<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


『孤月哀切』

 ユニコーン地域から僅かに外れた森の中に、どの国にも属していない集落がある。
 集落の住民は、行く当てのない子供達ばかりであった。家とはいえない粗末な小屋や、洞窟、木の洞に身を潜めている。
 捨てられた子供もいれば、異世界から迷い込んだ子供もいた。
 彼等は毎日のように近くの街に繰り出し、物乞いや窃盗をして生き延びている。
 聖都エルザードの貧民街にも、この集落から流れてきた子供が多く存在しているらしい。逆に、エルザードからこの集落へ子を捨てに行く者も多いようだ。
 多くの問題を抱える聖都には、彼等を救う余裕がなかった。また、裕福な者であっても、国に属さない彼等より、聖都の住民への援助を優先すべきと考えていた。
 そんな彼等の元に、時折施しにやってくる一団がある。
 装飾の施された立派な鎧を着た男が数名。そして付き従う傭兵達。
 その一団に認められた子供は、彼等の国へと招かれるのだという。
 子供達は毎晩、彼等の言いつけを守り、与えられた薬を飲んで、月明かりの中鍛錬に努めていた。

**********

●序章
「エスメラルダさん、この依頼報酬額が書かれてないけど?」
 冒険者の一人が、掲示板に張られた1枚の依頼書を指して言った。
 周りの客達もその依頼に目を留める。
「それね、貧民街の子供からの依頼で、報酬はないのよ。出世払いって言っていたわ」
 依頼書の内容は、ユニコーン地域外にある子供ばかりの集落の調査であった。
 先日、依頼人が集落を訪れると、大勢いたはずの子供達が10分の1以下に減っていたのだという。
 そして、辺り一面には血と傷の跡があった。
 残っていたのは、幼子のみであり、正確に事態を説明できる者はいなかった。
 魔物に襲われたのであれば、幼子だけが残っているのは不自然である。
 そのため、近くに用事のある大人に、ついでで構わないので調べてもらいたいとのことであった。
「この依頼を見た詩人のお客が言っていたのだけれどね」
 エスメラルダは客達を見回して、言葉を続けた。
「その集落の子供達は恐ろしく生命力が強いらしいのよ。近隣の街では悪魔の申し子達って呼ばれているらしいわ。子供達同士で生き残りをかけて死闘を繰り広げてるって噂もあるし。……興味本位で関わるべきじゃないかもね」
「恐ろしく生命力が強いガキに生き残りをかけての殺り合い……楽しめそうだな」
 短く口笛を吹き、意外な反応を示したのはリルド・ラーケンという青年であった。
 言葉通り、口元が緩み、薄い笑みを浮かべている。
「貧民街の子供からの依頼っつーのが気になるな」
 空になったグラスをエスメラルダに渡し、追加を注文しながら多腕族の戦士、シグルマが呟いた。
「あんたも行くのか?」
 リルドの問いに、数秒考えた後、シグルマは首を横に振った。
「いや、報酬が期待できそうにねーしな」
「そうか。じゃ、俺一人で楽しませてもらうぜ」
 そういったリルドの肩に、手を乗せる者がいた。
 賞金稼ぎの、ケヴィン・フォレストである。無表情で無言。しかし、視線は依頼書を真直ぐ見つめていた。
「なんだ? なんか、やる気のなさそうなヤツだな……。行くっつーんなら、ついてきても構わねぇが、邪魔するようなら一緒に叩き切るぜ」
 リルドの言葉にケヴィン軽く頷いて、肩から手を離した。

●疑念
 街は普段と変わらず活気に溢れ、行き交う人々の表情も明るい。
 普段と何も変わらない――しかし、冒険者のワグネルは極小さな変化に気付いていた。
 盗賊ギルドに籍を置き依頼をこなして生計を立てている彼にとって、情報源の存在は必須である。
 ワグネルは情報収集の手段として、スラムの子供達を使うことがあるのだが、最近、贔屓にしていた少年達の姿が見られない。
 彼等が姿を見せずとも、街に影響はなく、人々は気付かない。
 しかし、ワグネルは違った。遠方から来ていた少年達の姿が見られなくなったことに、いち早く気付いたのだ。
 そんな折、ワグネルも黒山羊亭であの依頼を目にした。
 自らの仕事にも影響することであるため、ワグネルは軽く調べてみることにする。
 子供同士の抗争の結果であるならともかくとして、狂犬病等、疫病の結果であるなら、集落に近付くことも危ない。
 ワグネルはとりあえず街の治療院を訪ねてみることにした。
 ベルファ通りの外れに、自分達冒険者が気軽に利用できる治療院がある。認可されていない治療院ではあったが、ここでは薬治療や手術の他、魔術治療も行われており、時折難病を抱えた富豪や騎士も訪ねてくるらしい。
 ワグネルは受付の女性に、流行り病やスラムの子供が運ばれていないか訊ねてみるが、こちらでは特に変わったことはないようであった。
「ワグネル、さん?」
 突如、か細い声が耳に入った。
 振り向けば、この場所に似合わない小奇麗な格好をした少女の姿があった。
「あ、ホントだ。ワグネルだ!」
 彼女の後ろから、見慣れた少女も顔を出す。彼女の名はキャトル・ヴァン・ディズヌフ。事件等で何度か行動を共にしたことがある。
 キャトルは街では髪を黒く染めていることが多く、今日の髪の色も黒だった。
「あの時はありがとうございました」
 小奇麗な格好をした少女が頭を下げる。彼女の名は……確か、ミルト。資産家の娘だ。以前、彼女の家族からの依頼を受け、集まった仲間と共に、攫われた彼女達を救出したという経緯がある。
「どうかしたのか?」
 監禁時、彼女はなんらかの薬を飲まされたらしい。その影響か、それとも精神的なものか、彼女は脱出の際、歩くことができなかった。
 ミルトとキャトルが顔を合わせる。ミルトがキャトルに小さく頷くと、キャトルは柱の陰に二人を導いた。
「あれからあたしたち、仲良くなってたまに会ったりしてるんだけどね」
 少女達は僅かに微笑み合う。あの事件をきっかけに友達になったらしい。
「最近、ミルトが通り魔に襲われてさ」
「通り魔?」
「うん。命に別状はなかったんだけれど、結構酷い怪我をしてさ」
 怯えた表情をしているが、ミルトは包帯などをしておらず、傷を負っているようには見えなかった。
 突如、キャトルは手を伸ばし、ミルトの襟を掴んで引っ張り、ずらし下ろした。
 少女の白い肌が露になる。肩から胸にかけての深い傷跡……しかし、ほぼ完治しているようだ。
「キャトルちゃんっ」
 抗議の声を上げて、ミルトは服を戻す。顔も身体も真っ赤に染めてぎゅっと自分の襟を掴み、俯いた。
「これ、2日前の傷だよ。魔法も魔法薬も使ってないのに、もうここまで治ってる。変だと思わない?」
 確かに、尋常ではない回復力である。
「今まではこんなことなかったの。転んで膝をすりむいた時も、治るまで何日もかかったし……」
 ミルトの言葉から考え、思い浮かぶのはやはりあの時彼女が飲まされた「薬」である。
 もう一つワグネルの頭を過ぎる言葉があった。
 それは、黒山羊亭で囁かれる噂話。
 集落の孤児達は、恐ろしい生命力を有しており、軽い怪我であるなら数分、深い傷であっても僅か数日で治るのだという。 
 そういえば、ワグネルが使っていた子供の中にも、不思議なほど回復力の高い子供がいた。
 嫌な予感がする――。
「傷が早く治った他に身体に異変はないんだな?」
 ワグネルの言葉に、ミルトは首を縦に振った。
「ここの院長も、何も異常ないって言ってた。でも、ミルトの身体に普通じゃない変化が起きているのは確かだし――」
「私達は……」
 キャトルの言葉の続きは、ミルトが語った。
「私が襲われたのは、通り魔の仕業じゃなくて、あの人達が……実験の成果を確かめようとしてだと思ってるんです」
 言った途端、ミルトの眼から涙が零れ落ちる。
「考えすぎだろ。あんたが薬を飲んだことを知ってる人物はいないはずだ」
 ワグネルの言葉に、キャトルが首を横に振る。
「ううん。あたしら、あの時色々検査をされて、写真と血も採られたから。どこかに連れて行かれた女の子達と一緒に、あたし達のデータも持っていかれて、黒幕の手に渡ってると思うんだ。素性は知られてないはずだけれど、ミルトは金持ちの子供だし、探し出すのは簡単だろ?」
「しかし、それなら通り魔を装ったりせず、拉致して実験した方が手っ取り早い。様々なパターンを試せ、回復力を確認できる。実験が終わった後も痕跡を残さず――」
 ワグネルの言葉途中で、ミルトが激しく泣き出し、キャトルにしがみついた。
「あー。すまん……」
 ちょっと過激な発言だったかと、ワグネルはばつが悪そうに謝罪する。
「泣かない泣かない! 泣いてても何も解決しないよ!」
 キャトルがミルトの背を叩き励ますが、ミルトは一向に泣き止まない。
「とりあえず、親父さんに話してボディガードを大勢つけてもらえ。俺は違う方面から探ってみるから」
 泣きながらミルトが頷く様を確認すると、ワグネルはキャトルと眼で頷きあって、一人治療院を後にした。

●目指すは――
「そうですか。失礼いたしました」
 自警団に所属するフィリオ・ラフスハウシェは、礼儀正しく一礼をし、その家を後にする。
 本日、フィリオは非番である。近くの迷宮を探索した帰りに、少々足を伸ばし、この村までやってきた。
 そろそろ日も暮れようという時刻である。
 彼がこの村に寄った理由は、先日黒山羊亭で見た依頼書にある。
 フィリオ一人に出来ることは少ないが、依頼や噂の真相を知れば、自分に出来ることもあるだろうと思っての行動だった。
 捨て子達が暮す集落から一番近いこの村には、頻繁に子供達が訪れるという。
 しかし、この村の人々も決して裕福ではないため、子供達に施す大人はいない。もし、一度でも食べ物を与えてしまうと、捨て猫のように寄ってきて纏わりつかれてしまうからだ。
 その子供達のうち、年長者の姿を最近見かけないのだという。
 そして毎日――日が暮れた頃に、山の方から争うような声が聞こえるらしい。
 爆発音や破裂音が響くことも、多々ある。
 村人は恐怖のあまり、夜間は出歩かず、家の中で息を潜めているそうだ。
「本当にそれ以上知らねぇんだな?」
「し、知りませんよ」
 若い男の声と、怯えたような少年の声にフィリオは振り向く。そこには、見覚えのある男の姿があった。
「リルドさん、でしたよね?」
 近付いて声を掛ける。リルドの隣には、もう一人青年の姿がある。こちらの青年はつかみ所のない独特な雰囲気を持っており、リルドの行動を止めるでもなければ、援護するわけでもなく、ただ側に立っていた。職業上フィリオは彼のことも知っていた。賞金稼ぎのケヴィン・フォレストである。
「あ? ……あんたは」
 名を呼ばれたリルドは、フィリオの顔を見て、眉を寄せる。記憶を探り、名前を思い出す。
 先日、リルドはフィリオと行動を共にしたことがある。しかし、その際にはフィリオは今と違った姿であったため、思い出すのに多少の時間を要した。
「フィリオ……だったよな。何故ここにいる? 自警団が調査するような事件じゃねぇと思うんだが」
「仕事ではありません。個人的に気になったもので。それにしても、それではまるで恐喝しているみたいですよ。怯えていますし、放してあげてください」
 リルドの手は、村の少年の襟を掴んだままだった。
 言われて手を放すと、少年は一目散に走り去った。
「それと、貴方はケヴィンさんですね?」
 フィリオの言葉に、ケヴィンは無表情のまま頷く。
「目的は近いようですし、よろしければ、情報を交換しませんか?」
 フィリオの提案に乗り、3人は情報交換をすることにする。
 リルドとケヴィンはここに来る前、孤児達が暮している集落へと寄っていた。
 戦跡を見るに、付近に残る傷痕は圧倒的に刃物による傷が多い。
 血の跡は人の血のようだが、肉片は一切残っていない。
「それと、さっき脅した子供だが」
「……やっぱり、脅していたんですね」
「いや、そういうわけじゃねぇんだが、何か隠してるようだったんでな……。さっきのガキはな、集落の子供と間違われたことがあるそうだ」
 非番とはいえ、フィリオは自警団員である。滅多な発言は出来ないため、軽く口を濁しつつ、リルドは続けた。
「立派な鎧を着た男性に薬を渡されたらしい。何の薬かと訊ねたら、『体力がつく薬だ。飲んで山頂に来い』と言われたそうだ」
「体力がつく薬に、山頂、ですか……」
「そういうことだ」
 それ以上、言葉を交わさずとも、3人の意思は一致していた。
 ケヴィンが無表情で見上げたのは――集落の在る山の山頂であった。

●月下の謀策
 日が沈み、月明かりだけが頼りであった。
 携帯ランプも用意してはあるが、今下手に明りをつけ、自分達の存在を知らせることは危険だと感じていた。
 幸い、今日は満月である。天気もいい。
 子供達が頻繁に通っている山道は、さほど険しくはなかった。
 登り始めて数十分。頂上に向い歩き続けていたフィリオ、リルド、ケヴィンの耳に、荒い息遣いが届く。
 言葉を交わすまでもなく、3人は木陰に身を潜め、音の先に神経を集中した。
 呼吸音が近付く――。
 重い足取りで現れたのは、10歳前後の少年だった。
 両手で長剣を握り締めている。右腕の服が裂け、血が流れているようだ。
「殺せ」
 低い声が響いた。少年のものではない。
 山上に、少年を見下ろす男の姿があった。黒い鎧を纏った青年である。
 男の元から走り下りる影があった。
 ――少女だ。黒い髪、貧しい身なりの12歳くらいの少女である。
 レイピアを手に、少年の元に駆け寄り、彼女は跳んだ。
 剣が交じり合う高い音が響いた。
 彼女の剣を受けたのは少年ではなかった。
「やめてください」
 彼女のレイピアを刀で受けたのは、フィリオである。
「あの男性に、やらされているのでしょう? あなた方には戦う理由も、必要もありません」
「理由はある」
 フィリオの剣を振り払い、少女は間をとった。
「やめさせなさい!」
 フィリオは声を大にして、未だこちらを見下ろしている青年に言った。
 彼女だけではない。
 背後にいた少年も、フィリオに剣を向けていた。
 二人が一斉に飛び掛る。しかし、二人の剣は、フィリオに届く前に、振り払われていた。
「ケヴィンさん」
 飛び出したケヴィンの棒が、二人の剣を弾き落としていた。表情を変えず、ケヴィンはフィリオを見た後、僅かに首を鎧の男に向けた。
 行けという意味だと気付き、フィリオは頷いて、山道を駆け上がる。
 既に、リルドの姿はない。
「邪魔だっ! こいつを倒せば、こいつを倒せば俺は――」
「私は!」
 体勢を整えた少年と少女が、同時にケヴィンに斬りかかる。
 足場は悪い。しかし幸いなことに、この場所は道幅が十分にある。
 棒を持つ脇を閉め、もう片方の腕を顔の前に上げ、構える。
 先に到達した少年の剣を、強く打ち上げて受け流し、そのまま棒を打ち下ろし首筋を殴打する。
 即座に棒を逆手に持ち替え、脇腹に迫る少女のレイピアを受け止め、左足を軸に身体を回転させ、少女の身体ごと弾き飛ばす。
「貴様も、敵か!」
 別の方向から声が響いた。十代前半の少年だ。剣を持つ姿がなかなか様になっている。
 倒れていた少年少女が起き上がる。普通の子供であれば、数時間は目覚めないほどの力で殴ったはずなのだが。
 自分を見る少年達の眼はまるで飢えた野獣のようだった。
 手加減は不要なようだ。
 10歳前後の少年は手負いの野獣だ。がむしゃらに繰り出される剣を、ケヴィンは素早い棒捌きで受け流し、体勢が崩れたところに、先ほどより重い一撃を浴びせる。
 12歳ほどの少女は、まるで豹だ。軽やかなステップで、鋭い突きを放ってくる。1撃目を躱し、2撃目は棒で弾き、繰り出された3撃目を打ち落とし、振り抜いて脇腹を強打する。
 倒れる姿を確認する間もなく、新たに現れた10代前半の少年の剣がケヴィンに振り下ろされる。棒を振り上げ、受け止めるが、弾き返せない。なかなかの力だ。……月明かりに映し出されたその少年の剣には、血がついていた。
 脇へと跳び、互いに間合いを取る。ケヴィンは右肩上に棒を構える。少年は両手で剣を構え、地を蹴り、ケヴィンの間合いに飛び込む。棒先を下方に変え、ケヴィンは突きを放つ。
 少年の剣が到達する前に、ケヴィンの棒が少年の腹部を打っていた。
 しかし、少年はケヴィンの一撃に耐え、そのまま剣を振り下ろす。ケヴィンは身を屈め、棒を持ち替えて、後部で少年の剣を受け止めるが、予想外に重い力に押し負け、腕に刃が食い込んだ。
 目の端には、打ち倒した少年と少女が僅かに動く様が映る。
 自分も剣を使えば、倒せる相手ではある。しかしそれは“殺す”ということだ。
 剣を使うべきか否か――。
 自分には判断できそうもない。
 ケヴィンは己の価値を戦術にしか見出せていない。
 相手が賞金首でないのなら、他者の考えに従うまでだ。
 先ほどのフィリオの言葉を思い出し、ケヴィンは方針を決める。
 膝を、落とす。
 少年が振り下ろす剣に、低い姿勢から思い切り棒を打ち上げ、剣を弾き落とした。
 そしてまた、棒を構える。

「止めさせてください」
 駆け上がった先には、小屋があった。
 黒い鎧を纏った男は、フィリオを薄ら笑いで迎える。
「奴等は自分の意思で戦っている。止める理由などない」
「そう教え込んだのでしょう? 未来ある者の命を弄んで、貴方達は何を求めているんですか」
「俺達が彼等に求めているのは、強さだけだ。奴等には殺し合う理由がある。奴等にとって、生きることは戦いだ。守ってくれる家族は存在せず、生き延びるためには、日々戦わなければならない。俺達は、奴等に生き延びる手段を一つ示してやったにすぎない。強い者だけを、生かしてやるとな」
 要するに、勝者だけに施しを与えるという意味だろう。
 この男の言葉に乗ったにしろ、少年達の行動は異様である。
「……弱者には、生きる権利がないとでも?」
「そうは言っていない。しかし、彼等が生きる世界は違う。弱者を待つのは死のみ。ならば、強者となり俺達の国で生き延びる道を選ぶ――それは当然のことだ」
 男は、後ろ手にドアを開ける。
「次、出ろ」
 男の声を受け小屋から出てきたのは、10歳に満たない少年2人だった。
「ハンデを与えてやっている。見所があれば、若い方が尚使いやすいからな」
 男が短く、「やれ」と言った途端、少年達は小剣を構え、向き合う。
 子供達の眼に迷いはなかった。
「止めなさい!」
 剣を振り上げた子供達の間に、呪文を唱えながらフィリオは飛び込んだ。
 片方の剣を刀で受け止め、もう片方を風魔法で転ばせる。
「あなた達は洗脳されているんです。こんなことをして、何になるというんです!」
「ご飯が、食べたいんだ……」
 子供の口から言葉が漏れた。
「こんな生活嫌なんだ!」
 倒れた少年が叫びながら起き上がる。
 再び、少年達は対峙する。
「抜け出す道は、他にあります!」
 フィリオが言った途端、剣を抜く音が響いた。
 黒い鎧の男が、長剣を抜き放っていた。
「甘い。エルザードの民はやはり考えが甘い。どんな道があるという? このガキ共は、施しを受けねば、大半は幼くして死ぬ運命」
「それでも、殺し合う理由にはなりません」
 強く言い放ち、フィリオは少年達を牽制しながら、男に刀を向けた。
 心を落ち着かせ、フィリオは周囲の呼吸を、読む。
 剣を振り上げた子供達を、左手を振り風の衝撃派で突き飛ばすと、その反動も利用し、男の懐に入り込む。
 男は足を引き、直撃を避ける。フィリオの剣は男の脇腹を掠めた。分厚い鎧に阻まれ、殆どダメージはないようだ。
 間合いをとりながら、男が笑みを浮かべた。
「俺は斬るのか? 俺もあの集落の出身だ」
 月明かりに照らされたその顔は――まだ、若い。10代後半だろうか。
 フィリオが一瞬の戸惑いを見せたその瞬間に、男の剣が空を裂き、フィリオに下ろされた。躱そうとするフィリオだが、足が動かない。見下ろせば、突き飛ばしたはずの少年がフィリオの足を掴んでいた。
 身体を捻り、直撃を避ける。しかし、男の剣はフィリオの左肩口を深く切り裂いていた。
 強い衝撃派で吹き飛ばしたはずの少年達は二人とも、よろめきながらも起き上がっている。
 恐ろしく生命力が強いとは聞いていたが、確かに尋常ではない回復力を有しているようだ。
 少年の手を振り払い、フィリオは青年の次の一撃を躱すと、「すみません」と小さく言い、二人の少年の鳩尾に、鞘で強烈な一撃を叩き込んだ。即座に身を翻し、剣と鞘を頭上で交差させる。そこに、青年の剣が振り下ろされた。
 風魔法で青年の足を掬う。だが、青年は簡単には体勢を崩さない。
 剣に込められた力も相当なものである。
「今のあなたは、別の道を歩むことができるはずです。自分の力で望む道を切り開けます!」
「自分で切り開いた未来が、今だ」
 子供達が再び立ち上がる前に、決着をつけなければならない。
 意を決し、フィリオは魔法の方に精神を傾ける。
 男の剣がフィリオの髪に触れたその瞬間、男は下方から湧き上がった風に足をとられ、体勢を崩した。
 瞬時にフィリオは鞘を捨て、刀の一撃に全ての力を注ぐ。
 鎧の継ぎ目部分に、強い一撃を叩き込んだ。
 但し、刀の背で――峰打ちだった。
 殺すことは、出来なかった。

 死角から回り込み、リルドは小屋を目指した。フィリオより遅れて、小屋の裏に出る。
 裏口の前に傭兵と思われる男が一人。見つけるや否や、リルドは剣を抜き放ち、斬りかかる。リルドに気付いた直後には、男は斬り伏せられていた。
 ドアを蹴破り、中を見回す。
 幼子が2人。そして、豪華な鎧を纏った30歳前後の男が一人。
「どんな目論みがあるのか知らねぇが」
 リルドは男に剣を向けて不敵な笑みを浮かべる。
「ガキ同士殺り合わせんなら、その前にお前が俺と殺り合えッ」
 男が立ち上がるより早く、斬り込んだつもりだった。
 しかし、剣を下ろした先に、男の姿はない。
「悪くない眼だ」
 真横からの声に反応し、瞬時に薙ぐ。
 男は自らの剣で、リルドの剣を受け止めた。
「腕次第では、我々は貴様を受け入れてもいい」
「……なんのことだ」
 リルドは男の剣を払い、僅かに距離を取る。男から目を逸らさぬまま、足下の雑貨を蹴り飛ばし、足場を広げた。
 男の重い一撃がリルドに振り下ろされる。リルドは、剣で受け流しながら、横に跳ぶ。
 剣を持つ右手が軽く痺れている。尋常ではない力だ。
 次々に繰り出される剣に、リルドの身体の芯が熱くなる。
 心が高揚する。のめり込み、惹きつけられるように、剣を捌いては、リルドも攻撃に移す。
 男の剣が壁に刺さる。力任せに、男は剣を薙ぎ、部屋の一角が崩れる。その隙に、リルドは男の首めがけて、剣を突き出す。男は、身を逸らしてリルドの突きを避けた。
 狭い。踏み込みが足りねぇ……。
 目を合わせた男とリルドは、何も言わずとも、同じ行動に出た。
 剣を振り、小屋を破壊しながら、外に飛び出す。
 先に仕掛けたのはリルドの方だった。
 右足から、踏み込む。
 相手の間合いに入り込み、剣が振り下ろされるより早く、切り上げる。男は首を反らして直撃を躱す。直後に、男の剣がリルドを襲う。
 足を地に滑らせ、リルドは体勢を低くする。振り下ろされた剣は、リルドの腕を掠めるに留まった。間を開けず、リルドは剣を払い、男の胴を狙う。男は剣を立てて、リルドの払いを受けた。互いに飛び退き、間合いを取る。
 肩が熱い。身体の高揚に混じり、痛みは感じないが、手に落ちてくる血は煩わしい。
 リルドは血を服で拭いながら、男を睨む。男の首筋からも、赤い液体が流れ出ている。
「貴様は、戦いを愉しんでいる」
「だからどうしたッ」
 再び男に斬りかかる。
 リルドが繰り出す剣を、男は払いながら、言葉を続けた。
「我々は、戦いの中に生きている。我等の同志には、戦いを好む猛者が多く存在する。そして貴様もまた、その者らと同じ眼と、潜在能力を持ち合わせている。貴様が望むのなら、推してやってもいい」
「うるせぇッ!」
 余裕があるのが気に食わなかった。リルドは次々に剣を繰り出す。
 ――男が、浅く笑った。
 次の男の一撃で、リルドの身体は数秒宙に浮いた。剣で受け止めたのだが、完全に押し負けた。
 着地すると、剣を構えたまま、即座にリルドは呪文の詠唱を始める。しかし、発動する寸前に男の突きがリルドを襲い、リルドは集中を途切らせてしまう。……正直、水場が遠い所為か、調子はあまり良くない。
 尋常ではない一撃だった――受け止めていた剣が、音を立てて二つに折れた。
 僅かに身を反らすので精一杯だった。男の剣が、リルドの肩から脇まで大きく斬り裂いた。
 高まっていた感情と、身体から湧き出る熱さ。
「ぐ、ああああ」
 瞬間、リルドの中で、何かが弾けた。
 身体に変化が起こるのを感じる。
 熱さが限界を超え、変化に身を投じる。
 身体が鱗に覆われる。
 瞳の色は黄金へと変わる。
 リルドの意識は既に吹き飛んでいた。
 彼の体内に在る竜の生存本能が具現化し、暴れ出す。
 男が眼を細めた。初めて見せた、僅かな動揺。
「まだ幼竜か。ならば」
 剣を構えた男は、呪文を口ずさみながら、剣を一閃した――。

「リルドさん、リルドさん!」
 強く身体を揺すられて、目が覚める。
 瞬間、胸の辺りに激しい痛みを感じ、顔を歪めた。
 左手で、はだけた胸に触れた。ざらつく感触がある。手についていたのは、乾いた血だ。
「血は止まっていますが、無理はしないでください」
 フィリオに支えられ、リルドは身を起した。
 目だけで辺りを見回す。
 小屋があった場所は瓦礫と化している。
 周囲の木々が、強引に折られたかのように倒れている。
 手と足を縛られた子供達の姿。
 側には、ケヴィンの姿もあった。相変わらず無表情だ。
「奴は?」
「奴? 私が駆けつけた時には、あなた一人でした。何があったのですか?」
 フィリオの問いに、リルドは正確に答えることはできなかった。
 剣が折れた後の記憶がない。
 無事だということは、相手を倒したということか――?
 否。
 恐らく自分は見逃された。
 リルドは血のついた左手で、顔を覆った。
 怒りに身体が震える。
「次は――殺す――」

●哀切
 木の葉を染めている赤黒い血の跡と、臭い。
 木々についた傷は、刀傷のように見える。
 ウィノナ・ライプニッツは軽い眩暈を覚える。
 先日、郵便屋である彼女は貧民街に住む知人から、郵便物を預かった。
 友を気遣う手紙である。
 時折エルザードに顔を出していた知人の友が、長期に渡り姿を現さないのだという。
 その友が住んでいるのが、この場所――ユニコーン地域外の森にある小さな集落だった。
 ウィノナは覚悟を決めて、受取人が暮しているという場所へ向った。
 集落の入り口付近にある、人の手で掘られたと思われる洞窟だ。
 その場所に、人の姿はなかった。
 見回してみても、目に映るのは今にも絶命しそうな幼子の姿だけだった。
 助けようにも、人数が多すぎる。食料も持っていない。
 ウィノナは少年の名を呼びながら歩き回る。
「あーあー」
 小さな声に振り向けば、草を口に入れた幼子の姿があった。女の子のようだ。
 幼子の手が、山頂を指した。
「あっちにいったの?」
「あーあー」
 まだ、言葉を喋れないようだ。
 信憑性は薄いが、行ってみるしかないとウィノナは思った。

 嫌な雰囲気が漂っている。
 集落の状態を見たからだろうか。
 言いようもない不安が押し寄せてくる。
 まだ集落から登って直ぐの場所だ。引き返すのなら、今のうち、だろうか……。
「くたばれ、レノア!」
 少年の声が響いた。
 続いて、金属がぶつかり合う音が響く。
 レノア――それは、ウィノナが探している人物である。
 ウィノナは、急いで声の方向へ走る。
「ぐあっ」
 倒れた少年の背を踏みつけ、剣を振り上げている少年の姿がウィノナの目に飛び込んできた。
「やめろッ!」
 飛び出して、少年に体当たりを食らわせる。
「何やってんだよ! 二人共、集落の子だろ!?」
 これは、喧嘩なんて生易しいものではない。彼等は本気で斬りあっていた。
 踏みつけられていた少年が剣を拾い、立ち上がる。至る所の服が破れ、血が流れている。
 踏みつけていた方の少年がレノアのようだ。依頼主から聞いていた特長と一致する。
「手紙を預かってきた。キミの友達からだよ」
 手紙を差し出したウィノナの手に……レノアは剣を振り下ろした。ウィノナは咄嗟に後ろに飛び退いた。
「俺等には、友達なんていない。ここに存在する者を多く斬れば、俺は今の生活から開放される。食い物は食いてぇだけ手に入る」
 再び、少年達は剣を交える。
 月明かりに照らされた少年達の眼は、狂気に満ちていた。
「やめろって言ってんだろ!」
 飛び出そうとしたウィノナの身体が、突然硬直する。
 身体が、動かない――!?
「邪魔者を消せ。ここに存在する者は全て敵だ」
 女の、声が響いた。
 少年達が、ウィノナの方を向き、剣を向けた。
 彼等が踏み込み、剣を振り上げた途端、ウィノナの拘束が解ける。
「敵、じゃない。目を覚ませ! 身寄りの無いボクらにとって、共に生きてきた仲間は家族も同然だろ!」
 必死に剣を躱す。同年代の少年の剣速はウィノナの想像以上に速かった。
「仲間でも、家族でもない。常に一時的に手を組んだだけだ。誰かが死ねば死肉が食える。自分に余裕がある時は、自分のたくわえをどうやって守るかだけを考える。ここには、分け与える余裕なんか一切ねぇんだよ!」
 レノアが吐き捨てるように言い、ウィノナに剣を振り下ろした。
 飛び退いたウィノナだが、木に背をぶつけ、よろめいてしまう。……少年達の刃が、ウィノナの頭に振り下ろされた。
 しかし、衝撃を受けたのは、上半身ではなかった。
 木陰から伸びた手に、強い力でウィノナは引っ張られ、乱暴に身体が投げ出される。
「よぉ、レノア」
 木陰から現れたのは――冒険者のワグネルであった。
「ちょっと気になって様子を見に来てみりゃ、お前等、何やってんだ?」
「倒した数だけ、戦果になる。奴等に認められれば、俺はここから出て、騎士団にッ」
 レノアがワグネルに跳びかかる。
 ワグネルは背負った大刀を抜き放ち、レノアの剣を打ち落とした。
 レノアは、ワグネルが情報収拾に使っていた少年の一人だ。
 彼は元々エルザードの貧民街で暮していたのだが、両親が衰弱死した後、妹と共にここで暮すようになったらしい。森で食べ物を探し、街で窃盗を繰り返し、生きてきたのだという。
 珍しいことでもない。
 自分の過去も、そう違ったものではない。
 少年とは、仕事上付き合っていただけの、浅い関係であった。
“一時的に手を組んだだけの関係”
 だから、その気持ちもわからないでもない。
 レノアと、もう一人の少年の攻撃は、想像以上に重かった。
 手加減は出来ないと悟ると、ワグネルは大刀を横に薙いだ直後、懐からナイフを取り出し、身を躱した少年達に投げ込む。
「やめろっ」
 ウィノナが立ち上がり、ナイフを受けた少年達の元に走る。
「仲間の命を踏み台にして築いたものに、幸せなんてやって来る訳無いじゃないか!!」
 ウィノナの声が周囲に木霊した。
 飛び出たウィノナの身体が、再び硬直する。
 これは、魔術だ。
 ウィノナは精神を集中する。魔力の流れを感じ取り――
「こ、んな攻撃、痛くも痒くもないんだよ!!」
 断ち切った。
 魔術攻撃に対しての、ウィノナができる精一杯の抵抗であった。
 ワグネルは、一定の位置より踏み込もうとはしない。常に身を隠し、状況を見極めながら動いていた。
 魔力が流れてきた先に、ウィノナは立ち去る大人の女性の影を見た。集落の方へ向っている。
 追おうとしたウィノナの背に、熱い衝撃が走った。
 レノアの、剣だった。
 彼の腹にはナイフが刺さっている。目は虚ろであった。その状態でもなお、目前の敵を倒そうとしていた。
「目を覚ませってばッ!!」
 ウィノナは、腰のナイフを抜く。続いて突き出された一撃は、ウィノナの脇腹を掠める。そのままウィノナは踏み込み、レノアの剣を持つ腕に、ナイフを突き立てた。
「つあっ」
 レノアの手から剣が落ちる。
「いくぞ!」
 突如、ウィノナは腕をつかまれた。
 振り向けば、もう一人の少年が倒れている。意識が、ない。
「ころ、したの?」
 ウィノナの問いに、ワグネルは答えなかった。ただ、ウィノナの手を強く引いた。
「手紙を!」
 ウィノナは抵抗するが、ワグネルは無言でウィノナを担ぎ上げた。
「レノア! 友達の言葉だ! 読んで!!」
 叫びながら、ウィノナは手紙を投げた。

 ワグネルは血だらけの少女を抱えて、集落へと下りた。
 少女は自分の怪我に気付かないほどに、少年達への説得の言葉を繰り返し叫んでいた。
 彼等の眼――あれは、正気ではない。
 しかし、魔術か何かの類いで操られているわけではなさそうだ。
 意志は、彼等のものであった。
 回復力もまた、尋常ではない。
 ワグネルが投げたナイフには、直前にギルドで調達した神経毒が塗ってあった。しかし、彼等にはほとんど効果がなかったようだ。
「火の回りが速い!」
 舌打ちしながら、ワグネルは集落を抜け、山道へと出る。
「おい!」
 ワグネルの腕を掻い潜り、少女は集落へと飛び戻っていった。
 あの時――少年達を見る視線があった。ローブを纏った女である。
 ワグネルは女に警戒しつつ応戦していたのだが、その女は去り際にとんでもない置き土産を残していったのだ。
 業火、である。
 山から、湧き上がるように、炎が吹き上がった。
 火は、落ち葉を焼き、木を焼き、勢いを増してゆく。
「くそっ」
 ワグネルは周囲を見回し、まだ辛うじて間に合うことを確認すると、少女の後を追った。

●女魔術師
 ワグネルは、舗装された道まで駆け下りた。
 抱きかかえていた少女――ウィノナを下ろす。
 自分達の他にも、調査をしていた者がいたのだろう。
 街で見かける青年達が、子供を抱えて下りてくる。

 フィリオとケヴィンはそれぞれ3人、子供を抱えていた。
 意識のある子供は、抵抗をし、二人に従わなかった。
 リルドは、無言で強く山を睨み据えていた。

 ウィノナの腕の中には、幼子の姿があった。
 山頂を指した幼女だ。
 炎の中、彼女だけを抱き寄せることができた。
 火は勢いを増し、山を包み込む。
 自分には何も出来ない。
 無力な自分が許せなかった。
 受けた傷の痛みは感じない。
 ただ、焼けるように熱かった。

 ――一方、彼等がここに到着する少し前に、この場を去った者がいる。
 多腕族のシグルマだ。
 シグルマは、集落へは入らず、この場所に長時間張り込んでいた。
 全てを、見ていた。
 山に入り込む男達。豪華な鎧を着用した男が1人。黒い鎧を纏った男が1人。その他、傭兵と思われる多様な男が数名。
 その後から、遅れて入り込んだ女の姿。
 女が入って数分後、山から炎が湧き上がった。
 シグルマは、その場を動かず監視を続け、再び姿を現した女の跡をつけた。

 黒い髪の女だ。
 黒いローブを纏っている。
 距離を保っているため、顔までは見えない。
 道は途中から山道へと変わっていた。
 警戒しつつ、シグルマは女の後を追い続ける。
 長時間歩いた先に、鉄柵があった。道はそこで終わっている。
 女が近付くと、門番が柵を開いた。
 シグルマは身を隠しながら、可能な限り柵に近付いた。
 会話が微かに耳に入る。
「……まが入った。…たに介入されぬよう、焼き……った。団長には私が……する」
「炎が、こち…まで…………する可能性は?」
「範囲結…を張った。その心配…ない」
 突如、シグルマが潜む木が、高い音を上げた。虫の音だ。
 女が軽く首を回し、一瞬だけ、シグルマの方へ顔を向けた。
 逆光でこちらは見えないはずだ。
 シグルマは注意深く女性の容姿を見た。
 見覚えのある、顔だった。
 冷ややかで鋭い眼。
 誰かに似ている。
 月の光に映し出された、艶やかな緋色の唇――その口紅を目にしたシグルマの身体に、緊張が走る。
 何時か倒した、女魔術師に似ている。
 だが若い。女の年は20代前半といったところだ。
 女がローブを脱ぎ、門番に放る。
 身に纏っているのは、軍服、だろうか。
 鮮やかな月の紋章が肩に在る。

 女の姿が視界から消えると共に、シグルマもその場を立ち去った。
 これより先には、進むことができない。
 入り込んだら、戻ってこれる保証はない。
 この先は――
 アセシナート公国の占領下にある。

●薬
「はーい、今日も薬売りにやってきたよー!」
 黒山羊亭に元気な声が響き渡った。
「人の店で商売しないでくれる?」
 エスメラルダは呆れた様子であったが、怒ってはいないようだ。
「怪我人がいる間だけだからっ」
 救急箱を抱えた少女、キャトル・ヴァン・ディズヌフは、エスメラルダの無言の承諾を得ると、今朝仕入れたばかりの薬や薬草を売り歩く。
「集落調査で怪我をした人には、ただであげるよー。自警団のフィリオから援助してもらってるから」
 自警団のフィリオ・ラフスハウシェは、一応の報告や子供達の受け入れ先探しに奔走しているが、状況は芳しくないらしい。
 子供達から押収した薬の分析も行なっているのだが、一般的には知られていない成分で構成されているらしく、解明は難しそうだ。
 子供の受け入れ先については、ウィノナ・ライプニッツも怪我を押して探し回っていた。
「リルドは腕だったよね。見せてみな!」
 リルドは服を脱がそうとするキャトルの手を振り払い、薬だけ受け取る。胸の傷は隠してあり、キャトルは知らない。まだ時折酷く痛むが、怒りを忘れない為に、この痛みは丁度いい薬である。
「そこの無口なお兄さんは、どこだっけ。どこだっけー? ここー? それともこっちー?」
 黙っているケヴィンの身体をパンパン叩くキャトル。
 時折傷口に触れ、小さな痛みを感じるが、やはりケヴィンは顔色一つ変えない。
「キャトル」
 軽く手を上げて、ワグネルがキャトルを呼んだ。
 駆け寄ってきた彼女に、ワグネルはミルトの様子について尋ねる。
「怪我は完治したよ。あれから、襲われたりもしていない。けど……精神的にかなり参ってるみたい」
 ワグネルが刃を交えた少年――彼等も、尋常ではない回復力を持っていた。
 一切の手加減をせずに斬り伏せた少年も、あの場で息絶えはしなかった。その際、ワグネルは少年から一組薬を抜き取り、手に入れていた。 
「賑やかだな」
 シグルマが来店し、カウンター席に腰かける。
 店内を見回せば、普段と変わらぬ光景がある。
 あの集落の子供達が、どれだけ生き延びたのかは不明である。
 彼等は住処も失った。
 生き残った子供達が、どれだけ生き延びられるのかも不明である。
「今日は、俺に奢らせてくれ」
 シグルマは金の入った布袋をカウンターに置いた。
 この場所は、変わらず存在し続けることを願いながら。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【3544 / リルド・ラーケン / 男性 / 19歳 / 冒険者】
【3510 / フィリオ・ラフスハウシェ / 両性 / 22歳 / 異界職】
【2787 / ワグネル / 男性 / 23歳 / 冒険者】
【3425 / ケヴィン・フォレスト / 男性 / 23歳 / 賞金稼ぎ】
【3368 / ウィノナ・ライプニッツ / 女性 / 14歳 / 郵便屋】
【0812 / シグルマ / 男性 / 29歳 / 戦士】
【NPC / キャトル・ヴァン・ディズヌフ / 女性 / 15歳 / 無職】
ミルト(資産家の娘)
レノア(集落の少年)
黒い鎧の青年
豪華な鎧の男
女魔術師
※PCの年齢は外見年齢です。

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■         ライター通信          ■
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ライターの川岸です。
『孤月哀切』にご参加ありがとうございました。
事件自体はお陰様で終息いたしました。
続編、及び連作も検討していますので、ご都合がつきましたら、またご参加いただければ幸いです。