<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


東方の焔

 心臓の鼓動がかまびすしく聞こえる、そんな静けさだけがそこにある夜だ。息が上がっている。あれが近くにいるのだろうか? 少年は右腕をなるべく人目に晒さないよう、暗がりを選んで夜の街を歩いた。右腕が疼いている。痛みが意識と理性を呑み込もうとする。気分が悪かった。影の中で梟の目みたいな鈍色の光が、少年を見下ろしていた。見られている、そう思って何度も振り返る。遠くの方で弦楽器や打楽器の喧噪が、騒ぐことで覆い被さる夜をかき消そうとしていた。そうすることで、自分たちが夜の支配者だと主張するみたいに。
 痛みを和らげる、あるいは傷ついた羽を休ませる鳥のように、少年は酒を求めて彷徨った。どこもかしこも、仕事を終えたばかりの冒険者が集まっていた。その中で少年は身を隠す。闇に紛れて飛び交うコウモリを真似て。
「いらっしゃい」
 返事はしない。血の臭いに気付いたのだろうか。マスターが眉を顰める。カウンターの隅に隠れるようにして座る。マスターが注文を訊き、少年はなるべく度の強い酒を頼んだ。
「やるね。でもその服は見たことがない」
「そうかもしれない」
 声が震えていたのに気付き、語尾を濁す。利き腕ではない方でグラスを掴み、布きれに湿らせ腕に宛がう。視界が歪む、あるいは滲んだ。死んだのではないか、そう思う程の痛みが全身を駆けめぐり、腰の力が抜けた。その痛みを力で押さえ込むように、残った液体を喉へ流し込んだ。同時に吐き気がして口を抑える。
「腕、やられたのか?」
 心臓が締め付けられる。
「はい」
「理由は?」抑揚のない声でマスターが訊ねる。
「焔の影。山のように大きな。イマがそこに」
「イマ?」
「女性」
「丁度良い。そこにいる奴に訊いてみな」

【第三討伐隊二等陸曹より急募】焔の影〈ほむらのかげ〉
 東方の伝説に出てくる実体のない現象。水のある場所では魚の形をし、森のある場所では獣の形をとり、砂漠では鳥の形をとる。その体は一様に山を思わせる巨大な闇に包まれている。頭部には見る者を吸い込むような一つの目。何故、そこに現れるかといった原因は分からない。ただ、ときおり耳を塞ぎたくなるような大声で嘆き、動物を畏怖させ、空を轟かせる。ある一定の時期から各地に出没し、被害は後を絶たない。討伐を求む。

           ******

 壁のシミを見ていた。
 そのシミはやや青みがかったつるつるした白の壁を浸食して、茶色の影を伸ばし、シンメトリィの蛾のような形態で壁に張り付いていた。既視感より違和感を覚えた。丸い斑点が歪に浮き出し、無数の羽根が羽ばたいていくように、壁から天上へと影を伸ばしている。目を逸らすことができず、ただそのシミを見るだけだった。真昼の白い陽射しを壁が反射させて、ベッドのシーツから飛び立った細かな繊維がきらきらと光り、渡り鳥の群れのように、ひっそりと流れていく。
 いつからそこにあったのか分からない、そこにシミがあることに何か理由はあるのだろうか。それとも、シミではないのかもしれない。血痕のようにも見えたし、壁に空いた穴にも見えたし、目の錯覚だという気もしたけれど、とにかくそのシミを飽きもせず見ていて、眠ることすら忘れていたのだから、やはり普通のシミではないと思う。
 どうというわけでもないのだが、例えば美しいものというのはどこか通常より欠けたものがあって、そういった欠けた部分に人々は惹かれるのだが、目の前にあるシミもそういった不完全な美を含んでいるように見えたので、瞬きもせずに見ていた。ときおり差す雲間の光に照らされて、そのフォルムがふくらんだりちぢんだりするし、陰影の具合によっては老婆の顔や首をもたげた愚鈍な雄牛にも見えたから、本当はシミではなくて、粘土状の物質、あるいは生き物の細胞じゃないか、と思うくらいそれは、ぐわんぐわんと、自由自在に形を変えていった。それに釣られて、視界がぐわんぐわんと上下して、瞼が酔っぱらったドアマンみたいに扉を開け閉めし始めた。
 しばらくして「ボンヴォヤージュ」とシミから話しかけられたので、オーマは延々と出ることがない微睡みの迷宮へ吸い込まれていった。
 気が付くと病室のデスクで眠っていた。
 何の前触れもない、白昼の出来事だった。

           ******

 恍惚のあくびをかみ殺して、涎が大海原を作るまえにオーマはデスクから顔を上げた。ややあってもう一度あくびがやって来るので、あごが外れるくらい口を広げてから生暖かい春の空気を吸い込むと、遅れてだらしなく開いた涙腺から涙がにじみ出る。
 ベッドの上で静かに息を立てている少年を見るとようやく思い出したように、昨日の出来事を追憶するのだが、いつ寝てしまったのか、といったことについては考えない。その代わりに寝癖で四方に突き出た髪の毛を掻きむしり、リノリウムの床を踏んで、カルテを手に取る。
「まだまだ本調子じゃないみたいだな」
 そう呟いたつもりなのだが、途中であくびに邪魔されたせいか呂律の回らない、間延びした呪詛のような独り言が口から漏れた。
「ふぁひゃほほひふぁひはひは」
 続けて処方箋のリストを読み上げるが、何を言っているのか自分でもさっぱり分からない。バーゲンセールに負けた主婦が恨めしくチラシを読み上げてるみたいな声だ。そういえば家内に卵パックのお使いを頼まれていたな、あくびを治す薬はないだろうか、などと考えながら何とか最後のあくびを喉に押し込め、スチールパイプで組まれたベッドの上で横たわる少年の額に手をあてる。ひんやりとした少年の体温が掌に収まる。
 徹夜の治療が功を奏したのか、熱は治まったようだ、しかし食べ物はまだ受けつけないだろう、と簡潔な評価を附して医者としての職務を全うすべく、今後の治療方針を頭に描く。
「イマ……」
 少年は額に皺を寄せて、乾いた桃色の唇をぱくつかせる。薬のせいだろう、少年のやや脱水気味の口内からしわがれた吐息が漏れた。
 この少年を見つけ出した人間の話によると、イマは少年にとって大切な存在で、女性らしい。泣かせるかな、オーマは頭の中のカルテに重症、恋煩い≠ニ書き添える。俺も無茶した時代があったわ、などと呟いてからデスクに戻るところで、例の壁のシミを再び見つける。
 寝る前まで暇を持て余す程度に観察していたのだけれども、今思えば何とも妙な模様というか、アバンギャルドというか、とにかくいつからそこに浮かんでいたのか分からない。見ていると軽い目眩を覚える。真夏の陽射しを直視した感覚に似ている。
 コーヒーを引っかけたわけでもなく、血を迸らせるような手術もしていない、院内で喫煙した人間を見つけたら片っ端からバケツの水を吹っかけているので、ヤニの汚れでもない。
 オーマは考えあぐねながら無精髭の顎をさする。はて、病室は毎朝綺麗に掃除されている筈だし、昨日ここに少年を運び入れたときはなかったような……。
 思いついたように手で菱形を作り、そこから覗き込む。なるほど、眠る前に見たシミよりやや大きくなっているようだ。
 ますます合点いかなくなったオーマは鼻を壁に近づけて、匂いを嗅いでみる。くんくん、すんすん――。
 やいこら、シミよ、完全な無臭ときたか、いかんせん気になってくるではないか。ここは一つ看護婦に頼んで拭いてもらおう、悪く思うな、そうやって額を壁にこつんと押し付けたときだった。
 シミがひたり、と動いた。
 初めは目の錯覚かと思い、目尻を擦るのだけれど、シミは確かに、壁際の窓枠からやや距離をおいて、光が斜めに差す日だまりと影の境界線を越えていた。歩いたとか、跳び越えたというのではなく、ファインダ越しに見た雲の連続写真のズレみたいに、一瞬にして堂々と途中を省略し、あるべき場所を大胆不敵にも位置を変えていた。

           ******

「何なんだ、このシミは」
 オーマはしどろもどろに叫んだ。
 夢うつつに浮かされているのではないか、頬を抓ってみるが、何ともいえない虚しい痛みが神経を刺すだけであった。ただたじろぐだけのオーマは一歩後退してたたらを踏む。そうやってオーマは改めてシミと邂逅する。
 こんにちは、こんにちは、私はシミではありません、私はシミではなく、影です、存在です、あなたとおんなじ心というものが御座います、とシミは少女のようなこそばゆい声で語り始めた。
「今日日のシミは人の言葉を話すのか、不思議なこともあるもんだね」
 左様で御座います。私は人の言葉を話せますが、シミではありません、シミではありませんから、何と申せばいいのか分かりかねますが、もしあなたがお呼びしたければ、イマとお呼び下さい。
「イマ? そいつは偶然だ、イマさんのことは俺も詳しく知りたいと思っていたんだ」
 はい、私はシミではなくイマと申します。
「ところでシミのイマさん、俺は困っているんだ。目の前でシミみたいなのが動かれちゃ、誰だって驚くだろう? 徹夜で仕事で疲れた男がそんなもの見ちゃったら、気でも違ったのかと思うよ。だからなるべく普通に現れて欲しいな」
 何度も申し上げますが、私はシミではありません。なのでイマとお呼び下さい。私もこのような姿になってしまって困っております。
「そうだろうね。俺だってシミになった日には妻にボロぞうきんで拭かれてしまうからなあ。呆気ない命だよ。医者は命は大切にしなくちゃならない。シミでも何でも」 
 ですから、私はシミではありません。ところであなたのことは何と申し上げればよいのでしょう。あなたは私の大切な人を助けて頂いた恩人なのです。是非ともお名前をお聞かせ下さいませ。
「俺はオーマ・シュヴァルツって言うんだ。ここで医者をやっているし、頼まれたら何でもやるんだ。何でも屋って看板を立ててもいいだが、それじゃ医者じゃなくなっちまう。まあ、医者も何でも屋も仕事の内容には変わりないんだけどね、人助けが商売だから」
 お医者様で御座いましたか。このようなご無礼な形でお目にかかったことを深くお詫び申し上げます。
「いやいや、そんなに謙虚になられても困るよ。シミに謝られた日にはお天道様がひっくりかえっちまう」
 再びご無礼を申し上げます。私はシミではありません。
「おお、そうだったな。すまない、でイマさんは何でそんな格好をしているんだ?」
 はい、これには深いわけが御座います。じつのところ、私はこのようない見るにたえない、いかがわしい格好をしておりますが、東方の国を治める王でした。
「驚いた、イマさんは女王様ってことか? 通りで綺麗なシミだと思ったよ。元の姿はうんと綺麗だったんだろうね」
 はい、シミではありません。女王で御座います。オーマ様にお願いがあります。影を元の場所へ還してください。
 還してください、その少女の声はすうっと壁の奥底へ消えていった。同時にシミが溶け出し、黒い涙が六月の梅雨のようにひたひたと壁を伝い、現実を囲う閾を綺麗に洗い流していった。代わりに現れたのは、どんな夜よりも暗く、どんな海より深い、純粋な闇だった。
 闇の深淵はオーマの足もとまで覆い尽くし始めた。やがて膝までかかる闇は、オーマの体の体温を奪い、浸食しようとする。オーマは息を止めて、目を閉じて、ゆっくりと闇の泉へ入水していく。
 そうやって時間の揺らぎへと堕ちていった。

           ******

 傷ついたオーマは影の前で臥していた。
 彼は片腕の熱を感じていた。鋭く尖った神経が剥き出しのまま、冷えた空気に触れられて、荒波の痛みに変わる。苦痛は波となって、上下を繰り返し、理性で抑えようとすると、胃から怒濤の吐き気がやってくる。左右の焦点は定まらず、双眸の向こうではぼんやりとした朧夜の森の、濃いブルーを映しだしている。唇は乾き、喉は熱く爛れていた。影を目の前にした瞬間、心臓が灼熱に変わる。何が起きたのか分からず思わず顔を歪める。
 オーマは声にならない呻きを上げて、震える手を影に伸ばす。はっとなり彼は気付く。これは自分の体ではない。自分の傍らに臥す少年の細い四肢は確かに自分の意志によって反応していた。彼は少年になっていた。
 倒れた自分の前で薄いビロードを思わせる影が佇んでいる。影がフッと笑う。女性の裸体のように白く滑らかな樹皮を纏った白樺の木々が、枝の手を揺らせた。その間を冷たい風がふわりと通りすぎていく。黄色い枯葉で埋め尽くされた地面から一枚一枚飛び立ち、かさかさと音を立てながら弧を描き、やがて月の木漏れ日の間へ吸い込まれていった。
 そして音が消えた。
 自分の激しい呼吸と鼓動だけが取り残される。
「永久に呪われるがいい、無用の夢想家よ」
 影は伽藍の洞窟に吹くすきま風みたいに、幽かな音程を、抑揚なく震わせた。 
「お前は疲れ果て、敗れた精神。一度ならず二度までも己の愛する者を失った罪人。その精神は絞首台に立ったいやしい死刑囚と同じ、哀れ」
 影が目を見開く。
 死と同じ闇を湛えた、凍り付いた嘲りが、一つの目が、森の舞台に躍り上がる。その目を見た瞬間、オーマの血管は縮まり、心臓の弁が決壊し、放流となって頭から爪先へ駆けめぐる。何が起きたのか分からず、喉の奥で絶叫する。このまま俺の体ごと森のざわめきになってしまえばいい、静かな憤りを隠す、異形の森が、俺の心そのもののになってしまえばいい、そう願った。彼自身の願いは、怒りという土に芽生えた一本の意志となり、額を目がけて鋭い幹を貫いていく。
 少年は口を開き、オーマは叫んだ。
「返せ」
 返せ、返せ、返せ、同じ言葉を繰り返す少年の意志が彼に重なる。音と音が共鳴しあい、無数の獣となって猛り狂う。オーマの体の中で、毛細血管の間で、苦悩と怒りに満ちた木々が生い茂っていく。赤い枝葉が、冷たくなった皮膚の隙間を巡らせていく。月に吠える獣たちが群れを成し、夜の大地を蹴ってオーマの喉へ、口へ突進していく。
「イマを返せ」
 オーマの叫びが影を射抜いた。残り香のような掠れた語尾が、当てもなく彷徨う風に吸い込まれていく。白樺の木々が声を顰めて囁き始める。再びオーマの背後で森が騒ぎ立てる。無知を装うだけの静寂の腕は、影とオーマの間を抱擁していく。
「残念だ。私が」
 オーマは拳を握りしめ、心の中で描いた色を全て鮮烈な赤に塗りつぶして、叫んだ。影の声が自分の耳へ届く前に、その赤で染めようとした。視界が真っ赤に滲んだ。目頭が熱くなる。
 影の喉の奥底で揺らいでいた卵が殻を破り、産声を上げる。ひとかけらずつ、秘密の衣を脱ぎ落としていく。生暖かい体液から解放され、柔らかい糸の束縛から逃れ、初めて触れたこの世界の寒さに身震いさせる。そうやって影は、まだ世界について何も知らない赤子のように残酷で無知の嘆きを、言葉に変えて紡いでいく。
 私が、私が――イマなのに。 

           ******

 頭の上でフクロウが鳴いた。そのフクロウは覗き見るような目つきで、翼を広げ、頭上へ舞い降りた。フクロウのいる場所には、窓がある。孤独の常闇に張り付いた視線が、傍観者としての別空間を形成させていた。フクロウは首を傾げて、窓の向こうの世界からオーマという闇を見下ろしている。あるいはそうやってオーマを観察し、深淵な瞑想しているようにも見えた。その目は独裁的な光りを放っていた。
 オーマはフクロウになれればと考える。肉体の墓場から離れ、自分を高みから見下ろすことができる存在になれたらと思う。
 静かだった。
 全てを出し切った体は、疲れ果て、水分を含みすぎた布きれのように、重力が体中を張り付いている。視界は斜めに傾き、上を見ているのか、下を見ているのか分からない。大きな棺桶の中に入れられている気分だった。体の重みは辺りの物質を溶かして、血のように柔らかく伸びていく。下半身から、勾配を下るようにして、森の大地を突き抜けて、憂鬱の細胞はどこまでも滑り落ちていく。
 掌で枯葉を掴む。
 このまま終わっていいのだろうか?
 ほう、とフクロウが鳴く。
 オーマは窓へ手を伸ばす。否、実際には手を伸ばしたのではない。彼の手は動かなかった。それでもフクロウに向かって、這い上がろうとした。少年という体を捨てて、彼は時間を超越したフクロウになってみようと決める。甲虫が殻を破るように、体の奥底を覆う鱗を落として、軽さへの欲求、今やそれこそ全ての渇望である、生への充足を満たそうとした。
「呪われた奴め。もう時期がきたというのに。臭い体に警告を発しても無駄だったか。人間はめくらで、つんぼで、弱い者。虫が巣くってかじる、壁のように」
 影が言う。
 ほう、とフクロウが鳴く。しかしそこにフクロウの姿はない。窓の外へ飛び出したオーマは、彼自身へ還っていた。
「返せ」
 オーマは二本の足で立つ。影を睨め付ける。眼窩には爬虫類の鱗のように、冷たい光りを滲ませていた。
「誰だ」
 驚いた影が、白樺の木に隠れて訊ねる。
「俺はお前さんに頼まれてここにいる。そこにあってはならないものを元に戻す」
 オーマの奥で眠っていた獣が再び目を覚ます。情動の滝が彼の腹へ降り注ぐ。耐えることができず溜まった空気を震わせ、大音声を吐き出した。心臓が雷鳴のように、激しく踊り狂う。
影は言う。
「その通り。そこにあってはならぬものを悪と呼び、元に戻そうとするのが、人の善さであり優しさだ。どうやら君は優しい人間のようだ。だが私は元には戻らない。何故なら、私は摂理だからだ。摂理だけが、動かす権力を持っている。人は作られたものに安堵を得るだろう。そこにあるべき理想の形に近づけようと、努力するだろう。だが人は森の奥深くにそびえる廃墟に恐怖を覚える。人によって作られた形が崩れていくという、自然の理に驚き、怯む」
 影はおもむろに前へ出る。小さな頭を前に屈めて、淡い闇に覆われた細い四肢で、扉を潜るようにして、木々の緞帳から舞台へ上がる。表情のない一つの目を開いてから、オーマを見据える。
「俺もお前さんもここにいてはならない」
 オーマは首を折れるくらいに曲げて、声を荒げる。彼は言葉にならない怒りを撒き散らす。横顔にかけて夥しい血筋を走らせていく。鋭く尖った唇に怒濤の緊張が伝わり、糸を引いた涎を迸らせた。髪は輝かしい銀に変わり、後ろへ流れる緩やかな丘陵を描いたまま、前屈みになる。
 オーマはは影に対して牙を剥いた。
 鼻腔を出入りする空気が火傷を起こすほど熱を帯びているのが分かった。彼は唸る。力を誇示するためではない、自分自身の志気を相手へ駆り立てるために放った、静かな雄叫びだった。己の武器である牙を研ぎ済まし、憤怒を示すぎらついた歯肉が、牙の根元を締め上げていく。彼が再び咆吼で森を轟かせたとき、百獣を従えるその姿は一層濃くなった。鳥が木々の間から飛び立ち、怯える小動物たちが小さな悲鳴を次々に上げる。
「いいだろう、怒れる獅子よ。時間は残酷だ。思い出してみたまえ、何故、守銭奴たちは己の死に免罪符を買うのか。何故、赤子は生まれたときに泣き叫ぶのか」
 影は言った。
 オーマは影を威嚇する。締まった体は音が聞こえてきそうなくらい皮膚を引っ張り、しなやかに背筋を伸ばす。前足で地面を従わせるように添えて、曲線を描く銀の灯火を頂きに宿した、長い尻尾が宙を舞う。
 そして彼は言う。
「俺のやるべきことは一つ、元に戻すだけだ。その先は俺の決めることではない」
 獅子となったオーマは影の体へ目がけて突進していく。前足と後ろ足で交互に地面を蹴り、牙を風上に立てて、影の中心へ吸い込まれていく。
「ようこそ、孤独な世界へ」
 影は笑うと、オーマの体ごと闇へと呑み込んでいった。

           ******

 そこには星があった。洞窟に輝く黒曜石のように、鈍色の光りがちりばめられていた。その世界には階段があった。長い階段だった。上にも下にも同じ階段が延々と続いていた。登れど登れど、先は見えない。長い間そうしていたように思う。オーマは息を切らして、膝を折り曲げる。体は重たかった。山々が連なり、茫洋な海を張る巨大な星を、頭の上で支えながら歩いているように思えた。額が軋み、鼻に痛みがはしる。ときおり、遙か下の方で、岩が轟音を撒き散らして横切っていく。オーマは何故、自分が階段を登っているのか考える。
「老人は死ぬために階段を登る。だから杖が必要だ」
 オーマの背後を伸びる影が言った。
「初めは四本の足で歩くだろう。だが君は二本の足で歩こうとする」
 オーマは階段の縁を掴む。力を入れなければ、崩れ落ちそうだった。体を支える骨が崩壊しかけて、苦痛の悲鳴を絶え間なく叫び続ける。
「君は何故自分が階段を登るのか、考える」
 口角から血が滲む。お腹の中は業火にあぶられた溶岩のようにが煮え立っていた。オーマのお腹の中で、何者かが、早く解放してくれ、と懇願する。閉じこめられた囚人たちが叩くように、お腹の中で異形たちが騒ぎ始める。
「分からないだろう。己は何故死ななければならないのか。同じようにそこには答えはない」
 影の声は遠い世界から聞こえてくるようだった。あるいは耳などもう聞こえなくて、幻聴だったかもしれない。オーマは震える歯を噛み締めて、ゆっくり口を開く。
「分かるぜ。お前さんは還る場所がないんだろう」
 影は答えない。
 オーマの背後で、少女の声が含み笑いを漏らす。臍の緒辺りに、冷たいものが飛び出る。オーマは自分のお腹を見下ろす。鋭い刃の切っ先が彼の腹を貫いていた。
 彼は構わず続ける。
「俺もそうだ。還る場所がない。気の遠くなるほど長い間彷徨ってきた。だから、そこにあってはならないものを元に戻す」
 少女の笑いが途切れる。次に聞こえたのは悲鳴だった。自分のものか少女のものか分からない。同時に腕の感覚が無くなる。オーマの体から腕がなくなっていた。次に消えたのは足だった。首から上の感覚も消し飛んだ。目が見えなくなり、耳も聞こえなくなり、声も出せなくなった。
 それでもオーマは頭の中で続ける。

還る場所を失った罪人として、贖罪として、俺は元に戻す。還る場所を失ったものたちに与えられる場所を、俺自身の体に創った

 彼の言葉は彼自身の中で完結する。そこにあってはならないものが、元に戻った瞬間に、完全性は出現する。自分の尻尾を食らう蛇のように、完全な調和がオーマの中にはあった。内にも出られず、外にも出られず、影は戦き、畏怖した。彼は人ではなかったのか、そう思った最後の疑念も、全ては瓦解し、引き込まれ、彼の中へと封印された。

           ******

 少年はベッドの上で、静かに寝息を立てている。眠りの中でいつか、元通りの日常へ帰れると信じて、夢を見ている。その夢を描くとしたら、少なくともここではないどこかへ運んでやるべきだろう。そんなことを思いつつ、隣のベッドに目を遣る。少年と同じように、やはり深い眠りにつく少女の顔があった。期待していたより、ずっと綺麗だった。
 オーマは疲れた体を休めるように、車椅子の中で伸びをする。まだ痛みは引かず、足は動かない。いくら自分が医者だからと言って、自分の体を元通り完治させるほど器用ではない。それくらいの器用さがあったら、ずっと昔に独りで生きていくことを迷わず選んでいただろう。家族も作らず、ここで医者をやっていることもない。それとも、あのとき見た影のように、孤独な世界を延々と彷徨い歩いていたのだろうか。
 分からなかった。
 そこにあるべき理由が分からないから、人は一方的に元の場所へ、元のあるべき形へ戻そうとする。けれども、必ずそうする必要があるのだろうか。ひょっとして自分こそが、ここにいてはいけない存在ではないのか。そう思いながらときどき、壁に浮かんだシミを見る。
 シミにはそこにあるべき理由はなく、宙ぶらりんのままじっと待っているだけで、何か訴えたり、あるいは、暴れたりもしない。相変わらず元に戻ることも前に進むこともない、時間の流れの中で、独りぽつんと取り残されているのを、オーマは飽きることなく見つめていた。
 ほんの少し、自分の影と見比べながら。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
1953/オーマ・シュヴァルツ/男性/39歳/医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り
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■         ライター通信          ■
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こんにちは、吟遊詩人ウィッチです。予定より一週間以上遅れて申し訳御座いませんでした……。書ける時期と書けない時期がありまして、途中から後者に入ったのが原因です。そこを根性で書き上げた次第でありますが、書いている間中の心理状態が凄まじかったために、作品全体にかけて底知れぬ暗い影を落としています。重ね重ね、申し訳ありませんでした。またの発注をお待ちしております。ではでは……。