<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


精霊の森〜彼女の場合〜

 今日もうっすらと瞼が開く。
 地面にうずくまるようにして寝ていた千獣は、傍らに優しい気配を感じて、体を起こした。くう、と両手を上に上げ体を伸ばす。
 それから彼女は、自分がひっついていた樹を見上げた。
 ここは精霊の森。その森を司るはこの巨大な樹――宿る精霊はファードと言う。
「ファー、ド。おはよう……」
 この森に住みだしてからすっかり言いなれた言葉を今日も言っては、千獣は照れたように笑う。
 精霊は姿が見えない。声も聞こえない。
 でもこちらからの声が聞こえていることは確かで、千獣もそれを信じていた。
 だから、今日も言うのだ。彼女の太い幹に軽く抱きついて。
 おはよう――と。

 千獣は飽きずにファードを見上げていた。その樹皮に耳を当てて、樹の中で水が流れているさまを聞く。
 本当は――
 これから来る人のことでどきどき高鳴っていた心を、ファードの“心音”でまぎらわそうとしていたのかもしれない。
 そう言えば友人に言われたことがある。「お前はあいつの言うこと聞いて、幸せになれよ」。言いながらぐすっとすすりあげたのはなぜだったのだろうか。

 友人の言うところのあいつ――クルスはもう、起きただろうか?
 体に大事はないだろうか。彼の体は特殊だから。

 元気ならここに来るのだろう。そう思ったらかっと顔が熱くなった。

 クルスの普段使っている小屋からファードの場所まで、あまり近くない。なぜなのか千獣は聞いたことがない。
 ――遠くから、人の足音が聞こえてきた。敏感な感覚が鋭く反応した。
 なぜか恥ずかしくて顔が見られなくて、ファードに顔をうずめた。
 軽く苦笑するような気配があった。そして、

「おはよう、千獣」

 千獣の肩がぴくんと跳ねた。彼女は一気に振り向きたい、いや恥ずかしい――と葛藤を続け、とりあえずひっそりと肩越しに背後の人間の顔を見た。
「く……クルス……」
「うん?」
 青年は――クルスは、いつも浮かべている優しい微笑で歩いてくる。
 今日は白衣なしの白の上下を着ている。持っているのはガラス皿だ。彼は気楽な方が好きらしく、シャツの前がボタン3つほどはずされている。寒くないのだろうか、と思いながら、それよりもシャツの中にのぞく彼の引きしまった体に目を奪われる。
 と――クルスは目をそらした。そしてなぜか声を立てて笑って、
「ああ、悪い――おはよう、ファード」
「―――」
 千獣は切ない思いをする。……彼には精霊たちが見えている。しゃべることができる。
 と、クルスがまた何かをファードとしゃべったのか、
「ん? ああ」
 視線が戻ってくる。森の緑のような美しい緑の瞳が千獣を見る。
 彼は――軽く千獣の腰を抱いた。
 一気に心拍音があがった。彼の腕の中はいつだって熱い。
 そして自分は、そう、この熱さが心地よくて仕方がない。
「心配するな、千獣」
 彼の優しい声が、耳元で囁かれた。
「俺の一番大切な精霊は今腕の中にいて――姿も見えてしゃべることもできる」
「―――!」
「俺の一番大切な精霊からなら、俺の姿も見えて俺としゃべることができる」
 そう言って、クルスはいたずらっぽく片目をつむった。
「く――クルス、の、バカ! バカ! バカ!」
 千獣は青年の胸元に殴りかかった。「痛い痛い痛いって!」とクルスが訴える。
「ば、か……」
 腕の動きをとめ、蚊の鳴くような声で言った後――
 がばっとクルスに抱きついた。
「お……おはよ、う、クル、ス」
 恥ずかしそうにクルスのシャツをぎゅっと握り締めながら。

 残念ながら、こんな早朝に毎日クルスがやってくるのは、千獣が目的ではない。
「ファード」
 クルスがファードを見上げている。精霊のファードと言うよりは、樹全体を。
 ファードが何かを言ったのだろうか。
「そうか……ありがとう」
 うなずきひとつ。そしてクルスはガラス皿一枚を手に、もう片方の手と足を器用に使って木登りを始めようとした。
「ま……ま……って……」
 千獣はクルスのシャツを引っ張って止めた。
「あさ、つゆ、採りに……行くん、で、しょ?」
「? ああ」
「だったら」
 千獣は背中から、おずおずと、ちょこんと獣の翼を出した
「私、の、方、が、早い……」
 案の定、クルスが眉をひそめた。――心配そうに。
「……いいのか? そういう姿は見せたくないんだろう?」
「く、クルス、と、ファー、ドに、なら、いい……」
 クルスがファードを見る。ファードはまた何か言ったのだろうか。
 聞こえない、けれどファードが微笑んでいる気がした。
「……そうだな」
 クルスの指が千獣の髪を撫でる。
 どうしてだろう。彼の指が髪に触れるだけでどきどきする。
 思わずぷるぷるっと頭を振って、彼の指先を振り払ってしまった。そして、それからはっとした。
「どうかしたか? 千獣」
「な、なん、でも、ない……」
 ごめん、ね……小さな声が口からこぼれる。
 クルスは微笑んで、ぽんぽんと千獣の髪の毛を優しく叩いてから、
「じゃあ、朝露集め、頼むよ千獣」
 とガラス皿を千獣に渡してきた。

 千獣は思い切って、背中の獣の翼を大きく開いた。――あまり見せたくない姿、けれどこんな姿でも役に立てるなら。
 ばさり、とひとつはためいて、ファードの本体の樹の上部へ。
 そこは葉が密集していた。きらり、と陽光を受けて輝くのは葉の上の雫――
 千獣はこぼさないように、預かったガラス皿に朝露を受け止めていく。
 時々こぼしてしまった雫は、下でクルスがその手に受け止めて、千獣に向かって笑顔で手を振った。
 ほっとした千獣は、次々と朝露を集めていく――

「こんなにたくさんか。さすが千獣には勝てないな」
 下へ降りてきて翼をおさめた彼女から、樹にあった雫をあらかた集めたほどになみなみと液体が入っているガラス皿を返してもらったクルスは、うーんとうなった。
 いけないことだったのだろうか。まだ人間の喜怒哀楽を見分けることが苦手な千獣はおそるおそるクルスの顔をうかがう。
 察してくれたのかくれていないのか、クルスは微笑みを見せてくれた。
「ありがとう。これだけあれば次の研究には充分足りる」
 今までの分を足してね――と言いながら、クルスはガラスの中身を少し揺らした。
 きらり、と木漏れ日がガラスに当たって反射した。

 “何の研究をしてるの”――
 何度聞いても、
 “内緒”
 いたずらっぽくそれだけが返ってくる。
 千獣は切なくなる。まるで自分だけ蚊帳の外にいるように。

 クルスはいったん小屋に戻り、ガラス皿を置いてきた代わりに、朝食用の干し魚と飲み物を手に戻ってきた。ファードの下で食べる方が、千獣が喜ぶためだ。
「いつも保存食で悪いね」
 クルスはファードの根元に座り込みながらも、千獣に苦笑をみせる。
 千獣はふるふると首を振った。――元々彼女にはあまり味覚がない。とりあえず毒さえ入ってなければいいという感覚である。
 けれど、そんな千獣でも、ファードの近くで食事をする時は嬉くなって微笑む。
 本当は肉食である自分を見られるのは嫌だったのだが、ある日ファードに言われた。動物の輪廻は大切なことだ、と。食べていけないと思っては却っていけない、と。
 街で覚えた“人間らしい食べ方”を、干し魚を両手で持って行いながら、ふと思う。
 ――ファードは物を食べないのか……?
 いや、樹の精霊なのだから、水分を取っているのか。
「……もし枯葉とか落としたかったら、落とせるようにしてやるぞ」
 突然クルスがファードに問うた。ファードはどう応えたのだろう。
 ただ……彼女の梢がさらさら鳴って……

 朝食はクルスと千獣の微笑ましい会話で終わった。
「さて」
 持ってきた干し魚と飲み物が全部なくなったところで、クルスが立ち上がった。
「今日はどうするかな。僕はまだ研究を続行したいところだし……」
 申し訳なさそうに千獣を見る。クルスは十中八九小屋で研究に没頭してるから、あまり千獣の相手をしてくれないのだ。
 だから千獣はいつも、ファードの足下――もしくはファードに登って、昼寝をして過ごしている。たまに街へ行くくらいだ。
 クルスはあごに手を当てて何かを考えていた。
 千獣は胸元をぎゅっと両手でつかんで、それから勢いをつけて口を開いた。
「私……なに、か、おつかい、する」
「……おつかい?」
「……研究の、役に、立ちた……い」
「………」
 必死のまなざしで言うと、クルスは微笑んでくれた。
「じゃあ、お願いしようかな――」

 ++ +++ ++

 クルスの用件を聞いて、千獣はすぐにファードに頭を下げてから森から飛び出した。
 簡単なおつかいだ。すぐに済む。
 すぐに済ませて、早く戻ってこよう。早ければ早いほどクルスは助かるはずだ。
 その割には「ゆっくり行っておいで」と言われてしまったので、仕方なく草原は翼を出さずに二本足で歩く。
 ――それでも早く済ませたら、彼は喜んでくれるかな?
 千獣は彼の微笑みを思い出して、少しだけ頬を赤くした。
 やっぱり我慢できなくて、走り出す――彼の用件。それは。
『街の薬草屋へ行って、彼の言った薬草を買ってくること』――

 街までは簡単に着く。もう慣れた道のりだ。
 しかし、と千獣はふと思う。
 ――自分は白山羊亭や黒山羊亭には慣れているが、薬草店には……
 そもそもどこにあったっけ? と千獣は首をひねる。仕方ないので近くを通った人に尋ねてみようと声をかけたが、1人目の人間は千獣の姿を見るなり小さく悲鳴をあげて逃げてしまった。
「………」
 ああ、そうだっけ。千獣はのろのろと思い出した。自分は符を織り込んだ包帯で全身を覆っている、他人から見たら異様な格好なんだった。
 こんなことは――忘れてしまうほどに――慣れていた。この街でできた友人たちなどは、そんな自分を気にせず気安く声をかけてくれる。
 こうなったら白山羊亭か黒山羊亭で友人をさがしてみようか――
 思っていたら、千獣、と背後から声をかけられた。
 振り向くと、この街での友人の姿がそこにあった。
 ちょうどいい。薬草店はどこにあるかと相談してみると、お宅の恋人の方がよく知ってるだろうと冷やかされた。
 もっとも、千獣が顔を赤くしたのは『恋人』という言葉に反応しただけだったが。
 薬草店の場所も、その友人は丁寧に教えてくれた。
 ありがとうと頭を下げると、そんな彼女を友人はあごをなでながら見下ろした。
 そして――ふと、つぶやいた。
「すっかり人間っぽくなったな。お前も……お前の恋人も」

 ++ +++ ++

 薬草店に入ると、中は薄暗かった。
 女性の店員がいて、店の薄暗さをごまかすかのように明るい「いらっしゃいませ」で迎えてくれた。
「ごめんなさいお客様。薬草はほとんどが陰干しですので、店も暗くさせていただいてます」
「そう、なんだ……」
 クルスのところは格別暗くないのになあ、などと思いながら、クルスに言われた薬草を口にする。
 店員は笑顔で「あちらです」と掌を向けた。
 千獣は喜んでそこへ行く。そして――
 その薬草が、ほとんど葉の様相をしたままのものであるのに気づいて硬直した。
「この薬草は貴重品でして。少しお高くなりますが。ユニコーン地方の南から採りましたファラメントの一種で――」
 ――この桜のような形。いつだったかクルスと一緒に見た桜。
「あ、の……この、薬草……使い、かた、は……?」
 たどたどしく聞いてみると、「そうですねえ」と店員はあごをつついた。
「たいていは熱湯につけて成分の抽出でしょうか」
「………」
 千獣は想像する。あの、薄ピンク色の桜が、熱湯の中でごぼごぼ揺られるのを。
 とたんに胸が痛くなった。
「あ、の! キテラ、ステラ、って、いう、薬草……は」
 苦しさを紛らわせるために話をそらす。
「キテラステラですか。それならこちらです」
 店員は最初の薬草とは違う方向へ千獣を促し、ひとつの瓶を示した。
 瓶の中身は、粉末だった。
「こちらキテラステラは本来紅葉の仲間ですが、こうして粉末にして使うことが多くて――」
「………っ」
 千獣の脳裏に、なぜか考えようともしていないのにヴィジョンが浮かび上がる。
 ファードの葉。それがこなごなに砕かれていくところを。
 たまらず彼女は耳をふさぐ。目を閉じる。
「お客様?」
 しかし千獣の鋭い五感は少しも性能が落ちることなく店員の声を拾って。
「ご……ごめん、なさい……」
 泣きそうな声で、千獣は目をうっすら空け、手を耳から離し、
「ごめん……なさい……私、には、買え、ない……」
 ふらりと一歩。
「お客様! そのままですと転びますよ!」
 店員の忠告もどこ吹く風で、千獣は薄暗い店内から明るい街中へと踏み出した。

 ++ +++ ++

 ふらりふらりと千獣は、どこへ行くでもなく道を放浪していた。
 ――おつかい、できなかった。
 でも――でも、植物をどうにかするのは、怖くて仕方なかった。

 あのクルスは植物を主に研究材料にしているのに?

 唐突に湧いた、『彼が怖い』と思う感情。
 そんな……彼が怖いだなんて。
 あんなに優しい彼なのに。彼のやっていることは怖いだなんて。
 ファードと……これほど親しくしていなかったら、こんなことは思わなかったかもしれないけれど。
 けれど、ファードと親しくなったからこそ、クルスとも親しくなって。

 ――……。どうすればいい?

 このまま森に帰るのは怖い。クルスの顔を見るのが怖い。
 おつかいは何一つ達成できていないのに。
 今日は帰らずに、街にある寝床のひとつで眠ろうか……
 でも、きっとクルスとファードは心配する。
 ――心配する?
 ――本当に?
 私は……必要、あるの?
 ファードの本体である樹の傍にいれば、ファードの気配はいつも感じていた。
 けれど姿も見えなければ声も聞こえない。彼女は自分を意識してくれているのか?
 クルスはいつも微笑みを見せていて……
 自分のことを、本当はどう思ってる?

 ああ、ああ。

 頭を抱えてその場にうずくまりたくなった。

 ああ、ああ。

 それはすでに声に出ていた嗚咽。抱えていた頭。
 そしてふいに――肘に何かが当たったような気配がして、

「おい姉ちゃん。人にぶつかっといて挨拶もなしかい」
 昔気質のちんぴらが数人、彼女を囲んでいた。
 千獣の奥底がどくんとうずく。
 千獣の獣の部分がうずいてとまらない。

 ああああああああああああああああ!

 ++ +++ ++

 千獣の中にいる獣たちを封印している包帯が、なぜか自ら解けていく。
 ずくん、どくん、めりっ、もりっ、
 少女の体がどんどんと変形していく。筋肉は紫色にもりあがり、手は巨大に膨れ上がり、爪はおどろおどろしく黒く鋭くなって地面をえぐる。
 周囲の人間たちが悲鳴をあげて逃げていく。
 最初に千獣を引き止めたちんぴらたちは一瞬ひるんだものの、すぐに持ち直した。
「ええ根性しとるやないけ、ばけもん。悪いがこっちもただもんじゃねえ、行くぜ!」
「へい!」
 後ろにいたちんぴらは、長ドスだけでなく杖を持っていた。なんとも似つかわしくない姿だったが――
 杖の先から火の蛇が放射される。
 しかし千獣は、それを片手ですべて止めて見せた。飛び散った火が、辺りに広がる。
 その隙に、最初からドスを持っていなかった方のちんぴらが、杖もなく氷の矢を何発も放つ。
 さくっさくっと千獣に何本かが刺さった。よっしゃ、とちんぴらが喜んだのもつかの間、
 千獣は自分の体に刺さった氷の矢を自分でひっこぬいた。
 血が流れる。かと思ったら、その血もすぐに癒える。
「な……なんじゃあ、こいつ!?」
「本物のばけもんじゃ!」
「アニキ、逃げましょう!」
「ぬかせ! こんなくそガキ前にして逃げたなんてバレたら街の任侠どもに笑われるわ!」
 ちんぴらたちがじりじりと千獣の攻撃を避けながら、千獣が自分らの攻撃範囲内に入るよう移動していく――

 その瞬間。
 上から押しつぶされるようにして、ちんぴらどもは地に倒れ付した。

 ++ +++ ++

 ――誰……目の前の邪魔な連中を僕俺私より早く倒したのは……
「千獣、千獣!」
 どこかで聞いたことのある声いや聞いたことない無視しろ無視できない。
 口を開いて牙を見せても、その白服の青年はまったくひるまない。
 その瞳がふと見えた。
 眼鏡の奥底、何かを思い出させる緑の瞳。
 うっとうしい。
 どこかへ行ってしまえ。

 なぜやつは構えを取らない?
 なぜ逃げようとしない?
 ああ考えるのも面倒くさい爪で切り刻んでしまえばいい。
 深く考えることもなく、さらに巨大化した爪を振り下ろした。

 鮮血が舞った。

 その瞬間に、ヴィジョンが舞い戻ってきた。
 大切で大切で大切で大切でたまらなかった人。その人の体だけが血の海に沈んでいたこと。頭だけなかったこと。体は敵に蹴飛ばされ、侮辱されていたこと。
 目の前に、千獣の爪で深く胴体を傷つけられた人がいる。
「千獣!」
 彼は彼女の腕を両手でつかんで抱きしめていた。
 千獣、千獣、千獣――
 うるさい気にするな気になる無視できない。
 まっすぐに千獣の赤い瞳をとらえている瞳がある。あの瞳は誰のものだったか。
 緑……森の……ような……緑……
「俺が悪かった」
 青年は唐突に言った。
「俺が頼んだことが原因でこんなになったんだろう? 悪かった」
 何の話、だったか――
 それでも、何か、感じるものがある。胸の奥底に……痛い。
「ただ知っていてほしかったんだ。俺がこういうことをやっているってことを。この先、不意に知られて――嫌われる方が怖かったから……」
 ――嫌う?
 私が、目の前の青年を?
 嫌う?
 誰を?
 この人は誰?
 ――自分が傷つけた場所から、どろどろと血が流れている。ああ、目を覆ってる場合じゃない。
「く……」
 千獣は泣きそうな声で、その名を呼んだ。
「クル、ス……」

 しゅるしゅると包帯が戻ってきて、千獣の体を人間のものに収める。
 千獣はすぐさまクルスに駆け寄った。
「クル、ス、クルス、ごめん、なさい……」
 彼女の華奢な手は血まみれになることも構わず、彼の胸の傷に触れる。
 千獣の目じりには涙がたまっていた。
 クルスの指は、それを優しくで拭き取ってくれた。
「泣くな。……キミを苦しめた俺が悪かったんだから」

 ++ +++ ++

 千獣は今日、小屋の水桶の中身を頻繁に入れ替えることを覚えた。
 もちろんクルスの傷を治す過程でだが……この森の川は精霊がいるせいなのか、とても美しい。
 今も気持ちのいい飛沫を立てながら、水桶を一杯にする。
 ――この後にやることは、今日の昼の傷口拭きだ。
 水桶を両手に持って、彼女は早足に歩く。早くクルスの傷を癒したい。その一心で。

 小屋のドアを開け、足を踏み入れると、ふと視線を感じた。
 ベッドの方から――
「クルス……!」
 思わず持っていた水桶を放り出すように床に置きながら、ベッドに近づく。
「……千獣か……」
 彼はすぐに体を起こそうとした。そして痛そうに顔をしかめた。
 ダメと千獣はクルスの体をベッドに寝かしつけた。
「ま、だ。傷、治って、ない」
「………」
 クルスはすとんと体から力を抜いたようだった。
 彼は出血多量だった。だが千獣はいい治療の仕方を知らなかった。血が出ていればとにかく舐める。そう思って、ぺろぺろ舐めていたのだが、
『………』
 暖炉の炎が蛇状になって、つんつんと熱い先端で千獣の肩をつついた。
 その後はグラッガ蛇の示す通りにしていけば、クルスの出血は見る間に止まり、千獣は舐める以外の治療の仕方を覚えた。
 今はもちろん舐めたりしない。手ぬぐいと水桶を活用――
 ふと見ると、クルスが顔を真っ赤にさせていた。
「どう、した、の? ね、つ?」
 その問いにも、彼は応えてくれなかったが――

 ++ +++ ++

 元々不老長寿のクルスは回復が早い。そのことは千獣も感じていた。
 千獣とまだ朝と言える時間に街でやりあい、その日の夜にはもう起き上がれるようになっていた。
「薬草のこと……やっぱり嫌かい?」
 起き上がれるようになったクルスは、真っ先にそう言った。
「………」
 千獣はうつむいた。
「やっぱりだめか……」
 クルスは息をつく。「今作っていたものは、薬草製だからな」
「……な、何、を、作っ、て、た、の……?」
 クルスは立ち上がり、すでに完成しているらしいピンク色の少しとろみのある液体を手にする。
 それを半分残して小瓶に入れなおし、
「……キミにあげるために、作っていた」
「私、に……?」
「ついておいで」
 言われるままについていくと、行き先はファードのいる場所だった。
 クルスに背中をぽんと叩かれ、
「それを一口飲んで、ファードに話しかけてごらん」
「………?」
 千獣は疑うことなく一口飲んで、ファードに向かい、
「ファー、ド。元、気、だっ、た?」
 今日一日、クルスの看病で傍にいなかったことを詫びようとした。
 すると――
『よいのですよ、千獣』
 声が――した。
『クルスを癒すのは私たち精霊全員の願い。代わりに叶えてくれてありがとう……』
「―――」
 千獣は口をぱくぱくさせた。
 ファードの姿は見えない。だから、インパスネイト《擬人化》させたわけではない。
 なのに、ファードの声がはっきり……聞こえた。
「一時的に、ファードと耳の感覚が同じようになる薬を作ってみたんだ」
 クルスは成功したことに満足感を感じているようだった。
「ファード以外の精霊にはきかないし、効き目もあまり長くないけどね――」
 キミに、とクルスは千獣の、小瓶を握る手に触れる。
「キミが喜んでくれるのは何だろうと考えて、……他に俺にはできることがないから……」
「クル、ス……」
 千獣はぎゅっと小瓶を握って、
「ファー、ド」
『何ですか? 千獣』
「ファー、ド、ファード!」
『もう、かわいい娘なんだから』
 千獣の瞳が幸福であふれた。
『かわいい娘。私のかわいい……』
 包まれるような感覚。ふわり、ふわりと……

 ++ +++ ++

 その日の夜、千獣はファードに登って木の枝で眠ることにした。
 眠る前に少しだけお話したかったので、小瓶の中身を少し減らして。
「あの、ね、ファード」
『何ですか?』
 千獣はくすくすと笑う。
「他、には、クルス、に、は、何も、できない、なんて」
 木の枝にうずくまるようによりかかりながら、幸せそうに彼女は微笑んだ。
「――私、の、こと……一番、幸せ、に、して、くれる、のは……クルス、なのに、ね」
 ファードはしばらく考えたようだった。そして、
『今夜はクルスの元でお眠りになったら?』
「え……?」
『きっと優しく迎えてくれますよ』
「………」
 千獣はきゅっと胸をつかんだ。それからすとんとファードから降りて、
「……ありがと。ファード」
 そして少女は走り出す。ときめきを胸に抱きながら……


 ―FIN―


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3087/千獣/女/17歳(実年齢999歳)/獣使い】

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■         ライター通信          ■
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千獣様
お久しぶりです、笠城夢斗です。
大大大遅刻をしてしまい、申し訳ありません。
ある一日、のはずなのに何か内容が……物騒です……ていうか複数の日のような気がしてしまいますね……
千獣さんを獣化させてしまって申し訳ありませんでした。足りない部分はクルス側で補ってます。
本当はクルス編と横並びにして読んでいただけると(読みづらいですが)少しは面白くなったかもしれませんw
とにかく頑張りましたので、よろしければ読んでやってください。