<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


passion, blaze, ash -回避-

 カウンター越しに、これを見て、とエスメラルダが云った。
 差し出したのは、黒光りするブレスレット。その縁は金色で、その表面も渦を巻いたように錯綜した線の模様が金色で描かれている。
 俺はそれを一目見て思った。禍々しい、と。
 俺の反応を見据えたかの様にエスメラルダが言葉を続ける。
 これを置いていった人――全身…黒い法衣の様な服を纏っていて、フードを深く被っていた。名前も云わなかったの。顔も良く見えなかったわ。唯、預かれ、とだけ云って去って行ったの。
 俺はブレスレットを眺める。店内のランプに反射され、鈍く妖しく輝いている。
 そして。
 何故だ。
 俺はこのブレスレットを。
 嵌めてみたくなった。
 理由は分からない…。
 しかしこれを見ていると――
 俺はエスメラルダに問う。これを身に着けても良いか、と。
 エスメラルダは勧めなかった。理由は分からないが、嫌な予感がすると云う。
 痺れを切らした俺は構わずブレスレットに左手を掛け――
 躊躇う事無く。
 右の手首に、嵌める。
 
 …何も変わらん。

 ただのブレスレットじゃないのか?
 唐突に。
 俺は徐にブレスレットを嵌めた右の掌を上に向ける。
 すると――
 最初は緩やかに天に昇る様に。
 やがて激しく猛る様に。

 真っ黒な炎が俺の右手に現れる。

 ――必然だろ。炎が燃え盛る事は。

 それなのに目の前のエスメラルダは戸惑いと恐怖の表情。
 何故だ?
 当然の光景を目撃して。
 何も驚く様な事はしていないぜ?
 黒い炎が、盛りの時を今か今かと待ち構えている、それだけだ。

 ――否…これは、俺?
 俺は――何らかの殺意に囚われていた。
 誰でも良い。何でも良い…。
 この炎で、全てを灰にしたい――

 馬鹿な…。突然そんな都合良く。
 殺意など。
 俺は右手に妖しく揺らめく黒い炎を片目に、左手で頭を押さえて蹲る。
 頭が痛い、と云う程では無い。だが少し、ほんの少しいつもの俺ではない俺の意識が…。
 これは俺の意思か?
 それともブレスレットに惹かれて――
 …そんなはずはない。これが俺だ。俺の意思だろ? 何故疑う必要がある? 俺は自分の意思で黒山羊亭に入り、自分の意思でエスメラルダの元に向かい、そして差し出されたブレスレットを嵌めた。その間俺以外の他者の介入など無かった。
 次の行動も俺の意思に基づいて行われる。当たり前の事だ。疑う必要など無い。

 ――くそ…頭が…。
 何者かに心を支配されて自我を失った時とは違い、依然として「俺」が頭の中で考えている事に、俺自身がイライラし始める所だった。
 兎に角この原因と思しきブレスレットをもう一度はずそうと思うが――
 如何してだろうか、右手の炎を見た途端その意思が、まるでその意志自体が無意味だったかの様に消えてしまう…。
 辛うじて炎はこれ以上の迸りを見せない様だが、かと云って俺の期待通りに衰える感じもしない。
 ここが…黒山羊亭で良かった。僅かに残っている理性でそう思った。他の酒場だったらこんな妖しげな術を発動だか暴走だかさせているところを目撃されたら大騒ぎになっていたに違いない。だがここは黒山羊亭。ここは多少おかしな奴だって屯しているのだからな…。他の客は少しいる様だが、俺はまだそれ程目立ってはいないらしい――周りの目を気にしている余裕は無いと考えた方が良さそうだが…。

 …殺意が現れるなら、従えば良い。

 俺の心は狂気を誘う。
 まるでじっとしている事が罪であるかの様に、執拗に促してくる。

 それが本心か試してみれば良い。すぐにはっきりする。うまくいくなら、俺の意思だ。
 まずは目の前のエスメラルダから――

 ――まずい…!
 エスメラルダ!
 …俺は咄嗟に大声を上げていた。
 周りの客が一斉にこちらを見るのを感じた。
 彼女は大きく目を見開いて怯えながらも俺を注視している。
 馬鹿野郎…何故逃げないエスメラルダ。
 案の定…。
 ――殺してやる…。
 などと物騒な言葉が当然の様に思い浮かぶ。だが、逃げろ、と云う言葉は決して出て来ない。その言葉を俺自身が拒否しているらしい…。
 ――殺す…。
 右手の炎が一瞬輝きを増した。
 止まれ、俺の本意じゃ無い…!
 だが右手の黒い迸りを少しでも心を許して眺めていると――
 自分自身の考えが正しかったと実感する時に感じる様な、ある種の安心感に満たされる。
 そして安心感はやがて禍々しい瘴気に触発されて嘶く獣の様に…。
 もう俺は何も見えていない――

 それから先は現実と幻視との区別が付かない…。
 ――エスメラルダの肢体が猛々しい炎に包まれ…。
 これから起こる出来事を想像して飛び上がるような期待感を味わいつつ。

 俺はエスメラルダに向けて右腕を…――

 ――…出ろ!

 辛うじて、言葉が出ていた。右の掌が当然の様に彼女の方に向いていたが――まだ何もしていなかった。
 店の外へ、出ろ…。他の奴らも…一緒に…出せ…!
 エスメラルダはしばらく躊躇していたがすぐに俺の云った通りにする。それより先に他の客もさすがに異変を察知したか、彼女の一声を号令と見做したかの様に皆が我先に外へ出て行く。
 兎に角…俺の視界から「獲物」を消す事だ。誰も目に入れてはいけない。俺はエスメラルダを見ない様に店の入口に背を向け、そこから複数の気配が徐々に出て行く事を感じ――

 ――…う、くっ!?

 突然俺の右腕が水中から釣り上げられた魚の様に暴れ出し――左手で右の手首を押さえ付ける様に強く握り締める。勢い余って咄嗟に右の掌を床に向け、「力」が自然に放たれる。
 派手な音を立てて床に穴が開く。有機体の焦げたあの鼻を突く臭いと共に微かに白い煙が舞い上がった。
 一瞬で燃え尽きていた。
 黒く焦げた穴の縁が、恐ろしい程整った痕跡となって足元に現れていた。
 幸い――と云うべきか。炎は燃え広がってはいない様だ。炎が酒類に燃え移った時に果たして今の様に都合良く炎が消えてくれるのかどうかは分からないが。
 一つ云えるのは。
 一瞬で焼き尽くす――
 狂った黒い炎は依然として俺の右手に妖し気にその殺意を蓄えている。
 そして…俺の心の方は――

 だが、先程よりも幾分落ち着いたのかもしれない。やはり――誰かが目の前にいると、まるで空腹時に食べ物を目にしただけで食欲が湧くかの様に、殺意と云う物に駆られるらしい…。ならば誰もいないこの隙に――

 ――何を思う?

 このブレスレットに、惹かれたのは――
 …どうでも良い。
 さっさとこれを壊さねぇと…!
 今保たれている理性と呼べる俺の考えもこの先どうなってしまうかは分からない。
 ――殺意も理性だろ?
 うるせぇ! 余計な事を考えている場合じゃねぇ…!
 俺は必死で頭を振る。
 兎に角。
 はずせねぇんなら――こいつを壊す!

 俺はナイフをブレスレットに一閃させる。

 硬い金属音が響く。それだけだった。
 そんな甘いモンじゃ駄目か…。
 この妙な金色の模様が狂気の入口で難渋する俺の心を相変わらず誘っている。
 もう一度試しに切り付ける。同じ。
 これ以上の力を加えると、ナイフの方が駄目になってしまうかもしれない。
 ならば今度はソニックブレイカーで――
 
 ――しかし、俺がこいつに誘われたのは…。
 考えるな…!
 ――果たして狂気のせいなのか。
 
 ――…。
 ――俺には戦うくらいしか能が無い…。

 …しばし、俺は黙って黒い炎を眺めていた。
 戦う事だけ。
 それが…良い事なのか、悪い事なのか、分からない。
 分からなくても良いのかもしれない。
 必要なのは、落ち着きだ。
 壊す事ばかりを考えても駄目なのかもしれない…。
 そうではなく、何か――
 ブレスレットを見る前の俺はどうだった?
 ――殺意ぐらい感じた事はあっただろう?
 …だったら何なんだ?
 殺意は狂気か?
 当たり前だろ。
 理性的な人間は殺意を覚えないか?
 御託並べてんじゃねぇよ俺。

 俺はソニックブレイカーをブレスレットに向ける。相変わらず黒い炎のゆらゆらする様をじっと見る。

 だが、対話相手はこのブレスレットでも黒い炎でも無く、どうやら俺自身が正解らしい。

 ソニックブレイカーを一閃させる。
 その時――

 炎が猛る。
 俺の意思に同調――違う、俺に抗うように、炎が一段と大きくなる。

 ――狂気云々なんでどうでも良い。殺意を狂気と感じなくなったらお終いだ!
 
 俺はソニックブレイカーの力を跳ね返そうとするブレスレットにさらに気を加える。

 ――戦いに明け暮れて自制の効かなくなった野郎なんかと一緒にするんじゃねぇよ…!

 ソニックブレイカーの放つ振動に黒い炎は必死に抗う。
 店内の椅子がカタカタと揺れる。
 飲みっ放しにしたままのグラスがテーブルの上を滑り出す。

 ――そんな理由で戦いやってる訳じゃねぇんだ!

 やがて店自体に僅かな振動が伝わる。
 俺はさらに力を込める。
 
 ――俺は俺だ!

 ブレスレットに、僅かな皹が入った――

 ――俺にはこんな物は要らねぇ!

 さっきまでの、ブレスレットや黒い炎が見せた魅惑を振り払う様に――

 ソニックブレイカーに、有りっ丈の意思を込める。

 粉砕音…。

 右手から力が抜けた。

 ブレスレットの欠片が落ちるより早く、黒い炎が一瞬で消滅する。

 …しばらくして。
 店内の明かりが、いつものランプの齎す具合に戻っていることに気付いた。
 エスメラルダが俺の方に歩み寄っている。
 入口の開いた気配は無かったが…まさか、店内にずっといて事の成り行きを見ていたのだろうか。
 そんな事も気付かなかったらしい。
 否…その前に、危険だろうがエスメラルダ。
 馬鹿か、と思った。良かった、さっきまでの妙な殺意は消えている。
 人が心配してあげてるのに、その顔は何よ、と彼女は少し不機嫌に云う。顔には出てしまったのか。
 不機嫌なのは――店を壊してしまったからだろうか。
 床に大きな穴を開けてしまった。
 それにブレスレットも壊してしまった。
 ――厄介な代物とは云え、預かり物だったんだろ? …幾らで弁償すれば良い? 俺は問う。
 あなたは別に気にしなくて良いのよ。
 そりゃ悪い、と思った。いつもの様に無言を通していると、エスメラルダの方から続け様に話し出した。
 依頼とは程遠い依頼もこの店には集まる。たぶん…あのブレスレットの持ち主は現れないわ。で、何でこんな危険な物まで預かるかって云うと、ウチで断っても――別の場所で一騒動あったに違いないのよ。それなら厄介事はウチに全て集めれば良い。
 それじゃ、あんたの身が持たねぇぜ? 珍しく、俺は口を開いていた。
 その為に…あなたの様な人が黒山羊亭に訪れるんでしょ、ケヴィン?
 俺は何となく肩を竦めた。

 …だったら、逆に報酬を支払ってくれるんだろうな?

■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
 整理番号/PC名/性別/年齢/職業

 3425/ケヴィン・フォレスト/23歳/男性/賞金稼ぎ