<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


++  六つの吐息――空白の吐息  ++


《オープニング》

 男は突然現れた。


 白く曇った可笑しな眼鏡。

 古びてくすんだ灰色のトランク。

 誰かに踏まれたのか、折れてところどころほつれた帽子。

 鮮やかな彩色のきれいな襟巻。

 男は黒山羊亭の中へ入ってくると、トランクを足元に置き、何も羽織っては居ないのに、まるで外套でも脱ぐかのような仕草をして見せた。

 徐にポケットから薄い空色をした懐中時計を取り出すと、それで時間を確認する。


「さて、お時間のようですね」

 男はそう言うと、ゆったりとした微笑を湛えて足元に置いたトランクを持ち上げた。
 彼はそれを、どさっと大きな音を響かせながら卓の上に放る様に置くと、丁寧な手つきで閉じられた蓋の鍵を開ける。
 男がトランクを押し開けると、エスメラルダは興味深そうにその中を覗き込んだ。

「……いらっしゃい。貴方は…?」

「はじめまして、お嬢さん。私は「めいり」吐息を扱う旅商人ですよ」

「吐息……?」

 男はこくりと頷くと、トランクから取り出した色とりどりの、ふわりと柔らかそうな印象を与える光の塊を次々と卓の上へと並べてゆく。

「揺らめく 吐息たち
 一の吐息は真っ白 何にでも染まるお色。
 二の吐息は真っ黒 全てを悉く埋め尽くすお色。
 三の吐息は真っ赤 貴方の体に流れるお色。
 四の吐息は橙 暖かな陽射しのお色。
 五の吐息は水色 たゆたうこの時密やかなるお色。
 六の吐息は空白の吐息 ここには決して何も無い。
 今日はお集まりの皆様に、吐息に篭められた夢を見て頂くべくこのような物を用意させて頂きました」

 男はただただ柔らかに微笑んでいる。

「さぁ、お好きなお色をお選び下さいますように…」




――夢を見せます――

 今日 これから起こる事によって 貴方が どのような状況に 陥ったとしても
 貴方は ただ 夢を見ているだけ
 さぁ 怯えずに お手にとってご覧下さい。

 それとも 貴方は 逃げますか?




 男はくすりと笑って囁くようにそう告げた。




《吐息の選択》

「夢を見せる、か……ふむ、面白そうだ。私にも見せてもらえるかな?」
 めいりはふっと口元に笑みを浮かべると、声を掛けてきた女性の方に顔を向けた。
 彼はそこに立っている金色の艶やかな髪を首横で束ねた、青い瞳の女性をじっと見据える。
「ようこそ御出で下さいました……麗しきお嬢さん」
「………世辞はいい」
「ご謙遜なさいませんように」
 めいりはくすりと微笑すると、色とりどりの吐息の並べられた宅の上に両手をつく。
「その片眼鏡はご趣味でしょうか?」
「趣味? ……いや、………思い出に」
「………思い出に」
 めいりは窺い見るような視線を彼女に向けると、姿勢を正して彼女の方に向き直る。
「ではお嬢さん、お名前をお伺いしても……?」
「あぁ……私はキング・オセロットだ」
「「キング・オセロット」さん…ですね? 畏まりました。それでは早速ですが吐息をお選びください。吐息は六つ。この六つの吐息の中から―― 一つだけ、お選びください」
「選ぶのは六の吐息……空白の吐息を選ばせてもらおうか」
 めいりは眼鏡を少し指先で持ち上げると、加減興味を抱いた様子で彼女の顔を見遣る。
 彼の傍らには、指名を受けたらしき吐息――何も在りはしないその場所で、何かがもわもわと漂っているかのようにも見える。
「六の吐息は、何もないのだったかな?」
「えぇ、よくお聞きになられて御出でで…」
「ある意味、私には似合いの夢かも知れないが……まぁ、それはともかく」
 彼女の言葉に意味深な微笑を浮かべためいりは、両手を大きく広げて囁くように言った。
「私の持ち物が貴女の助けになる事もあるかもしれません。選択する吐息やお客様によっては…「心の問題」もありますしね……此処は一つ…運試しという事で、どれか一つをお選びください」
「持ち物か……そうだな、その懐中時計を選ばせてもらう」
「懐中時計……此れで御座いますね?」
 めいりは再びポケットから薄い空色をした懐中時計を取り出すと、それをすっと彼女の方に差し出した。
 キング・オセロットはそれを受け取ると、少しの間その懐中時計をじっと眺め見る。
「「懐中時計」に何か想い入れでも……?」
 彼女はくすりと微笑む男に向かって微かに首を横へ振う。

「……選ぶものは、以上でいいのかな?」
「えぇ、大変結構です。貴女が選択する夢が…どうかそのお心に響きますように……」
 めいりは両手を肩の前辺りまで持ち上げると、見せた手のひらをくるりと返してそのまま口元で軽く交差させ、ゆっくりと自身の胸に押し付けた。
 そうして彼は軽く顎を引き、何かを念じるかのように瞳を閉じる――彼ら吐息を扱う旅商人とやらの風習なのだろうか――

「では……夢とやらを、見せていただこう」
 その言葉にふっと瞳を開く。
 彼は両手で何か――そう、「空白の吐息」を丁寧に持ち上げると、其れに向けてふぅっと自らの息を吹きかけた。
 その息は目の前に立つ女性のもとにも届けられ、何か透明な物質が彼女の周りを取り囲む――何かが存在する事だけは、わかった。ただそれ以上にそれが「何なのか」という事だけはどうしても理解できない。
「うっ………」
 小さく呻き、彼女は微かに足を後退させる。


 ――――吐息の見せる夢の世界へ 貴女をご招待いたしますよ……「キング・オセロット」さん


 めいりは彼女の「居た」場所に向かってそう囁いた。

 くすり くすり

 彼は ただ ただ 笑う。
 そして再び、小さな声で囁いた。

 どうかご無事で。




《空白》

 「気が付いた」彼女はゆっくりと自身の目を開くが……何も見えはしなかった。
 何も見えない事が目を開いているのかどうか…そういったことに繋がるのかどうかは定かではない。
 真っ暗闇なわけでもなければ 決して真っ白で潔癖に封鎖された空間――という訳ですらない。

 決して何も無い。

 此処には決して何も無い――

 憶えている感覚で自身の腕を持ち上げ、目の前へと持ってくる。
 何も見えず、感覚で首をさげて自身の体を見ようと試みる。
 だけれども

 此処には決して何も無い。

 ふぅ と誰かの洩らした吐息の音が聴こえる。

 空白の吐息

 それは小さな空気の塊

 誰かの口元から零れ落ちる

 微かな意思


〔本当に……何も無い…のか?〕


 彼女はそう呟いた――筈だった。
 しかし…其処には何も存在する事は無い。
 自身の声ですら「存在しない」状態になるとは思っていなかった。
 少しずつ、息をしている感覚すらも失われてゆく。
 憶えているのだ。肉体が。
 記憶しているのだ。魂が。
 今までどうやって命を保ってきたのかを。
 これまでどうやって自身を生かしてきたのかを。


〔こんな事も……この世界では起こり得るのか………〕


 ソーンへ来て……此れまでとは全く異なる異質な世界に飛ばされた事で――彼女は何も持たない状態になったのだと そう考えていた。
 今まで歩んできた 道 時 想い それらは全て、今もその記憶の中に留まっている。
 目を閉じれば今も脳裏に浮かぶ、当時の記憶。
 今の自身とは切り離して考えたとしても、それは確かに自身の中に「存在」している。
 それら全ては一切何も無い状態の自分と重なると――そう思い、彼女は「空白の吐息」を選んだ。
 しかしそれは違った。
 何も持たぬ事と 存在できぬ事では大きな違いだった。
 何も知らぬ事と 存在すら許されぬ事では……大きく違うのだと。
 小さく呟いた。
 感覚は徐々に失われてゆく。
 彼女は髪を掻き上げる仕草をした。――その筈だ。
 憶えている感覚でそれを行う。それは何とも滑稽な事のように思われた。
 口を開く。
 首を振う。
 瞳を閉じる。
 息をする。ついでに溜息もついてみる――――
 しかしそれらは全て肉体と魂に刻まれた記憶。

 決して悪い事だとは思わない。
 同時に良い事だとも思わない。
 自身の過去や、これから――この先歩んでゆく道。
 それらとて同じ事。

 同じだと思っていた。
 吐息の見せる夢の「空白」と、異世界へと飛ばされたことによる、此れまでとは違うという意味での「空白」。
 夢を買うことで 存在を確かめたかったのも――事実。
 そう……本当は知っている。
 意志のある限り想う自己は固定されるものであり、決して奪われる事は無い。
 意志の続く限り。
 「己」だと確信できるそれを持つ限り。
 何もかもを失ったとしても、それは揺ぎ無い事実だった。




《選択の是非》

〔―――それでも時は刻み続けるから〕

 ぱきん

 世界の中で、何かが壊れたような…そんな音が聴こえた気がした。
 「キング・オセロット」は「めいり」から預かった「懐中時計」をきゅっと握り締めた。
 何もかもを失ったとしても、……それでも時は刻み続けるから。
 続いてゆくから。
 それがメビウスの輪であっても
 それが幾重にも重なり合う螺旋の中のたったの一つであったとしても――
 手の中にある懐中時計に微かに願った。
 途切れかけた意志を、手の中にある感覚のするものへと向ける。


 ぱきん


 再び小さな音が響き――全ての在るものが失われた。


 懐中時計を握っていた感覚も

 自身の体が何処に存在しているのか…それを把握しようとする意志さえも

 存在している

 それがどういう事なのかすら理解できなくなる

 理解する為に機能していた

 自身の思考が何処かへ消え失せてゆく


〔愚かだな……人は一体何処で思考するというのだ?〕


〔考えるという行為は一体何処から生まれる?〕


〔脳か〕


〔それとも心か〕


〔魂の何処で考える?〕


〔意志とは何だ〕


〔心とは何だ〕


〔私とは……一体、何だ……?〕


〔そんな事――考えてみた事も…無かったな………〕




 ふつり……




 そうして彼女の持つ「世界の全て」が途絶えた。










「「無」は「有」を生み出す……そんな言葉は幻想です。
勿論「夢」からならば……この様に如何様なものでも生み出す事は可能ですが――」

 めいりはくすりと微笑みを零す。
 そう。目に見えるからこそ意志が生まれる。
 そう。感じる事が出来るからこそ、人は動く。

「そうか……私も、また………」

 彼女は小さく言葉を洩らした。
 随分と久しぶりに聞く自らの声に――微かな安堵が心を包む。
 何時の間にか自身の体はソファの上に横たえられていた。
 少し重たい腕を意識しながら持ち上げると、キング・オセロットは自身の手をじっと眺め見た。

「空白の吐息は……貴女のお心によく響く夢をみせてくれたようですね」

 めいりはそう言ってくすりと微笑む。
 ゆったりとした微笑。
 目に見える光景。
 太陽の光ですら 今は「目に見えているのだ」と認識する。
 窓から零れ落ちる日の光に、靡くカーテン。それを揺らす風すらをも彼女は「存在するもの」として認識した。
 意志在っての存在。
 彼女は聞き取れないような小さな声で呟いた。
 ――もう少し早くに、この事に気付くことが出来ていれば――と。


「想うよりもこれからが肝要ですよ、キング・オセロットさん」


 彼の言葉にゆっくりと身を起こした彼女は、動かした自身の体をじっと見遣り、落ち着き払った様子でこくりと頷いてみせる。
 言葉、行動、それら全ても己が意志。
 空白の吐息は、柔らかに彼女の中でゆっくりと溶かされた。
「どうやら私の懐中時計はお役には立たなかったようですね」
 めいりが残念そうにそう呟くと、オセロットは首を振って懐中時計を彼に手渡す。
「充分に役に立ったよ。……何が必要なものなのかもよくわかった。………なかなか良いものを見せて貰った」
「――そうですか、お気に召して頂けましたか…それは何よりです」
「あぁ、今日はいい買い物をした」
 めいりはその言葉に柔らかに微笑み、すっと手を伸ばして彼女の喉元に触れた。
 何かを掬い取るような仕草を見せると、それを握り締めてゆったりとした微笑みを零す。

「またのお越しをお待ちしておりますよ――キング・オセロットさん」




――――FIN.


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
 【2872/キング・オセロット/女性/23/コマンドー】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

 こんにちは、キング・オセロットさん。初めまして、ですね。ライターの芽李<メイ>と申します。
 このたびは旅商人「めいり」の吐息のご購入、誠に有り難う御座いました。
 空白の吐息はご堪能いただけましたでしょうか。
 プレイングではPLさん直々の解説まで添えていただきまして有り難う御座いました。
 少しでも楽しんで頂けていれば幸いです。

 この度は各吐息ごとの別納品となっております。もしご興味が湧かれましたら一読してみるのもまた一興かと。笑
 御参加とても嬉しかったです。いつかまた、お会いできる日を楽しみにしております。それでは。