<東京怪談ノベル(シングル)>


白銀の夜


【FIRST CONTACT】
 不完全な満月が、雲に隠れた。

 ――リィィィン。

 桃源郷の外れ、黄山に響く鈴のような音色。
それはまるで、この夜を永久にするかの如き響き。
美しかった。曇りのない音だった。
 しかし、その音は月のためのものではない。
月には、それがわかっていのだ。

「誰ゾ……」

 鈴の音に応え、竹林という闇の深淵から、大きな何かがそっと姿を現す。
影より朧な残像が、空気の中でゆらり揺れた。

月が再び顔を出す。まるで、その正体を解き明かすかのように。
微弱な、けれども強い月光。
 晒されたのは、対極の翼。

「誰ゾ…我ヲ喚ブモノハ?」

 右前足には白いそれ。左前足には黒いそれ。
――有翼を宿す虎。

 リーン。リィィン。

 音色は、その虎を呼んでいた。
かといって、虎がそれに応える必要はない。

耳障りなら、遠くに行けば良い。
鈴の音のしない、ずっと遠くへ。

 けれども、虎にはわかることがある。
虎にだけ、虎にしか、わからないこと。

この音色は、鈴の音を模した悠遠の声である。
そして虎は、この不思議な声に惹かれていた。

「誰ゾト、尋ネテイル」

 虎の声は厳かだが、その奥に穏やかさを抱いている。

 音には響きがある。響きには想いが込められる。
声は、その想いを誰かに伝えるためのもの。

リーン。リーン。リーン。

 鈴の音のようなこの声は、確かに虎へと叫びかけていた。

「我二、先ニ名乗レト申スカ」

 リン。

「良カロウ」

 一歩、一歩。
虎は、声のもとへと近づいていく。

「我ガ名ハ銀吼叫。……白銀ノ咆哮ト呼バレテイル。銀響声デモ構ワヌ」

 その名を示すように、銀吼叫はウオオォォと哮りをあげた。

厳つい叫声、空気に浸透する鋭い声色。
背筋が凍らせるような強さで、白銀の雪を連想させた。

「……コレハ」

 声の主の姿を銀の瞳に映し、銀吼叫はつりあがった目に少しだけ丸くする。
それは、あまりに意外な姿だった。
すでにもとの形が何であったか、判別もつかない――朽ちかけの何か。
 澄んだ鈴を連想させる声の主は、ただのガラクタでしかなかったのだ。

 その晩、ガラクタが声を発することはもうなかった。
力尽きたように、地に転がることしかできずにいる。

 やがて、難しい顔をした銀吼叫もまた、再び闇へと消えていく。

 これが、出会いの一時。
満月までは、あと7日。


【SECOND CONTACT】
 黄山に再び澄んだ鈴の音が響くまで、3日という時間を有した。

「力ガ欲シイノカ?」

 再会した銀吼叫の第一声は、このガラクタへの問いかけだった。

「大抵ノ者ハ力ヲ望ム。ヤハリ、力ヲ望ムカ」

 凶神と呼ばれることもあるだけに、銀吼叫は多大な力を持っている。
力を求められたことは、一度や二度のことではない。
 まして、現れたのは朽ちかけのガラクタ。
力を求められていると考えるのは、決して安直ではない。

 リリィィィン……。

「…違ウ?」

 ガラクタは、銀吼叫の言葉に否定の意を示した。
銀吼叫がどういうことかと口を開きかけ、再び閉ざす。
ガラクタの声がそれを制したのだ。

リーン。

何故、ガラクタは現れたのか。
どうして、銀吼叫を呼んだのか。

 今は未だ言う気がないという、確かなガラクタの意思。

 その代わり、ガラクタは銀吼叫に、一つの知識を与えた。

「……さいんう゛ぉるふ?」

 聴きなれない言葉に、銀吼叫は小首を傾げる。

サインヴォルフ。

それは、西方の言葉。銀吼叫の西方での呼び名。

 悪くない。……気に入ったとでも言おうか。
心の中でだけ、そっと思う。

「オマエハ? 名ハ、何ト言ウ?」

 ガラクタは、ただのガラクタでしかない。
名前はないと、ガラクタは答えた。

「ソウカ」

 この日は、銀吼叫から姿を消した。

 名前を持たない存在もある。
思えば、銀吼叫というこの名も、名前というよりは二つ名に近い。

サインヴォルフ。

 銀吼叫がこの名を気に入ったのは、自分の名前のように感じたからなのかもしれない。


【THIRD CONTACT】
 リーン。
翌日の晩、また鈴が響き渡る。
しかし、銀吼叫がそれに応えることはなかった。

 リーン。
 さらに次の日の晩、鈴はさらに大きく響き渡る。
やはり、銀吼叫がそれに応えることはなかった。

 リーン。
 三度目の正直とはよく言ったものだ。
思えば、以前も会った日の三日後に再会を果たしていたではないか。

「久シイナ」

 銀吼叫から声をかける。

 リン。

ガラクタは、短く言葉を発し、押し黙り……。

 リンリンリーン!

 何かを抗議するかのように、銀吼叫の耳元で喚きだした。
この叫びなら、銀吼叫でなくとも、ガラクタが怒っていることは明白だ。

「来ナカッタコトヲ、怒ッテイルノカ?」

 リン、肯定する。

「……スマナイ」

銀吼叫自身、驚くほど素直に謝れた。
 このガラクタと出会って、どれほどの日が経ったのか。
まだ、計算など必要ないほど短い。
一瞬考えれば答えはすぐに出てしまう。今日で6日目。

「オマエトイルト、調子ガ狂ウナ」

 ちょっとした本音。
何気ない一言、とりとめのない会話。
あたりまえのことかもしれない。

 今まで、それなりに長い時を生きてきた。
けれど、話し相手がいた時間は長くはない。
誰かに呼ばれ、こんなとりとめのない会話をする日が来るとは思っていなかった。

 凶神と呼ばれ、力を求められる日々。
ガラクタは、その事実を覆した。

 本当に。調子が狂うわけだ。

 ……リーン。

 微笑むような、ガラクタの声。
会わない間に生き物っぽくなったと、からかうように言ってきた。

 こんなふうに声をかけられるのは初めてだった。
朽ちかけのガラクタは、会う度銀吼叫に経験をくれる。

 ガラクタは銀吼叫に名を名乗らせた。
 銀吼叫はガラクタに新たな自分の名を教えられた。
 今も、自分に生き生きとした表情と会話を与えてくれている。

 どれも、一人ではできないことだった。
誰かがいるから、できること。

 リィィィン。

 ガラクタは、先日の答えを教えたいと言った。

 ――何故、ガラクタは現れたのか。
 ――どうして、銀吼叫を呼んだのか。

明日、満月の日にまた会おう。
それは、銀吼叫とガラクタとの、最初で最後の約束。


【FORTH CONTACT】
 出会ってから七日。満月の日。
この日は、雲ひとつなかった。
まるで、満月が銀吼叫とガラクタを見守っているかのようだ。

 少し風が吹いている。
その風に押されるように、銀吼叫は闇から月光下へと晒される。

 リン。

 ガラクタが、嬉しそうなはしゃぎ声を発した。

「約束ダ。答エヲ教エテクレ」

 ……リン。

 静かに頷き、ガラクタは短く一言をささやく。


 それは、トモダチという、一つの奇跡のような単語だった。


 言葉を失う銀吼叫の頬を、塵のような光がそっと撫でた。

 満月の日。
それは、ガラクタの寿命の刻限。

ガラクタが風に吹かれていた。
ふわりふわりと風にのって、身体のひとかけらひとかけらが、粉雪のように世界に舞った。
月光だろうか。……いや、違う。淡い光が、ガラクタを包んでいる。
最後に残されたのは、ガラクタのリボン――scroll。

トモダチになりたい。
トモダチになろう。
トモダチでいて。

 それは、ガラクタからの確かなメッセージ。

 ガラクタのリボンが、銀吼叫にそっと絡みついた。
いつまでもトモダチだと、そう告げられたように感じる。


 その晩、虎の唸り声が黄山には響いたという。
白銀の雪が、静かに溶けるような、切ない響き。

 この黄山に、鈴の音が響くことはもう、なかった。