<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


■真白の書■



 ――はたはたと踊る、その白い紙。


 巫澪と仰るお嬢様がおいでになってらして。
 かんなぎ、とお読みするらしい姓をその指で書いてみて下さった、愛らしい方。
 けれどペットだと仰る『ゆすら』なるゴーレムと共に、今は館におられません。
 いいえ、いらっしゃいますけれど、いらっしゃらないのです。

 風を通す小さな卓に、ただ広がる真白の書。
 それを睨むかのようなマスタ。
 澪様は、その書を読まれ、その書に入られ、今も触れるその中でまた書を読まれ。

 綴られる物語は、澪様のものではないのでしょうか。
 いえ、澪様の物語。けれど同時に澪様のものではない物語が重なっているのです。


 それは、綴られただけではなく。
 それは、迷い込んだだけではなく。

 それは、主の瞳の奥深くを垣間見る少女の、話。


** *** *





 ――時計。針の音。時を記す動き。


 ぱちと一度瞬きする間に何が起きたのか、澪の瞳に映るのは薄暗い空間ばかり。
 色褪せぬ書が奇跡と感じる程に眩い硝子森の書棚――その一室の名残は何処にも無かった。
 ただひとつを除いて。
 え、と欠片のように落ちた声に卓を挟んで正面に、これは変わりなく座る銀髪の男はほんの少し肩を揺らして笑ったようだ。好ましい笑いではない、どこか重いそれ。
「マスタ?」
 膝の上の柔らかく温かく小さなゆすらの感触になんとはなし心安らがせて澪は一度彼を呼ぶ。
 また、卓の向こう側の男は肩を揺らした。見咎めて澪は瑞々しい目元を曇らせる。
「マスタ。なにかした?」
 ただ一度の瞬きの間。
 その僅かな空白に、殊更広い書棚の部屋から光を奪い書を奪い、卓一つを残して全て隠すなぞ館の主であるマスタの仕業に他ならない。当たり前の結論を、しかしマスタは面を伏せてかぶりを振った。左右に、数度。否定だ。
「まず、私はマスタと呼ばれた事は無い」
 声は、澪が少女らしく仄かな好意を抱く相手のもの。
 目元こそかかる髪で見えずとも、そもそも顔がよく見えなくとも――そこで、ゆすらに触れていた手がぎしと軋む感覚を帯びる。
(……顔、どうして)
 おぼろげに輪郭だとかは見えるのに、口元しか明瞭には窺えない。その唇だけでは彼の内面など推し量れる筈も無いのに、口元だけ。
 戸惑いのままに視線を卓の上に彷徨わせる。
 つと一冊だけが置かれている事に今更ながら気が付いたのは、澪が多少なりとも混乱していたからか。本が沸いて出た、という発想も可能ではあったが彼女は別段捻くれた人間でも無かったので考える以前の問題だ。
「そしてお前は今、其処に幻の如くに現れた。私はお前を知らない」
 妙に気に掛かるその本を見たまま沈黙する澪に、マスタである筈の彼は言い募る。
 だけれど彼がどのように感情を映しているのかは、まるで見えないままだ。
「お前を作った覚えも無い。お前の抱く兎にも覚えは無い。私は生命を」
 澪が、ゆすらの毛並みを支えのように感じながら彼を見る。見つめる。
 言いかけた彼は、唐突に言葉を切り乗り出していた身体を椅子に戻した。その小さな音で彼は身を乗り出していたのだと澪にも解る。銀色の髪は、光の一筋も無いのにちらちらと灯りを這わせては落とし。
「私は……もういい」
 倦んだ老人の気配さえ思わせて彼が声を掠れさせるのを聞くともなく聞きながら、澪は光の無い室内でくすんだその緑の瞳を再び本へ戻した。
 招かれるように腕を伸ばす。
 年若さからの淡い色を自然と帯びた爪先が厚みのある表紙を縁にそって辿る。状態の良い事はすぐに知れた。澪の知る硝子森では、どの書籍もそうだったけれど。
「気に入ったなら、くれてやる。知らん相手に渡すのも消すのも変わりはせん」
 居心地悪そうにゆすらが膝の上で身じろぎする気配を感じながら、澪はその言葉には何も返さなかった。静かにその本の装丁を撫でている。
「本は確かに好きだけど」
 その指の腹が表紙の隅に引っ掛かり、流れのまま澪は重たげな装丁を開いた。
 見知らぬ文字が擦れて残る頁がまず現れる。めくる。人の形。輪郭の随所に書き込まれた何か解説のような違う法則の文字。まためくる。めくる、めくる、めくる。植物。鉱物。魔法陣。術式。方程式。化学式の異端。永劫とも思える記号の羅列。読めない模様。
 無言で頁を繰り続け、閉じた。
 澪の、錬金術の知識だとか、己の職つまり超常魔導師としての感覚だとか、そういったものが本に記された内容を推測させる。それは、何処かの誰かが綴った生命に関わる本だ。
 片方の手をその固い装丁に乗せたまま澪は彼に、小さく。
「一冊しかない本を貰って、マスタは寂しくないの?」
 たった一冊だけを卓に置いて座っている彼。
 澪が、少女らしい微かな好意を抱きそうになるマスタ。
 それは同一の人だとやはり思う。だからマスタと呼び、今も表情の窺えぬ彼を視界の隅に収めて問うた。寂しい寂しくないと言う対象に、本の一冊は不適切かもしれないが彼に対しては構わない。脳裏に映る硝子森の書棚、その眩く暖かな光の中で誇らしく並ぶ書物を思い返しながらそう思う。
 あの溢れる光の中でマスタは一人で過ごしながらも孤独なぞ微塵も感じさせなかったのに。
 今、目の前に居るマスタである筈の人はただ一冊の本だけを置いて酷く孤独な世界に居る。
「他と同じように消す、予定のものだ」
「だったらどうして今もあるの」
 沈黙を挟む暇も無く彼の声に更に返した澪の声。
 咎める色も帯びない当たり前の声音に彼の銀髪が微かに揺れて。
 これからだ、とか。
 関係ない、とか。
 何か続くと思った澪は、けれど代わりのように深い深い息を一つ贈られた。
 ゆすらが頭をもたげて耳のふわふわとした熱が澪の手首を撫でる。
 彼は、何も言わない。銀色の髪が口元さえ隠すように落ちて見えなかった顔は俯いてしまう。
 しばらくそのままで澪も沈黙を広げたけれど、かち、と針が動く音が何度聞こえただろうか。
「マスタ」
 きっともう目の前の彼は自分に応えないだろうと感じたから、澪は一度開いた一冊きりの本を卓の上で回すと彼の側から読めるように戻した。動いた主に合わせてゆすらは膝の上から降りている。
「本は、くれてやる」
「……いらないってば」
 駄々っ子みたいに繰り返すなぁ、と唐突に思って口元を綻ばせた。
「また来るから、その時に読ませて欲しいな」
「くれてやる」
 吐き捨てる声で彼が言う。
 銀色の溢れる髪糸の下の顔は見えないのに、澪には、マスタが泣きそうに思えて自分の眦が震えるのを感じて、ああ涙が、揺れる。声が揺れる。
 だからそれを堪えて、澪は見えないかもしれないけれど笑って言った。

「寂しくないように」


 ――時計。針の音。時を誘う響き。


 言いかけて澪は瞬いた。
 眩いばかりの光が陽を溶かし込んで暖かく注ぎ込んでいる。
 書棚の狭間を巡って歌う大気は硝子森の色そのままに透明な風。
「あれ」
 椅子に座っているにしては奇妙な程に安定している。床だ。
 床に、片付けている途中だった書棚の本が積み上げられ、その中の一冊が煙る色味の頁を開いて澪の膝近くに転がっている。ゆすらがその一点に鼻を寄せて小さく鳴らして。
 そこに。
 そこに在ったのは。
「マ、スタ」
 薄暗い世界。何もない場所のただ一つある卓の上。何か小さなそれはあの本でそれを銀色の髪の彼が見つめていて。光の一筋も挿さないそこにただ居るばかりの彼。
 見開いて見る間にもそれは朧になり消えていく。
 咄嗟に手を伸ばしかけ、触れた先はけれど紙でしかない。
 ああ、と吐息のような声が洩れた。
 迷い込んだのだろうか。吸い込まれたのだろうか。覗き見たのか誘われたのか。
 薄らぐ本の中の空間。
 それをただ見送って、澪がそれを呟いたのは半ば無意識のものだった。
 せめて聞こえれば良いと願いながら、本に映る銀の彼に呼びかける。

「寂しくないように、また来るからね」

 言いかけた、それを。
 語尾が消えるのに合わせたように頁の中も消え、本は素知らぬ様子で表紙を閉じた。


 ――時計。針の音。時を繋ぐ糸。





** *** *


 かち、と針の重なる音に澪はゆるゆると視線を流した。
 手の下に真白の書。ゆすらが主の手に鼻先を寄せる。時計は澪の居る場所からは見えない。
「……硝子森」
「面白いものはあったか」
 呟きに重なった声に、巡らせた顔を勢い良く戻すと書棚の主が微妙なふんぞり具合で見つめていた。瞼を二度三度と開閉しても彼は特に表情が見えない事もなく、世界も薄暗い訳でもなく。
 そして澪は床ではなく椅子に。
 仄かに香るハーブ。そうかお茶の時間だったとそれなりの大きさの卓の上、置かれた茶器の類を見。
 硝子細工のような森が風に吹かれて軽やかに歌う昼下がり。
 その硬質の、少女じみた音を耳に入れながらまず澪はゆすらを卓の上に移動させた。茶器以外に何が乗っている訳でもないしマスタも何も言わない。そもそも「兎は好きに置いておけ」と来るなり言い放たれて無造作に書棚の空いた空間に置かれた程だ。
 そういえばその時のマスタは愉快そうに唇を引いてゆすらを澪から取り上げていたけれど。
「マスタって、意外と小さい生物好きなの?」
 今も向かいに座った彼が指先でゆすらをくすぐる様に、思わず声に出した。
 自分でも、あ、と瞬間思ったがマスタは咽喉を鳴らして笑う。そして答えの代わりに再度の問い。
「面白いものは、何か見えたか」

 暗い部屋で一人座る、顔の見えないマスタが。

 そんな事を答えられる訳もなく、澪は曖昧に笑うと首を振る。
 語らいながら飲んでいたハーブティは、まだ少しだけ温かみを器越しに感じさせてさほどの時間を過ごしていないと知らしめる。
 飲み干したらしいマスタの様子に、美味しかったならいいけどな、とちらりと見ながら澪も自分の茶器を持ち上げて残りを含んだ。その染み渡る香りと味、何度も手直しした澪のブレンド。自然と気持ちを柔らかくしながら、そういえば本の整理にお邪魔したんだった、と記憶を探った。



 半分口実、半分目的。
 ちょっぴり素敵だな、と澪が思ったのは硝子森の書棚の主。
 ペットゴーレムであるゆすらの話題から書棚の本の話になって、溢れ返るその書物の海を片付ける事にして訪れたのが今日。
 まず歓声を上げた澪を愉快そうに見遣ったマスタはぶらぶらとうろついては適当な一冊を開いてみる、その繰り返しで整理なぞしてはいなかったけれど澪はそんな事気にならなかった。
 明らかに成人しているマスタの姿が書棚越しに見える度、足元で一冊ずつ身体で押して運ぶ手伝いをしているらしいゆすらを見て笑う。応えるようにゆすらが見上げるものだからまた笑う。その繰り返しの後、お茶の時間だから、と。
『私ハーブティ入れるから!お勧めのブレンドだよ』
 そう、そんな風に力を入れてマスタに話した筈。
 書棚の本の話をしていた自分が、真白の書をどうしたのだったろうか。
「こう、指で書いてみた、かな?」
「よもやそれで書が綴るとは思うまい」
 ゆすらをまだくすぐりながら、記憶を辿る澪にマスタがまた笑う。
 どうも純粋に好意的とは言いがたい、面白がる笑いではあるのだけれど彼が澪に応じてくれる事になんとなし胸を弾ませた。
 だって、澪はまだ二十年と生きていない小娘だ。マスタは大人である筈なので、まず構ってくれるかどうかという部分から怪しくなってくる。それでも書棚にお邪魔して交流を図る澪はとても前向きだけれど。だから、そういう訳でマスタが澪の言葉を拾ってくれているとやはり嬉しいわけで。
「何を見たかは訊かんが」
 僅かにはにかんで茶器を片付けかけた澪に、マスタの声がまた届く。
 かちゃりと取り落としかけた器を慌てて卓に戻して澪は彼の、銀髪の向こう側を見る。
 彼は今もゆすらに視線を向けて瞼を伏せていた。感情は読み取れずとも目元が見える事に安堵する。
「真白の書は虚実定かではない――真偽は、当人の判断だ」
「……うん、そうだね」
 けれど。
 けれど頷きながら、彼の瞳の奥に何かを見た気がして。
(真実なんだ)
 昼下がりの幻ではないと、澪はあの薄暗い世界を思う。
 そんな少女にマスタが眼差しを向けてしばらく見る。ゆすらから自分に移った彼の視線に戸惑いながらも受け止めて、見詰め返す。かち、と針の音がする。かちかちかち、と控えめなくせにやたらと響く音。なんだかまた瞬きの後に見える世界が違っていそうだとぼんやり思い、その為にまばたきさえ遅い。
 それでも何度目かのまばたきの後。
 澪の前でマスタが腕をすいと上げて視線を戻した。
 腕の先を目で追う。そこにあるのは書棚の一つ、書籍の並び、座る位置からではどの列かは解らない。
「こちらから三列目、扉の側の上から五段目の左端」
 戸惑った途端に腕の主の声が飛ぶ。
 怪訝に思いながら立ち上がり、一度マスタを見て歩き出す。
 とりあえず、言われた位置の本を取れという事だろう。
 戸惑いを移して滞りがちな足取りの澪の背に更に投げかけられる声。
「お前にくれてやる」
 鼓動が跳ねたのは何故だったのか。
 卓から三列目を過ぎたところで曲がり、腕の示した位置の書棚の扉側の五段目。左端。
 どれも凶器になりかねない装丁の本の並びの隅にそれは在った。見慣れぬ文字の題字が背に刻まれている。
 ゆっくりと、探るように指先を添えて手前に傾けて取り出した本は、触れた覚えのあるもの。
 開けば、きっとまず見知らぬ文字が擦れて残る頁だ。それからめくっていけば人の形、植物、鉱物、魔法陣、術式、方程式、化学式の異端、読めない模様、そんなものが出てくる筈の本。
『本は、くれてやる』
 それは、何処かの誰かが綴った生命に関わる本。
 実際よりも重く感じながらそれを抱き締めて戻る。

 マスタは。
 薄暗い世界で卓の上の一冊だけを見て座っていた彼は。

 銀の髪を射し込む硝子森の光に晒して眩く風に躍らせていた。
 外へと視線を投げていて、顔は見えない。ただゆすらを膝に抱いている。

 卓に戻るよりずっと手前で澪は足を止めて。
 気付いたゆすらが膝の上から下りて寄って来る。
 彼は振り返らない。
 本を胸に押し抱く。強く。

「――いつだったか」
 淡々と、何の感情も乗せないマスタの声。
 澪の髪が風に揺れて茶から金へと光で染まる。
「言った覚えがあるからな」
 それきり口を噤んだ彼の背中を澪は見た。くつくつとまた笑い出す彼の背中が揺れているのを見た。自嘲するような笑いだけど、悪い印象の無い笑い声だと、屈みこんでゆすらを抱き上げながら聞いた。
 本は、今も重い。
 けれど実際よりもずっと軽く澪には感じられた。


 ――寂しくないように、また来るからね。


 硝子森が風に踊り、光に歌う。
 銀の髪の向こうに見える眩い世界に澪は鮮やかな若葉の瞳を細め。

 さあ、ひとりきりで座る人の傍に行こう。





 それは、真白の書が映した物語。
 望むものか、望まぬものか。
 有り得るものか、有り得たものか、あるいはけして有り得ぬものか。

 ――小さな世界が書の中にひとつ。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【3187/巫 澪/女性/16歳(実年齢16歳)/超常魔導師】

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■         ライター通信          ■
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 はじめまして。ライター珠洲です。
 書というよりもマスタを気にして下さり小躍りしてみつつご挨拶致します。
 真白からまた何かの書に入る形ではありますが、書の設定上という事で予想とのズレはご容赦下さいませ。しかもあんまり会話出来てませんが、割と仲良しなんじゃないかなぁと思います。