<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


■真白の書−還る先−





 記憶の糸を手繰る方の表情というものは何処か夢を見ておられるようにも私には思えるものです。
 幸福も不幸も、歓びも嘆きも、どのような夢であるかは面差しから推し量るばかりですけれど、どなたも微睡みの中に居られる風でもあり。

 それは珊瑚のような、と言いましょうか。
 広げた白い頁に丁寧にゆっくりと僅かな文字を記される方の瞳もまたそういった記憶を浚う気配が滲んでおられます。黒髪の艶を吹く風に合わせて動かすのは千獣様。
 胸の内の言葉を探しながら途切れ途切れにお話され、そして綴られた文字にマスタもまた瞳を眇めておられます。
「死って、嫌な、ものじゃ、ない、の、かな……?」
 名前を記されながら、小さく千獣様が仰ることに答えを出せる者はここにはおりません。
 けれど答えを求めておられる訳でもないのでしょう。
 おそらくは、それは千獣様がこれまでに培ってきた様々なことを思い返してのこと。
「……いっぱい、の、人の、死を……見て、きた……」
 死を知ってから、この方がどれだけの命の喪失と向かい合ってきたのかは存じません。ただ外見以上に生を重ねておられるのだろうと思わせる瞳が、その数を私に想像させるばかりです。
 苦しそうにと。悔しそうにと。
 死の間際の表情を思って語る千獣様のお顔もまた記憶を映して辛そうに『歪んだ顔』と称される記憶の中の死者達を重ねておられます。私は見るばかりでもどかしく、広がる言葉を見るマスタもまた何も話しません。
「……でも」
 どこか躊躇いがちに走る言葉とお名前が、少しずつ少しずつ溶け合っていきます。
 何か芯のように織り込まれた気持ちがおありなのでしょうか。書は千獣様の言葉を待つようにゆるやかに世界を作り上げていますから。
 積み重なる死の中で出会った表情についてお話される今も、ほら、世界はとても遠慮がちです。
「そんな、中、で……とても……とても、穏やか、に……幸せ、そう、な……顔、する、人も、いた……」
 なんでだろう、とか細い呟き。
 それにも私共は返す言葉を持ちません。
 けれどこれもまた、千獣様の中に答えはあるのでしょう。
「……優しく……暖かく……抱かれ、包まれ……眠る、よう、に……死ぬ」
 どなたかの腕を思い返されておりますか?
 胸の中の抱き締めて離さぬ記憶を除いておられますか?
 呟きの中で滲んだ形容し難い――憧憬とも、情愛とも私には見えた感情が千獣様の瞳に揺れて。あくまでも私の抱いた印象ですけれど、ただの言葉としては気持ちが強くあるように思われたのです。
 書がはたりと一度揺れました。
 言葉が織り上げた世界に縫い込まれた気持ち。
 それはどこまでも深く柔らかく――


「……私も……いつか……そんな、風、に……死ねる、日、が、くる……の、かな……?」


 真白の織るいっときの世界。
 そちらへ招かれる直前の千獣様の呟きは、ごく微かでした。
 ――胸の中に浮かぶ記憶は物語に儚く映ることでしょう。


 ** *** *





 足元はひやりと冷たく、その温度が心地良かった。
 見上げる空は薄緑に覆われて、差し込む日差しが木々の葉を輝かせる。
「……」
 とろりと視線を巡らせる周囲は金を混ぜたかと思わせる緑。伸びた枝葉をすり抜けて差す陽光が照らす若葉は白く眩い。上質の敷布でもこうはいくまいと感じる足裏の緑はつややかな苔だ。
「……森……」
 しばしば訪れる場所とはまたどこか違う空間を見上げても空は繁る葉の隙間から光るばかりで、夜ではないとしか千獣には解らなかった。むしろ体感で時間を推し量る。
 昼ではない。差す光は鋭さに欠ける。けれど朧な弱さは覗かないことを思えば月が去ってからそれなりには時も過ぎているのだろう。朝露も落ちた葉先が千獣の衣服で揺れた。
 静かな眼差しでそれを見遣る。瑞々しい。
 足を踏み出せば苔が丁重に千獣の靴を受け止めて、なんとなしその場で数度地を踏んだ。ごく軽く。柔らかくふわふわとした感触は瞼を閉じれば苔だなどと思えない。
 少しずつ、少しずつ。
 そうやってしんとした世界を進んでいく。
 鳥の囀り、獣の足音、そういったものさえ遠く見失いそうな静けさを湛える森。
 誘われるように踏み込んだのは如何程の過去であったのか。微睡みに似た気分が感覚を休ませる。急ぐ用もなく、危険も感じないからとそのままどれだけの時間を巡っていたのか。

 ――つと、粗紙に落としたインクのように、じわりと滲んで届いた気配に千獣はその赤い瞳を鋭く眇めた。森に在るには異質な、人のそれ――遠い過去には千獣もまた森の中にいた獣に混ざった『人』であったのだけれど。
 とんと僅かな音を残して苔を蹴る。
 それも呑んで隠してしまう、だのに耳に届く、そういった静謐さの中を千獣はするすると移動していき、さほどの間も取らずに気配の元へと辿り着いた。
 気取られぬ距離の僅かな高所から見下ろすそこには弓を背に犬を連れた男が一人。
 それから腕の中には歩く男と違わぬ体躯のもう一人。
(猟、じゃ、ない)
 腕の中の人間が居なければ獣を狩って日々を送る職なのだと判断しただろう。
 しかし慣れた歩き方から職はそれだと知れても、このときの目的は違うと思われて千獣は気配を殺したままことりと首を傾げた。ではどういった目的なのか。
「もう少しだからな」
 しわがれた声で男が言う。
 千獣の疑問に合わせたかのような間であったので気付かれていたかと瞬間思うも、目線の先の人と犬に変化はない。丁度、重なっただけのようだ。別段気付かれても構わないはずなのだけれど、最初に潜んだ流れからか安堵の息を洩らして千獣は男を改めて見下ろした。次いで彼の向かう先。そちらを見た、途端。
 ざわりと己の内でざわめく気配が。
 一見するに周囲と変わらぬ緑に散る金と白の空間だ。
 けれど千獣が身に宿す獣達がその奥の存在を訴える。
 肌がちりと震えるのを感じながら一段低い場所で進む男を見、また視線を戻す。おそらくは狩人の類だろう男は迷いなくそちらへと向かっている。奥に、何か。
(わからない)
 潤った苔が千獣の動く音を全て抱き止めて宥めて隠す。
 せり出した木の根を避けて駆ける間もずっと。
 思考もまた不明瞭なままに千獣は男に先んじてそちらを目指して森の中を移動していく。
 どこか深くで今も広がる過去の感覚と重ねながら足を動かして、辿り着く前には身の内でざわめいた気配達も落ち着きを取り戻した。けれどその反応が千獣には気になったのでそのまま目指す。
 先程までの散策の間は感じなかった――いや、この何某かが在る場所を気付かぬ内に避けていた。そう、気付く。ちょうど一際眩い葉の反射が瞳を射るそこに踏み入ったところで千獣は気付く。それを。
 足を止める。
 急な制動に身体は勢いを殺しきれず僅かに傾いだけれどそれだけ。
 はらと散り広がった髪が戻り艶を覗かせる。身体中の包帯と呪符の端がちらと揺れていたのも収まる。そうして一拍挟んで内外共に鎮めてから千獣は先刻のように周囲を見回した。
 きょとりとしたあどけなさも覗く仕草。
 それは地上から頭上へと視線を滑らせたところで更に強く現れた。
「……大きな、木……」
 稚い、ただただ純粋な感嘆の声。
 千獣が見遣る先の果てなく広がった葉。その下の木々。
 確かに幹がある筈なのにそれを包むように細い若木が伸びている。
 地上を見回しただけではその存在は見落としても当然だと思わせる、そんな形で一本の木が、けれどまさしく大樹と呼ぶに相応しい威容でもってそこに在った。
「…………」
 拙い言葉どころか思考としてさえ文字一つ浮かばない。
 広く伸びやかに繁る黄金の葉。緑を縁取る光の白金。
 無意識に指が耳飾に触れて、それで千獣の意識は言葉を探し始めた。
「懐かしい、と……言う……のかな」
 ただただ柔らかいばかりであった千獣を生かした深い森の奥の獣。言葉を持たず日々を駆けて過ごしていた千獣の手を取った、耳飾の贈り主。あの手繰り寄せて引き上げ、包み込み抱きとめる、そんな感覚を引き出す何かが大樹にはあるのだ。
 数度、繰り返し。
 緩く開かれた唇が言葉を紡ぎあぐねて止まる。

「――え」

 そして怪訝そうな声が、吠え声一つと共にその千獣の背にぶつかるまでの時間はどれだけだったのか。
 けして長くはないだろうに不思議と数日のようでもあった。


 * * *


 千獣の推測通り、男は狩をして暮らしているのだと。
 僅かな対峙の後に腕の中の人――これは死者だった。死の気配とでもいうべきものが感じられずにいたので、多少の訝しみを見せてしまったかもしれない――を下ろしながら笑って言った。
「葬りに来たのさ」
 死者の髪を整えてやりながらの言葉に千獣はことりと首を捻る。
 ここに居るなら悪いものじゃないだろう、と異装と類されるだろう千獣の姿を勝手に判じて男は警戒する風ではない。確かに害意なども持ちはしないけれど、と言葉にしないままちらりと考えた彼女の前で犬もまた大人しく座り込んで尻尾だけを数度振った。
「……お墓、は……街……には……作ら、ない、の?」
「作れないんだよ」
 埋葬を街で行わないのか、とそれだけを問うにも言葉を探す。
 だけれども相手はたどたどしく話す千獣を奇異の目で見るでもなく聞いてから、困った風に笑うと「他所の子なんだなぁ」と呟いた。
 他所の子、どころか外見からは想像出来ない程に生きているけれど、年齢相応の経験があるとも言えない。旅人とは一見して解らないのかなとちらりと自分の装いを見つつ相手の言葉を聞く。
「俺達はこの森で狩をするからなぁ」
 遣る瀬無い気配を漂わせて男はちょうど、自らも腰を下ろして大樹を見上げたところだった。
「圧倒されるだろう」
 視線を外さず言うのに、千獣も頷く。
 仰向いて眺める巨木は現実とは思えぬ様でさえあり、風が通る度に光は降る。
 しばらくそのままに二人と一匹は死者を見守って。

 そうして、ゆったりと間を取ってから男は言った。
 穢れるだなんだという話があるんだよ、と。

 必要なだけの肉、必要なだけの草、必要なだけの皮、必要なだけの水、なにもかもを森で得る。けれど昔から人ならぬ何者かが生きるとされていた森であったので、踏み込む者はいつの頃からか忌避されるようになったのだと。
「墓地なんかに入れて貰えるわけもない」
「……街に、行くこと……だって……ある、のに?」
「滅多にないし――まあ、この弔いは昔からだから問題はないんだが」
 森のものを得て生きるのだから死して後は森に返し己を与えるのだ。
 なんとなし、千獣には理解出来ないでもなかった。必要なだけ、死んで還る、その考えの道筋は理解出来た。理解出来なかったのは、言いながら気の毒そうに死者の額を撫でてやる男の表情だった。どうしてそれほど憐れんだ様子なのだろうか。
「医者が拒んで遅れてな、傷から腐れた」
 街の者との交流も最小限だから逆に千獣の言いたいこと問いたいことに気付きやすいのかもしれない。すいと骸を包む大布をめくり上げた。
「流石に辛い」
「……うん」
 森のものを得て生きるといっても、獣達が素直に狩られるわけではない。
 牙で抉られ裂かれた箇所は醜く爛れて崩れていた。
 さぞや痛みもあっただろうそこに千獣は指を伸ばす。今は身に宿る者達も静かなまま、自らの形を示す指先。
 男はまた額を撫で髪を整えてやり、頭上の木を仰ぐ。
 犬を抱き寄せてからきつく瞼を閉じていた。



 そうして男が去ってからも千獣は死者と共に大樹の前に居る。
 別に理由はなかったのだけれど、男だって「置けば森が引き受ける」と言っていたけれど、それでも少しばかり立ち去り難かったのだ。
 広がる緑の絨毯の上で横たわる死んだ人。
 傍らにしゃがみこみ、髪を僅かばかり払って顔を覗く。
「……似て、ないけど……同じ……」
 知らず睫毛が揺れて千獣はそのまま死者の面を見詰めていた。
 人間であると千獣に教えてくれた人とまるで違う顔の造り。けれど死に彩られて褪せた面差しは何処か近しく同種のものだ。懐かしさを覚えるのは幾度目だろう。森の中で記憶は微かに掘り起こされる。
 目を閉じる。開く。死者の面を見る。森に返され与えられる命。
 死を呼んだ傷口にまた腕を伸ばす――止まる。
 ゆらゆらととりとめのない思考に浸る合間の意識しない動きだったけれど、そこで千獣は宙に伸ばしたままの腕を引いた。
「ひか、り?」
 引いた腕を支えにして足元の緑に体重をかける。
 ぱちりと瞳を見開いて千獣が窺う先では死者が光を浴びて、いや、差し込む光に溶けるように滲んでいく。返る、還る。それは獣が屠り土に還るという意味ではないのか。
 まばたきさえ忘れて見詰める前で人の身体は淡く絵が滲む風にとろりと周囲に混ざっていく。さわと鳴る葉。陽の光が降る。さわと鳴る。降る光。滲む中で光を追って瞳を動かしてみた千獣は鳴る葉がただ一本の木に繁るものだと気付いた。
「……大樹……」
 応えのようにざわりと一際強く葉が触れて鳴る。揺れる度に差し込む光は宝石以上の美しさでもって千獣と森とを飾り立てる。光、葉擦れ、溶ける人。
 その全てを何と言えばいいのか。
 元より言葉を紡ぐのが不得手な千獣にそれを成せる筈もない。
 だから、だけれど、それでも見上げた先のどこまでも広がる大樹の腕。零れ落ちる森の命を象徴する程の鮮やかさを双眸に捉えて。
「穢れ……なんか、じゃ、ない……」
 知らず微笑んだ理由は解らない。微笑んだかどうかも千獣自身は気付かない。

 ただ彼女は死者を迎え入れる大樹の様を見詰めていた。



 ふわりと散る光が大樹に添う若木に落ちる。
 それもまた過去にこの森で還った生命であるのかもしれない。

 どこか慕わしさを呼び起こす世界の中にいつか、いつか千獣も抱かれるのだろうか。
 いつか、森の中の柔らかな腕の中に。





 ** *** *


 それは、真白の書が映した物語。
 望むものか、望まぬものか。
 有り得るものか、有り得たものか、あるいはけして有り得ぬものか。

 ――小さな世界が書の中にひとつ。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【3087/千獣/女性/17歳(実年齢999歳)/異界職】

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■         ライター通信          ■
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 ご希望通りの雰囲気になっていると良いなぁと思いつつご挨拶のWR珠洲です。書を記して頂きありがとうございます。
 常は立ち入れない場所が森にあるといいなという感覚があったのでこういった話になりました。森はきっと優しい腕の中だと思いつつ。