<東京怪談ノベル(シングル)>


赤き風が運ぶ想い

 兄が突然姿を消したのは、今から一年ほど前のことだ。
 原因もわからず、足取りも掴めない。それでも紅姫は、諦める事なく兄の後を追い続けていた。
 いつだって、兄は優しかったから……。
 態度こそ冷たくて、その優しさはわかりにくいものであったけれど。兄が、いつだって紅姫を大事に思ってくれていることは感じていた。
 そんな兄が。紅姫に心配をかけることをわかっていて、こんなふうに前触れもなく姿を消すなんて信じられなかった。
 きっと何か理由があるのだ。
 そう信じて、ずっと、探しつづけてきた。
 今日も兄を探して、方々に探索の手を伸ばしていたのだ。

「……なに、ここ……」

 突如変わった風景に、紅姫は茫然と声を漏らした。
 ほんのついさっきまでは、日本の東京の街中にいたのに……。
 雑踏の中を歩いていたその最中、突如、視界が赤に染まった。その時は、疲れているのかもしれないと、冷静に考えていた。
 これといって体の調子が悪いということはなかったはずだけれど、どこかその辺で休憩した方がよいかもしれない。
 そんなふうに考えて、道の端に寄ろうと思っていたのだ。
 けれど視界が塞がれたのはほんの数秒。動き出す前に視界は正常に戻っていた――これを、正常と言うのならば、だが。
 ほんのついさっきまで灰色のコンクリートの上を歩いていたはずなのに、今、足元にあるのは緑豊かな草たちで。
 天を覆わんばかりに聳え立つ鉄筋のビルはさっぱりと姿を消して、空は解き放たれたかのようにどこまでも青く続いている。
 見れば自分はどうやら小高い丘の上に立っているようで、眼下には日本の街並とはまるで違う、中世ヨーロッパを連想させるような街が広がっていた。
 改めて周囲に目をやるが、やはり紅姫の知る風景はカケラもない。
「……街に下りてみるしかないかな」
 誰もいないこの場所で考え込んでも事態は変わらないだろうし、情報を集めるならば街に下りて人に聞くしかない。
 それになにより……なにか、予感が、あった。
 感じるそれが何なのかはまだわからないけれど、何か……。


* * *


 街に下りた紅姫は、またそこで目を丸くすることとなった。
 通りやそこに並ぶ家々は中世ヨーロッパや外国の街並によく似ていたのだけれど、そこを歩く人々がてんでんばらばらだったのだ。
 和服――それも現代和服というよりは、江戸の侍のような出で立ちの者や、ファンタジー映画から抜け出てきたような服、そして、明らかに作り物ではない翼や獣の耳、尻尾を持つ者たち。
 けれどこんな異常事態の中にいるにも関わらず、紅姫は何故か、落ちついていた。驚きはしたけれど、パニックには陥っていなかったのだ。
 どこから手をつけようかと悩み立ち尽くしていたその時。
「こんなところに突っ立って、どうしたんだい、お嬢ちゃん?」
 声をかけられて、紅姫はその声を発した男のほうへと振り返った。
「人を探しているの」
 考えるより先に、すんなりと言葉が出た。
「そうか。……お嬢ちゃんの名前は?」
 男はしばし考え込むような仕草を見せてから聞き返してくる。
「私?」
 答え――ようとして、紅姫は一瞬青ざめた。
 ……わからないのだ。
「紅姫」
 幸いにも下の名前は思い出せたのだけれど、何度思い出そうとしても、どうしても、苗字が思い出せない。
 しかし男はそんな紅姫の戸惑いに気付かないのか、さっと紅姫の肩に手を伸ばして笑った。
「なんにしても情報が欲しいなら酒場に行くのが一番だ。俺が案内してやるよ」
 その時になってようやく、紅姫は思考を止めて。その男と目が合った。
「どうもありがとう、それだけ教えてもらえば充分だから」
 明らかに親切心以外の企みを抱いているだろう男の瞳を真正面から見据えて告げると、男は笑顔と穏やかな口調だけはそのままに。
「いや、この街は初めてなんだろう? 迷って時間を無駄にするよか案内してもらう方がいいって」
 紅姫の肩に伸ばした手に力をこめた。
「大丈夫だって言ってるでしょ。いい加減に――っ!!」
 叫んだ直後。
 風が、吹き抜けた。
 見目にもわかる赤い突風は吹き、男は一瞬にして紅姫から引き離された。
「……え?」
 わけがわからなかった。
 けれど同時に、理解した。
 不自然に起こった赤い突風が、紅姫の意思のもとにあることを。
 右手を見つめ、そっと、その周囲に小さな風を起こしてみる。
 確かに、紅姫の意思に沿って風は生まれて、吹いた。
「…………」
 この瞬間、紅姫は、予感の正体を知った。
 あれは、兄が見つかる予感。
 この世界のどこかに、必ず、兄はいるのだ。


 ――見知らぬ異世界の中。
 苗字の記憶と引き換えに手に入れた赤き風を纏い。
 胸に在る確かな兄の存在感を追い、紅姫はこの世界で兄を探し出す決意をした。