことを告げている。
 いきなり手持ち無沙汰になったらしいオーマは、
 手の上で器用にペンをくるくると回しながら窓の外をぼんやりと見ていた。
「……先生、きっと早く帰りたいんだよな」
「そうね、残り数分って特に長く感じるものだしね」
 定時に上がるぞ宣言をした医師本人には聞こえないように、看護士たちが囁き交わす。
 そんな風に何ごとも無く過ぎ去っていった時間は、いよいよ残り五分足らずとなった。
「先生、少し早いですが、なんでしたらもうお帰りになりますか?」
 看護士のひとりが気を利かせて提案してみる。
 あと五分くらいならば、切り上げてしまっても問題は無いだろう。
 しかし根が真面目なオーマは、見るからに落ち着かない様子でいるにもかかわらず、
 きっぱりと首を横に振った。
「いいや、定時までは勤務時間だからな」
 やれやれ、と苦笑する看護士たち。
 そのひとりが少し考える様子を見せながら、遠慮がちに口を開いた。
「今日はいったい何があるんですか?」
 するとオーマは、全身から喜びオーラを発散させながら破顔した。
 その様はさながら、雲間から零れる太陽の光にも似ていた。
「よくぞ聞いてくれたぜ! なにを隠そう、今日はな――」
「せっ、先生! オーマ先生!」
 突如として戸口から飛んできた切羽詰った声が、のどかな空気を一瞬にして打ち破った。
 たったいま輝かせた顔にすぐさま緊張を走らせ立ち上がるオーマ。
「なんだ、どうした!」
 看護士たちも張り詰めた面持ちで戸口のほうへ向かう。
 そこには三人の男がいた。
 体格の良い二人の男と、その二人に抱えられている一人の男。
 抱えられているほうも抱えている側に負けず劣らずの体格だが、今はぐったりと力なく二人に身体を預けている。
 看護士のひとりが小さく息を呑んだ。
 
 ――抱えられている男の足が真っ赤に染まっているのを見た為だ。

「俺たちは石切り場で働いてる者です。作業中に、ちょっとした事故が起こっちまって――」
「こいつの足が石の下敷きになっちまったってか」
 言葉の先を引き取ったオーマに、頷く作業員たち。
 抱えられている男の喉から苦しげな呻き声が洩れる。
「すぐにこっちへ運べ! おいおまえら、大至急オペの用意だ!」
「は、はい!」
 作業員と看護士が慌てふためきながらそれぞれ動く。

 ――診療時間が終了していることなど、誰の頭からも消し飛んでいた。

 *     *     *

「本当にありがとうございます、先生」
「最悪の場合、あいつの足はもうダメかと思ってたんですが……」
 手術室から出てきたオーマに作業員二人が矢継ぎ早に頭を下げる。
 オーマは口の端を持ち上げて二人を見た。
「縁起でもねぇこと言うんじゃねぇよ。手術はバッチリ成功だぜ」
 切断することもなく、その機能が麻痺することもなく、男の足は無事に助けられた。
 術後の治療はもちろん必要だが、いずれ元のように歩くことも仕事をすることもできるようになる。
 そう太鼓判を押したオーマに、作業員たちはただひたすらに礼を述べた。
 大切な仕事仲間を助けることができた安堵の思いが、彼らの全身から溢れている。
 怪我人の家族の到着を待ち、事情を説明した後に二人は帰っていった。
「さすがですね先生。正直、僕たちも切断しかないかと……」
「バカ言うな。ンなこたぁこの俺が許さん」 
 看護士までもが感嘆する中、オーマはやれやれと肩をすくめた。
「しっかし、すっかり帰りが遅くなっちまったじゃねぇか」
 ぶつぶつ言いながらも、本気で怒っているわけではないのは誰の目にも明らかだ。
 彼がいつ如何なるときも『命』を何より大切に想っていることを皆、知っているから。
「そんじゃ、俺は帰らせてもらうぜ」
「あ、はい。お疲れ様でした」
 ぺこりと頭を下げる看護士。
「すっかり遅くなってしまいましたね。大切な用事がおありだったんでしょう?」
「そりゃまあ俺にとっちゃなにより大切な用事だが、人命には変えられんさ」
 と、看護士のひとりが僅かに首を傾げた。
「そういえばさっき聞き損ねてしまいましたが、どんな用事だったんですか?」
 問われたオーマは、先ほど患者が運び込まれてくる直前と同じように顔を輝かせた。
「おう、そうなんだ。今日はだな――」
 息を呑みつつ耳を傾ける看護士たち。
 彼らをぐるりと見回しながら、オーマは言った。

「俺の娘の誕生日なんだよ」

 にやりと笑うオーマに、看護士たちが瞬きを繰り返す。
「あ――ああ、なるほど……」
「それはおめでとうございます〜」
 頷いたり微笑んだり、それぞれの反応の仕方で言葉をかける看護士たち。
 なるほど確かに今日一日のオーマの様子にも納得だと、全員の顔に書いてある。
「だから俺は今日帰ったら、豪華なディナーとケーキを作らなきゃならねぇんだよ」
 ばたばたと帰り支度をしながら言うオーマ。
 そのまま戸口へ向かう前に何故か立ち止まった彼は、看護士たちに向き直った。
「……実は一日中ずっと悩んでて、今もまだ決めかねてることがあるんだがよ」
「は?」

「――ケーキはイチゴとチョコとどっちがいいと思う?」

 途端、看護士たちの目が点になる。
 隣同士で目を見交わし、そのうちの勇気あるひとりがおずおずと返答した。
「あのぅ……それは娘さん本人に希望を聞いてみては?」
 言われたオーマは大真面目な顔で腕組みをした。
「そうか、やっぱりそうだよな、うん」
 眉間に皺を寄せて唸る姿は、何も知らない者が見たら怯えて逃げ出すほど威圧的である。
 あくまで見た目だけだが。
 そして腕組みをしたまま、彼は帰っていった。

「――平和って、いいな」
 看護士のひとりがぽつりと呟く。
 全員が大きく頷いたことは言うまでもない。


 〜END〜


【ライター通信】
 オーマ・シュヴァルツ様、このたびはご依頼を頂きまことにありがとうございます!
 完全お任せ、という大層嬉しいご依頼でしたが、
『ソーン』の『そ』の字も理解していない駆け出しライターとしましては
 非常〜〜〜に悩むところでありました(^^;
 あれやこれやと悩んだ結果、オーマ様の抱く家族愛・人への愛などにスポットを当ててみました。
 如何でしたでしょうか…僅かでもお楽しみ戴けたら良いのですが(びくびく)。
 今回はウォズのことなどがまったく出てこなかったので、
 もし次の機会がございましたらぜひそっち方面にもチャレンジしてみたいなと思います。
 もともとファンタジー好きなので、これを機会に『ソーン』進出も考えてみたり(笑)。
 いろいろな意味で貴重な機会をお与え下さったオーマ様・PL様に心より感謝いたします。
 ありがとうございました。
 またのご縁がございましたらどうぞよろしくお願い致します。

 2005年4月 緋緒さいか・拝