<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


命の生まれる場所

◆風の世界
 そこは美しくも哀しい呪われた世界であった。
いにしえの長く激しい戦いの記憶と、深く大地に染みついた怨嗟の念に囚われ、今なお悲しみを抱く不毛の大地。ここには新たな生命が宿ることはない‥‥たった1つの例外を除き。
 吹きすさぶ強い風は、ごく僅かな命達には絶えず厳しすぎる試練であった。


 千獣は恐れる様子もなく浮島の端に立っていた。崖下は厚い雲に覆われて何も見えないが、目線を上げれば不思議な、けれど美しい光景が広がっている。空に大小様々な浮島が浮かんでいるのである。大きなものの上空に小さな浮島が沢山連なっている場所もあれば、触れんばかりに隣り合っている浮島もある。上の浮島から下の浮島へ水が流れ、不思議な滝を作っている場所もある。水は上から流れ落ちるのに、何故浮島は落ちないのか。不思議だとは思ったが、千獣はすぐに『ここではそういうものなのだ』と納得してしまった。ただ、一時として止むことない強い風には閉口した。体温を容赦なく奪ってゆく冷たさには我慢出来ても、絶えず千獣の長く美しい黒髪をなぶり、海中に揺らぐ藻の様に乱してしまうのには参ってしまう。あいにく髪を束ねる様な物は持ち合わせていない。
「ここにいても‥‥何もわからない‥‥らしい。けど、一つだけ‥‥命の生まれる場所があるのなら‥‥そこへ行ってみる」
 飽きるほど長く空を見つめていた千獣は、顔にかかる髪を左手だけで払うと向きを変えてゆっくりと歩き出した。

 勿論、千獣がこんな奇妙な世界に入り込んだのは初めての事であった。それにも係わらず、どことなくあちこちに既視感があり淡い懐かしさを感じる。不思議な気分であった。もしかしたら、千獣が忘れてしまうほど遠い過去にここを訪れた事があるのかもしれない。或いは、獣のどれかが持つ記憶の断片を感じているだけなのかもしれない。けれど、千獣は心の奥で忘却されかかった記憶をあえて探ろうとは思わなかった。消えかけた記憶など引っ張り出してみても益があるとは思えなかったからだ。自分の心の事でさえ、千獣は冷徹に判断する。別に特別な事ではなくいつもしていることだ。投げやりなのではない。ただ、自他の区別なく物事を考えているだけだ。醒めていると指摘されることもある。そうかもしれないと思うので、反論はしない。自分と他者‥‥ここにさほどの差を感じないだけなのだ。こういう風に思うのは自分だけなのかもしれない。そう思うと千獣の白く整った顔に淡い笑みが浮かぶ。誰も自分と同じではない。身体が違えば心の在りようも違うだろう。ただ、それだけなのだ。
「‥‥そう、それだけ」
 心の何処かでそうした思惟に捕らわれながらも、千獣はしっかりとした足取りで歩いていた。荒涼たる大地の更に先、崩れかけた石のアーチが遠くに見え始めていた。

 少しだけ周りを調べた後、千獣はそのアーチをくぐった。

 風景が一変した。石造りのアーチは消え、背後には折り重なった巨大な倒木があった。どうやら千獣はその太い幹と幹の隙間から出て来た様だ。そして先ほどまではカラカラにあ乾いた地面がどこまで続いていたのに、ここには緑があった。辺りをぐるりと見渡してみる。どう見ても深い森の中であった。幹の太い立派な木々が高くそびえ、薄暗い地面には木漏れ日がキラキラと輝きながら差し込んでいる。地面にはみずみずしい若葉色の下生えがどこまでも広がっている。遠くで鳥の鳴き声もした。相変わらず強い風が吹いていたが、木々に遮られているからかどこか優しげだ。
 千獣はそっと左手の指先をすぐ真横にあった木の幹に触れさせた。そしてそっとその幹に両手を廻す。強大な幹は千獣が抱きついても左右の指先が触れることはない。頬に触れる木の肌はなんとなく暖かい。
「‥‥命が‥‥ある」
 千獣は向き直りもう一度ゆっくりと視線を巡らしてゆく。木々は深い緑色の葉をびっしりと茂らせ、風に揺られてさわさわと潮騒の様な音を鳴らしている。けれど、千獣の耳はもう1つ別の音を聞いた様な気がした。
「‥‥水の、音?」
 仄かな水の匂いとともに流れる水の音が聞こえてきた。それは森の奥、ここよりも幾分暗い方角から感じられる。
「‥‥」
 なんとなく足先が向いた。ここまで来たのだから、気になる場所は全て見ておきたい様な気分であった。気配を探ってみても危険な感じはない。
「行って、みる」
 千獣は確かな足取りで森の奥へと歩き始めた。

 次第に水音が大きくなり、水の匂いも強くなる。川のせせらぎの音であった。仄暗かった辺りが少しずつ明るくなり、そして木々の向こう側が白く光っている。森が途切れるのだろう。
「‥‥あっ」
 声にならない溜め息が千獣の紅唇からそっと漏れた。急にひらけたそこには美しい泉があったのだ。水の中を覗くと、地中のあちこちから湧き出る水は白い砂粒を舞い散らせながら吹き出している。あふれた水は泉の淵から幾筋もの小さな川となって四方に流れ出ている。いずれこの浮島から流れ落ち、別の浮島へと降りそそいでゆくのだろう。泉の淵に近寄ると、千獣は身をかがめ右手を泉に差し入れた。陽光が水面をキララと輝かせる。
「‥‥冷たい。けれど、綺麗、だ」
 水から手を戻すと、指先を伝う滴も光を弾き宝石の様に煌めく。
「ここが‥‥命の生まれる、場所‥‥なのか、な」
 暖かい陽光と冷たく清らかな湧き水。水辺を取り囲む木々の緑。なんの変哲もない光景であったが、千獣は『とても美しい』と感じた。ここには息づく命を感じられる。
「‥‥あっ」
 千獣の目の前をヒラヒラと1匹の蝶が通り過ぎた。白と緑の鮮やかな模様を浮かべた羽が目を奪う。蝶は強い風に流されながらも高く低く泉の淵を飛び回る。いや、1匹ではなかった。今までどこにいたのかと思うほど、沢山の蝶が群れ飛んでいた。木々の向こうから、水辺の岩陰から、蝶が飛び立ち一斉に舞い上がる。蝶は千獣のいる辺りも旋回しつつ更に大きな弧を描いて飛ぶ。そして、何周か廻ると一斉に同じ方角を目指して飛び立った。千獣はただじっと蝶の群れが空の彼方に消えてしまうのを見送った。いつしかその頬には柔らかい笑みが浮かんでいた。

 この場所で生まれる命は蝶だけではなかった。色とりどりの羽毛を持つ小鳥たちや透き通る羽を持つは虫類の様な生き物たち。さらには雄々しい巨大な翼を持つ猛禽の若鳥たちも力強く羽ばたき飛び立ってゆく。千獣は土地を守る守護者の様に、飛び立ってゆく者達を静かに見送った。日が暮れてしまうと今度は夜行性の生き物たちが巣立ってゆく。仄かに身体を光らせながら、暗い空へと飛んでゆく。例えどれほど姿形が違っていても、一つ一つどれも愛おしい命達だと千獣は思った。その旅立ちを祝福し、出来ることならば守ってやりたいと思う。
「‥‥こんな、こんな気持ちに‥‥なる、なんて」
 それは我ながら不思議な気分だった。自分の中にこんな感情が眠っているなど、今まで考えたこともない。

『それが優しさという心』

 不意に誰かの言葉が頭の中に響いた。千獣はさっと気を引き締め辺りの気配を探る。

『感謝します。異邦の者よ。わたくしの助けを求める声に応えてくれたこと。そして生まれたばかりの子供達を見守ってくれたことを。その優しい心にわたくしは深く感謝いたします』

 そう、これでよかったのだ。不意に千獣は納得した。自分ではない他人の暖かい心に触れること。たったそれだけの事がこの世界にはなかったのだろう。けれど千獣はゆっくりと首を横に振った。自分は礼を言われる程の事はしてないと思う。それどころか、この美しい場所は千獣の心を深く強く揺さぶった。多分、これが『癒される』ということなのだろう。言葉としては知っていても、実感するのは‥‥幾星霜ぶりのことであろう。
「ここは‥‥とても、綺麗なところ。私を呼んでくれて、ありがとう」
 千獣は笑顔を浮かべた。邪気も屈託もない美しく優しい笑顔であった。


 ここは深い悲しみにとらわれた呪われた世界。しかし、それでも命は生まれ育まれてゆく。何時の日にか、この大地が癒され命で一杯になる事もあるだろう。けれど、それはまだまだ遠い先の事。千獣がこの世界を離れたのはそれからすぐの事であった。

 そして世界を繋ぐ扉は閉ざされた。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3087/千獣(せんじゅ)/女性/年齢不詳/千の獣を宿す者】

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■         ライター通信          ■
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 私事でノベルが大変遅れましたことをお詫び致します。不思議な世界で千獣さんの半日をお届け致します。また機会がありましたら、この世界に癒しと救いをもたらしてください。そして世界は少しずつ形作られ変わって行くのだろうと思います。ありがとうございました。