<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


■真白の書■



 硝子森にもそろそろ小さな彩が風に乗って訪れる頃になりました。
 じきに春の嵐が花を降らせもするでしょう。

 その先触れのような女性が本日は書を開かれています。
 人の枠を超えた美しさ、というのでしょうか。面差し、声音、瞳の運び、指の流れ、お客様を形作るものは不思議な程に質が良い様子。その姿を包むの花色は、そう、桜。流れ落ちる髪色がまさに花そのもの。
 けれどどことなく高飛車、というのですか。可愛らしい高慢さをお見せになるこの方――ユンナ様ならば「花が私の色に倣っているのね」と微笑まれても似合いそうな、というか仰りそうな。
 私が考える間にも、マスタの眺める前でユンナ様がペンを走らせておしまいになりました。


 ――ああ、空にまで及びそうな花色の、気配が滲んでいます。
 幾つかの言葉の中でも特に、印象深く広がる文字。
 それは、どれだけユンナ様の胸の裡に溢れる想いなのでしょう。
 綴られた頁に満ちて、他の言葉を包むように染み渡りその言葉、それが示すものは。

 溢れる花色の中でさあ、その言葉に導かれて綴られた文字が物語を紡ぎます――


** *** *


 桜染めだとユンナの目を引いた織布を広げて、露店のまだ若い商人が言った。
 前日とは対照的な晴天は、真夏程の鮮やかな青ではなく淡く白い、どこかしら柔らかな季節そのものの色合いを頭上に広げている。風も殆どなく、思い出したように通り抜ける程度とあって広場には様々な行商の品。
「こんなに鮮やかな色は初めて見るわ」
「染媒なんかで変わるんだ。これはお姉サンの髪みたいだな」
 商人の言葉に頷きながら手に取ったそれを掲げてみると確かに自分の髪色とひどく似通っていた。
 ひらひらとはためかせる布地は薄紅の色。名前の通り、桜色をしたそれをしばらく撫でてみる。

 桜。さくら。白に近い紅から重ねて濃く咲く花弁まで。
 遠い過去に見上げた色は限られていたけれど、それだけではない花色の数を知ったのはいつだっただろう。

「これが花からの染めじゃないなんて、不思議よね」
 それにもっと大人しい色だと思っていたのに。
 桜の樹皮を使うから桜染め。花弁は使わず色は鮮やかな花色ではなく……そんな風に耳にした覚えのある染物と目の前の鮮やかな花の布とは明らかに繋がらない。けれどこれも桜染めだという。
「咲く直前の頃のを使うと特にそうなるとか知り合いは言うね。ま、なんにしてもきれいだろ」
「ええ。誉めてあげてもいいくらい」
 そりゃどうも、愛想良く笑う相手が窺うようにしているのを察してユンナは布を手早くたたむ。
 元の位置に置けば残念とばかりに商人は眉をひょいと動かしてみせた。
「また今度ね」
「期待してるよ」
 ひらりと手を振って去る優雅な曲線を描く背に商人の声がかけられる。
 聞きながら、眺めていたばかりの少女を思わせる曖昧な赤を思い出しながら広場を出ればそこで吹く風。
 さそわれて視線を動かせば目に入ったのは。

 水面の、風に波立ち揺れるその上の薄紅。

 映り揺れる水底を覗くかの如くに広がる花色、枝先を落として浸す程に広がる花色、それから。
 およそ届かぬ水場の半ばを横切るのは風雨に攫われ詰まれた花色。

「――」
 ふいと言葉にもならぬ音を僅かに尖らせた唇から洩らし、しばしそれを眺め遣る。
 なにがというわけでもなく、ただ安らがせる何かにユンナは慈しむ眼差しを注ぎながら優雅な足運びで水辺に歩み寄った。正面よりずれた位置の岸に水底からの花の如き色。
 ここ数日の微妙なささくれを抱いた気持ちがその色に洗い流されるようだと、それはあるいは叙情的に過ぎるだろうか。


* * *


 何日か前に店の前に茶席を用意して呼び込んでいたあの店はなんだったかしら。
 果実酒を染み込ませたスポンジに甘さを抑えたチョコレート。茶葉の香りを引き立たせながらクセの強さを抜いたシフォンケーキ。そうだパイもあったわあれは見るだけでも歯触りが想像できてしかもカスタードがたっぷり挟み込まれていて苺だってころころとあって。スフレプディングタルトにフロマージュそれからゼリー。クリームをたっぷり乗せて底にはカラメル。春の爪先が覗くか覗かないかの頃のあの何処かから広まった行事が先触れみたいになってチョコレートから季節の果物旬の果物オーソドックスな物にも春めいた色を添えて装いも新たに愛らしく。
 そういえば先日の宴席は豪勢な花見ながらごちゃごちゃ派手なばかりで洗練されていなかったけれどでも歌を披露した後の食事は美味しかった。ああ、あのときにみた蕾の入ったお酒の銘柄を書かせてやったカードは何処にしまったかしら。咽喉の奥から鼻に香る独特のアルコール。胸の内を滑り落ちて胃の腑に満ちる芳しいあの。

 誘惑の多い周囲にきゅっと眉を寄せてもユンナは確かに美しい。
 無論本人もそれは承知しているが、そこにどれだけの節制が必要とされるものなのか。

 歌姫なんぞしていると、宴席に華として招かれることも多い。
 が、この季節は口実が街中に溢れかえっているものだからその頻度たるや。
「お花見の食事を頼んだらね――」
「――の、デザートが本当に美味しくて」
 そんな、擦れ違った二人連れの会話に触発されて思い返すのは美食の数々。
 別にユンナは極めつけの甘党だとかではないけれど、春にちなんでの酒だとかに心惹かれるけれど、ああそんな誘われる美味しそうなお菓子類。花見の弁当だってあちこちの店が工夫して、料理上手な主婦や主夫が腕を奮って多種多様な味香り。それがまた酒に合いそうな味付けだったりした日にはもうふらふらと勝手に腕が伸びかねない。
 思い出すのは長い付き合いな某主夫の満面の笑みと共に差し出された変わった形の(形状はあえて語るまい)重箱の中身。
 己の体重からスリーサイズから、美を維持する為の規定ラインが気になるばかりの時期にまったく癇に障るとぷりぷり怒りたくなる所業であった。無論仕置きはしておいたけれどこっちの苦労を解っているのか。
「この私にまったく良い度胸じゃないの」
 思い出してぽろりと零れる迫力のある独り言。
 自分の耳にも当然届いたそれに、いけないと気を取り直す。
 今が盛りと咲き誇る花の屋根を眺めて歩いていた筈が意識は気付けばお酒や食事、お菓子、と食べ物に移っているではないか。周囲の花見客がこれまたいけない。楽しそうに笑いさざめきながらあちらこちらから美味しそうな匂いもさせて。
「……散歩にもならないわ」
 正確には、散歩なりして多少の消費を図ろうにも誘惑が多すぎて辛い、ということなのだけれどもユンナはそんな意志薄弱(というほど大層な話でもないが)な自分ではないと思いたいのだ。だから賑やかで桜を眺めて楽しむどころではないじゃないの、という感覚を持つことにした。
 これもある意味では彼女の感想なので間違いでもない。

 ああ、それにしてもなんて誘惑の多いことか!

 奥歯を微妙に強く噛み合わせながらユンナは歩を進める。
 商店街だとか花見客の多い広場だとか、せめてその一帯からは立ち去ろう。
 誘惑に抗い抜くのはどこか誇らしく、そして微妙に悔しいものだから――そう、延々と巡る話ではあるがつまり麗しき歌姫は、つまりだ。つまり。


 ダイエット開始寸前なのである。


「呼ばれた宴が多過ぎたわ」
 あれもこれもそれも、と指折り数えてまだ足りない。
 このままでは間もなくダイエットコース突入だ。
 そんなことになれば、そんなことになれば……!

『女王様ダイエット丸秘計画最高機密事項カルテを用意したぜぇ!』

 だとかなんとか気付かれたが最後、見知った(どころではない)輩がテンション高くカルテをはためかせる様が思い浮かぶ。ああそれはもう瞼の裏にくっきりと。
「冗談じゃないわ!」
 傍の店から水を撒いていた店員がぎょっとして直立する。
 丸く開いた目に慌てて微笑みかけて誤魔化せば、相手はほんのり頬を染めてもごもごと呟きながら仕事を再開した。うっかり足にかけたりしているけれど。
 誤魔化せばユンナにはそれで関係なし。
 ばっちり脳内に刻み込まれている数多の美容情報を検索しながら先程よりも速度をあげて道を行く。


 それは、まあ実のところ。
「この体質が」
 せめてもう少し、と巷の食べても太らないとのたまう方々を考えつつ嘆息する。
 そんなユンナの半ば恒例と化しているイベントなのだ。

 当人にはけして嬉しくない、美味しい料理とお酒の誘惑が強い季節の恒例行事。


* * *


「一面の桜、ね」
 そっと唇に乗せる花の名前。
 かつての世界では『さくら』という音ではなかった花。
 泳ぎに関して非常に不本意な適性である為にユンナは水から多少の距離を取っていたが、逆に全体をある程度視界に納められてよかったかもしれない。ほろりと綻ぶ気持ちに目を細める。

 ダイエットに追い込まれるか追い込まれないか。
 そんなギリギリのラインを過ごす時期は美味しいものを食べては後で焦り、美味しいものを飲みかけ堪えてはじわじわと心が荒み、なんとも微妙なストレスがかかるものである。
 この日は強い風雨の翌日だった為に土も濡れ、花見客というよりも通りがかりに眺める人々ばかり。
 途中で見かけた行商の集まりに立ち寄って、結果的に進行方向を変えることになって幸いだった。
 眺める桜の空間は、記憶と相俟って節制にささくれ立ち気味な気分を宥めてくれる。

「……ふふ」


 桜、さくら、桜、さくら。

『ユンナ』

 触れていただけの幹。押し当てた額。
 感じた命達。重ねた鼓動。触れたく思うようになった気持ち。
 ある意味での始まりだったあの空間。

 あの頃はダイエットなんて言葉、知りもしなかった。
 懐かしく切なく甦る当時を思う。
 今みたいにカリカリすることもなくただただ穏やかで。
 自分よりも大きな手、低い声、違うぬくもり。

 胸元に揺れるそれに触れる。
 無意識にその輝石を求め、今は水面にさえ溢れる花色を幾らか受けるその偏光色。
 何も持たずただ在っただけのユンナに色々なものをくれた人。
 自分の髪と同じ色の花に驚いていた人。
「――」
 呼ぶ声はきっと優しくて、その人にも届いている。


「特製よ」
「クリームたくさんついてる」
「限定の果実酒ね」
 きゃあきゃあと若い声が通り抜けざまに届く。
 けれどカロリーが節制が運動がサイズがとちらちら過ぎって精神を逆撫ですることもなく、静かにユンナはその一団を見送った。自分にはなかっただろう年頃の姿を見るその眼差しはあたたかく。
 感傷の種類を見定めるつもりもないまま小さくなる背中をただ見詰めて視線を戻す。

『歌を』

『この詩で歌を』

 歌も、そうだあの瞬間に紡いだ音があって。

 探り当てるまでもなくこだまする記憶の底の声。
 促されて、あの日のようにユンナはただ音を紡ぎ織る。
 詩はないけれど、咲いた花に歓喜したあのときの音とも違うけれど。

(どこかで聞いてるでしょう?)

 花で撓む枝はその先が水面に触れ潜り、映る花色が水底から育つように見せ、波に揺れる花弁の道が伸びてそれとも橋なのか。落ちる花がひらりひらりとその道に混ざっていく。
 のびやかなその橋は広がって、梳る自らの髪に似ている。
 この風景を見て、そして音を聞いて、あの瞬間を思い出しているのはきっと自分だけじゃないはずだ。
 それは確信で、張り上げるでもなく滔々と溢れる歌姫の音に通り行く人々が足を止める。美しい肢体の向こうに見える桜の空間と溶け込む花色の髪の女性とにいっとき心を留めてはまた歩き出す。
 ユンナ自身はただ記憶と映る桜の色に心を響かせて。


 花弁がひとつ、ふたつ、と。
 緩やかに風に乗り歌姫の傍を滑り抜けた。
 追うように瞳を巡らせ顔を動かし身体を捻る、その行方。

 美味しそうな弁当を広げる行商人は先程の人物で、大事そうに覆われた品々の傍へ花弁はするりと潜り込む。売り手は気付かず満足そうに口を動かしている。

「あっちにも桜はあったわね」

 もうダイエットだ節制だなんて気にもならず、艶やかな唇を綻ばせてユンナは笑んだ。



 とはいえ帰路を行く間にまた頭の中は美の維持にきりきりと埋まっていくのだけれど。





** *** *


 それは、真白の書が映した物語。
 望むものか、望まぬものか。
 有り得るものか、有り得たものか、あるいはけして有り得ぬものか。

 ――小さな世界が書の中にひとつ。






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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【2083/ユンナ/女性/18歳(実年齢999歳)/ヴァンサーソサエティマスター兼歌姫】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、ダイエットという言葉に自らも反応するライター珠洲です。
 ヒネリのない流れと相成りましたが御参加ありがとうございました。
 描写では曖昧なままですが湖というか泉周りが桜で溢れている風景というのはなにやらじわりときますよね。思い返される過去の、咲いた花はどんな色合いだったんでしょう。濃淡や光の透過を想像するのが楽しいです。