<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


■真白の書■



 静かな、とてもとても透明な眼差しのお客様がいらっしゃっいました。
 新緑だとマスタが仰るその色の眸に映されるのは未だ何も記されぬ真白の書。その一頁。
 感情豊かな声音のお客様のお名前は、リージェ・リージェウラン様。
 滑らかな身ごなし。その佇まい。風が吹き込んで結われた髪を揺らします。

 これで、と小さな呟きはけれど心地良く広がりました。
 たった今その白い頁に走った言葉とお名前が染み渡るように。
 傍らに置かれていた美しい竪琴を、慈しむ手付きで取られて腕の中に収められるその仕草。何気ない動作であるのにそれだけでリージェ様がいかにそれを愛されているかが解るというもの。
 そしてその間にも言葉は最後に記されたお名前を呑んで言葉を広げて。


 綴られる物語は、リージェ様の胸の中に灯るその光でしょうか。
 瞬くものは何れであるのか、いっときの世界が書の中に示されます。

 ――さあどうぞ、書の織る一節をご覧下さいな。


** *** *





 夜の波はひどくおとなしく、幻のような音を響かせるものだ。
 少なくとも、その夜の波はそういった声で人々に子守歌を聞かせていた。

 ――軋みとも気付かない、それ程の小さな軋み。
 ひとり夜の甲板から海を眺めていたリージェはその音よりも先に気配で察していたけれど、振り返らずそのまま暗い海面を船縁からただ眺める。
「あなたは寝ないの?」
「綺麗な海だ。少しくらい時間を潰してもいいと思ってな」
 幼い頃からの習い性というべきか、リージェの眠りは浅い。どれだけ潜っても眠りの表層には感覚の糸を残している。
 薄暗い世界で生きるというのは、そういうことだ。血と汚泥の裏路地から立ち去ってもけして完全には落ちないものを身体中に染み込ませるということ。
「……波も見えないのに」
 返事はしても顔を向けない相手に焦れたのか、ぱたぱたともはや遠慮なく足音を立てて隣に立った人物は、きっとそういった世界とは無縁だろう。小柄なリージェと似た丈の、多少年は下だと思われる少女は深淵の海を覗き込んで不思議そうに呟いた。
 幼い空気は親の庇護下にまだあるからなのか。
 リージェが年齢よりも大人びた、世慣れた空気を纏うのとは対照的な幼い娘。
 そばかすの浮いた横顔をそこで一瞬眺めてそれから緑の瞳は海から動かない。

「いや、とても――美しいさ」

 沈黙をひと混ぜしてからリージェは、ただそう言った。


 * * *


 少女がこうしてリージェに親しげに声をかけるのには無論のこと理由がある。
 この旅程で同じ船に乗るまでは見知らぬ他人であったのだから、そうでなければリージェの方が相手の裏を探るくらいにはなっただろう。
「お昼はありがとう。死んじゃうかと思った」
「気にしないでいい。たいした事じゃない」
 ざわざわと風が波をくすぐれば音は揺れて不思議な反響を船体に叩きつける。
 リージェの耳は少女の声を聞きながら、その波の声を聴いていた。


 ――海賊と称されるものは現れなかったのだ。
 けれど厄介事というものは陸も海も変わりなくあって、魔獣の類が進行方向に出て来ることだって場所を選ばない。つまり、船は正面にぎらぎらと醜く光を弾く牙を剥いた怪物の登場を許してしまったわけで。

「いくらなんでも、目の前で腰を抜かしてたら腕を引っ張りもする」
「海を越える前にエサになって終わるかと思ったのよ!」

 眼前に迫った死を思ったのか怯え竦んだ娘を助けたのがリージェだった。
 純粋に護衛として雇われた者達がなんとか魔獣を海底へと追い遣って一息つく間に、少女は自分を救ったのが同じ年頃の相手であることに気付いて親近感を覚えたのだろう。そして、培った経験、育った環境が互いの雰囲気をまるで異なるものにしていることはリージェだけが理解していた。

「おじさんは船酔いで助かって私だけ化け物の餌なんて嫌じゃない」
「そのおじさんは、今は?」
「散々うなって休んでるわよ」
「ともかく無事で良かったじゃないか。それを喜ぶといい」

 海を越えた先の目的を知るつもりはない。
 愛されて育ったのだろう輝かしいばかりの眼差しに、人買いの類の悲劇が映らないかとはふと気にかかり連れを窺いもしたけれど――どうしたって、裏側から出て来た身としては闇から伸びる腕に捕まるものは少なくあって欲しい。そんな些細な感情だ――おじさん、と呼ばれる男には過去に散々感じた気配はなかった。だからきっと意図された不幸はないはずだ。
 リージェの目的はといえば、ちょっとした品を届けるという、放浪の中でよく請ける類の仕事が追加されただけの旅程の一部。

「ね、その竪琴素敵ね」
 夜の海を眺めるのに飽きた少女が視線を再びリージェに向ける。
 人並み外れて夜目の効くリージェは遠く暗い海面を見ながら波の歌を聞いていたけれど、ついと日の下で見るよりも深い緑の眸を動かした。
 手に抱え込むのは竪琴ひとつ。その弦はユニコーンの鬣。
 呼ばれたかと思う程に引き寄せられたあの瞬間を蘇らせて腕の中の宝を見ると、僅かに唇の端から力を抜いた。
「クレモナーラ村を?」
「知らない」
「音楽に溢れた場所で――そこで、出会った」
 ふぅんと興味の程度が解りかねる曖昧な返事は気に留めず、一本に指先を滑らせる。
 震える音は弦がくすぐったいと身を捩るようで。
 その弦の揺れに促され、静かに、とても静かにそれは波の音にさえ掻き消されそうな程の大きさの。


 歌。リージェの歌。
 滔々と広がりゆく声を音を愛おしむ娘の、歌。


 波の音にさえ覆われるはずの声が甲板に満ちていく。
 船員や警護の者達が足を止めては出所を探す。けれど音そのものはあまりに小さくて、竪琴を持ったリージェを見ても上手く繋げて考えられない。けれど声だけは広がっていく。
 寝入っている者が殆どの夜の世界の中で、抑えられた声量であるのにそれは奇妙なほどに諸々の音を越えて耳を浸した。
 爪弾く指の先の皮膚の一筋さえもが音楽になったような心持ちでリージェはその鬣であった弦を撫でる。それはどれだけの時間だっただろうか。

 ささやき程の声が奏でた歌がふつ、と切れた。
 余韻を残す音も波に溶けていく。小さな子を撫でるように、仲間を支えるように、獣の子を抱き上げるように、人によって様々なその情を示す眼差しを伏せて竪琴に注いでいたリージェが指を止めて唇を閉じる。
 ぱち、と弾けた音に瞳を巡らせて苦笑してみせればきらきらと星のように瞳を光らせる少女が慌てて手を下げた。すぐに再び上げると控えめに小さく打ち鳴らす。
 遠慮がちな、眠りの刻を考慮しての抑えた拍手。
「素敵。吟遊詩人なのね」
 そうだと頷けばまた手を鳴らす。
 素直な、幼い程の表情の露呈を見ていると同じ年頃とは思えない。
「でもなんだか眠くなってきたんだけど……呪歌ってやつ?」
「子守歌のか?――まさか。あんたの身体が疲れてるだけだよ」
「でも、折角」
「客は皆寝てるんだから、こんな時間にはもう歌わないよ。ほらもう休んで来るといい」
 歌を頼もうと。
 小さな声で落とされた不満を拾い上げたリージェがそっけなく――奥にある気遣いはどうしても見えるとしてもだ――言う。もぐもぐと口元を動かしていた娘はややあって溜息をついて一度頭を上下に揺らした。
「そうするわ。おやすみなさい、ありがと」
「ああ。おやすみ」
 言って立ち去る娘を見送る。
 ほんの幾つか幼い程度だろう少女は、けれど同じ年齢だったときのリージェとはまるで異なる。周囲がどのようであったか、それだけでこれほどに成長は変わるのか。

 ――いいや、とそこでリージェは胸の内でかぶりを振る。

 愛されて平穏に育っただろう少女に対する羨望がつと育ちかけたのを制して思う。
 いいや、と。
 たとえこれまでの自分を思い、過去を思い、そして眦を濡らそうともそれでも今の自分の腕の中のこの宝。胸に積もった歌の幸福。世界を知る喜び。
 それはここまで生きて育ってきたからこそだ。
 そして自分はまだ成長の途上にある。
 いまだ知らぬ歌のいかほどにあることか。見ぬ世界のいかほどにあることか。

 思いながら顔を上げる。
 その夜闇に散るのは満天の星。


 リージェと少女、海を渡る二人の娘。
 いっとき語らったその後の、歌姫の眼差しが見るものがなんであったかは夜の海に降る星が――あるいは知るだろうか。


 * * *


 そういえばクレモナーラ村が近いと気付いて目的地をそこに定める。
 背後に河川を通すその宿は、窓辺に寄ると水に揺れる月が美しい。

 いつのことであったか、航海中に見上げた空は月がなかった。
 どこまでも瞬く星ばかりが夜の幕を飾っていたのを思い出す。
 海に零れ落ちてしまいそうな程の星の数は、月の不在で更に増していたが自分はそのとき星に何を思ったのかとリージェは記憶を探る。
 ぬくもりに欠けた血生臭い世界から抜け出してどれほど経った頃だったか。
 暗い記憶は遠く、代わりに傍らに置いた竪琴に出会った折を記憶の栞として辿れば以降のことだ。懐かしく思うのはどんなことであっても変わらない。
 リージェにとっては踏み出して歩き続ける世界は広く、感情を揺らすものは増えるばかり。

(――星が、あんなに)

 窓の向こうを見下ろす翠を上空へと動かせば、水面に映える月がまざと存在を主張する深藍の世界。だがおぼろげな輪郭のそれではなく、周囲のちらちらと雑多な光にリージェの瞳は引き寄せられた。

 満天の星。
 甲板の隅から見上げた空にも星は溢れていた。


 強く瞬く星を、一際確かに在る星を、船乗りは標とするという。
 よく聞く話だ。よくたとえともされる話だ。

(あたしにとっての星は)

 何気ない一瞬に、自分の何かを探る。
 それはリージェにもあることで、そして窓の向こうを眺めつつ今まさに思う。

(星は――)

 見上げる空の漆黒を飾るものではなく、己が光の中で世界を巡りだして手に入れた星。胸を照らす星。それを思う。

 河川を酔客でも運んでいるらしい渡しが波を描いて滑っていく微かな音。
 岸から照らす灯りは代わらず耳に届く酒場の喧騒もどこも似ている。
 街は同じで少しずつ違って、船で話した近い歳の娘は海を渡った先で何を見てどんな風に思っているのだろう、あたしはこうして変わらない気侭な旅の暮らしで。
 だけど確かに何かが変わる。
 世界を見て音を見つけて血溜りから抜け出した後の気持ちで。


 満天の星はまるで、あの音楽に満ちた村の響きを一つ一つ飾ったような。


 ならばきっと自分の星は、とリージェは仄かな笑みを面差しに広げて視線を戻した。
 窓の向こうから泊まっている部屋の中。座る自分の傍ら。

 誇らしげに光源を弾いて己を飾る竪琴が。
 そこで眼差しを緩やかにたわめてリージェはそろりと指を伸ばす。
 いつだって、傍に星は在る。





** *** *


 それは、真白の書が映した物語。
 望むものか、望まぬものか。
 有り得るものか、有り得たものか、あるいはけして有り得ぬものか。

 ――小さな世界が書の中にひとつ。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【3033/リージェ・リージェウラン/女性/17歳(実年齢17歳)/歌姫/吟遊詩人】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、さてベタな言葉の扱い方かしらと思いつつのライター珠洲です。
 やはりここは歌は外せまいという考えからこういったお話となりました。
 綴られた言葉の出張り方は平等ではありません。えらいメインな言葉もあれば気の毒な程に控えめな言葉もあったり……さて星は幾つ胸の中に集まっておられるでしょうか。
 書の綴った物語が事実であるか作り物であるかはリージェ様のご判断にお任せ致します。
 ご参加ありがとうございました。