<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


まどろむ世界

 かつて千獣が訪れた森。人の手の入らない無垢なる森は今もあの時と少しも変わらぬ静けさをたたえている。森の木々越しでもなお強く吹きつける風。空を恐ろしい速さで流れる雲。冷たいけれど、どこか心地よい風が絶えず吹き抜けてゆく。ここは凛とした世界。厳しいけれどどこか清々しい。そのどれも千獣は嫌いではなかった。好きかと問われれば言葉に詰まる。けれど何故だか心に掛かる。あれからどのようになったのか気になる。だからまたここへ来てしまった。空を行く鳥もなく、森を駆けるリスもいない。けれどあの時の『命の誕生』が嘘でないのなら、このどこかに森の木々ではない別の命が生まれ、育っているだろう。
「‥‥行って‥‥みる」
 あてがあるわけではなかったが、千獣は歩き出した。その身を飾る不吉な呪符帯の端が風にはためいてパタパタと軽い音をたてた。

 千獣の知る限り、ここは最も静かな森の1つであった。木漏れ日が作る影と光の斑模様の中をゆっくりと千獣は歩く。落ち葉を踏みしめた時僅かに軽い音がする事もあるが、その多くは湿気を含んで地面に貼り付き、微妙な沈みを感じるだけだ。履き物などない素足が泥で汚れるが気にも留めずに歩き続ける。暖かさも冷たさも、感覚はどこか希薄で‥‥しかし、千獣が『今ここに生きている証』の様で愛おしい。

「‥‥ここ‥‥あの時、の、水‥‥はここ‥‥だった‥‥と、思う」
 美しい泉は少しだけ姿を変えていた。水の量が増えたのだ。そして、四方へと水が流れ出し、それらはどれも小さな川となって森のあちこちに流れ出ている。足を水に浸す。冷たかった。歩いてきてついた泥が洗い流され、きれいな素足が水の中で現れる。千獣が中央へと歩き出すと、どこにいたのかバッと一斉に蝶が飛び立った。あの日よりももっと沢山の、もっと大きくて鮮やかなの色の羽の蝶が舞う。メタリックな光沢を持つ瑠璃色が目の前一杯に広がった。


 気が付くと、まったく別の場所にいた。瑠璃色の蝶が1匹だけゆらゆらと目の前を飛んでゆく。千獣が動かないといつまでもゆらゆらと同じ場所を飛び続けている。唐突に蝶が自分を待っているのではないかという考えが胸に湧いた。
「私‥‥を、待って‥‥いる‥‥?」
 思うままを口にする。ここは森ではなく、見知らぬ草原であったけれど、まわりには蝶と自分しかいない。蝶はただ緩やかに飛び続ける。けれど、千獣が1歩踏み出すとふわりと距離を置くように移動した。
「‥‥なにか‥‥どこか、に、私を‥‥連れて‥‥行きたい、の、かも‥‥しれない」
 それなら、誘われるままに行ってみてもいい。元より千獣はここに『何かを見るために』来たのだから‥‥。今度は1歩ではなく蝶に触れんばかりに近づく。蝶は鮮やかな羽を大きく1度はためかせ、すーっと滑る様に移動した。

 蝶はどこまでも飛び続け、やがて地面にぽっかりと開いた穴の中に入っていった。その穴は千獣の両手の親指と人差し指をくっつけて作る輪程度の大きさしかなく、千獣がすり抜けるには小さすぎる。
「どう‥‥すれば‥‥いい‥‥?」
 穴の向こうで瑠璃色が動いている。穴の向こうで蝶が待っているのだろうか? なんとなくもっとよく蝶を見ようとして、千獣は地面に膝を突き穴をのぞき込んだ。

 蝶がいた。けれど、蝶だけではない。穴の中には蝶の半分にも満たない小さな人がいた。人は3頭身程度で、それぞれ小さな甲冑をまとい、小さな剣を携え、そして互いに戦っていた。その数は‥‥数え切れないほど沢山だ。人形の様に小さな人がぶつかり合い、ほどなくして幾人かが大地に倒れる。すると、倒れた身体から小さな蝶が飛び立つ。千獣を案内してきた蝶と比べると、小さくて羽も黒一色だが、同じ様な形の羽だ。
「戦って‥‥いる‥‥なぜ‥‥」
 命が生まれたばかりの世界で、何故こんな光景があるのだろう。わからない。わからないが、今目の前で沢山の命が消えている。戦うからには何かそれなりの理由があるのだろう。けれどそれは千獣にはわからない。理由のわからない戦いをただ見つめる事しか出来ないのか? 小さな人はどんどんと倒れていくが、どちらも退く様子はない。小さな赤い血がぽつぽつと大地を染めていく。そして空を覆い隠す程に沢山の蝶が戦場の空を飛ぶ。

 どれほど時間が過ぎただろうか。小さな人達はほとんどが倒れ、ごく僅かな者達が左右に退き戦いは終わった。生まれたばかりの沢山の蝶はしばらく戦場だった場所をとびまわっていたが、やがて1匹ずつ姿を消し‥‥残ったのはあの瑠璃色に輝く羽を持つ蝶だけであった。
「これ‥‥も‥‥生きる‥‥と、いう‥‥こと? これが食べる‥‥こと? 子を‥‥残す‥‥事?」
 蝶は否定も肯定もせず、ただ空を飛ぶ。そして穴をすり抜けると、千獣の目の前を真っ直ぐに上へと飛びあがり、そのまま空に消えた。鱗粉が一瞬キラっと光ってすぐにこれも消えてしまった。


 千獣はあの泉にいた。太陽は沈みあたりは真っ暗になっている。螢の様な淡い幻想的な光があちこちで瞬いている。
「‥‥夢?」
 千獣の足はきれいなままだ。長い距離を歩いた様子はない。
「まだ‥‥命は‥‥まどろんで、いる‥‥のかも、しれない‥‥私が‥‥見たのは、生まれた‥‥ばかり、の、命が‥‥みた‥‥夢?」
 不意にあの蝶も、この泉に煌めく光の、同じ生まれたばかりの命なのかもしれないと思った。まだ形を持たない命達。だとすれば、彼等が知る『知識』とは、誕生に立ち会った千獣が持つ千の獣たちと共有する記憶‥‥なのだろうか。
「‥‥わから‥‥ない」
 ふっと苦笑して千獣は首を振った。長い時間、獣達と共に生きてきた千獣だ。あのような殺伐した世界の1つや2つ、知らないわけではない。あるいは、長い長い時の先で、さっき千獣が見た光景がこの世界のどこかで展開するのだろうか。今、千獣が手に出来る正解はない。出来ることもない。
「‥‥また‥‥いつか‥‥また、来る‥‥と、思う‥‥そして、この世界を‥‥見守って‥‥いく‥‥と思う」
 もし『運命』が千獣を選ぶなら‥‥その時にわかるだろう。。水面近くからわき出す光は、緩やかに空へと登っていく。
「‥‥生きて‥‥いくと‥‥いい‥‥生きる‥‥事は‥‥たとえ‥‥どんなに‥‥残酷で‥‥醜い‥‥事、でも‥‥正しい‥‥と、思う‥‥から‥‥生きて‥‥生きて‥‥私は、それを‥‥見守っている‥‥いつも‥‥いつでも‥‥」
 そっと、囁く様に小さな声が千獣の可憐な唇から零れる。まどろむ命の輝きは、千獣の祝福の声を子守歌にもう少しの間漂い、沢山の夢を見続けるのだろうか。

 風が吹き光を吹き上げてゆく。けれど、その風は昼間よりもずっと優しく、命達と千獣の髪や呪符帯を揺らしていった。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3087  / 千獣 (せんじゅ) / 女性 / 世界のターニングポイント】
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■         ライター通信          ■
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 再度のお越し、有り難う御座いました。まだまだ幼い世界ですが、千獣さんの訪れが刺激となり、成長していくようです。次回はまた成長した世界にお越しいただけるよう、精進したいと思います。ありがとうございました。