<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


【Go WEST!】かえらずの森



 ■0■

「行きなさるのかね」
 その居酒屋で席を立った一人の少女に老人が物憂げに尋ねた。外套の大きなフードを目深に被った少女が、困惑の影を落とした蒼い瞳を老人に向ける。
 それからゆっくりと少女は首を縦に振った。
 老人がそれ以上の言葉を噤むと、少女は静かにその居酒屋を出て行った。

 はじまりの大陸−朔には陽〈ヤン〉と陰〈イン〉の二つの国がある。陽〈ヤン〉の極東には会稽と呼ばれる大都市が存在し、その大都市から西に少しはずれたところに始新という村があった。
 そこから先の村−皖へ行くには、山脈を大きく迂回するか、二つの村の間に横たわる『かえらずの森』を越えて行くしかない。
 だが、鬱蒼と木々の生い茂ったその森に、足を踏み入れて帰ってきた者はいないという。森に住むという水の毒龍に襲われたのか、或いは森に迷いのたれ死んだのか。
 ある者は森に正面から挑み、ある者は森の上空を飛び越え進もうとしたが、どんな力が働いているのか彼らは気がつくと同じ場所に立っていたという。とはいえ、帰ってきた者がいないのだから、それさえも噂の域を出る事はなかったのだが。
 そんな森へわざわざ出向くのは、今となっては腕に覚えのあるもの好きか、森のどこかにあるという宝を探しにやってきたトレジャーハンターぐらいであろう。

 どんな理由が彼女の中にあったのか、そこに一人の少女がこれから向かおうとしていた。
「一緒に森を越えてはくれませんか?」
 シオウ〈桜〉ファーラングは、居酒屋の前を歩く人々に声をかけたのだった。





 ■1■

 おいしい話は逃さない。面白い話も逃さない。ついでに自分の悪口に至っては10Km以上離れてたってお礼参りに参上する。そんな地獄耳を今日もフル稼働させて、ウェルゼ・ビュートは持っていた酒樽から顔をあげた。
 何故居酒屋で酒樽なんかで酒を飲んでいるのかといえば、コップどころか酒瓶さえ注ぎ足すのも持ち帰るのも面倒とその店で一番巨大な酒樽を所望したからである。しかし大好きな酒――種類は問わないが旨けりゃいい――がまだ残っているにもかかわらず、口を離すとは彼女にしては珍しい事ではないか。
 しかしウェルゼは、銀色の目を嬉々と輝かせ、青みがかった綺麗な黒髪を掻きあげると、細くて長い足を妖艶に組み替えて、隣のテーブルに身を乗り出した。
「その話、のらせてもらうわ」
「は……?」
 隣の席に座っていた老人が呆気に取られたようにウェルゼの顔を見返した。どの話じゃと問いかけて、森に行く少女の事かと思い当たる。ならば、彼女の為にも人手は多い方がいいような気もして、老人は「そうか」と笑みを返した。
「お宝があるんでしょ?」
 ウェルゼが興味津々で尋ねた。
「そういう風に言われておる」
 頷く老人にウェルゼは両手で握り拳を作って「おっしゃ」と小さく気合を入れた。
 それだけで彼女には充分だったのだ。この持て余していた退屈な時間を潰すには。
「ふっふっふっ」
 ウェルゼは立ち上がるとテーブルの上の、まだ飲みかけになっている酒樽を取り上げ、手近な席で今まさに「いただきます」と手を合わせていた男の前にドンと置いた。
「さぁ、行くわよ」
「は?」
 ウェルゼが、まるで仲間に声をかけるかの如くナチュラルに言ったのに、男は間の抜けた声をあげて暫し酒樽を見詰めていた。当然である。仲間どころか彼女と言葉を交わすのはこれが初めてなのだ。彼からすればそれは何の脈絡もなかったのである。
 山本建一は酒樽から彼女へ視線を移すとしげしげとウェルゼを見た。背中には悪魔を思わせる翼。実際ウェルゼの中には悪魔の血が半分入っているのだから、彼女の不敵な笑みは悪魔のようなそれではなく、正しく悪魔の笑みだったろう。
 もしかして彼女は自分を誰かと勘違いしているのだろうか。でなければ見ず知らずの男に突然こんな馴れ馴れしく声をかけたりはしないものである。そう結論付けて建一は一つ溜息を吐き出すと「人違いですよ」と口を開きかけた。
 だが、それが音に変換されるよりもわずか早くウェルゼはさも当たり前のように言ってのけたのである。
「これを持ってついてらっしゃい!」
 それはまるで女王様のように自信に満ち溢れたものであった。そこには否などというこたえが返ってくるなど露ほども考えていないのが容易に窺い取れる。実際に考えていないのだ。ついてくるのが当たり前だと彼女は信じて疑わない。
 建一は呆れて開いた口も塞がらず、こめかみの辺りに痛みを覚えて指で押さえた。
「あのー、何の話でしょうか?」
「森にお宝を取りに行くのに決まってるじゃない」
 ウェルゼは満面の笑みできっぱり言い切った。目が本気である。
 建一は疲れたように肩を落とすと、視線を自分のテーブルに戻した。こういう手合いは無視するのが一番に違いない。
 建一とて森を越えたいとは思っていたが、わざわざ危険をおかしてまで森を突っ切らずとも、山脈を迂回するルートで充分だと思っている。ましてやお宝などには何の興味もないのだ。
「そうですか。僕はこれから食事なので……」
 割り箸を持ちなおして改めて「いただきます」と料理に手を伸ばした建一の二の腕をウェルゼが掴む。
「ほら、ファーちゃんが行っちゃう。これ、持って」
 そう言ってウェルゼは建一に無理矢理酒樽を持たせると、問答無用で建一を引っ張っていく。
「ファーちゃんって誰ですか? って、ちょっ……あの……」
 テーブルの横に立てかけてあった彼の持ち物である特異な杖と背負い袋を何とかキープしつつ、かくて人のいい建一は強引なウェルゼに異を唱えられないまま、ずるずると引きずられていったのだった。
「あの宝貝は……そうか。術師がついて行かれれば、あの森も越えられるやもしれんのぉ」
 居酒屋を出て行く二人を見やりながら老人がのんびりと言った。宝貝とはこの大陸の言葉でいわゆるマジックアイテムの事だった。
 その老人の傍らに、ふと一人の少女が立った。
 長く綺麗な碧い髪を滝のように揺らせて、何ともおっとりした口調で彼女は言った。
「まぁまぁ、これはあの方のお忘れ物ですわね」
 建一が座っていたテーブルには、水竜を象られた琴がポツンと置かれいた。それをそっと取り上げて、少女は青い目を楽しげに輝かせる。
「うふふ。わたくしもご一緒しましょう」
「何?」
 老人が驚いたように少女を見上げた。
 一番最初に出て行った少女と同じくらいの年頃だろうか。今日は、次から次へと危険な森へ入りたがる者が現れる日である。
 老人の心配そうな視線に気付いたのか、少女は老人を振り返って笑顔でウィンクしてみせた。
「わたくしの事は心配に及びませんわ。こう見えまして、わたくし水操師をしておりますのよ」
 水のエレメンタリスにして水操師、シルフェは軽やかに踵を返すと、建一らの後を追うように、それでもどこかのんびりと居酒屋を出ていったのだった。

 そうしてウェルゼが魅了も使わず100%強引に建一を拉致し、シルフェがそれを追いかけた頃、居酒屋の前から少し離れた場所で、道行く人に声をかけていた桜の言葉に、足を止める者があった。
 大半は『かえらずの森』に行くと聞いただけで、足取りが心なしか早くなっていたから、桜は少しだけ胸を撫で下ろし、足を止めてくれた人を見た。
 歳の頃は自分と同じくらいだろうか。
 ハニーブロンドの長い髪を鬱陶しそうに背中に払って、彼女は冷ややかなアイスブルーの瞳を桜に向けていた。
 思わず桜の方が息を呑んでしまう。
 品定めでもするように暫く桜を見つめていた彼女は、ふと、わずかに目尻を下げて言った。
「私でよければ、同行させてもらうわ」
 どうやら彼女のおめがねにかなったらしい。
「本当ですか!? 宜しくお願いします」
 桜は頭を下げた。
「私はユリアーノ・ミルベーヌ。ユリアでいいわ」
 そう言って握手を求めるように手を伸ばしてくる。
「私は桜といいます」
 桜はその手を握りかえした。
「かえらずの森を越えたいのね?」
「そうです」
「急いでいるの?」
「え? ど…どうして……」
「森を越えるのが目的なら、多少時間がかかっても山脈を迂回するでしょう? なら、敢えて危険を冒す理由なんて、ねぇ」
 ユリアが笑みを返す。正にその通りであった。
 森を越え、森の向こう側にある皖に向かうのであれば、30日ほどかかるが山脈を迂回する方が結果としてはやい場合もある。
「…………」
「できれば噂に聞く毒龍とは会いたくないわね。命を落としたら森を越えるどころでは……」
 言いかけたユリアの言葉に別の声が重なった。
「何言ってるの?」
「え?」
 声の主を振り返る。
 そこにはウェルゼと、ウェルゼに掴まれ逃げる事が出来ない建一が立っていた。
「龍を倒してさくっとお宝いただきよ!」
 ウェルゼが言ってのける。
「…………」
 ユリアも桜も呆気に取られたようにウェルゼを見返した。
「何を言ってるの」
 ユリアは半ば呆れたように、或いは頭痛を紛らわすように首を振った。
「あの、私は森を越えられればそれでいいんです」
 桜が言う。
「うんうん、わかってるってー。さ、ファーちゃん、建ちゃん、行くわよ」
 ウェルゼは、聞いてるんだか聞いてないんだか、恐らく後者な顔付きで請け負いながら、ひらひらと手を振り森の方へと踵を返した。
「け…建ちゃん……って」
 名前を教えたはずでもないのに、突然名前をしかも建ちゃんなどと呼ばれて建一は面食らう。この歳になって、よもや名前にちゃん付けで呼ばれる日がこようとは想像だにしていなかったのだ。いや、それはさておき。どうやらファーちゃんとやらも自分と同じく彼女の被害者らしいと気付く。強引な彼女にのせられているのだ。
「ちょっ……あなた……」
 森へさっさと向かおうとするウェルゼに、ユリアがその背を追った。しかし聞く耳は持っていないのか、あれだけの地獄耳を持ちながら、自分に都合の悪い事は全く聞いていないウェルゼはスタスタと歩いて行く。
 ユリアはウェルゼの肩に手を伸ばそうとした。それを、桜が首を横に振って止めた。
「私は構いません」
「え?」
「龍以外にも何があるのかわかりませんし、腕のたつ仲間は多い方がいいと思います」
「確かにそうだけど、彼女の目的は宝なのよ」
「使えるものは使います。役に立たなければ切り捨てるだけです。それに、彼女が龍を倒してくれれば、森も越えやすくなります」
「あなた……」
「そうやって生きてきたんです」
 きっぱりと、いっそ清々しいほどに言い切ってみせた桜に、ユリアは小さく溜息を吐いた。
 切り捨てる、はともかくとして、確かに腕の立つ仲間は多いに越した事はないだろう。
「そう。貴女がそう言うなら、私が口を出すべき問題ではないわね」
 ユリアは複雑そうな笑みを返して言った。
 そんな二人の会話をウェルゼに引きずられながら聞いていた建一は、やっと話が見えてきたような気がして、しょうがないですね、と森に入る事に腹を括った。
 もしかしたら、ウェルゼは桜の手助けをと考えながらも、実はそう面と向かって言うのが恥ずかしくて、だからこれは彼女流の言い訳なのかもしれない、と思えてきた。勿論、ウェルゼを見ていると10割以上お宝狙いに見えるのだが。そう考えると少しだけ、この女王様にも付いていけそうな気がするのだ。
 ところでそうして建一が、すっかり失念してしまっている水竜の竪琴だが。
「うふふ。何だか楽しそうなお話ですわ」
 森へ歩き出す4人の後からのんびりと着いて行くシルフェの手にしっかりと抱かれていた。



 ◆◆◆



 どこの世界にも多かれ少なかれ人騒がせな夫婦というものは存在する。しかしこの夫婦ははるかにそれを凌駕していただろう。
 ただ、たまたま今回はそのフィールドが人里から離れていた事が幸いした。
 事の発端は、夫が妻の試作料理の味見を拒んだ事から始まる。
 妻の言い分はこうだ。
 愛情たっぷり注ぎ込んで一生懸命作った料理を味見もしないで逃げようとはどういう了見か。世の中にはその日食べるものにも困った人間がいるというのに勿体無いではすまされない。何より。
「このあたしの胸から逃げようなんてだねぇ、生涯早いんだよ!」
 一方、夫の言い分はこうだった。
 愛情と一緒に明らかに怪しげなものまで注ぎ込まれているのに、本当に食べていいものかという保障もないようなものを、食べられるわけがない。
 これは、普段はおやじ愛をたっぷり注ぎこんだ妖筋胃薬などなど、ありとあらゆるおやじ筋副作用をもたらすお手製薬を医者の職権乱用で患者たちに処方している事など、一万光年離れたどこかの惑星の棚にあげての発言であった。
 かくして、2人のバカ夫婦によるブラッディラブ聖筋界横断バトル的喧嘩は、逃げた夫がその森に突っ込んだ事により、森にまで飛び火したのであった。
 いや正確には、彼が森に突っ込んだわけではない。かぁちゃんから逃げる過程で森の上空を飛来した彼は、森に引きずりこまれるように迷い込んでしまっただけなのである。しかし、そんな事情ははっきりいってどうでもいい話で、おやじ筋が突っ込んだという覆しがたい事実だけが彼女には重要であったろう。
 そうなのだ。こうなっては娘としても知らぬ存ぜぬを通すことは出来ない。
 下僕主夫おやじ本人はほっておくとしても、奴があちこちにばらまいた危険なトラップだけは回収しておく必要がある。でなければ他の者達に迷惑とマッスルおやじ愛幻想夜行トリップをかけてしまう事になるのだ。
 ほっておくわけにはいかない。
「まったく、人騒がせなんだから……」
 深い溜息を吐きつつもブラッディラブ夫婦の愛娘サモン・シュヴァルツは致し方なく森へ入ると、二人の喧嘩の後始末を始めたのだった。
 鬱蒼と木々の生い茂った薄暗い森を、ジーワ、ジーワ、ジジーッと、たぶん蝉の鳴き声だろうそれが辺りを響き渡っていた。



 ◆◆◆



「抜けられたんですか?」
 建一が躊躇いがちに尋ねた。
 彼らは森を背にして立っていた。
 森に入ってずんずん進んで森を出てきたところである。
 しかしどうしても確認のそれが遠慮がちになってしまうのは仕方がない。
 彼らの目の前に広がる光景があまりにも記憶に鮮明にあったからだ。
 デ・ジャ・ヴュなだけならまだいい。
 誰もがその現実を口にする事を躊躇った。
 少し離れた後ろを歩いていたシルフェだけが、その光景を前に「まぁ!」と声をあげた。
「まっすぐ歩いてきたのに、また入口に戻ってきてしまいましたね」
 また。誰もが思っていたことだ。しかし口に出すには勇気がいる。このやり場のない徒労感をどうすればいいのか。勿論、一番徒労感を感じていたのは建一に違いない。
 何せ、ウェルゼの酒樽を背負わされているのだ。
「おかしいわね。方位磁石どおりに……」
 ユリアはそう言って手にしていた方位磁石を見下ろした。
 方位磁石の針がぐるぐると回っている。
「…………」
「面白い!」
 ウェルゼが言った。景気付けのように。
 徒労感に沈んでいた彼女の目が再び輝きだしている。
「これは、私に対する挑戦ね!」
「宝を狙う者がいるから、森が我々の侵入を拒んだのかもしれないわね」
 ユリアが冷静に状況を推察してみせた。
「あら、言ってくれるじゃない、お嬢ちゃん」
 ウェルゼがユリアをねめつけたが、ユリアは意に介した風もなく、飄々とした涼しい顔をしている。
「可能性を指摘したまでです」
 2人の間に見えない火花が散るのにその間で桜がオロオロと困惑していた。
 そんな3人を横目に建一はその場に座り込んで疲れたように息を吐く。
「はぁー……これじゃぁ、帰らずの森、じゃなくて入れずの森ですね」
「まぁ、つまり、わたくしたち森に入ることも出来なかったんですのね」
 シルフェはにこにこしながらダメ押しを押した。
 わざわざ口に出さなくてもいいのに、と誰もが内心でこっそり思ったが、口に出す者はいない。ただ更なる疲労感が彼らを襲った事は言うまでもあるまい。
「…………」
 と、そこへ、建一の肩を叩く者があった。
「あなた方はこの森から出て来たのか?」
 建一が振り返ると、そこに男が二人立っていた。
 声をかけてきた一人は黒髪に青い目をした着物姿の男で、腰に刀のような細身の剣を佩いている。童顔の建一が言うのもなんだが、見た目は自分と同じくらいに見えた。この世界に於いて、見た目と実年齢が一致しないことなどよくあることなので、実際はどうだかわからない。名を藤野羽月という。
 今一人は同じく黒髪に鋭さを増した切れ長の目は黒かった。動きやすそうな服を着てファイターを思わせるが、纏っている空気はファイターのような暑苦しい物ではなくて、どちらかというとクールであった。隣の男より少し年長に見えたか。名を倉梯葵という。
「まぁ、一応そういう事になるのかな?」
 建一は何とも曖昧に首を傾げて答えた。
「では、帰らずの森というのはただの噂だったという事か」
「いいえ、正確には森に入ろうとして入れなかったのですわ」
 シルフェが満面の笑みを湛えて言った。あまり自慢出来る内容とも思えない。
 訝しむ2人にユリアが近づき自己紹介もそこそこに状況をかいつまんで説明してみせた。
「なるほど」
 得心がいったように頷くと、葵は傍らの羽月を振り返る。
「どうする?」
「森の向こうには興味がある。それに見たところ女性が殆どのようだ」
 ユリアたちを見やって、一瞬だけ桜に目を止めたが、彼女が顔を隠すようにフードをわずか深くしたのに気付いて、何も気付かなかったような顔で葵に向き直る。
 別段それ以上口には出さなかったが、互いに考えている事は同じだったらしい、葵が頷いた。
「そうだな」
 森を越えるのに、わざわざ森を突っ切ろうとする、何か深い理由がありそうだったが、2人は敢えて聞こうともせず仲間に加わる事にした。
「我々も同行させてもらおう」
 羽月が申し出ると、桜は宜しくお願いします、と頭を下げた。
「しかし、まっすぐ歩いてとは、本当にまっすぐだったのか?」
 葵が傍らにいたユリアに尋ねる。
「えぇ。とはいえ方位磁石がこの状態の今、その保障はどこにもないんだけど、途中で休んだりしたわけでもないわ」
 ユリアは方位磁石を見せながら答えた。
 だが、やはりにわかに信じ難いようで葵は考えるように森を振り返った。
 そこへシルフェが顔を出す。
「あのぉ、また歩くのはたいへんですので、こんなのはいかがでしょう」
 そう言ってシルフェは握り拳に親指と人差しだけ立てて指森に向かって突き出した。丁度拳銃を構えているような仕草だ。
 だが、その指先から放たれたのは弾丸ではなく水である。まるでこれでは水鉄砲だ。但し、水は尽きる事無く勢いが衰えることもない。
 それは、まっすぐに森に向かって走った。
 だが、数瞬後。
 ユリアは何かを感じたように桜を庇いつつ一歩退いた。
 葵も一歩退きながら羽月の腕を掴んで引き寄せる。
 ウェルゼも一歩退いた。
「わぁっ!?」
 建一がすっとんきょうな声をあげた。
 森から一筋の水が溢れ出て健一の頬を叩いたからだ。
 大した威力があるわけでもなかったが、彼は驚いてもんどりうった。
「まぁ、まっすぐ水を放ったはずですのに」
 そう言ってシルフェは首を傾げた。
「…………」
 建一は納得のいかない顔で濡れた頬を手の甲で拭いながら立ち上がる。
「では、こっちはどうでしょう?」
 シルフェはそう言って今度は別の方角に向けて水を走らせた。
「なっ!?」
 またもや数瞬後、水は建一の顔を襲った。
「まぁ、こっちでは?」
 シルフェは更に方向を変える。
「!!」
 やっぱり、というべきか水は建一に注がれた。
「こっち」
 どこか楽しそうにシルフェが別の方へ向けて水を走らせる。
「もしかして、わざとやってませんか?」
 最早、避けるのも面倒になって水に頬を打たせながら建一がシルフェを睨んだ。
「まぁまぁまぁ、そんな事ありませんわ」
 そんな2人のやりとりにウェルゼの目がキラリと光る。
「こんな森、さっさと焼き払ってしまえばいいのよ」
 言うが早いかウェルゼは両翼を封じている炎の剣を一本引き抜いて振るってみせた。
 そこから放たれる地獄の業火が森を焼き尽くさん勢いで一直線に走って行く。
 数瞬後。
「……絶対、くると思ってました。水の精霊杖を持ってて良かったです」
 建一は杖をふるって水のシールドを張りながらウェルゼに白い目を向けた。
「ちっ」
「今、舌打ちしましたね」
 ウェルゼのそれを聞き逃さなかったぞと言わんばかりに建一が詰め寄ったが、ウェルゼは手の甲で口元を覆うと笑って誤魔化した。
「気のせいよ、ほーっほっほっ」
 そんな2人を横目に、ユリアが顎を人差し指でなぞる
「つまり、どこから入っても同じ場所に出てくるという事かしら」
 別々の場所から入った者同士が気付くと同じ場所に立っていたという噂はここからきているのだろうか。ユリアが意見を求めるように葵を見やった。
 葵は羽月を振り返る。言葉には出さなくとも2人は互いに同じ事を考えていたのか。羽月が言葉を継いだ。
「いずれにせよ、どこかに結界が張ってあるのだろう。そこまで行ってみよう」
「そうね」


 ◆◆◆


「待て!」
 羽月の制止の言葉に誰もが足を止めた。森に入ってすぐの事である。
「どうしたの?」
「ここに結界があるようだ」
 そう言って伸ばされた羽月の腕が、まるで不透明の水の中にでもつけたかのように消えた。
 いや、正確にはその腕の先が、どういった具合なのか傍らから突き出している。
「本当だ」
 ウェルゼも面白がって体を半分突っ込んだ。
 突っ込んだ半分が向かいで自分を見返している。
「なになにこれ、面白い!」
 手を振ったり百面相をしたりして遊びだした。
「まぁ、本当ですわ」
 シルフェも一緒になってウェルゼと遊ぶ。二人が向かい合ってダンスを踊ったりしているのを横目に見ながら、建一は呆れたように脱力して腰を下ろした。
「面白がる事では……」
 彼は少々疲れていた。勿論、その大半は背中の酒樽が要因である。
「つまり、この結界のせいで中へ入れなかったと」
 ユリアが言った。
「そのようだ」
 羽月が頷く。
「何とかならないのか」
 葵が羽月に尋ねた。
「そうだな。小さな穴くらいなら開けられるかも」
 羽月は結界の表面を撫でながら答えた。
 葵が皆に声をかける。
「行くぞ」
 羽月が腰に佩いていた剣を抜いた。刃が金色の炎を発しているように見える。
「開いたらすぐに穴へ飛び込め」
 一同が頷いたのを確認して羽月は結界を切り裂いた。何かがあるようには見えなかった空間にぽっかりと裂け目が出来る。裂け目の向こう側の景色が違って見えていたから、かろうじて、そこに裂け目が出来ているとわかった。
 刹那、次々に皆そこへ飛び込んだ。
「ふぅ〜。全員入れた?」
 一番最初に飛び込んだユリアが傍らの桜を確認して、それから後ろを振り返った。
 葵が手をあげる。羽月は一つ頷いた。ウェルゼは当然と言わんばかりに仁王立ちしている。
 シルフェが「はい」と元気よく答えた。
「一応……」
 背負っていた酒樽に足を取られ一番最後に飛び込んだ建一が、尻餅をつきながら手をあげた。
「酒樽は間に合わなかったみたいですけど……」
「!?」
 結界が開いている間に越えられなかった酒樽は、塞がる結界に両断され中身をぶちまけていた。
「もし、通れてなかったら、僕たちもこうなってたんですね」
 間にあってよかったと胸を撫で下ろす。
 それも束の間、いっそ通れないで結界の向こう側に取り残された方がマシだったかも、と思わせるような怒声が建一の頭上に降り注いだ。
「何てことするのよ! あたしの命の次に大切なのに!!」
 しかし建一は意外にも冷静だった。
「次なんだ。僕らの命より大切なんだ」
 ウェルゼの理不尽さに慣れてきたのかもしれない。悟りでも開いたのか。
「当然よ!」
 ウェルゼはきっぱりと言い切ってみせた。勿論100%本気なのだろう。肩を竦める建一にシルフェが酒樽の片割れを覗き込む。
「うーん。さすがに酒樽は戻せませんね」
 人や生き物であれば彼女の癒しの力で多少は何とかなるが、さすがに酒樽は無理である。
「…………」
 ウェルゼは腕を組んで憤然としながら、建一を見下ろしていた。
「酒がないとイライラするのよね、あ・た・し。誰でもいいから殴りたくなるって言うかー」
 と言われても、こんな森で酒を見つけるのはお宝を見つけるより難しいだろう。建一は慌てて立ち上がるとウェルゼの背中を押した。
「さ…先を急ぎましょう。ささ。お宝が待ってますよ」
 かくて、ウェルゼを先頭に、建一、ユリア、桜、羽月、葵、シルフェの順に森の奥へと進んだのだった。

 そうして森をどれくらい歩いただろうか、先頭を歩いていたウェルゼが、何かに気付いたように目を細めた。
「ん? あれは? 死体か?」
 首を傾げるウェルゼに、いつの間にか建一を追い越していたユリアが隣に並んで眉を顰める。
「死体なら、森に入ったはいいけど出られなくなった者ではないかしら」
 木の根元に足を投げ出すようにして座る男。
 腹を何かで抉られたのか内臓が飛び出していた。咄嗟に桜は目をそむける。
「オーマさん!?」
 桜の後ろを歩いていた建一が男に気付いて駆け寄った。
「え?」
 建一の言葉に、葵と羽月も駆け寄る。
「本当だ」
「知り合い?」
 尋ねたユリアに建一が頷いた。
「えぇ。名をオーマ・シュヴァルツ。腹黒さではこの聖獣界で右に出る者はいないと思われる、一応医者です」
 言ってから、建一はふとウェルゼを見やって、付け足した。
「あ、1人いましたね。右に出そうな人が」
「あ、わたくしその方誰だかわかりますわぁ、うふふ」
「あら、誰かしら? うふふ」
 ウェルゼがシルフェの真似をしながらにこにこして言った。但し、若干目が笑っていない。
 それを背にユリアはオーマの傍らに膝をついて死体を確認するように言った。
「血もまだ乾いていないところをみると、ほんの数分前ぐらいかしら」
「何かに襲われたのかな」
 桜が呟く。
「でも、襲われてどうにかなるような人でもないですよ」
 建一が首を傾げる。
「まだ彼を襲った者がこの辺りにいるかもしれないわね。用心して進みましょう」
 ユリアが立ち上がる。
「確かに」
 葵は辺りを見回した。
「しかし気の毒に」
 一応、顔見知りとあって、羽月は神妙な面持ちで手を合わせる。
「だが、彼をここまで出来る人間なんて、この聖獣界には一人くらいしか思いつかないんだがな」
 葵は不思議そうに首を傾げながら、羽月同様手を合わせた。
 建一も隣で手を合わせる。
「くわばらくわばら」
 そうして一同、何事もなかったかのように更に森の奥へ進みかけた時。
「ちょと待てこらー!!」
 死体が突然声をあげた。どうやらまだ、死んでなかったらしい。
「ちっ」
「今、舌打ちしたでしょ。絶対したでしょ」
 オーマがウェルゼを指差す。
「あら生きてたの? 良かったわねー」
 ウェルゼは手の甲で口元を覆いながら笑ってみせた。
「この程度で死んでたまるか」
 オーマはぶちまけていた内臓を自分の腹の中に仕舞いながら言う。
「この程度……」
 桜が呆気に取られたようにそれを見ていた。
「じゃぁ、殴ってもいい? 今私、イライラしてるの」
 ウェルゼが両手を握り締めてキラキラと目を輝かせる。今にも本気で殴りかかってきそうな気配の彼女に、オーマは慌てて手を振った。
「いや、それはちょっと死ぬかも。俺、今こんなだし」
「では、お怪我を治させていただきますわね」
 シルフェがオーマの傍らに腰を下ろす。
「では?」
 オーマはシルフェの顔をまじまじと見た。
「はい」
 にこやかに頷く彼女の笑顔が何故だか妙にひっかかる。では。
 例えば――では、殴っても平気になるようにお怪我を治させていただきますわ――みたいな。
 勿論、自分で治す事も容易に出来たが、話の流れでオーマはシルフェに傷の手当てをしてもらった。しかし何故か先ほどからオーマはもがき苦しんでいる。一体、どんな治療をしているのか。
 やっと手当てが終わった頃、オーマは荒い息を吐きながら、ふと思い出したように言った。
「あー、それでさ。ちょっと聞きたいんだけど」
「はい?」
 ユリアが首を傾げる。
「ここ、どこ?」
 一同の間に沈黙が横たわった。
「…………」
 ジーワ、ジーワ、ジジーッ。
 たぶん、蝉が鳴いていた。

「バカはほっていきましょう」
 ユリアはそう言って桜を連れてさっさと歩き出した。
「この先何が出るかわからないしな」
 羽月もその後に続いた。葵は無言でその隣に並ぶ。
「あれで死なないなら、殺しても死にませんよ」
 建一が後を追った。
「お宝の取り分減ったら嫌だしね」
 ウェルゼも続く。
 この森に入るには入る意志がなければ大抵は結界に阻まれる。それでもたまに、うっかり迷いこむ人間と言うのがいるものなのか。
「まぁまぁ、知らないなんてね、うふふ」
 シルフェは笑って皆の後について行く。
 木の根元に取り残されたオーマは慌てて立ち上がった。
「って、おーい!! 置いてくなよ!! ナマ筋求めて三千筋巡業なら俺も同士だ!」





 ■2■

「こりゃ、おかしな森だねぇ。オーマを探すどころかこっちが迷いそうだよ」
 血みどろ愛聖筋界縦断して全部巻き込んじゃうよ的夫婦喧嘩をしていた妻の方、シェラ・シュヴァルツは中華なべを片手にその森を歩いていた。
 鍋の下では聖獣具の火が燃え猛っている。
 彼女呼ぶところの愛情たっぷり愛妻料理は、未だ完成していないのであった。
 シェラは森に生っている木の実らしきものをそれが何であるかもわからないまま千切っては入れ、千切っては入れしながら歩いていた。
 別段困った風はない。
 こうして歩いていればその内出られるだろうと高をくくっているからだ。
 しかし、その足が初めて止まった。
 目の前に立つ崩れかけの壁に見覚えがあったからだ。つい先刻もこれと同じものを見た。それも、2度3度ではない。
 壁面を見ると、先ほどシェラがつけた印が付いていた。
 まっすぐ歩いてきたのに、おかしいねぇ、と首を傾げながらも、何かの力が自分をここへ導いたのだろうと判じてシェラは壁を越えてみることにした。
 まるで太古の文明を孕んだような遺跡である。
 人が訪れた形跡が全くないわけではなかったが、それでも随分昔なのではなかろうか。壁面を覆う蔦に隠れた入口をやっと見つけて中を覗く。
 天井はない。
 ただ、折れた柱が数本地面から生えているだけだ。かつてはこの辺りにロビーがあって大広間へと続いていたのかもしれない。
 そんな事を考えながら進んで行くと地下へ続くと思しき階段を見つけた。
 随分と古そうだ。
 暫し首を傾げて降りて行く。
 暗い階段は、鍋の中身を調理する炎がほのかに辺りを照らしてくれていた。
 地下数百メートル。
 若干息切れしつつもどうやらたどり着いたらしい。
 シェラはその扉を押し開けた。
 そこに一体の竜が眠っていた。


 ◆◆◆


 ここに、他の誰かがいたら驚いただろうか。
 いや、ここまでの流れをつぶさに見ていたら驚く事もないだろう。
 サモンは双頭狼の背を優しく撫でていた。
 サモンの傍らには黒い狼がはべっている。
 彼女が召喚したのだ。
 黒狼を前に双頭狼は戦意を喪失したわけでもなかったが、少なくとも敵意はなくなったようだった。
「よしよし」
 そう言ってサモンが喉をくすぐるように撫でてやると、双頭狼は心地よさそうに目を細める。
 しかし――。
 サモンは不思議そうに首を傾げた。
 この森には何か異質なものをずっと感じていた。それは死をイメージするようなものであったが、双頭狼を見ていると、それも正解というわけではなさそうだった。
 死んでいる森、というよりは、死んでいない森、といった方がしっくりくる。
 生命力に溢れてもいなければ、生きているという感じもしない。ただ、死んでいないだけの森。
 まるで時間から取り残されたように存在している。
 この森が自分を拒んでいるのは、自分が生きているから、なのかもしれない、とふと思った。
 だからといって、死者になれば住めるという森でもない。
「『かえらずの森』は何を視ている?」
 双頭狼の一匹が彼女の前で翻った。
 まるで、ついて来いと言わんばかりに。
 サモンは立ち上がると双頭狼の後を追いかけた。
 その先に、きっと答えがあるのだろう。


 ◆◆◆


「おや、サモンも来たのかい」
 双頭狼に案内されて、サモンがその地下空洞に訪れると、既にそこには先客がいた。
 彼女の母シェラは鍋の中身をおたまで掻き混ぜながら、サモンに気付いて笑みを向ける。
 しかしサモンはシェラの方を見ず、そこに佇む蒼い竜を見上げていた。
「水竜……?」
 それに反応したかのようにそこにいた蒼い龍が尻尾を動かした。右から左へ。たったそれだけの動作で突風が巻き起こる。
 風に煽られながらサモンは蒼い龍を見上げていた。
「うっかり、他人様の家にあがりこんじまってね。お詫びに、料理でも食べてもらおうと頑張ってるところさ」
 シェラが言った。それから蒼い龍を振り返る。
「うちの娘だ。手、出さないでおくれよ」
 釘を刺しながらもシェラは蒼い龍から名水を分けてもらうとお礼にキスをプレゼントして、名水を鍋に注ぎこんだ。いつの間にそんなに打ち解けたのやら。
『我は人と同じものは食さぬと言っているのだが』
 苦笑を滲ませたような呟きがどこからともなく聞こえてきた。
 サモンは首を傾げつつ蒼い龍に手を伸ばした。
「僕らを拒む。何故」
「そりゃ、守るものがあるから、だろ。あたしだって、あんたを守るためなら何だってするよ、サモン」
 蒼い龍の代わりに答えてみせて、シェラが少しだけ照れたような笑みを向ける。
「…………」
 サモンは困ったようにシェラから視線をそらせた。こういう時、どういう顔をしていいのか、よくわからない。
 サモンは蒼い龍を見上げると呟いた。
「銀次郎と……」
「うん?」
 どこで調達してきたのかボールの中身を泡立てていたシェラが振り返る。
「友達になれるかな?」
「そうだね」
 シェラが頷いた。
『銀次郎?』
「そう。銀次郎……」
 サモンが自らを媒介に具現化する銀色の美しき龍――銀次郎。


 ◆◆◆


 ジーワ、ジーワ、ジジーッ。
 そう言って奴らは近づいてきた。不思議な鳴き声である。まるで虫、この場合、蝉にとても酷似していた。相手よりも弱いものに化けて侮らせ隙をつく。故に奴らはうっかりしていると囲まれた後である事が多い。
「双頭狼!?」
 桜は足を止めた。気配は辺りから漂っている。既に取り囲まれているという事だろう、果たして何体いるのやら。
「あら、珍しいものが」
 別段動じた風もなくウェルゼがのんびりと言った。
「こんな昼間から見られるなんてなぁ」
 オーマが困惑げに肩を竦める。とはいえ、自分が知っている双頭狼とは毛並みが違うからこの大陸のものだろう、生態系も違っているだろうし、そうなると夜行性とも断言できなくなるのだが。
「めんどくさいわねぇ」
 心底面倒くさそうにウェルゼが言った。ざっと数えて12匹。7人だと約2匹を相手にする計算だが、全員が戦闘に参加できるかは少々疑問だ。
「不殺上等。出来れば手荒な真似はしたくないんだが」
「そうも言ってはられないだろ」
 四方八方から注がれる殺気に羽月が剣の柄に手をかけた。
「そういえば、奴らは夜行性ですよね?」
 建一が尋ねる。
「一応は」
 オーマが頷いた。
「なら、こんなのはどうでしょう?」
 建一が持っていた水の精霊杖を掲げてみせた。
「ん?」
「10秒待ってください」
 そう言って彼は魔法の詠唱を始めた。
 オーマはわずかに肩を竦めて葵たちを振り返る。
 羽月は一つ息を吐いて、剣を抜かずに鞘ごと構えた。
「……9……8……」
 シルフェが隣でしっかりカウントダウンを始める。
 双頭狼が一匹、建一に向かって飛び掛ってきた。
「私が」
 咄嗟に銃を構えたユリアの手を葵が抑えた。
「あの数だ。使わない方がいい」
「7……6……」
「私が囮に」
 前に出ようとするユリアを「俺が」と留めて葵が走りだす。
 ユリアと桜を庇うように前へ出た葵は銃のストックで飛び掛ってきた双頭狼の頭を殴り飛ばしながら横へ飛んだ。
 間髪入れずもう一匹が飛びかかってくるのを、そこへ飛び込んだ羽月が剣でなぎ払う。
「5……4……」
 それでも数に押されて一匹が葵の間隙をついて後ろの2人に飛び掛った。咄嗟にスピアを抜いた桜は、しかし力が足りなくて後ろにはじき飛ばされる。その衝撃でスピアも遠くに飛ばされた。地面に背中を叩きつけられて何とか痛みをこらえて上半身を起こすのと、立っていたシルフェの傍らに今飛びかかってきた双頭狼が着地したのはほぼ同時だった。
 だがシルフェは動じた風もなく、もしかしたら今の状況がわかっていないのかもしれないが、相変わらずカウントダウンを続けていた。
「3……2……」
「危ない!」
 という葵の叫びを別の声がかき消す。
「ふっふっふーん。丁度暴れたかったのよねぇ」
 シルフェの前に楽しげに立っていたのはウェルゼだった。
 双頭狼の脇腹に渾身の蹴りを入れている。
「1……ゼロ!!」
 と、シルフェが言ったのと建一の詠唱が終わったのは同時だったろうか。
「みんな目を閉じて!!」
 建一はそう言って持っていた杖を突き出した。
 強い光が瞬時に放たれる。光を遮る葉の合間を水の精霊に力を借りて水鏡をいくつも作って光を一箇所に集めさせたのである。
 それは一瞬だったが、しかし、夜行性である双頭狼にはそれで充分だったようだ。
 開ききった瞳孔に強い閃光。
「今です!!」
 その瞬間、建一は走り出していた。それに続くようにして全速力で一同は森の中を駆け抜けた。
「シルフェさん。気付いてますか?」
 走りながら、建一が尋ねる。
「はぁい。この森には精霊が殆どいませんわ」
「一体、この森は……」


 ◆◆◆


 どこまで走ればよかったのか。そんな事は誰にもわからない。ただ、双頭狼から逃げるようにひたすら走ったら、ふと気づくとそこに地面はなくなっていた。
「どっしぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
 奈落の底へ落ちていく。
「きゃぁぁぁぁぁ!?」
 実際には地割れの壁伝いにほんの少しある傾斜を滑っているのだが、ほぼ垂直に近かったから、やっぱりそれは落ちているといえた。
 勿論、一部を除いて、である。
 しかし、ふと気づくと彼らのそのスピードは徐々に落ちていった。加速するならわかるが、減速しているのである。フォーリング・コントロールでも働いているのか。
 一番最初に地面に降り立った建一が杖を掲げ、皆を支えるように腕を伸ばして立っていた。
 風の精霊シルフの届かぬ地に強引にその力を呼び出しているのだ。
 全員が降り立った頃には、精神力を使いすぎたのかへとへとになっていた。いや、彼が疲労困憊だったのは森に入る前、酒樽を背負わされていた時からだが。
「だ…大丈夫ですか?」
 建一が荒い息を吐きながら皆に尋ねた。
「ありがとうございます」
「助かった」
「うん」
「大丈夫ですわ」
 口々に声が届く。
「良かった」
 建一はそのまま立っていられずに座り込んだ。
「しかし、驚いたな」
 羽月が辺りを見渡しながら呟く。
 この高さを落ちてきた事に、ではない。地割れなら壁は地面である筈だが、彼の周囲は足下も含めて石造りになっていた事に、だ。
「ここはどこだ?」
 葵も訝しげに辺りを見渡した。
「何かの遺跡のようだけど」
 ユリアが傍の壁を撫で眉根を寄せる。
「とりあえず、上に出る道がないか探そう」
 羽月が言った。
「それしかないか」
 葵も賛同する。
「なら、まずはこっちを俺が見てこよう。羽月らはここで待っていてくれ」
「大丈夫か?」
「ああ」
「なら、俺も一緒に行こう」
 オーマが手を挙げた。
「私も行くわ」
 ユリアが続く。
 葵とオーマとユリアは、一方の廊下を奥へと進んで行った。
 薄暗い廊下の先にはどうやら空間が広がっているらしい、少し明るくなっているようだった。
 そこへ一歩踏み出して、葵はそのまま固まった。
「どうした?」
 と、顔を覗かせたオーマの目が大きく見開かれる。
 それから、訝しげに覗こうとするユリアと、葵の腕を掴んでオーマはフルダッシュで来た道を戻り始めた。
「ちょっ……何!?」
 と言ったユリアに「しーっ!!」と睨みつける。
 そして、みんなが屯していた場所も突っ切って逆方向へと走り続けた。
 皆怪訝に顔を見合わせながら、3人を追いかける。
 やがて、壁や天井が崩れて行き止まりになっているところまできて、やっとオーマは足を止めた。
 それから屈んで小さく円陣を作ると声を潜めて言った。
「無理。絶対勝てない」
「何の話?」
 ユリアが全く理解出来ぬ顔でオーマを見上げた。
「あれが恐らく噂の水の毒龍……だけど、2体いた」
 葵が言った。
「何ですって?」
 ユリアは目を見開く。1体ならまだしも、2体。
「いや、1体は、うちの銀次郎さんだ」
「は?」
「あそこには、シェラもいた」
 シェラ・シュヴァルツ。オーマの妻である。
「えぇぇぇぇぇぇ、あなた結婚してたの!?」
「ユリアさん。それ突っ込むところ違うから」
 建一が冷静に指摘した。
 それからオーマに向き直る。
「でも、それなら話は早いんじゃないですか? 銀次郎さんやシェラさんに取り入って貰うというのはどうでしょう」
 オーマは嫌そうな顔を建一に向けた。彼らには話していないが、彼は今、シェラとは血みどろ夫婦愛バトル真っ只中なのである。さっきも大鍋を振り回してきたシェラに、避け損なったばかりなのだ。彼女の特製新作愛妻料理にうっかり胃腸を破裂させてしまったのである。また、いつその大鍋が飛んでくるとも限らない。しかも、問答無用で。
「ここが行き止まりという事は、あまり現実的ではないが、この絶壁を登って地上に出るか、毒龍のいるあの空間を突っ切るか、二つに一つだな」
 羽月が言うのに、ウェルゼが微笑んだ。
「あら、ラッキーじゃない」
「何が?」
 ユリアがウェルゼを振り返る。
「毒龍がいるって事は、お宝も近くにあるって事でしょ? これぞ天のお導き」
「貴女にとってはそうでしょうね」
「それに、この森を抜ける方法を毒龍は知っているのでしょう」
 という噂であった。
「確かに」
 森に入れたとはいえ現時点で、確実に森を抜けられる保障もない。
「この人数を連れて空を飛べる方法があったとしても、森を抜けるのとはまた別ですからね」
 建一も頷いた。
「毒龍に会いに行くか」
 葵が立ち上がる。
「確かに龍のナウ筋もじもじ桃色青春オーラにはビビビときてしまったし、下僕主夫親父としてはがっつり愛をキャッチしておきたいところだが、いやいやいや、待て待て待て、あそこには……」
 オーマがぶつぶつとうわ言のように呟き始めた。彼の中では行きたい気持ちと近寄りたくない気持ちが激突しているらしい。
「でも、万一を考えると反対だわ。勝てる見込みがないなら近づくべきではないと思う」
 ユリアが言った。
「見込みがない事もないよ」
 葵がその肩を叩く。
「え?」
「いざとなったらあんたらを逃がすくらいの時間は稼げるさ」
「なっ!?」
 その言葉の意味を反芻してユリアが目を丸くした。
「まぁ、それは最悪の事態を想定しての事だけど……大丈夫。でも、出来れば戦いたくないかな」
 そう言って気を遣っているのだろうわずかに柔らかな笑みを浮かべてみせた葵に、ユリアは息を吐く。
「ちゃんと話せばわかってもらえるとは思うけど」
「何言ってるのよ。毒龍倒してお宝ゲットよ!」
 皆の意見とは一人全く別方向でウェルゼが拳を握った。
「ふっふっふっ。それに私、秘密兵器持ってるのよねー」
 とても楽しそうだ。お宝を目の前にしているからか、龍とのご対面に期待しているからなのか、秘密兵器を使う事に対してか。
「秘密兵器ですかぁ?」
 シルフェが興味顔でウェルゼの顔を覗き込んだ。
 それにウェルゼは、後でね、と子供に言い聞かせるみたいに人差し指をシルフェの顔の前で軽く振って見せてから、皆を振り返った。
「だから、だーいじょーぶだってー。バシッと倒してお宝ゲットよ!」
「それは、ここの抜け方を教えて貰ってからにしてくださいね」
 建一が間髪いれずに突っ込む。
「そういえば、銀色の6枚羽の方が銀次郎だとすると、蒼い方が水の毒龍という事になるが、水竜に見えたな」
 葵が思い出しように言った。
「あぁ、それは毒龍というのが朔の言葉だからじゃないですか。朔には古来より神の眷属として存在する大蛇の化身とも呼ぶべき龍がいます。それはとても神聖なもので、その為にそれ以外の竜を毒龍と呼んで区別しているんですよ」
 桜が説明した。羽月や葵の元いた世界の言葉で言えば、東洋の龍がいわゆる龍であり、西洋ドラゴンが毒龍にあたるというわけだ。
「毒龍の毒とはポイズンの意味じゃなかったのか」
「はい」
 桜が頷いた。

 それから7人は少し休憩を取って、龍のいる空洞へと向かった。
 空洞へ入ると、そこには銀次郎の姿はなく、水の毒龍――水竜が轟然と佇んでいた。どうやら水竜は彼らの訪れに気付いていたようである。





 ■3■

『人』
 と、それは呼びかけてきた。それは、音ではない。まるで精神に直接響いてくるかのような声であった。
『どこへ行く?』
 厳かにそう告げられ、桜たちはごくりと生唾を飲み込んだ。その足が止まる。じんわり滲んだ汗が、こめかみの辺りからゆっくりと頬を伝った。それだけの威圧感があるのだ。
 勿論、全く意に介していない者もいる。
 一見動じた風もないように見えるが、実は臨界点を越えてしまっただけの者もいた。
「この森を抜けたい」
 葵が代表して言った。
 すると、アクアドラゴンは大儀そうに尻尾を横へ移して、豪快に笑った。
『わっはっはっは』
 尻尾から巻き起こる突風に、飛ばされそうになりながら皆、何とか踏み留まる。
 勿論、全く意に介していない者もいて、一緒になって高笑いをする者もいた。
「おーほっほっほっ」
『面白い事を言う』
 水竜が静かに言った。
 表情は、厳つい龍の顔に、吊り上がった、それでいてぎょろっとした大きな目を、少し細めていたので笑っているように見えた。
 それは、たぶん間違ってはいない。声もどこか楽しそうである。
『剣の守り役を務めて数百年。今日はようも人の集うものだな』
 ゆっくりとした話しぶりは、久しぶりの客人を招いているかのようでもあった。
「集う?」
 水竜の言葉に羽月が尋ねた。
『お主らで3度目じゃ』
 水竜の後ろから1度目と2度目の人物が顔を出した。
「こんなところでご対面とはいい度胸だね、オーマ」
 シェラに呼ばれて、一番後ろのシルフェのそのまた背中の影から、こっそり水竜の桃色ラブボディを垣間見ては悩殺気味だったオーマは、下僕主夫の脳内にインプリンティングされているらしい本能によって背筋をピンと伸ばした。
「いや、かぁちゃん。これも下僕主夫たるおやじ愛のたまものってやつで……」
 言い訳の言葉を捜し始めたオーマに、というよりも、2人になのだろうサモンが言った。
「いい加減にしたら」
 クールな娘である。
「やろうってんなら、あたしも相手になるよ」
 シェラが大鎌を構えた。
「僕も。水竜をいじめるなら銀次郎が相手になる」
 サモンも身構える。
「無理だ。勝ち目がない」
 オーマはそそくさと逃げの体勢だ。
「我々に戦う意志はない」
 羽月が言った。
「まさか、あんたたち龍に取り入ってお宝ゲットなんていうんじゃないだろうね」
 ウェルゼが話をややこしくする。
「違う」
 サモンが言ったが相変わらず人の話を聞かないウェルゼは、決め付ける。
「そうはさせないんだから!」
「違うと言ってる!」
 いきり立つサモンに水竜が前へ出た。
『手出しは無用だ』
「だけど……」
 サモンはそれでもウェルゼを睨みつけていたが、水竜に制され結局引き下がった。
「ふふふ。出たはね水の毒龍! あなたの為にわざわざ用意した必殺アイテム!」
 ウェルゼはどこからともなくそれを取り出して見せた。
「なんですか、それ?」
 建一が半ば呆気に取られたように尋ねる。
「ストローに見えますぅ」
 シルフェが言った。
「これは、かつて、あの、に・んージャという伝説の勇者が水の中で使ったというありがたいアイテムよ」
 ウェルゼは自慢げに言ってみせた。
「もしかして、忍者の事か?」
 羽月が気付いたように呟く。傍らにいた葵が、そういえば、と記憶の糸を辿った。
「水遁の術は攻撃系の術ではない筈だが……」
 どうする気だ、とでも問いたげに羽月がウェルゼを見ている。
「おぉ!! に・んージャか!! もしかして、それで水龍の全身を覆う水を吸うというのだな」
 ウェルゼの持っていたそれに何事か気付いたようにオーマが走り出た。
「まぁ、これの使い方を知ってるあなたは、に・んージャの末裔ね!!」
 ウェルゼはオーマにそれを手渡した。
「使い方、間違ってると思うけど」
 羽月がぼそりと呟く。しかし彼らの耳には届いていない。いや、届いていたとしても、まずウェルゼは聞かなかったことにするだろう。
「そういえば、水竜さんの体は、どこまでが純水で、どこまでが精霊の宿る水で、どこまでが本体なんでしょう?」
 シルフェが不思議そうに首を傾げた。
「さぁ?」
 それは、ユリアにも窺い知れぬことだ。
「飲んでしまったら、わかるかもしれませんわね」
 シルフェが本気とも冗談ともとれない顔でうふふと笑った。
「効くかどうかはわからないが、毒消しならある」
 葵が言う。
「え? 何、何? 俺が飲むのか!? 仕方ないなー」
 完全の煽てられてオーマは水竜に近づいた。
 尻尾のあたりにそれを突き刺す。
 だが、口をつけようとしたその直前、それを抜き取った。
「……って、飲めるかー!!」
 投げ捨てる。
「ちっ……」
 ウェルゼが舌打ちしながら指を鳴らした。
「コントは終わったかい、オーマ?」
 シェラが呆れたように尋ねる。
「あ、いや……」
 オーマは視線を移ろわせた。
「そうだ。ついさっき、料理も完成したんだ」
「へぇ〜……」
 目が泳ぐ。
「味見、してくれるかい?」
 シェラが尋ねた。
 オーマは無意識に息を呑む。
「まぁまぁ、これ、食べ物ですの?」
 いつの間に移動したのか、シルフェがシェラの大鍋を覗き込みながら尋ねた。
「なっ……なんて、怖いもの知らずなお嬢ちゃんなんだ!?」
 オーマが絶句する。
「あんたも遠慮せずにどうぞ召し上がれ」
 シェラが言うのに、シルフェは手を振った。
「遠慮しておきますぅ。だって、これ、腐ってますもの」
「なんだって!?」
 驚いたようにシェラは鍋を覗き込んだ。
「やっぱり……この森は生きる事をやめてしまった森だから……」
「どういうことだい、サモン?」
 シェラがサモンを振り返る。
「木の実は木からもいだ時点で、止まっていた分の時を急速に移ろった」
『そう。ここは惑いし陰の土地』
 水竜が頷く。
「陰?」
 その名前に最も強く反応したのは桜だった。
『陽の国にあって陰の気集まる陰なる地。故に、我がマスターはこの地を封じた』
 サモンが頷く。
「だから陽なる者達を拒んでいた。陰なる地に陰の気が満ちぬように封じて。だから陰に属する精霊も宿らない。精霊が宿らない森を生かすために時間を止めた。ここは死ぬことも出来ずに、ただゆるゆると生かされた森」
『帰るがいい。結界を越えればこの地の事は記憶に残らぬ』
「かえらずの森とは、そういう事か」
 水竜の言葉に得心が言ったように葵が呟いた。
「記憶を持ち帰れない。だから、誰もこの森の中の事を知らない」
 ユリアも、頭の中を整理していく。
「我々は、この地を渡りたい」
 羽月が水竜に向かって言った。
『なれば、我を倒してゆけ』
 水竜が答える。
「何故?」
 羽月は重ねて尋ねた。
『この先に、我守りし剣がある』
「我々は宝を欲してここにきたわけではない」
 言った羽月に、建一がぼそりと聞こえないくらいの声で付け足した。
「一部を除いて」
『はっはっはっ。知らぬで入ったか。剣なくしてこの森を渡る事あたわず』
「えぇ!?」
 水竜の言葉に誰もが目を見開いた。それは、羽月たちだけではない。シェラやサモンもであったろうか。
『剣は陰を示し陰に至りし道を開く、陽の剣』
「何ですって?」
 水竜の言葉に桜が身を乗り出した。
『陰の気を払えねば、この森は渡れぬ。森を抜ける事、すなわち剣を得ること』
「剣を……剣を得たら、陰に辿り着けるのですか!?」
 桜の問いに水竜は頷いた。
『うむ。陰を欲するか?』
 桜はそれに無言を返し、ただ何かを堪えるように唇を噛む。
『なれば我にその力を示せ。陰に至れる力を持つ事を』
「…………」
 俯いてしまった桜の代わりにユリアが口を開いた。
「それは、つまり、あなたを倒さなくてもいいって事かしら?」
『今更、何を問う?』
 水竜が愚問よと笑った。
 だが、ユリアは真顔だ。
「あれですよね? 力を示せばいいって事は、あなたに「まいった」を言わせればいいわけですよね」
 建一がユリアの思惑を代弁する。
『出来るか?』
 水竜が尋ねた。
「やらいでか!!」
 ウェルゼが両翼の剣を抜き放った。
 地獄の業火を背に纏い、炎の剣を構える。
 再び突風が吹いた。水竜が尻尾を動かしたからだ。それは恫喝にも似た威圧感を伴って彼らを圧倒した。何も言わないのが、返って迫力を増している。尻尾の風圧だけで飛ばされそうになって葵は咄嗟に傍にいたユリアと桜庇い、羽月は剣の柄を握りながら龍を睨み据え、建一はもんどり打ち、ウェルゼは轟然と佇んでいた。
「剣がなくてはこの森を出られないというなら仕方ない、葵さん」
 羽月が葵を見やる。
「あぁ」
 風が止むのと同時に2人は駆け出した。
 少し離れた場所で、シルフェがシェラやサモンと一緒にその様子を見守っている。
「不殺主義としては、その方が助かるけど」
 オーマが肩を竦めてみせた。
「オーマも参戦するのかい?」
 シェラが尋ねる。
「いやいや俺は……」
 そうしてサモンの方を見やった。
 オーマの思惑を察して先にサモンが答える。
「大丈夫。龍の意志に背いてまでこの戦いに水を差したりなどしない」
「そうだよな」
 どこか嬉しそうにオーマは笑った。
 一方、水竜と対峙する者たち。
 羽月が刀を抜くのと同時に葵も走りだした。
 先に銃の引鉄を引いていたユリアを見やりながら葵は舌打ちしたい衝動にかられる。銃でダメージを与えられているようには見えなかったからだ。どころか、小煩いハエ程度にも意識していないように見えた。水の鱗は柔軟にして強固。
 再び、水の水竜が尻尾を振るった。
 身構えたウェルゼは軽くそれをいなして飛翔すると、更に間合いを詰める。
「ダメだ!」
 羽月の制止の声がウェルゼの背を叩いたが、彼女は止まらない。
『我に炎は通用せぬ』
「でも、水の部分が蒸発してしまえば、本体が出てくるかもしれませんね」
 シェラ達の傍で戦闘を見ていたシルフェがのんびりと言った。
 ウェルゼの特攻に、水竜が口を大きく開く。そこから吐き出される大量の水に押されてウェルゼが失速した。
 地獄の業火である炎がそれでかき消えるようなことはなかったが、やはり水を前にしては不利と感じたか。正面からを諦めて、ウェルゼは両翼を振るうと横に飛んで呼吸を整える為に降り立った。
「……やるじゃない……」
 口の端を吊り上げて嗤う。
「お宝〜!!」
 再びウェルゼは掛け声をつけて斬りかかろうと炎の剣を構えた。だが、その背後から建一の声が飛ぶ。
「ウェルゼさん、どいてください!」
 彼が放ったのは風と月の属性の複合魔法。
 そのエネルギーの波が光の奔流となって水竜に襲い掛かる。
 しかし――。
『精霊宿らぬこの地で精霊魔法にどれほどの力があろう』
 水竜は羽を羽ばたかせて建一の魔法攻撃を一蹴してのけた。
「くっ……」
 建一の体が傾ぐ。ここまでも、いくつも魔法を使ってきた彼なのだ。
「大丈夫!?」
 桜が駆け寄った。
「押されてるねぇ」
 シェラが戦闘を見やりながら溜息を吐いた。
「あぁ、彼らが使っているのは精霊魔法だからな。あいつの杖にエレメンタルの力が封じられているから多少の魔法は使えるが、精霊の加護の殆ど届かぬここでは大きな攻撃魔法を続けてうつにも限界があるだろ。しかも物理攻撃も効いてるようには見えないしな」
 オーマが的確に状況を指摘する。
「彼らが負けたら、お宝を得られず、ここでの事は忘れてしまうのかねぇ」
「あ……」
 シェラの言葉にサモンがハッと顔をあげた。
「サモン?」
「銀次郎の友達。戦いたくない」
 サモンが呟く。
「ああ」
 シェラが頷いた。
「でも、友達の事忘れるのはもっと嫌!!」
 そう言ってサモンが飛び出した。戦いたくないけど「まいった」を言わせなきゃ。
 そんなサモンをオーマが手で制する。
「この俺が、忘れさせたりなんかしないよ」
 そう言って、オーマはサモンの頭を撫でた。
「オーマ……」
「じゃぁ、あたしたちはここであんたの働きぶりをたっぷり見物させてもらおうかね、オーマ」
 シェラが笑った。
「あいよ」
 オーマが請け負って走りだす。
 いつの間に具現化したのか、大剣を2本、手に持って。
 とはいえ、オーマの参戦で事態は好転したか、といえば、実はマシになった程度でしかなった。
 それは水竜の圧倒的な力というよりも、『手加減』にあったのではなかろうか。
 「まいった」と言わせるだけでよくて、殺してしまうほどの攻撃は必要ない。だが、その匙加減が、ウェルゼにもオーマにもうまく出来なかったようである。
 葵は水竜から間合いを開けると、どこか諦めたような溜息を吐いた。
 奥の手を使う時がきたか。
「羽月! 一瞬でいい。奴の動きを止められるか?」
「葵さんは?」
「まぁ、試してみる価値はあるだろ」
「何を?」
 しかし、葵はそれには答えずオーマを振り返った。
「俺をあそこまで連れてってくれ」
 葵が指差す方を見てオーマが驚いたように葵を見返す。
「何をする気だ?」
「…………」
 葵はとぼけたように首を傾げてみせた。
 やれやれとオーマは肩を竦めて、それでも頷いてみせた。
「わかった」
 そんな2人にか、或いは葵に対してだったのか、ウェルゼが舌打ちした。
「ちっ…、しょうがないわねぇ」
 そう言って炎の剣を構える。自らの役どころをどうやら察知したらしい。普段は他人の言う事など99%くらい耳を傾けることのない彼女が、他人に協力しようというのだ。これだけで、天変地異が起こりかねない事だったが。この戦闘に飽きてきていたのだろう、そろそろ終わりにしたいという思いが手伝ったのかもしれない。
 建一がそんなウェルゼに首をすくめながら、羽月の隣に並んだ。
「倉梯さん?」
 心配げにユリアが声をかける。
「援護を頼む」
 そう言って葵は笑みを返した。
「一か八かだけど、死なないでくれよ」
 葵が走りだす。
 同時にオーマも走りだした。
 ウェルゼが飛ぶ。
「援護を!」
 羽月の声に建一が杖を振るった。
 魔法の詠唱。
 ウェルゼが水竜の正面に斬りつけた。それをブレスで応戦する。それは勿論計算ずくで、刹那ウェルゼはぎりぎりで横に躱。
 ブレスは空しく誰もいない空間に衝撃を与えた。
 オーマが葵を連れて飛ぶ。
 水竜が、全ての息を吐き出した時。
 羽月の魔法の詠唱が終わった。
「一瞬でいい。固まってくれ!!」
 ――フリーズ!
 大口を開けて固まっている水竜の顔まで飛んで、葵はそれをその口の中へ放り込んだ。
 そして水竜から一気に退く。
 刹那、水竜の絶叫にも似た咆哮が辺りを覆い尽くした。苦しそうな呻きと憤激による怒号。
 その雄叫びによる空気振動に地面に転がりながらも咄嗟に葵たちは耳を押さえた。
「何て絶叫だ……」
 と、呟くそれさえも、自分の耳にすら届かない。それほどのすさまじい大音響に、誰もが耳を押さえながら地面に座り込んだ。
 そうして、どのくらいそれが続いたであろうか、やっと水竜が静かになった。
 ぐったりと横たわっている水竜に葵たちがほっとして、立ち上がる。
 ほぼ同時に、水竜も立ち上がった。
「良かった。生きててくれて」
『何をした?』
 水竜が尋ねた。
 それは、他の者達も同様に感じた疑問だったろう。
「……」
 葵が困ったように首を傾げてみせる。
 それで水竜は尻尾を振り、その場を仕切り直しでもするかのように地面に叩き落とした。
 突風が舞う。それでも先ほどより明らかに威力は減少しているであろう。葵の髪を揺らす程度だ。
『何をした?』
 再び聞いた水竜に葵は観念したように答えた。
「お手製のスタンガンってやつだ。外からだとその分厚い水の鱗でダメージ与えられそうになかったから、体の中から」
 例えば、人は0.1mAもあれば感電死させることが出来る。勿論、心臓に流れる電流が、という条件は付くが。実際に高電圧は必要としない。オームの法則で言えば抵抗が少なければ低い電圧でも十分という事になる。そして並列に抵抗を繋ぐ事で、片側の抵抗に高電流を生じさせる事も可能だった。これを逆に利用したのが家電製品に於けるアース線の仕組みだが。この聖獣界でスタンガンなんてものを可能にしてみせたのは、葵のもつかつての記憶と知識のなせるわざだろう。ここで得られる材料を考えればそう何度も使える芸当ではないが。
『やってくれるわ!』
 水竜はそう一喝して、その殺意だけでも人を殺せそうな目で葵たちを睨み付けた。
 だが葵も、オーマも、羽月も、ウェルゼも、建一も、そしてユリアやシルフェや桜、シェラにサモンも一歩も退かずに水竜を見返していた。
『好きにするがいい』
 まるで根負けでもしたかのように水竜が吐き出した。その言葉に、誰もがホッと胸を撫で下ろす。
『この先に、剣がある。持って行け』
 水竜の言葉に一同が顔を見合わせた。
 一番先に駆け出したのはウェルゼである。
「おっ宝〜!!」
 と浮かれたように奥の部屋へ向かう彼女を建一が慌てて追いかけた。
「何言ってるんですか、あなただけの物じゃないですよ」
 別に、宝自体に興味があるわけでもなかったが。
 ユリアが呆れたように肩を竦めた先で、葵と羽月もやれやれと苦笑を滲ませている。そうして3人は彼らに続いた。
「お宝ってどんなでしょうね?」
 シルフェが桜と共にその後ろからのんびりと着いて行く。
 後には、サモンとシェラとオーマと水竜だけが残された。
 サモンが水竜の傍に寄る。
「おまえのマスターはもういない。我々が剣を持っていったら、おまえはここにいる理由が無くなる」
『それがどうかしたか?』
「なら、一緒に行こう」
 サモンが言った。
『何?』
 水竜が驚いたようにサモンを見返す。
「普通に森を出れば記憶をなくしてしまう。けれどあの剣があれば忘れずに済むのだろう?」
『ここは陽の国にありて惑いし陰の地。また迷い込む者もあろう。我はその標たらん』
 その言葉に、サモンは残念そうに息を吐いた。
「……なら、また遊びにきてもいい?」
『ここでの記憶は残らぬぞ』
「構わない。少なくとも、一人ぼっちのおまえの気が紛れる」
『…………』
「僕がここにいる間の記憶をなくしても、おまえが覚えていてくれればいい。今のこの記憶があればここに来た事だけは覚えていられる。森に入る前に、入ると思った記憶だけが残っていれば」
 そう語るサモンに水竜は諦めたような、それでいてどこか嬉しそうな声で答えた。
『そうか』
「だから、今の記憶だけはちゃんと持って帰らないといけない」
『うむ』
「また、来る」
『では、サモンの為に道を開いておこう。ここへまっすぐ来られるように』
「うん」
 水竜に満面の笑みを向けるサモンに、シェラはオーマを振り返った。オーマは手にしていた聖筋界あいどるんるんマニア2006見合い本をそっと背中に隠す。
 そしてシェラと顔を見合わせると、困惑げに肩を竦めながらも微笑ましげにサモンと水竜を見守るのだった。


 ◆◆◆


 一方、宝の仕舞われているその部屋にやってきた一行。
「これが、宝?」
 ウェルゼは呆気にとられたように、それを見下ろした。
「たぶん」
 遠慮がちに建一が言う。
「このオンボロの剣が?」
 ウェルゼは念を押すように問いかけると、意を決したように剣に手を伸ばした。
「手に取ったらこう、ぱーっと光りだして綺麗な剣に……」
 取り上げて頭上に翳してみる。
「変わったりはしないのね……」
 がっくりうな垂れた。
 錆びてボロボロの剣のままである。
 今にもポッキリ折れそうな剣であった。
「この剣が陰を示すの?」
 桜が誰ともなしに尋ねた。
「どうやって?」
「さぁ?」
 ユリアが首を傾げる。
 ウェルゼは剣を手にその部屋を走り出た。
「ちょっと、ドラちゃん!」
『ドラちゃん?』
 水竜が顔をあげて、声の方を振り返る。
「ドラゴンのドラちゃんよ」
 ウェルゼが言った。
『…………』
「これ、どうやって使うのさ」
 ボロボロの剣を水竜につきつける。
『剣の柄を持って地に付き立てよ』
 水竜が言った。
 その通りにウェルゼは剣を地につきたてる。
『後は手を離せばいい』
 水竜が言った。
「は?」
 ウェルゼは言われた通りに手を離しながら、その状況に唖然とした。
 剣が支えを失って倒れている。
「本当にこれで陰なる方を指してるんですか?」
 建一がやっぱり遠慮がちに尋ねた。
「あまり信用できないけど……」
 ユリアが隣にいた葵を見やる。
「信じるしかないのかな」
 葵は隣にいた羽月を見た。
 羽月は曖昧な視線を隣にいたシルフェに向ける。
「まぁまぁ、最初から棒倒しをしていれば良かったんですのね」
 シルフェが笑みを零した。
「棒倒し……」
 シルフェの隣で桜は視線を移ろわせながら、やっぱり隣のウェルゼを見た。
「まぁ、あながちはずれてはいないけど」
 ウェルゼは再び脱力している。
「この場合、剣倒し、ですかね」
 ウェルゼの隣で建一がどうでもいいような事を言った。
「でも、この剣じゃないと意味がないのでしょ」
 建一の隣のユリアが指摘する。
「まぁ、剣倒しに使うだけなら、ボロくても」
 葵は視線を泳がせた。
「不安ではあるが」
 羽月が息を吐く。
「まだ、貴女の持っている方位磁石の方が信じられますね」
 葵がユリアを振り返った。
「とりあえず、剣の指す先に向かって歩いてみますか」
 ユリアが提案する。
 こうして倒れた剣を見つめていても何も進展しないのだ。
「そうですね」
 建一が頷いた。
「抜けられなかったら、もう1回ドラちゃんを締め上げればいいし」
 ウェルゼが笑う。
「出たら忘れてるかもしれませんがぁ」
 シルフェが言った。
「行きますか」
「そうね」





 ■4■

「抜けた……みたいですね」
 今まで割りと遠慮がちになる事が多かった建一が、今回ばかりはホッとしたような笑顔で言った。
 都合20回も剣倒しを繰り返したのは、それだけ剣に信用がなかっただけであるが、その分、無事森の結界を抜けた時には、感動もひとしおであった。
 鬱蒼とした薄暗い森を抜けるとそこには、太陽ってこんなに明るかったのかと思えるほどの眩しい日差しが降り注いでいる。
 ある者は目を細め、ある者は手を額に翳して影をつくりながら、眩しそうにそこに広がる景色を見下ろした。
 その先では極彩色の花々に彩られた大地を優しく風が撫でていた。
「綺麗な場所……」
 桜が呟いた。
「この丘の下が、どうやら皖の村のようです」
 建一は言って、それから桜を振り返ると、持っていたボロボロの剣――陽剣を差し出した。
「はい。桜さん」
「え?」
 驚いたように桜が建一を見返す。
「この剣がいるのではないですか?」
「…………」
「陰に向かっているのだろ?」
 羽月の言葉に桜が目を見開く。
「どうして……」
「水竜が陰に至ると言った時のあなたの反応を見ていればわかる」
「…………」
「陰に至るためのアイテムはこれだけではないだろうし、俺たちは他を探す。これは、あんたが持っていくといい……よな?」
 葵が他の者達に同意を求めるように視線を移ろわせた。
「そんなオンボロ剣。しかも、使い方からしてあれじゃぁ高値がつくとも思えないわ」
 ウェルゼが大仰に肩を竦めて言う。
「…………」
「別に宝が欲しかったわけではないもの」
 ユリアが言った。
「楽しかったですわ」
 シルフェが笑う。
「必要とする者が持てばいい」
 オーマが言った。
「そうね」
 シェラが頷く。
「陰を目指す?」
 サモンが尋ねた。
「はい」
 桜が迷いのない答えを返すと、サモンは「うん」と頷いた。
「どうぞ」
 建一が桜に手渡す。
「ありがとう」
 桜はそれを受け取って大事そうに胸に抱いた。
「さて、村に下りますか。そういえば、食事の最中だったんですよね。お腹がすきました」
 建一が言ったのに、皆空腹を思い出したのか鳴り出す腹の虫の合唱に笑いがこぼれた。
「あら、あたしが作ってやるよ、今度こそ」
 挙手したシェラに、慌ててオーマが進み出る。
「いや、下僕主夫たる自分が作りましょう」
「ここでバーベキューもいいですね」
 シルフェが笑顔で言った。
 そんな話で盛り上がる一向に羽月と葵がすっと距離を開けてから桜の肩を叩いた。
「我々は先に別れて少しこの辺りを散策してからに降りようと思う」
「え?」
「お兄さ……いや、お嬢さん。ここから先、いろいろありそうだが気をつけてな」
「……はい。ありがとうございました」





 ■大団円■



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┃登┃場┃人┃物┃紹┃介┃
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【 整理番号 / PC名 / 性別 / (外見)年齢 / 種族 / 職業 】

【0509/ウェルゼ・ビュート/女/24/魔利人(まりと)/門番】
【1953/オーマ・シュヴァルツ/男/39/詳細不明(腹黒イロモノ内蔵中)/医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り】
【2080/シェラ・シュヴァルツ/女/29/ヴォルグ/特務捜査官&地獄の番犬(オーマ談)】
【2079/サモン・シュヴァルツ/女/13/或る種族と人間の混血/ヴァンサーソサエティ所属ヴァンサー】
【3188/ユリアーノ・ミルベーヌ/女/18/人間/賞金稼ぎ】
【2994/シルフェ/女/17/エレメンタリス/水操師】
【0929/山本建一/男/19/人間/アトランティス帰り(天界、芸能)】
【1882/倉梯・葵/男/22/人間/元・軍人/化学者】
【1989/藤野 羽月/男/17/人間/傀儡師】

【NPC0046/シオウ<桜>ファーラング/男/16歳/ハーフエルフ/シーフ】

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┃ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 ありがとうございました、斎藤晃です。
 楽しんでいただけていれば幸いです。
 ご意見、ご感想などあればお聞かせ下さい。