<東京怪談ノベル(シングル)>


 □飛び立てない追憶□


 偏光色の煌きをかき消すかのような爆音が、ユンナと青年の鼓膜を激しく震わせる。続いて訪れた猛烈な爆風の中、とっさにユンナは贈られたばかりのルベリアの輝石を胸にかき抱いた。
 しかしユンナの長い髪と細い身体は、襲い来る埃や瓦礫に触れる事はない。それら全てから少女を護るように長身の男が立ち塞がり、巨大な盾を具現化していたからだった。
 爆風がおさまると、青年は盾を消失させ周囲を見渡す。懐深くにルベリアを潜ませたユンナもまた、背中合わせになるようにして気配を探った。

「…………何事だ」

 聖堂の中、青年の低い声が響く。
 一瞬前までステンドグラスから淡い光が射し込んできていた、穏やか極まりない建物は、いまや瓦礫にその身を転じていた。粉々に砕かれた色ガラスの残骸を見て、青年はそっと嘆息する。ここで婚約したのならば一生の想い出になるだろうと考え抜いて選んだ場所が、いとも呆気なく壊されてしまった。
 これから先、二人が婚約した場所として思い返す為の場所を奪われてしまい、青年はその目に冷たいものを宿して前を見る。瓦礫の向こう、聖堂をぐるりと取り囲むような陣形をとった者たちは、その視線に戦いたように立ち止まるが、背後から指揮をとっているらしい男のたきつけるような声に言葉通り目の色を変え、それぞれの得物を掴み疾走を始める。

「理由も言わずに私たちの邪魔をするっていうの。……雑魚臭い割にはいい根性してるじゃない」

 ユンナの瞳が光を帯びる。相手の人数そして形状、更に武器の特徴や服装までも瞬間的に脳へと送り込むと、少女としてのユンナの身体が霧のように揺らめき消え去った。身体を構成するものを時に組み替え時には増やし、記憶に留めた敵の姿と数の情報を流す。ユンナでありユンナではないものへと転じた身体は、一瞬の後に一斉に聖堂の床を踏みしめた。
 敵は自分たちそのままの姿をした者たちを見て怯むが、しかし駆け出した足はそう簡単に止まるものではなく、彼らはそのまま自分たちに生き写しな者たちへと突っ込んでいく。

『姿かたちが一緒だからって、性能まで一緒と思わない事ね』

 槍が刺し貫き剣が振り下ろされ、斧が頭を割り鎚が骨を砕く音がほぼ同時にし、人が倒れ伏す重い音がした。
 血だまりの中既に息絶えているのは、いずれも二人に向かって駆けて来た敵ばかりだった。ユンナは元の姿へと戻ると、敵には目もくれずに眉を寄せて聖堂の遙か向こうを見やる。

「……こいつらを煽っていた奴は逃げた、か。全く、ヘボ指揮官ってものはどうしてこの世からなくならないのかしら」
「ユンナ、怪我は」
「あるわけないでしょ。私を誰だと?」

 心配げに声をかけてきた青年へと胸を張ったユンナだったが、しかしすぐに大きく息をつく。

「でも、ついてないわね。せっかくの婚約記念日だっていうのに、何よこいつら。昔私に振られた男たちの成れの果てかしら」
「…………いや、どうやらそういった事ではないようだ。事態はもっと」
「『深刻という言葉を使うに相応しい!』こう言いたかったんだろ?」

 いつのまにか聖堂の入り口に立っていた男に言葉を奪われた青年は、それでもさして驚いた様子もなくそちらを見る。視線を受けた男は白銀の髪を揺らしてにやりと笑うと、どこかうきうきとした様子で中華刀を振り回しながら二人へと歩み寄ってきた。

「……抜き身の得物を振り回すな」
「そう言いなさんなって、堅物よ。どうせ、お前らだってすぐにそれぞれの武器を手にしなけりゃならなくなるんだからよ」
「どういう事よ?」

 ユンナの声に、白銀の髪をした青年は獰猛な笑みを浮かべて、やや興奮気味に答える。

「聞こえねぇのか? 遠くで響くあの声が。屠り屠られる戦いの場の匂いをまだ嗅ぎつけられねぇのか?」
「まさか…………」

 息を呑む青年へと中華刀を突きつけ、白銀の青年は叫んだ。

「そうよ、戦争ってやつがとうとう始まったってわけさ。殺し殺されるだけの場だが、しかし俺にとっちゃ腕を揮える願ってもない場だ……!!」





 ――――異端殲滅戦争。
 後にそう呼ばれる事となる過去最大規模の戦争は、長く続いた。

「……?!」

 共に駆け続けてきた婚約者の背中は、今まで一番ユンナに近いものだったというのに、その姿が何故か遙か彼方にあるように見え、腕から流れ落ちる血を止めようともせずにユンナは立ち上がろうとした。
 永い戦いで疲弊しきった身体は限界を訴えている。しかしそれでも今は青年を捕まえなければならない、その一念でユンナは武装した身体を地面から引き剥がした。
 前に立つ青年の周りで、空気が爆ぜる。青年の内在していたものが溢れ出そうとしているのだ。
 ユンナは走り出す。青年の何かが壊れてしまわないうちに、全力で足を前へ前へと進める。
 だが。

「――――――――――――」

 青年は振り向いて、何かを言った。
 それだけがユンナの記憶の全てとなり、そして、弾ける。

 永すぎて誰もが戦う意味を見失いかけていた戦争は、戦場の一角で放たれた光により幕を閉じた。
 焼け焦げた屍の山の中、ユンナは煤だらけの頬を拭おうともせずに呆然と死体の上に座り込みながら、周囲を見回す。左も右も一面焼け焦げた荒野が広がり、立っている者は一人もいなかった。
 がらんと広がる茶色い屍たちを踏んで、立ち上がる。怪我はあるが、死に至るまでの傷はない。目的もなく歩き出したユンナはどうしてこうなったのかを考え、全てを葬った光が発動する前の事を思い出そうとした。

「…………何で?」

 記憶がない。
 白い光を間近で見たのは確かな事である筈なのに、その前後の記憶がなかった。自分はどうしていたのだろう。何度も自問するが、しかし思考はいつまで経ってもユンナに答えをもたらそうとはしなかった。
 顔を上げ、叫ぼうとして唇を閉じる。確かに誰かの名を叫ぼうとしたが、肝心の名前を思い出せなかった。あまりの衝撃で忘れてしまったのだろうかと少女は自分に問いかけ、そんなことはないと首を横に振る。
 この命がなくなる最期の最期まで忘れないと誓った名前があった筈だというのに、その名前だけがどうしても思い出せない。
 問いかけを続ける中で唯一浮かび上がったのは、逆光で黒く染まった人影だけだった。

「……あ……」

 少女の脳裏にひとつの記憶が浮上する。
 白光の中、こちらを見た一人の男。こちらを見る瞳と何事かを紡ぐ唇。そこに何の色があったのかはもう分からないが、その男がこの惨事を引き起こした原因である事だけをユンナは確信していた。

 そして、その男こそが自分の想い人を奪ってしまったのだという事も。 





 ヴァンサーソサエティ設立を宣言する重々しい声に、歓声が上がる。
 古めかしい建物のバルコニーに立った老人は、階下から轟く万歳の声に手を振り、奥へと戻った。秘書がこれからの予定を伝えようと側に立ち、周囲では精鋭ヴァンサーたちが油断なく目を光らせている。
 ソサエティ設立という異形を成し遂げたこの老マスターを今失うわけにはいかない。そんな緊張感を漂わせた一行は、靴音を響かせて長い廊下を歩いていく。
 凛と前を向いて前へと進む老マスターは名を呼ばれ、これからの予定を告げられる。しかしその時、頷きで返した老マスターの瞳の奥に寂しげな光が宿った事に気付いた者は誰一人としていなかった。

 老マスターにはもう一つの名があった。だがそちらの名で呼ぶ者はもういない。
 少女の姿であった頃の名――――ユンナ、と呼ぶ声の主はもういない。
 残っているのは、昔仲間や恋人と語り合った夢だけだった。全ての命と想いを繋ぐ為に動ければと、幾度となく語り合った若い日々。三人で夢見た未来。
 
 ユンナは彼らと共に目指した未来にひとり立ち、歩み続ける。
 真実の名を呼ばれることのないままに。




 
 ――――それから、八千年という時が経った。

 永すぎる時の中で取り巻く状況も変わり、いつしかユンナは少女の姿をとって、とある街中を歩いていた。
 ソサエティのマスターとしてではなく、一人の歌姫として軽やかに酒場を巡る中、今日もユンナはとある酒場へと足を踏み入れる。既に名を知られているせいか、台に上がるだけで酒を飲んでいた男たちからは言葉が消え、後に感じるは視線のみとなる。
 ユンナは期待のこもった視線の中でも臆せずに、唇を開いた。流れ出す軽やかな歌は昔の恋人を懐かしんだもので、荒くれが集う酒場をそっと包み込む。ある者は過去を思い起こしたのか涙を浮かべ、ある者はどこか懐かしげな表情をしながら歌うユンナの姿を見つめていた。甘い寂しさが歌と共に降り注ぐ中、けれど隅に腰かけていた男だけは何の反応もせずにグラスを傾けている。
 今まで心を動かされなかった者などいなかったというのに、珍しい。
 そう思った少女は、暗がりにいる男の顔を知ろうと隅へと集中的に顔を向けたが、幾つもの魔法で照らされたここからでは顔どころか、どんな姿かたちをしているのかさえ判断するのは困難だった。

 ならば、近づいて行くまで。ひとしきり歌い終わった歌姫は、今日の賃金を受け取ると一目散に隅へと向かったが、そこには既に人影はなく、残っているのは古びたテーブルに置かれたグラスと代金のみだった。
 やや乱暴に酒場の扉を開けて、走る。宵闇の中で前を歩いている長身の男の姿をとらえると、ユンナは速度を上げた。確証など何もないというのに、身体が命じるままに駆けた。
 駆けて駆けて駆けていると、いつのまにか目的の背中が目と鼻の先にきていた。だが、気付いた時にはもう遅い。勢いを殺せないままに、ユンナは小さな身体を背中へと叩きつける羽目になってしまった。
 勢い余って弾き飛ばされた刹那、背中に強烈な力がかかり、地面すれすれでユンナを救う。揺れ動く視界が元に戻り前を見れば、支えていたのは前を歩いていた男だった。衣服の色に見覚えがある。

「…………大丈夫か」

 ぼそり、と紡がれる言葉は重々しく、どこかで聞いたような気もするがそれ以上は分からない。暗さのせいで表情など知る由もない。

「あ、……ありがとう」

 男の手によって立ち上がると、ユンナはもうすっかり暗くなってしまった足元に何か光るものを見つけた。見覚えがある輝きを拾い上げるとユンナは声をなくし、すぐに慌てたように自身の懐へと手を差し入れて、取り出したものを片手に、拾ったものをもう一方に乗せて見比べる。
 少女の手のひらで変更色の輝きを放っていたのは、ルベリアの輝石。
 

 ――――ステンドグラスが一番綺麗に見える時間帯だった。
 あの日、何の用とも聞かされずに行った丘の上の聖堂。そこで待っていた青年は緊張を絵に描いたような仕草で、一対の石を取り出したのだ。
 想い人に贈ると永久の想いと絆で結ばれるというルベリアの花。それを精製した石を互いが持つという事は、あらゆる意味での永遠を意味する。
 永遠を共に二人で過ごし、分かち合おう。それが、約束だった。
 ユンナが輝石を受け取ると、青年は静かに、けれど嬉しそうに微笑んだ。

 どうして忘れてなどいたのだろう。
 誰もいない聖堂の中、たった二人で誓い合った記憶は、簡単に消せるものなどではなかった筈なのに。
 どうしてすぐに思い出せなかったのだろう。
 今、前に立つこの身体の全てを、自分は知っていたというのに。


 少女は闇の中で柔らかな光を放つ輝石を、そっと掲げた。
 ユンナの前にあったのは、あの日と変わらないようで変わってしまった、想い人の姿だった。 
 八千年ぶりに呼んだ名前はひどく苦い味と共に、ユンナの心を絡め取る。





 何かを言う必要などなかった。いや、言うべき事を先送りにしただけなのかもしれない。
 宿屋の暗い一室、さして上等でもないベッドの中でユンナはそんな事を思いながら、ひやりとした腕に抱かれていた。
 顔を上げれば、瞳を閉じ寝息をたてる青年の顔が近くにある。枕に顔の半分を押し付けて眠る姿には、見覚えがあった。八千年前も、青年はこうやって眠っていたのだ。
 あまりに長い時を経ても、こんな所は変わらない。

 変わってしまったのは心だけだった。
 ユンナは八千年前の光景を思い出す。白光が全てを壊す数秒前、振り向いた青年。伝わらなかった彼からの言葉。そして、一時期だったにせよ失った記憶。
 何故あんなにも想っていた相手を簡単に忘れてしまったのだろう。そして、どうしてこの青年は生きていたというのに、今の今まで自分の前に姿を現さなかったのだろうか。疑問は止め処なく浮かぶが、ユンナは青年を起こして訊ねようとはしなかった。
 少女は分かっていた。きっと問うた所で青年は沈黙を漂わせるだけなのだろう、と。
 昔から不器用な男だった。
 そしてそれはきっと今も、変わってはいない。
 
「…………」

 一度だけ、ユンナは青年の胸へと額を押し付けた。鼓動が皮膚をつたって響く中、ぽつりと名前だけを呟く。月も出ない暗闇へと消えたそれからは、懐かしさだけしか感じない。
 もう元には戻れないのだと、ユンナは淡々と思った。
 一度ずれてしまった歯車はかみ合う事はなく、後は壊れるままだ。

 音もなくベッドを滑り降り、部屋を後にしたユンナの懐には、もう誓いの石はない。永遠はとうに失った。時を戻す事などできはしない。ならば自分がルベリアを持っている意味も存在しないだろう。
 ふわふわと、闇の中を舞うようにして歩きながら、けれど少女はまだ足に何かが絡まっているような自由のなさを感じていた。ひとつの恋へと完全に終わりを告げたというのに、足は鳥のように飛び立てずに、未だに地面に縛り付けられている。
 それでもユンナという少女は前へと歩み続けるのを止めないまま、やがて街の中へと消えていった。

 
 新たな世界へ飛び立つのを妨げる物から、軽やかに救い出せる者。 
 それがユンナと出会うのは、もう少し先の話。






 END.