<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


交響幻想曲 −結論へと続く遁走曲−





 逃がしたというか、逃がされたというか―――
 冒険者達は舞い戻った黒山羊亭でエスメラルダに街で出会った――いや、戦ったカデンツのことを話した。
 話し合いは、殆どその機会を与えられず決裂。それどころか、冒険者を一人行方不明にしてしまった。
 人質か…はたまた、別の思惑があるのか……それは本人に聞いて見なければ分からない。
 彼女は考えるように黒山羊亭の中を歩き回り、そしてまるで1つのオブジェと化していたあの水晶の鎖をシャラリと手に取る。
「これを、持っていってちょうだい」
 彼と話をするために、そして―――
 そう言って、エスメラルダは全ての鎖を手に、冒険者たちと向き合う。
「危険かもしれないわね」
 現在確認できている唯一の住人と分かり合えない今の状況では。
「それでも、行ってくれるかしら?」
 カデンツに街の謎と鎖の関係性を明らかにするために。
 エスメラルダの言葉に頷いた冒険者に、彼女は鎖を託した。
「それからこれも」
 そう言って、エスメラルダが手渡したのは、今までの手書きの地図を複製したものとは違う、専門家が編集した売り物とも思えるような綺麗な地図だった。





All human wisdom is summed up in two words--wait and hope.           Alexandre Dumas





 地図の出来は、さすがその道で稼いでいるだけのことはある出来だった。
 シルフェは地図を手に、「ほう…」と息を吐く。
 余りの出来の良さに、この地図を作った職人に、一緒に来て欲しいとさえ思った。
「流石、エルザードの観光マップを一手に引き受けているだけのことはある」
 地図を見つめ、アレスディア・ヴォルフリートは感心したように頷いた。
 自分たちの至らぬ地図を、此処まで精巧に作りなおしてしまったその技術が素直に素晴らしい。
「観光マップ…で、ございますか?」
「ああ、ここに、同じサインが入っているだろう」
 アレスディアは手にした地図を持ち上げ、その隅に小さく刻まれた名前を指差す。
「まぁ」
 着て欲しいとは思ったが、流石に本当にただの一般人を巻き込むわけには行かない。
「感謝する。エスメラルダ」
 アレスディアは地図を胸に当て、今はもう遠い黒山羊亭にいるエスメラルダに感謝の祈りを捧げた。
 ゆっくりと瞳を開けたアレスディアは、顔を伏せたまま真剣な面持ちで考える。
 それは、カデンツという存在のこと。
 死なないと言っていた言葉以前に、彼は生きているのだろうか。その、まるで無機物のような。あの人形達の額の文字のように、核となるべきものは別にあるのではないか。
 けれど、現状そう言えるだけの証拠は何もない。今一度カデンツに出会ったとき、その時こそは―――
 アレスディアは決意を込めて顔を上げた。
「早く遼介を取り戻して帰ろう」
 サクリファイスの言葉に、シルフェとアレスディア、そして共にこの街へ降り立ったキング=オセロットが頷く。
 シルフェは祈るような気持ちで胸の前で両手を組むと、ゆっくりと瞳を閉じた。
「未来を……」
 本当は手を組むなんて仕草、未来視には必要ない。けれど、より良い未来を願って、シルフェは祈るように手を組んだ。
 暗闇の中、走る足音。弾むと息。
 逃げている? それとも、ただ出口を求めて走っている?
 けれど、周りには何もない。ただ暗闇が広がるのみ。
 未来と言うよりは、夢を覗いているかのような光景。
「暗闇の通路か…」
 光が届かないとすれば、街の内部や、地下などだろうか。
 もし、地下にいかなければならなくなったとして、自分たちには地下へ下りる通路や入り口の場所は分からない。
 考え込むようにして一同は動きを止めた。
「…………」
 何も始まっていない今、ただ沈黙が流れる。
 カデンツの対処や、もしくはこの街にと捕われた湖泉・遼介を探すことを優先して考えていたため、ほかの事にはあまり頭を回していなかった。
 今まで集めた水晶の輪が、全てここに集まっているというのに、カデンツが現れるような気配は一切ない。
 やはり、この街と水晶の輪を呼応させなければ、カデンツは反応しないと言うことか。
 カデンツに見つかることなく街を探索できるなら、これほど平和なことはない。けれど、カデンツに出てきてもらわなければ、先日連れて行かれた遼介の現在の居場所も分からないのだ。
 歯痒い。
 出会えば一悶着。しかし、避ければ話が先に進まない。
 だが、この街全体が巨大な魔方陣が絡み合った存在だと報告されている。ならば、魔方陣そのものを止めてしまえれば、この街の出来事は解決するのかもしれない。けれど、魔方陣は一般的に視認できる状態ではない。結局のところ、どう見ても普通の街にしか見えないのだ。こればっかりは、やはり個々の能力による探査の結果なのだろう。
 街を壊すことで魔方陣をも壊すことが出来るなら、そんな簡単なことは無いが、自動的に修復されるような機能や、暴走させれてしまっては元も子もない。
 だが、これだけの魔方陣を操るためには、それ相応の場所と言うものが存在しているのではないだろうか。
 カデンツの存在自体が街を動かす鍵ならば、遼介をわざわざ連れて行かなくても、その場から“本当の意味で”街を動かすことが出来たはずだ。
 そう、壁や路地を動かすなど、小手先の稼動だけではなく。
 問題はこの街の何処に遼介が連れて行かれてしまったのか。ということ。
 この街に後どれだけの人形が残っているのかは分からない。この数回の探索で全ての人形を輪に戻しつくしたとは考えにくい。
 ならば、水晶の輪がどれだけこちらの手に渡っているかも、カデンツは把握していないはずだ。
「輪を5つに別けて持とう」
 4つはそれぞれの懐に、1つはカデンツの前に差し出すために。
 顔を見合わせ、水晶の輪を落とす。
 それは、鈴の音を伴って、辺りに波紋を描いた。





 民家の屋根の上に現れたカデンツは、一同を見下ろし、またかという表情でやれやれと首を振った。
「私たちが今まで集めてきた水晶の輪を持ってきた。これで遼介を返してもらいたい」
 返してくれないならば、渡さないという言葉は取引材料にはならない。なぜならば、彼は自分たちが持っていた輪を、確実に取り返していたから。
「それは訊けぬ相談でございますな」
 輪が要らないのか? いや、取引にもならないだけ。
「彼には、私がこの街に封じた人形を、輪に戻してもらわねばなりません」
 カデンツの言葉に、シルフェはぱちくりと瞳を瞬かせ、まぁと口元に手を当てると、すぐさまふわりと微笑を浮かべた。
「あら、それでしたら。遼介様だけではなく、わたくしたち全員が人形さんを輪に戻す方法を知っておりますのに」
 最初に遼介だけが輪を持ち込み、そして、カデンツとの邂逅のおり、輪が奪われることを恐れ人形を元に戻さなかったことで、遼介のみが輪を戻せるのだと思われてしまった。
「遼介様をお返しいただけるのでしたら、残りの人形さんをぜ〜んぶ輪に戻してさしあげても構いませんよ」
「シルフェ…!」
 ほうっと頬に手を当てて、軽く小首をかしげる仕草を交えつつ告げたシルフェを、サクリファイスはおろおろと小さく名を呼ぶ。
「では、言い方を変えよう。遼介がいる場所に、我々も案内してはもらえないか?」
 オセロットは、努めてにこやかな表情を浮かべ、言葉を募る。
 遼介と輪と。カデンツが欲するパーツを取り上げる。そのためには、闇雲に探すよりも、彼らがいる場所へと案内してもらえば一番早い。
「遼介殿の無事をこの目で確認することが出来たなら、残りの人形を輪に戻すことに協力する」
 カデンツはしばし考えるように顎に手を当てて、空を仰ぎ見る。
「それもまたいいでしょう」
 そして、胡散臭い限りの好々爺然とした顔で笑った。
「こちらへ」
 適当な民家の入り口から入り、たどり着いたオペラホールは、暗がりに包まれ、客席とその先に舞台がある以外はっきりと見て取れなかった。
「彼を逃がしましたね?」
 カデンツの低い声がホール内に響き渡る。
 けれど、その問いに答えを返す者はいない。
 しかしこの言葉が本当ならば、遼介はカデンツの手の内から逃げ出しているということ。
「どうやら、遼介はここを脱したらしいな」
 それはつまり、再度、カデンツの手に落ちる前に見つけなければいけないということ。
 コンサートが行われていないホールは、暗がりが広がり、何があるのか良く見て取れない。
 けれど、この場所に先ほどまで遼介が居たのだろう。
「運ぶのは手間がかかるのですよ。戻ってきてもらわなくては」
 カデンツは指揮棒で客席をコンコンと叩く。
 客席が、動き始めた。
 振り返ったカデンツは、一同に向けてにこやかに微笑む。
「後ほどお目に―――」
 カデンツの目の前で、オセロットの金髪が揺れる。
 突き出された拳はカデンツの顎を捉え、体勢を崩した瞬間を狙って、そのまま床に組み伏せる。
 組み手で押さえ込めるとは思わないが、一時しのぎにはなるだろう。加え、今回は間接を極めるだけには止めぬ、確実に、外す!
 ゴキッと肩の骨が外れる音が鈍く響く。
 オセロットは振り返り、叫んだ。
「遼介を探せ!」
 カデンツにまた、遼介を取られる前に!
「オセロットは!?」
 サクリファイスが振り返る。
「私は大丈夫だ。カデンツには先の礼もしなければいけないしな」
 オセロットの瞳は、決意に満ちていた。
 誰かが何か二の句を挟む余地もないほどに。
「手分けして遼介殿を探そう」
 カデンツに案内されたオペラホールへと続く道は1本道だった。
 自分たちには脇道を知る術はない。
 ならば、早く街へと戻り、そこから遼介を探すことが先決だろう。
 オセロットを1人残していくことは確かに心配だったが、ならば2人ならば確実にカデンツを止められるかと言えば、答えはノー。
 振り返ることはしなかった。
 それは、オセロットを信じていないという事にも、なりかねないから。
「シルフェ、未来視が有能でないことは分かるが…」
「はい。遼介様が現れるような場所が視られないか、わたくしも考えておりました」
 未来視において一つ不便があるとすれば、視たい未来を選べないことだろうか。
 そして、もう一つ。
 必ずしも望むような、求めるような未来ではないということ。
「………」
 シルフェは何も告げず、小さく唇をかんで、ただ瞳を閉じた。
 シルフェが見た光景は、壁にもたれ、顔を伏せ、座り込んでいるオセロットの姿。この情報だけでは、無事なのかどうか判別がつかない。
「いかが為された? シルフェ殿」
 そんなシルフェの変化を見て取り、アレスディアは軽く首を傾げる。
「いえ、オセロット様が、街で座ってらっしゃる姿が…」
 何時も、何があろうとも駆け出すことをしないシルフェが、少しだけ足を速め、振り返る。
「早く街へ参りましょう」
「ああ」
「そうだな」
 けれど、駆け足で進む先は、長い長い暗い道。
 それにしても、行きと比べて帰りの道のりの何と長いことか。
 やはりこの街を操るカデンツが居ないことで、不必要に長い道のりを歩かされているような気さえしてくる。
 もしかしたらこの道は正規のルートではないのかもしれない。
 カデンツがこの場所へ向かうために通したショートカット。
 それでも、自分たちはこの道を通らなければ外へは出られない。
 暗闇に多少慣れてきた瞳で、アレスディアは時々振り返りながら先へと進む。
 一瞬、広さの分からない通路で邪魔になっては困ると翼をたたんだサクリファイスを見て、驚いたくらいだろうか。
 暗がりの中、行き成り壁に当たらないよう横壁に手を着き確かめながら歩く。
(これも、壁ではなく魔方陣の塊なのだな……)
 掌から伝わる感覚は、紛れも無く冷たい石のもの。石か壁に擬態した魔方陣。いや、擬態という言い方は正しくないか。通常、石を構成しているものが砂や泥ならば、この街ではその構成要素が魔方陣というだけ。
 きっと、それだけであるのだ。
 アレスディアは暗がりの中、何かに突然攻撃されてもいいよう、時々槍で進行方向の先を確かめながら、先頭を進む。
「出口だ」
 視界の先に微かに漏れる光が見えた。
 思わずほっとしたように顔が綻び、自然と足が速くなる。
 丁寧に開けるなどと言う余裕はもう無い。
 アレスディアは扉を開け放った。
 そして、目の前には、未来視の結果が―――
「オセロット殿!?」
 通路から外へ出た瞬間、壁に食い込むように座り込んでいるオセロットの姿を見て取り、アレスディアが驚きの声を上げた。
「っふ…。私のほうが早かったか」
 ある意味、ショートカットで外へはじき出されたことと同義。
 オセロットは皮肉を込めた声音で呟き、自嘲する。
 サクリファイスはばっと屋根を仰ぎ見る。大きく開いた穴。崩れ落ちている壁。
「オセロット様!」
 たっとシルフェはオセロットに駆け寄り、何か怪我をしてはいないかと、傍らに座り込み、視線を走らせる。
「問題ない。私は人ではないからな。シルフェの癒しも功を奏さぬだろう」
「それでも、わたくしは……!」
 ふっと優しく微笑んだオセロットに、シルフェは弾かれたように眉根を寄せ、スカートを握り締めるように拳を作り、俯く。
 オセロットはそんなシルフェの肩を優しく叩き、すっと瞳を細めると、鋭い視線でカデンツを見つめた。
(肉体と言うものは万能ではない。あの言葉……カデンツに取って、老紳士の身体は重要ではないのか)
 推測から導き出される答えは、カデンツの命、意思は別の場所にあるのではないか。というもの。
「あくまで邪魔立てするか……」
 屋根の上に立つカデンツを睨み付けるサクリファイスの瞳が、何故だか色を変化させているように見えた。
 徐々に…その速度は緩慢であれど、確実に、サクリファイスを狂気へと落とす焔。
 アレスディアは、握り締められたサクリファイスの拳を、下すように触れる。
「カデンツの足止め、引き受けよう」
 不必要に追い回すようなことはすまいと思っていたが、今は完全に逆だ。追うのでは無く、追われる側。そして、カデンツは完全にこちらの邪魔をしようとしている。
「サクリファイス殿は遼介殿を探してほしい」
 多分、このメンバーで一番遼介のことを考え、心配していたのは、サクリファイスだと思うから。そして、その翼で一刻も早く街の外へ。
 アレスディアは槍を持つ手に力を込めた。
(―――今回は指揮棒を狙うなどと大人しいことはせぬ!)
 確実にその動きを止める。例え四肢を砕こうとも。
「シルフェも、サクリファイスと一緒に行ってくれ」
 すっとオセロットはシルフェの背を押す。
 現状、この状況で、カデンツと対峙する2人の方が怪我を負う危険性が高い。だが、未だ見つかっていない遼介のほうが、もしかしたら重症を負っている可能性だって有るのだ。
 自分たちはまだ己の足で街を去ることが出来る。
「はい。分かりました。くれぐれもお気をつけて」
 シルフェは頷き、立ち上がると、サクリファイスの後を追いかける。
 シルフェには分かっていた。ここに残ることは、2人に余分な負担をかけることになると。
 二人は走った。出来るだけ遠くへ。
 カデンツの“逃がした”という言葉を考えるのならば、遼介が先ほど自分たちの脱したオペラホールへの入り口を使って街へ出てくるとは思い難い。
 加え、カデンツから遼介を逃がしてくれたのならば、みすみすカデンツが知るような場所の出口へと逃がすことはしないだろう。
 ただ、こればっかりは、見たこともない『誰か』の良心にかけるしかなかったが。
 だいぶ距離を離れたのか、落ち着いている街の路地の一角に立ち、未来を感じるため、シルフェはすっと瞳を閉じる。
 もし、この未来視において、遼介の未来を感じ、それがカデンツのそばだったとしても、悔いはない。
「エレメンタリス……?」
 未来視の中視えたのは、自分と同じように額に何かしらの石を持った、青年。彼は、2人の女性を連れて、教会のような場所に立っていた。
 あの、2人の女性は、多分アレスディアとオセロット。
 シルフェは思わず街の頂上にある教会を見上げ、ほっと息を吐く。未来の中で2人の無事が分かったから。
「あら…?」
「何だ!?」
 突然の赤い光が辺りを埋め尽くす。
 街全体を照らし出すかのような、不気味な赤い光。
 それは、街の頂上にある教会から発せられているものだった。
「いったい何が起こったんだ?」
「この光、嫌な…気分がいたします」
 光は程なくして、教会に集約されるように収まっていく。
 戻ったほうが良いだろうか? そんな思いに捕われる。
 遼介だけではない、アレスディアやオセロットは―――?
 サクリファイスはシルフェを振り返る。
「どうかされましたか?」
 サクリファイスの翼ならば、様子を見に行って戻ってくるまで然したる時間はかからないだろう。
 だが、その然したる時間、シルフェを1人にしておくことが心配だった。
 言い知れぬ沈黙が流れる。どちらも、心配だった。
 ガタガタ……
 民家の扉が内側から動く。
「人形か!?」
 民家の内側から現れるとするならば、まだ水晶の輪に戻していない人形の動きと考えるのが妥当。
 強度を考えれば人形はさしたる敵ではない。サクリファイスはシルフェを庇うように立つ。
「っぅ……」
 民家の扉から抜け出た黒い影は、外から入る光に目を細め、手で光を遮りながら、太陽の下にその姿を晒す。
「遼介!?」
「サクリファイス…と、シルフェ?」
 内側から扉を蹴破って出てきたのは、先日カデンツに連れ去れ、今まで探していた湖泉・遼介。
「ご無事でなによりです」
 シルフェは遼介が怪我でもしていないかと、その傍らへ歩み寄ると、そっとその手を取った。
「あ、大丈夫大丈夫。怪我とかは全然!」
 それよりも、数日間食事を取っていなかったことの方が、身体に堪えている。
 サクリファイスは自分の腕に下げているバスケットに視線を落とし、くすっと笑う。
「夕食までは待てないか」
 その瞬間、遼介の腹からは盛大な音が鳴り響き、誤魔化すようにあははと苦笑いをもらす。
 遼介はサクリファイスが持ち込んだバスケットの中身、サンドイッチを頬張りながら、やっと生きた心地を感じてほっと息を吐く。
「遼介様を先に街の外へ。わたくしは危なくなりましたら、どこかへ隠れますから大丈夫です」
 今更だが、結構ちゃっかりしているシルフェは、何かしら事が起きても全く巻き込まれない体質をしていたりする。それはつまり、逃げ足が速いとも言える。
「直ぐに戻る」
「はい」
 サクリファイスの言葉に、シルフェはにっこりと微笑み、飛び上がる2人を手を振って見送る。
 サクリファイスに吊り下げられている形で、遼介は空を飛ぶ。
「何かさ……、ごめん」
「謝るな。遼介は何も悪くない」
 そう、悪いのは、全ての現況は、あのカデンツという名の老紳士。
 ゴ―――!!
「「!!?」」
 突然目の前に生えた、大きな壁。
「っく…」
 サクリファイスの両手は遼介を支えている。
 遼介はポケットに手を伸ばし、ヴィジョンカードを取り出した。剣はない。けれど、遼介には水貴がいる。
「ミズ……つぁ!」
「どうした遼介!?」
 壁はこの間にも天へ向かって伸びる。
 まるで、2人の行く手を阻むように。
 遼介はヴィジョンカードを握り締め、苦痛の表情で奥歯をかみ締める。
「カデンツに、何かされたのか!?」
「何もしておりませんよ」
 街と、繋げた事くらいしか。
 声は辺りに響くように広がる。
「アレスディア様とオセロット様は…!?」
 路地の上、シルフェの目の前に、カデンツが立っていた。





 輪へと戻っていない人形など今更どうでも良い。外へ出たはずの水晶の輪が街へと戻り、そして、丁度良い端末も手に入れた。優しい彼は動くだろう。
 端末を、助けるために。
「仕方ありません」
 大切な、端末ですが。
 カデンツはすっと指揮棒を振り上げた。
「うぁ……」
 がくっと膝から力が抜ける。まるで生命力を吸収されているかのような、オペラホールで目覚めた時とは比べ物にならないほどの疲労感。
「遼介!?」
 サクリファイスが視たものは、遼介の頬に走る青白い光の線。いや、何かの文様に見えるこれは―――?
「私もこの場所に長く滞在したいとは思ってはおりません」
 カデンツはその口元に微笑をたたえたまま、愁いを帯びたような声音で告げる。
 ふいに、辺りの空気が変わったような気がした。
「何か聞こえてきます」
 そっと耳に手をあて、シルフェは辺りを見回す。
「だからこそ、動力の一部であるその輪を返して欲しいと言っているだけのこと」
 奏でられるは、オーケストラの絃の音か。
「今すぐにでも返して頂ければ、彼の負担も軽減されるのですが?」
 卑怯だ。カデンツは遼介の命を天秤に乗せる。返せなど言わなくても、奪うことが可能なのに。
「死には致しません。この街を飾る彫像の1つになるだけのことにございます」
 けれど、街が稼動している限り、遼介にかかる負担が減る事はないのだ。
 遼介は、一人で立つことさえままならぬ状態でカデンツを睨み付ける。自分ひとりでこれだけの負担ならば、あのオペラホールの座席で、一人残っている彼が受けている負担は……?

―――ピキィ…

「!!?」
「おや」
 指先から感覚が無くなる。
 遼介はゆっくりと震える指先を自分の視界へと持ち上げた。
「これって…まさか……!」
「結晶化している!?」
「思いのほか早いようですなぁ」
 カデンツが浮かべる昏い笑み。
 オペラホールの客席に座していた、人の形をした水晶の彫像。あれは彫像ではなく、力を全て吸い取られたヒトの成れの果て―――
「街と繋がっていることが問題なら……!」
 街の外へ出てしまえば良い!
 サクリファイスは遼介を抱き上げ、街の外へと向かって飛ぶ。
 隼のように飛び上がり、翔ける。
「う…!」
 サクリファイスは何かに弾き返され、空中でたたらを踏む。
「サクリファイス様! 遼介様!」
 名を呼ぶが、シルフェの声は二人に届いてはいない。
 しかし、シルフェは見た。
 空へ向かって上昇したサクリファイスを遮る見えない壁を。
 それは透明で、まるで弾力のある水面のように空に波紋を描き、サクリファイスを弾き返した。
「っく…」
 完全に閉じ込められた。
 いや、違う。
 街が―――稼動し始めたのだ。
 シルフェはゆっくりと顔を上げた。
「オーケストラが…」
 聞こえる。
 先ほどよりもはっきりと。
 ヒトを滅ぼす音……正確には音波か。それは、オーケストラに隠れて伝わる、不可視の衝撃。
 今、立っていられるのは、カデンツにその気が無いからだろうか。それとも、動いているだけでオーケストラは流れ出るのか。
 噂が広がったことを考えれば、稼動するだけでオーケストラが流れると考えていい。
 街の稼動。それこそが、エスメラルダが探していた、草原の管弦楽団。そして、その草原のオーケストラは、決して人の目に触れることのない管弦楽団だった。
 ならば、オーケストラが流れている間、不可視の効果を持った結界のようなもので覆われているのだろう。
 不可視になるために、街の出入りを遮断させる。
 そう考えれば、サクリファイスが弾かれた理由も(閉じ込められたことは不本意だが)納得が出来るものではあった。



 カデンツの取引は、サクリファイスやシルフェと行われているものではなかった。彼女たちを通り越し、ただ一人のヒトへと向けられた、脅迫と言う名の取引。
 カデンツ…あなたと言う人は……!
 あのオペラホールの客席で、一人の青年が悔しそうに奥歯をかみ締めた。
 ここで今、号を下さなければ、彼は物言わぬ水晶と化す。
 例えこの判断が最悪の結果を招いたとしても、今目の前の命を枯らすことなんてできない。


―――生命の鎖よ…戻りなさい





The important thing is not to stop questioning.           Albert Einstein





 水晶の輪が微かに光を放ち、自分たちの手から放れていく。
 だが、その輪はカデンツの元へ向かうのではなく、床へ、地面へ、溶け込むように沈んでいった。
 街のように見えるだけで、この街全体が巨大な魔方陣なのだから、魔方陣に取り込まれていっていると言った方が正しいか。
「輪が…!?」
 何か別の意志が働いているとしか思えない。
 浮かび上がった水晶の輪を追いかけるように、掴もうと手を伸ばすが、その指先をすり抜けて輪は地面に吸い込まれていく。
 微かな寝返りさえも打てぬほど、ぐったりと身体を横たえていた遼介は、はっと目を開く。そして、信じられないといった表情で起き上がり、自分の両手を見つめた。
「治ってる……」
 遼介は、両手を握ったり開けたりしながら、自分の手が元に戻ったことに、小さく言葉を吐き出した。
「良かったです、遼介様。本当に」
 “力”を吸い取られていくという行為に対して、水操師の力は何ら及ばない。ただ、衰弱していく様を見ることしか出来なかったシルフェは、本当に安心したように微笑んだ。が、
「良くない。全然良くないって!」
 突然叫んだ遼介に、シルフェはきょとんと瞳を瞬かせてしまう。
「どういうことだ?」
 問いかけに振り返れば、本当に街から出られなくなってしまったのか確かめるため、街の上空を飛んでいたサクリファイスが、舞い戻ってきていた。
「この街を動かしてるのは、銀髪の…皆ぐらいの年の男のヒトなんだよ!」
 ぐっと無意識に拳を握り締める。しかし、
「いや、でも動かしてるのはカデンツだから、えっと!」
 あまりの動揺に遼介は頭を抱え、ぐしゃぐしゃとかき回す。
「あーもう何て言ったら良いんだ!」
「要するに、動力源が、その青年と言いたいんだな?」
 動力源などという言い方をすると、まるで無機物をさしているように思えてしまうが、サクリファイスが例えた言葉が一番しっくりしている。
「そして、カデンツ様はその方から奪った力で、街を動かしていらっしゃるのですね」
「そう、そうだよ!」
 そして先ほど、その動力として遼介も取り込まれそうになった。
「俺が助かったのは多分……」
 彼一人で、動力がまかなえる状態になったから。
 それは、つまり―――
「水晶の鎖が、元に戻ったんだ」
 水晶の鎖を外して、輪から人形を作ることで力の分散を図り、この街を動力不足にして落とした。
 なぜ、そんな事をしたのか?
「あの少女の言葉を思えば、理解できるかもしれない」
 街が稼動している限り、誰かを殺すというのなら、街を稼動させなければいい。
 サクリファイスは、今は黒山羊亭で眠る“悪魔”だった少女の言葉を思い出す。
 カデンツは死なない。それは、何故カデンツが死なないのかと言う理由を、知らないせいではなかろうか。
「教会へ向かおう」
「え?」
 教会から赤い光がほとばしった瞬間、カデンツは何事もない姿で自分たちの前に現れた。
 オセロットたちと離れたとき、肩の骨が外れ、歪な身体の形をしていたにも、かかわらず。
 なれば、教会にカデンツの不死たる秘密があるに違いない。
 街を稼動しているものが、唯の無機物であったのなら、それを破壊して逃げるだけ。
 けれど、違うと分かった今、見捨てて行けるか?
 いや、街から出られぬ今、遼介の命だけでなく、自分たちの命もカデンツに握られているも同然。
 どちらにせよ奴は倒さなくてはならない。

 教会へ――――!

 最上層に聳え立つ教会を見上げ、ぐっと唇をかみ締める。
 天上から、カデンツに嘲笑(わら)われているかのような気がした。
















to be...







☆―――登場人物(この物語に登場した人物の一覧)―――☆


【1856】
湖泉・遼介――コイズミ・リョウスケ(15歳・男性)
ヴィジョン使い・武道家

【2994】
シルフェ(17歳・女性)
水操師

【2470】
サクリファイス(22歳・女性)
狂騎士

【2919】
アレスディア・ヴォルフリート(18歳・女性)
ルーンアームナイト

【2872】
キング=オセロット(23歳・女性)
コマンドー


☆――――――――――ライター通信――――――――――☆


 交響幻想曲 −結論へと続く遁走曲−にご参加ありがとうございます。ライターの紺藤 碧です。
 今回はかなり怒涛のペースでいろいろな謎が解けた話にしたつもりなのですが、読み取れないようでしたら一重の当方の力不足によるものです。申し訳ありません。
 加え、分岐もかなり多く、謎が別方納品ノベルにて答えが書いてある場合もあります。一旦黒山羊亭に戻ってはいませんので、エスメラルダへの報告もありません。
 そろそろ最初に提示した謎が解けなければいけないころだなぁと思っておりました。しかし、街の起動が完全阻止されていた場合は無理だったろうと思います。
 それではまた、シルフェ様に出会えることを祈って……