<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


【楼蘭】杏・鎮咳





 ケホ…ケホ、ケホ……

 少女の咳が放たれるたび、少しずつ少しずつ村は氷に閉ざされていく。
 麗かな春の陽気に差し掛かっているというのに、この村だけは真冬さながらの寒さのまま。
 家の外、外套を羽織った医者はゆっくりと首を振る。
 そして告げる。少女の病気は私の手に余る……と。
 両親の瞳が見開かれる。
 あなたは娘を見捨てるのか!
 医者は唇をかみ締め瞳を伏せる。
 出来ることなら助けたい。けれど、病状も分からない、打つ手も無い状況では、どうすることもできないのだと。
 何時か、少女の咳は、全てを氷で包むだろう。
 ただ咳と共に冷気が零れるだけで、少女の身体にはなんら異変はない。
 けれど、それが問題だった。
 そう―――少女が生きている限り、この村は、氷から解き放たれることが、無いのだから。
 医者は小さく口にした。

「仙杏があれば……」











 村へ至るまでの街道を歩くだけで、まるで春から冬へ戻っているような、蕾が膨らむまでの過程を逆に見ているような、そんな気分に陥る。
 アレスディア・ヴォルフリートは、何故此処まで春を忘れてしまったように寒いのか分からず、ぶるっと身体を震わせる。
 そして、1つの民家の入り口で話し合う村人の声を耳に止めた。
「危険ではありますが、娘さんの咳を止め、村を冷気から救うにはもう仙杏しかありません」
「そんな…! いや、娘のためだ……」
「でもあなた、あそこは妖怪の巣に…!」
 一度絶望に彩られた顔色を浮かべた男が、決意を含めた声音で宣言する。そして、それを止める女。
 思うに、あの2人は夫婦なのだろう。
 そして、そんな2人の前に立つ、法衣の男―――医者か。
 話の流れからして、あの夫婦の娘の咳がこの村を冷気で包み、その咳を直すために仙杏とやらが必要なのだろう。
 そしてそれを、娘の父親が母親が止めるのを聞かず取りにいこうとしている。―――妖怪がいるにも関わらず。
 そんな話を聞いてしまっては、アレスディアの性分として放って置くことは出来なかった。
 アレスディアは話し込んでいる3人に近づく。
「……その、仙杏とやらの在り処を、教えてくれ」
「あなたは?」
 突然会話に加わったアレスディアに、両親だけではなく医者も驚きの顔で振り返る。
「申し訳ないが、勝手に話を聞かせていただいた」
 寒さによって畑の種まきも開始できないせいか、他の村人は閉じこもって人気が無いとは言え、外聞も気にせず家のまん前で話し込んでいたのは自分たちの方だ。アレスディアを責めることはできない。
 アレスディアは、確認するように問いかける。
「それがあればあなたの娘さんの咳も止まり、この村も氷から開放されるのだろう?」
「……そうです」
 医者は小さく頷き、そのまま口ごもる。
 分かっているのだろう。この村を救う一番簡単な方法は、少女を切り捨てることなのだと。仙杏は、唯の人が望んではいけない天上の果物。それが、何の偶然かこの村の近くに芽吹き、実を結んだことに、つい口が滑ってしまっただけ。
「俺の娘です。仙杏は、必ず俺が」
 父親は力強い言葉で宣言する。
「いいの、お父さん…」
 ガタッと民家の扉が開き、小さな少女が顔を出した。
「桃華!」
 少女――桃華はケホケホと小さな咳を繰り返し、その場の温度が少しだけ下がった気がした。
「わたしが死ねば、それで村が救われる」
「そんな事を言うな! 父さんが絶対仙杏を取ってくる。そうすればおまえの咳は直るんだ!」
 両親は桃華を抱きしめ、涙さえも微かに凍るような温度の中、それでも娘の言葉に涙を流した。
 医者も、娘を思う両親の心を無下には出来なかった。だからこそ、今日まで出来る限りの治療を行ってきた。
「場所は私がお教えします」
 お願いできますか? と、医者はアレスディアに頭を下げた。





 一緒に行くと言い張った父親を宥め、アレスディアは一人林を走る。妖怪からの攻撃を受けた場合、鎧を纏っていた方がダメージは少ないが、この先どんな場所に分け入ることになるか分からない。そのため、重装備は避け、普段の黒い服装のまま突撃槍を手に疾走していた。
 医者が言っていた。仙杏に目をつけどこかから飛来し、この地に棲み始めた妖怪をどうにかできれば、仙杏を採ることは簡単だと。
 妖怪の噂が立ち始めたのも、いつごろからだったか仙杏の樹へと出かけた村人が帰らなくなったから。
 命からがら帰ってきた村人も傷が深く長くは持たなかった。
 相当に好戦的で、残虐的な妖怪と云えるかもしれない。
 そうなれば当面の問題は確実に邪魔をして(襲って)くるだろう妖怪という事になる。
 加えて云うならば妖怪をどうにかすることが出来れば、桃華の咳を直すための仙杏が手に入り、獣は本来の縄張りを取り戻すことが出来るだろう。
「ここか…」
 背の低い木や、生い茂る枝を手で避け、アレスディアは一歩近寄る。
 まるでそこだけ地上から切り離された聖域。妖怪が棲むと云っても、仙杏の聖性が無くなるはずもなく、神聖な空間を作り出していた。
 顔は動かさず、瞳だけを動かし辺りを伺う。
 どうやら件の妖怪は今この場所に居ないらしい。それらしい気配は感じられない。
 一時この場所を離れているのか、それとも気配を消す特技でも持っているのか。
 しかしこの場所に居ないのならば好都合。
 村人や獣を襲うと云われていても、今は妖怪と一戦交える時間があるのなら、早く仙杏をあの一家に届けてあげたい。
 アレスディアは一歩、仙杏へと足を踏み出した。
『まぁた、おれの杏に引き寄せられて獲物が来たな?』
 すぅっとアレスディアの首に当てられた鋭い爪。
「あなたの杏ではなかろう?」
 アレスディアはその場で微動だにしない。
 妖怪が少し力を込めればアレスディアの首など直ぐにでも刈り落としてしまえそうな位置に当てられた爪。しかし、うろたえた素振りが一切無い冷静なアレスディアの一言に、妖怪はくっくと喉で笑いを漏らした。
「村の少女の咳を直すため仙杏を取りに来ただけのこと」
『状況分かってんのか?』
 妖怪は今やアレスディアの命は自分の気分一つでどうにでもなると思っている。
 だが、それこそが慢心であると気がついていない。
 地面にはつけず、軽く浮かせて持っていた突撃槍の柄を水平に傾け後ろへ一気に突く。
『っく…!』
 軽い舌打ちと共に飛び退く妖怪。
 アレスディアは遠のいた気配にゆっくりと振り返った。
 一戦を交えそうな予感に、アレスディアは早々に気絶でもさせて仙杏を持って帰ろうと思っていたが、妖怪もそれなりに腕の立つ部類に入るらしい。
 確かに、最初に背後を取ったのは妖怪だった。
「この、匂いは……」
 微かに香る鉄錆の匂いに眉をしかめ、鋭い視線を妖怪に投げつける。
 けれど、妖怪は緊張に強張らせていた顔を、すぐさま飄々とした――人間とはやはり違った――面持ちでゆらりと立ち尽くす。
『おれが一番好きなのはなぁ、人間だが、この杏がありゃ人間なんぞ戯れで良い。最近は逃がしちまった人間のせいでとんと人間が来なくなっちまったがな!』
 人を喰らうという面白みは無くなったが、仙杏が独り占めできるのなら、人を喰らうことなどどうでも良い。
 妖怪にそこまで思わせるほど、仙杏の価値は計り知れないほど高い。
 仙杏があるからこそ妖怪は人里に下りず、村人に被害は出ていない。けれど、逆に言えば、仙杏が無ければ妖怪はこの地に住むこともなかったのだ。
 何という皮肉。
 アレスディアは妖怪に向けて突撃槍を構えなおす。
 この仙杏を棲みかとしている妖怪が、桃華の咳に何か関係があるのなら、役所なりに引き渡すつもりでいた。
 しかし、人を襲うことを趣味としている妖怪が、呪や何かによって桃華に咳の病気を植えつけたとは考えにくい。
 目の前の妖怪は、わざと呪か何かを使って桃華に病気を植え付け、治すために仙杏の元へ導くなどと言う遠まわしなことをするくらいなら、直接村を襲うように見えた。
 だが、桃華の咳を直すため、ひいては、村人を危険に晒す可能性を排除するため、妖怪を討ち取る。
(殺しはせぬ)
 元々棲んでいる村人やこの林の獣から見れば妖怪も立派な侵入者であり略奪者。出来るなら、この場所から追い出せればもっといい。
(今回の件に関与は見受けられずとも)
 過去、どこかの人間や、あの村の人々を殺した罪で罰することが出来るはず。
 きゅっと柄を持つ手に力を込める。
 村では桃華と、その両親が、仙杏を待っている。
 少女と凍てつく村を救うため、今は一分一秒でも惜しい。
 短期決戦、一撃で決める!
 アレスディアは気合を一つ、奥歯を軽くかみ締め地面を蹴った。



















 東風解凍。
 まさに春の風呼び込む立春。
 未だ全ての冷気は去らずとも、この国に訪れた春がゆっくりと村に届く気配を感じる。
 それは、アレスディアの頬を撫ぜた暖かく穏やかな風が、その髪を遊ばせたから。
 そっと手を伸ばした樹の先に、一気に舞い込んだ春に置いていかれないよう、膨らみ始めた花の蕾。
 アレスディアは全身で春の訪れを感じ、流れる雲を見つめ、微笑んだ。









☆―――登場人物(この物語に登場した人物の一覧)―――☆


【2919】
アレスディア・ヴォルフリート(18歳・女性)
ルーンアームナイト


☆――――――――――ライター通信――――――――――☆


 【楼蘭】杏・鎮咳にご参加ありがとうございます。ライターの紺藤 碧です。
 アレスディア様の護りたい気持ちしかと受け取りました。
 最後妖怪も倒さず役所に引き渡した事でしょう。
 それではまた、アレスディア様に出会えることを祈って……