<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


【i.M.D】常闇に再び眠れ -忘却-



 ――見えない。
 ――何が?
 ――見るべき物が。

 椅子に腰掛け、少し顎を引き、肩肘を付いて手の甲を頬に寄せ、やや上目使い。私は常に思う。何故人間は底知れぬ知識の沼に自らの四肢を沈み込ませ、それでも何故笑っていられるのか。探求に飽きる事無く、ありもしない真実の光を何故追い求めるのか。自分自身の姿をその光の作る影だと決め込んで。
 私は常に思う。こうした問いは一体どこに向かうのか。
 嘗て、向ける相手は自分自身だった。だが単に鏡を覗き込んでその姿を認めるだけでは十分では無い事にすぐに気付いた。人間は過去を蓄積し、それを土台として現在に存在し続けようとする。問題は過去の堆積の仕方だ。人間の深みとは出来事の羅列では定まらない。日記を綴り、肖像画を残し、それらを年代の通りに並べただけでは――、人間は単なる歴史書に過ぎない代物になってしまう。
 人間の記憶とは不思議だ。ついさっき気になった書物のページの皺も、幼い頃に感じた恐怖の感情も、今この瞬間までの時間の厚みなど無かったかの様に、私の脳裏に即座に蘇ってくる。だが過去に如何なる印象を覚えようとも、過去の出来事自体は動かしようの無い事実なのだ。遂に私はその事実を受け入れるのを止め、魔と理の融合にその可能性を見出し、そして過去を操作する事を思いついた。…それが「過現機械」を生み出すきっかけだった。代わりに、記憶を首尾よく想起出来た時のあのささやかな喜びの感情を失ってしまったのかもしれない。過去の価値を覆す事の出来る「過現機械」があれば、私の感情から様々に溢れ出る魅力的な問いを自分自身に向ける必要が無くなってしまったからだ。
 その事に自分で納得していたのか、見て見ぬ振りをしていたのか、それは私にも分からない。だが――、セルペンテ。私は「過現機械」を「鏡」にする事を諦め、外在の知識――蛇に頼る様になったらしい。
「…それが、キミの『過去』なのかい、クローデット」
 セルペンテは項垂れる私の顔を覗き込む。
「皮肉だね。過去を支配しようとした魔術師が、結局過去と縁を切れず、過去の奴隷になっている」彼は微笑んだ。困った顔をしている様にも見えた。「クローデット、その因縁は――、LizEstにあるね?」
「あいつと私とは別々の人間だ。因縁など関係ない」
「でも、どこかキミと同じだった」
「相違点を見ない様にすれば、誰だってそう見えてくる」
「ねえ…、LizEstはどんな人間だった?」
「役に立った。それだけだ」
 私は淡々と答えるのみだ。セルペンテは私を試そうと色々仕掛けて来るが、私の感情を操る事など自分でも不可能の様に思われた。…お前も――、私の役に立てば良い。そう思った。
「だから――、見えないんだ」彼は云う。「LizEstも、見えなかった。人間には見えない物が多過ぎると思う。…僕もこんな人間になったせいで色々と分からなくなっちゃったよ? あ、でも別にキミを恨んでなんかいないからね。違うんだよ。蛇だった頃は何でも知っていた訳じゃなくて、知らない事がある事を認識出来なかっただけなんだ。つまり、僕は何も変わっちゃいないんだよ」
「では…お前は何が見えない?」
「強いて云うなら――、僕自身」
 そう云って何故か得意気に笑う。
「自分自身が見えないのは人間の特権だ。感謝しろ」
「いなくなってしまった人間を懐かしむのも人間の特権だよ。感謝しなきゃね」
「…誰の話だ?」
「だ・か・ら、LizEst」
 もう止めろ、と云おうとした自分を、何故か制した。あいつの事は――、気にならないと云うのは嘘だ。頭を過ぎれば、素通りする事が難しいと感じる。
「分からないんだったら、やっぱり『過去』に頼らないとね」
「また『過現機械』か…」
「過去は『鏡』なんかじゃ無い――、キミ自身がそれを実践する為に生み出したんだろう?」
「そして自己を忠実に映す『鏡』も存在し得ない」
 私は恍惚とした感情のまま、徐に左の掌を床に向ける。
 ――知識は事後で良い。
 ――まずは事実だ。
 ――そして縁の切れぬ出来事を、必要最低限の目撃者に。
 ――残りは、常闇に…。
 そしてセルペンテに告げる。
「…私の役に立って貰う」
「はいはい」
「LizEstはどこにいる?」
「キミの思う『過去』で、カウンター席に腰掛けている」
 私は左手の人差し指を床にゆっくり向け――
 軽く円を描く様にすっと動かす。その軌道に薄らと円が現れる。
「そう…その席に――」
 セルペンテの台詞が途中で途切れる感覚。
 ノイズ。
 私の描いた円が突如形を整え始め、その内部に別の景色が現れながら、円は拡大して行く。
 徐々に描き出されるのは、薄暗いランプに照らされた木製のテーブルと椅子が、自身の影を幾重にも床に重ねて佇む姿。そして幾年の放擲に依って艶を失いつつあるカウンターと、その奥の棚に整然と並べられた酒の瓶と大小のグラス。
 目の前にいたセルペンテの姿は既に消えている。
 私の姿は、聖都エルザートの黒山羊亭の店内に存在していた。
 しかし――、「過現機械」に依って抽出されるのは、背景としての黒山羊亭と、私と、…もう一人。私はこの時点でその他には何も「表現」してはいない。この時間の「現在」に黒山羊亭に存在している全存在の内、私が任意に選んだ背景と人物のみを、この空間――「過去」に現前させているのだ。そして「過去」で生じる出来事も、私がそう望まない限り、永遠に「現実」の事として扱われる。私の望み次第で「過去」を消去して何も無かった事にも出来る。
 カウンター席に、飲みかけのグラスを置き、肘を付いて静かに目を閉じている女。酔っているのか、居眠りなのか、それとも何かに耳を澄ましているのか、判じない。
「既に再び眠ったのかと思ったが、それは過剰な期待…、そうだな?」
 私は女の姿に向かって云う。女が聞いているのか否かはどうでも良い。だが、聞いている可能性が大きい。――こいつはそう云う女だ。
「…お前にとって、目覚めのきっかけはセルペンテだった。では…、LizEstはお前にとって、夢か、過去か、現実か」
 女は少しも動かない。静かな吐息をゆっくり繰り返し、水色の髪が微かに柔らかく揺れるだけだ。
「LizEstの見ていなかったあらゆる物を、お前は何かを取り戻すかの様に探し求めている…。穏やかさを装い、麗しき知識に悲しみ、悲劇を嘲笑い――」
 私は左手の五本の指をカウンターの奥に向け――
「依頼を預かって貰いたい。構わないか」
「ええ、何かしら」
 私の言葉に答えるように、もう一人、女の姿が「表現」される。この空間に表現される人物は三人となった。それでも、席で目を閉じている女は少しも反応しないままだ。
「用件は簡単だ」

 ――LizEstとして再び眠れ――

「…この一言を目立つ場所に貼るだけで良い」
「……。…へ?」
「聞こえなかったのか?」
「いっや…、そーじゃなくて。…どう云う意味かしら?」
「理解する者がいる。…すぐ傍に、な」
「ふ…、ん。暗号、かしら? 何だか良く分からないけれど…」
「報酬はLizEstの命…」
「え…、ちょ、ちょっと――」
 私はそのまま黒山羊亭を出て行こうとする。否…正確には、私が黒山羊亭から普通に出て行く様に見えているはずだろう。
 ――そうして踵を返す瞬間…思ったとおり、あの目を閉じたままの女の口元が、笑みを作っていた。
 その顔を垣間見るや、私自身をこの場に「表現」する事を止める。先程とは逆に、天井とランプ、壁、やがて床とテープルに椅子、塗装が壁から剥がれ落ちるかの様に形を崩しながら、黒山羊亭もカウンターの女も、そして微笑の女も消失し、瞬く間に私は再び自室に戻っていた。目の前には待ち構えていたセルペンテの姿があった。

     +

「お客さーん…?」
 エスメラルダはカウンターで静かに居眠りを続ける女に声を掛ける。女はすっと目を開ける。赤い瞳が水色の髪の奥から覗く。
「困るわ?」
「失礼…」
 女は悪びれるでも無く淡々と云った。
「あなたにはキツ過ぎるんじゃない、そのお酒」
「そのままが好きなので」
「無理しちゃって。そんな細い体で。…お水、飲む?」
 女はただ微笑んだ。目がすうっと細くなって、ランプの光を受けた瞳の赤が穏やかな色に染まっている。エスメラルダはそれを見て少し不思議に思った。顔が全く赤くなっていない。…酔って居眠りしていたにしては、妙に落ち着いている。それに、黒い服装は兎も角、腰に携えた二本の長短の剣。…何者だろうか? こんな店に訪れるぐらいだから腕に覚えがあるのでしょうけれど――
「少し――、懐かしい事を思い浮かべていたので」
 エスメラルダの疑念を遮る様に女が云う。
「思い出すと、とても嬉しくなる様な出来事を」
「へェ…。男、かしら?」
「惚れてはいたのでしょう」
「別れたんだ」
「どうでしょうね」
「ダメよ。未練がましいのはいつも男の方なんだから。キッパリ縁を切る事ね」
 エスメラルダは妙に自信あり気に云うのだった。けれど、女は笑うだけだった。
「それにしても――」エスメラルダは何かを思い出したかの様に云う。「今の女性――、変な依頼置いて行っちゃったケド…、どうすれば良いのかしら」
「云われた通りにされては?」
「…聞いてたの?」
「途中から」
「でも、何だか意味不明だったし」
「彼女の云う通り、あれでも理解する者がいるのでしょう」
「…ええ。あなたも分からないわよね?」
 エスメラルダは呆れた様に笑った。女もつられて笑ってはいた。
 女は云った。
「では――、私も是非お願いしたい事があるのです」
「ヘェ…? あなたも?」
「はい…」
 そこで女は一旦言葉を区切り、こう云う。
「人は見えない物を見ようとする。そして、今見たいと思った瞬間に、その見たい物が目の前には即座に現れて来ない事に憤る事もある。だから――、少し、理屈に過ぎますか?」
「いいえ、続けて頂戴」
「――だから、人はその埋め合わせとして、時に何かを思い出し、心を奪われる出来事が過去に無かったのかを探し求めるのです。まるで、嬉しいと云う事実を確認するかの様に。…或いは、蘇って来た映像にさらに目を凝らして、その時には感じなかったけれど、今になって何か新しい印象が自分の心の中に現れて来ないかを待つ――、つまり…」
 女はエスメラルダをじっと見て、
「その為にこそ、記憶と云う物があるのでは――、そう思う事があります」
「詩人の様な事を云うのね」
「『様な』、ですか」
「詩人では無いのでしょう?」
「お察しの通り」
「あなた、何をしている人?」
「人間、そう呼ばれる存在以上でも以下でも無いと思います」
「…やっぱり詩人かもしれないわ」
 そう云って二人は苦笑した。
「で――」エスメラルダが云う。「その詩人さんのご依頼って何なのかしら?」
「私の過去を見せて頂ける方を、お待ちしたいのです」
「あなたも不思議なご依頼なのね…」
 エスメラルダは女の顔を覗き込んで、
「酔ってる?」
「どう見えます」
「素面には見える」
「見えるだけかもしれませんよ」
「ふぅん…『見える』、か」
「詩を詠むと云うのは真実を覆い隠す子供じみた行為…。詩は見える物も見えなくしてしまう。だから――、是非ご依頼を引き受けて下さる方には…」
 女は、笑みを崩さなかった。
「詩情を排し、私を本気で殺して欲しい…」
「こ――…、殺す…、です、って…?」
 その言葉を聞いて、エスメラルダの顔から笑みが消えた。
 急に気味が悪くなった様に感じられて、恐る恐るの口調になった。
「あなたは…」
「報酬は――」
 しかし女はエスメラルダを遮り、迷わずこう述べた。

 ――報酬は、LizEstの命を…。

     +

 トリ・アマグは黒山羊亭に向かう。酔っ払いやならず者共の耳障りな騒ぎに溢れるベルファ通りを、出来るだけ感情を押し殺し、静かに歩く。夜空の星々は、通りの灯りのせいで掻き消えている。

     +

 翻弄されるならばされるが良い。黒山羊亭で引き受ける仕事ならばそれは常の事だ。数多くの依頼が、そして、安息とは程遠く、一時の気の緩みも許されない事件が、まるで町中の塵が下水に紛れて醜い塊となるかの様に、この場所に次々に集まってくる。明日に光を見られるか否か、その様な輝かしい依頼はここには無い。出会う者たちとどれ程親しく分かち合おうとも、次の瞬間には命の奪い合いをする、そうした場面も決して珍しい事では無いのだ。それを単に殺伐と呼ぶ事が相応しいのかは分からない。むしろ自然の摂理だと呼ぶ事も可能なのだろうか。あらゆる意味で強い者だけが、再び黒山羊亭に訪れ、過酷な仕事には対等とは云い難い微々たる量の報酬を受け取る。それが、黒山羊亭だ。
 植物の干乾びた葉の様に脆く色褪せた黒山羊亭の扉に手を掛けようとして、一瞬戸惑う。私はそれを顔に出そうとはしない。唯、心の裡で、こんな時の様に一瞬差し挟まれる杞憂を、深刻の度合いは別として、忘れ去ってしまわない程度に留めておく。それが後々に効果となって現れてくる事も勿論ある。ここは黒山羊亭。絶対に気を抜いてはならない。この扉を潜る前には、いつも自分に言い聞かせる。
 そして、何故今日はこれほどにまで胸騒ぎがするのだろう。胸騒ぎ…、そうでは無く、むしろ、期待感なのか。何かを待ち望んでいて、その実現が漸く果たされる直前に感じる、あの高揚感。快とも不快とも付かぬ、あの落ち着かない感情。これが本能的な物なのか、それとも私以外の他者に依る物なのか、今は分からない。時が経てば、いずれ分かる事かもしれない。だが、それを黙って待つつもりも無い。
 私は扉に手を掛ける。室内と云うよりも、夜闇の中に微かに明かりを灯した様だと表現した方が適切な程に、相変わらず薄暗く陰鬱な空気が、私の四肢にゆらりと吹き付ける。ランプの明かりが、店内の客達の煙草の煙にまぎれ、仄かに白く漂っている。ざっと見渡しても知り合いはいない。素性の分からない者達ばかりと云っても良い。いつもの事なのだが。
 そんな事より。私はゆっくりとカウンターの方に向かう。決して仕事を選びに来た訳ではない。今日は既に目的が決まっている。
 あの気配を感じた。
 以前に接触したあの盗賊。記憶に留める日ばかりでは無かったが、何か少しでも切欠があれば、鮮明な印象と共に蘇る。その臭気を嗅ぎ取る感覚を覚えていた。ここに来たのだ、あの盗賊が。しかし――、彼女だけでは無い。盗賊の裏側で策動する者の存在を予感していた。盗賊自体が裏側と云う線もあり得るのだが。
 いずれにせよ、話を掘り下げるには、エスメラルダだ。彼女は私の姿を認め、先に口を開いた。いつもの口調で。
「あら、いらっしゃい」
「仕事のお話では無く…」
「その様ね」
「お分かりなのかしら?」
「――ついさっき、おかしな人が二人来たんだもの。あなたもそれを感じ取って――、とかかしらね? …ま、ウチに来る人達はみんな何か変な所、あるんだケドね」
「私も、ですか」
「あらっ、これは失言だったかしら」
 エスメラルダは舌を出して誤魔化した。私は特に表情を変えなかった。
「私がどうこう意見する事では無いのかもしれませんが――」私は云った。特別な事情を持っていないかの様に振舞う事を心掛けた。「こちらには様々な仕事が舞い込む。それは凡そ取引とは呼べない物も紛れ込む事さえある。依頼主の策略であったり、本当の目的を隠す為であったり…、そんな依頼が黒山羊亭に紛れ込んだと気付く時、あなたはその依頼を、それでも預かり受け、解決をしてくれる方の訪れを待つ、そう云う主義ですか?」
「あなたまで難しい事云い出すなんて。…今日は何かの祝祭日だったかしら?」
 エスメラルダは苦笑した。
 アマグは構わず続けた。
「何かを起こそうとする日は、いつでも祝いの儀式となるのかもしれませんね」
「何、それ?」
「祝儀には、反逆者はいない」
「詩人ね…」
「私は詩人ですよ」私は口元に笑みを浮かべていた。「…反逆者とは、依頼の遂行を邪魔する者の事。通常はその様な存在は現れない。依頼主との関係が如何に険悪であろうとも、ね」
「ふむ…、確かに、ウチの仕事を途中で投げ出した人ってあまりいなかったわね。どう考えたって困難な事にも、何かしらの解決を見出して、それできっちり報酬を持って行っちゃった」
「それがあなたの店のルールの様ですから」
「で――、そのウチのルールから逸脱するはずの無い『反逆者』とは、何やら穏やかでは無いわね? 詩の中でのお話である事を望むわ」
「まだ想定のお話よ。そんな事より、そうね…、退屈凌ぎに、そのおかしな二人について、お話して欲しいのだけれど」
 私はさり気無く本題を振る。当然、エスメラルダには警戒心は無かった。エスメラルダの舌は滑らかだった。まず、突然暗号の様なメッセージのみを残して去った無表情の眼鏡の女。そしてカウンター席で居眠りをしつつも、やはり同様の暗号めいた言葉を発した微笑の女。…なるほど、後者はあの盗賊か。
 しかし――、LizEst。
 LizFexではないのか?
 前半の音節のみが同じ。別人か、それとも、何らかの目的で使い分ける名なのか。そして前者の方は何者だろうか。吟遊詩人としての本性からの物なのかは分からなかったが、突如「反逆者」と云う呼び名がふと思い浮かんだ。別段深くも考えずにさり気無く口に出してみたのだが、エスメラルダの話を聞いた今となっては――、この女が正にその「反逆者」に当たる存在なのか、そんな突拍子も無い事まで考え付いてしまう。何にせよ依然として謎めいているのは確かだ。私は引き続き考え込む表情を出さない様努める。話の内容は決して安心出来る様な事では無いと直感的に判断できたが、エスメラルダと交わす口調は穏やかにしていた。仕事云々の話ではなく、酒場の客と主人の交わす世間話、その雰囲気を心掛けた。
 二人の女の残していった依頼――、奇妙な事に内容は同一。LizEstとして再び眠れ。報酬として挙げた内容も同じで、LizEstの命。如何なる意味を持つのだろうか。眠れとは。すぐに思い浮かぶのが、「死」の暗喩。その次に、「忘却」。こんな所か。それにしても、同一の依頼を残して行ったと云う事は、この二人の女は知り合いなのか。仲間、それとも…。この二者の関係ははっきりしないが、どうやらLizFex一人だけに観点を絞っても、何も手掛かりは得られそうに無い様だ。では前者の眼鏡の女とやらの真意は一体何なのか。再び眠れ。そして、報酬は「命」。誰の命? LizEstとは何者なのか。
「そう云えば、さ」エスメラルダが私の思案を遮る様に話掛けてきた。私の予感する暗雲が垂れ籠める様な出来事とは全く縁の無い、相変らずの陽気な声だった。「水色の髪の人…、ついさっきまでここに座ってたのよ。そうね、アマグのすぐ横の席に」
 私は思わず自分の眉を顰めていた。
「――微笑の女性の方?」
「そう。あの人、何だか不思議な人だったケド、すごく笑顔が素敵なのよ。あたしが男性だったら思わず見とれちゃうんだろうな…。あ、でも同性からも好かれる感じなのかもね。…無性の人だったらどんな風に映るのか分からないけれど?」
 エスメラルダの言葉の後半は完全に独り言と化していた。そんな様子を私は微笑みながら眺めていた。だが――、あの盗賊がまだ近くにいる。否…、あの盗賊の事だ、間を置いた所で、向こうから現れる気もする。少しでも接触を試みようとすると、まるで待ち構えていたかの様に現れる。そして恐らくは、何かを嘲笑うかの様に、あの悪意の無い微笑で、こちらを眺める。薄れ掛けていた記憶を辿る。過去に出会った頃の情景と重ね合わせ、その光景を思い浮かべる。以前の邂逅で気付いた事があった。あれは一対一の対話と云う様な物では無かったのかもしれない。盗賊は、私と云う一つの存在を見ると云うよりも、常に世界そのものを見ているかの様だった。私は世界を構成する「部分」に過ぎない、そう主張するかの様な、誰かに語り掛けるでも無い呟き…。あの盗賊の視線は、常に大きな捉え方しかしていない様にも思われた。
 それが盗賊の生き方らしい。悪びれるでもなく、悪さをする。行為自体ではなく、その行為に依って巻き起こる騒動を、笑いながら眺める。だが、ゲームを楽しんでいる様でも無かったのかもしれない。彼女は確かに戦いに秀でている。しかし、勝敗に拘る姿勢を感じた事は無い。盗品に対して興味を示した様子を目撃した事も無い。盗賊の関心事は、唯、出来事そのものだけなのか。結果でも動機でも無く、「今」と云う瞬間。

     +

 黒山羊亭を出た後は、ただ夜風が吹くのを待つのみだった。それだけで「依頼」は果たせる。確たる論理的推測とはいかなかったものの、私には何故か、その結論が当然の様に思われていた。ベルファ通りをやや遠めに眺められる民家の屋根に、静かに立って、ターゲットが現れるのを待つ。わざわざ人気の無い舞台を用意してやる必要も無い。あの盗賊ならば、舞台に合わせて勝手に演じきるだろう。だから、深く考える必要もあるまい。
 私はむしろ、盗賊の一言目が一体如何なる台詞であるのか、その事が妙に気になっていた。否…、明確な封切を演出するのではなく、何時の間にか始まっている様に仕向けるのか。奇襲を仕掛ける様な輩では無かったと認識するが、それでもあの人格だ、何を仕出かすかは分からないと見ておくのが懸命だろう。私は、星空を唯寛いで見上げる素振りの中に、外敵の気配を伺うだけの集中力を微かに残しつつ、思索に耽る。
 あの盗賊、何故盗賊などやっている? 決して盗賊そのものが目的ではあるまい。それは確実だ。なるほど、一般的に云って、盗賊とは救いの無い行為だ。持ち主の所有の権利を脅かす卑劣な行為だ。そして、略奪された者の癒されぬ憤怒を引き起こす愚行だ。それを眺めて悦に入る等、万人に理解される等とは程遠い。否、最早あの盗賊にとっては他者からの理解など必要が無いと云うのか。
 では…、彼女には失う物が何も無いと云うのか。失う物――、それは大抵過去に関する事象だ。あの盗賊にだって過去と呼べる物はあるに違いない。時折思い出す事に喜びを感じる様な事もあれば、二度と掘り起こさない様心の奥底に封じてある様な事もあるのかもしれない。
 それを直接聞き出すのは、吟遊詩人として、否、それ以前に「他者」として、不躾だろうか――
 そしてある気配が私の傍に迫っている事に気付く。気配を隠すでもなく、しかし、殺気立つでもなく。
「――過去は、自分の都合の良い所だけを抜き出した伝記だ…」私の言葉から始まった。私の方も、誰に話し掛ける風でもなく、唯、声に出す。「出来事とは、唯眺めているだけで十分。それにわざわざ余計な解釈を含めるのは、書物だけが対話相手の、生真面目な学者たちの貧相な宴…。何であれ、私達が語れる事は悉く過去についてだけだ。出来事とは常に過去の事。何を述べようとも、正にその出来事の起こる瞬間には、言葉にならない様な驚き、笑い、悲しみ、憎しみ、喜び――、たったそれだけで、理性に身を固めた『あなた』は、忽ち激しい感情の昇華に翻弄され、如何なる言葉も口に出せずに、困惑と妄想の渦に身を委ねる――、そうに違いない…」
 私は薄く目を開いた。屋根を伝う足音が微かに聞こえる様だった。
「しばらくね」私は振り向きもせず、そう発した。
 盗賊は静かに云った。
「…私自身が何もしなくても、世界は私を解釈し、私の意志に関係なく、私を変化させる。それが――、今夜はクローデットから始まった。その『出来事』だって、偶然では無いのかもしれませんが…」
「クローデット?」私は聞き慣れぬ名を呟く。
「黒山羊亭の女主人から聞いたでしょう? 『無表情の眼鏡の女』。」
 その女の名か。名を知っていると云う事は、やはりこの盗賊との知り合いなのか。
「あなたは――」
 私が次の言葉を出そうとした瞬間だった。突如、盗賊LizFexの細剣が、私に迫った。私は後ろに飛び退く。大きな針の様な刃は尚も追跡してくる。それを避けながら、得物の持ち主の顔を伺う。盗賊には何の感情も現れていない様に思われた。
「無様ね…」
 私は吐き捨てる様に云った。盗賊が唯遊ぶつもりで黒山羊亭に依頼を残すはずが無いのだ。遊ぶつもりなら、ここで終わらせても良い。私はLizFexの攻撃が決まる瞬間に彼女の背後に回り込み、細剣を手にした右腕を鷲掴みにする。
 盗賊は抵抗しない。そして振り向きもせず、私の手を振り解く事もせず、そのまま静止する。両者はしばらく黙ったままだった。私は痺れを切らし、何かを云おうとしたが、盗賊が先だった。
「依頼を請け負って頂けるのでは無いのですか」盗賊は惚けていた。
「――まさか、馬鹿正直に、そうです、等と答える事を期待してはいないわよね?」
 私の台詞の後半は、やや声を押し殺す様な、それでいて僅かに殺気の篭った様な、そうした口調だった。だが構わず、単刀直入に訊く。
「目的は、何?」
「本当に殺して下さい――、そうお願いしているとは、まさか思ってはいませんね?」
「私はそれでも構わないのよ?」
 私は睨み付けるでもなく、淡々と述べた。盗賊は相変らずこちらを振り向かないが、恐らくは、またしてもあの微笑を浮かべているに違いないのだろう。相手の口車に乗っても良いのだが、戯れだけは御免だ。
「私の大鎌が、あなたのその細い首を捉えても、文句は云えないはずよ」
「そういう契約だから、ですか?」
「いいえ、未来の『出来事』とは常に未知であるからよ」
 盗賊が漸くこちらを見た。横顔から覗く右の赤い瞳が、私の顔に向けられている。
「未来は生まれてすらいない…。預言者や占い師たちの見る未来とは、あくまで『現在の存在者』から見た『過去』に過ぎない。彼らの『未来』とは所詮は『過去』と同じなのよ。私は『未来』と云う物を本当に目撃した事は一度だって無い」
 私はLizFexを見据える。
「だから――、あなたと遣り取り出来るのは、『過去』の事だけ。全て、過去。『今』と云う瞬間も、過去」
「素敵な言葉です」
「本当にそう思っているのかしら?」私は盗賊の微笑を呆れた様に眺めた。「あなたは最初からそのLizFexと云う人格では無かった。そうね?」
「ええ…」
「では、――LizEstとは、一体誰なのかしら? …想像するには難く無いけれど、敢えてあなたの口から訊きましょうか?」
 しかし、LizFexは口を閉ざしたまま、何も云わなかった。僅かに私から視線を外したが、また元の微笑に戻っていた。
「…あなたは、過去を断ち切る為に、他者に委ねる事をする様な人間では無い。そのクローデットと云う女との関係も不可解だけれども、今は、『今』のあなたのお相手をすれば良いのかしらね。それならば――」
「殺し合いを、始めましょうか?」
 私は首を横に振る。
「微々たる物でも良い、あなたに何かほんの少しでも変化があれば、私は今のあなたを死んだと見做す」
「…少しでも?」
「死ぬとは、ある世界から忘れ去られると云う出来事だ。あなたの死とは、あなたがある一瞬のあなたを忘却する事態」
「――詩情は抜きにして欲しいのですが…」
「勿論あなたが望むのならば、命の取り合いをしても良い。戦うのならば戦おう。話すなら話すだけだ」
 私の掴んでいた盗賊の右腕に、一瞬力が篭った。しかし、攻撃を仕掛けるのでは無く、そのまま私の手を振り解き、少し距離を取って、私に向かい合った。
 戦意を感じさせないその姿を、しばらく見ていた。ベルファ通りから漏れ出る逆光で、彼女の表情を伺い知る事は出来なかった。

     +

 クローデットは、異世界の技術に塗れた自室に篭り、瞼を閉じて、事の成り行きを眺めている。その表情は相変らず硬いままだが、苛立ちと云った風でも無い。それでも、傍らで無邪気に笑うセルペンテは、クローデットの心中を見透かしたかの様に言葉を紡ぐ。
「どうしたんだろうね? LizEst、戦ってくれないみたいだよ?」
「黙っていろ」
「見当が外れちゃったのかな」
「……」
「やっぱり――、LizEstはキミのつまらない目的を見透かしていたんじゃ無いの?」
「黙れと云っている」
「そんなだから、キミは何時まで経ってもLizEstから一歩遅れてしまうんだ。キミが踏み出した瞬間には、LizEstはもう既に次のステップ。…あの大きな鳥人――、トリ・アマグって名乗る鳥人は、中々良い事を云ったね。ほんの少しでも変われば、死、なんだってさ。LizEstはどうだか知らないけれど、クローデット、キミはその事実を一番忘れていたのかもね」
「ふん…、吟遊詩人の戯言などどうでも良い」
「さっさと殺し合って欲しい、――そうかい?」
 クローデットは黙ったまま、エルザードの廃墟の屋根で対峙する二者を見る。クローデットにとって意味の無い対話が続いている。その事に苛立ちを感じるのは否定出来ない。それでも、待つのだ。必ず、動きを見せる。
「手筈は整っている。見ていれば分かる。LizEstは必ず殺し合いを始める。戦闘そのものが目的では無い事を、そして――、その余裕を見せ付けるかの如く、私を挑発する様にな…」
「挑発、ねぇ…。LizEstにそんな余裕があるのやら…」
 セルペンテは何故か心配そうに云う。あの盗賊へと変貌した殺戮機械の事を心から案じている訳では無かったが、気掛かりなのはトリ・アマグと云う鳥人なのかもしれない、そう思っていた。

     +

 私は何時までも対話を続ける事に躊躇した。無論、対話になっているか否かも判然としないのだが、それよりも、彼女と、その背後の存在の目的がはっきりしない。このまま退く以外に選択肢があるとするならば、多少の危険は冒すだろうが、――仕掛けるか。
「――今の煮え切らないあなたでは、必ず私の大鎌の餌食になるでしょう。先程のあなたの攻撃…、あれが冗談であればと願うばかりだけれども、その手加減を差し引いたとしても、あなたの甘さは、剣の一閃に如実に現れるに違いない。私に腕を捕まれて、それでも抵抗を見せない――、それが私に対する挑発のつもりなら、あまりお勧めしない、と予め云っておきましょう」
 その言葉に反応したのか、盗賊は黙って細剣を構える。相変らず殺気が漲る様な感じでは無いが、先程よりも姿勢が安定している様にも見受けられる。
「…そう、そのつもりでいる事ね――」
 私は大鎌を大きく振り、やがて静止させる。いつもと違い、柄の部分を水平にし、湾曲した刃が自分の方に向く様、独特の構え方をする。
 そして、盗賊との距離を一気に詰める。
 その瞬間、大鎌の、刃の付いていない上端側で、盗賊を突く。盗賊はこれを避け、上に跳ぶ。その細剣で私目掛けて突こうと姿勢と整える。
 甘い。避ける事は予想済みだ。
 私も跳ぶ。大鎌を回転させながら、今度は刃を盗賊に向けて、再び差を詰める。
 盗賊から僅かな動揺を感じた。
 だが、もう遅い。
 両者は空中で交錯した。
 私の刃が――、盗賊の身体に食い込む。
 小さく、盗賊が呻き声を上げた。その直後、赤い液体が一瞬だけ激しく噴出す。
 初めて、盗賊の苦悶の表情を見た。だが私には少しも勝気の感情が生まれて来ない。私は柄を握り締める両手に更なる力を加える。
 まさか…、この一瞬で回避行動を示すとは。私は少し驚いていた。刃は彼女の腹を貫通するはずだった。しかし、傷は右の脇腹をやや浅く抉っただけだったのだ。勿論、ダメージは小さくは無いはずだが。
 私は柄を回転させ、柄の上端を盗賊の首を目掛けて力一杯振る。その勢いで、盗賊はベルファ通りから少し離れた裏路地に叩き落される。
 すぐ後を追う様に私も着地し、盗賊の起き上がるのを待つ。ここに人気は無い。あったとしても、性質の悪いゴロツキ共の喧嘩が行われる様な場所だろう。当然、明かりらしき物も無い。
 盗賊の不安定な息だけが荒々しく響く。右の脇腹を抱えながらも、盗賊は呼吸を整えようとしている。その光景を眺め、私は淡々と云った。
「ただ殺戮と報酬のみに現を抜かす庸兵崩れだったならば、ここまでの戦い方は出来ないでしょう。」私は冷ややかに視線を向ける。今日は月明かりさえも無いに等しい。暗闇の中に、冷気だけを孕ませて、盗賊を見据える。「私は何の為に詩を詠むのか…、それを考える事が出来ないのは、詩では表現出来ない行為が存在すると云う事実から目を背ける所以なのかもしれない」
 私は言葉を終えると同時に、再び大鎌を構える。再び、独特の姿勢。盗賊の方も細剣を構えていた。息が依然荒い。遠くからの光が、この裏路地にも僅かに届き、盗賊の表情が少しだけ伺えた。
 目つきが、変化していた。以前よりも、鋭さを増している。
 ――この戦いの中で、何かが既に変わっている。
 私はそう思った。しかし、具体的に何が変わったのか、まだ分からない。
 再び私の方から盗賊との差を縮める。先程と同じ様に、刃の付いていない柄の上端で仕掛ける。盗賊は、次の二発目の刃の攻撃を予想して、今度は無闇に避けようとはしない。細剣を柄に交え、交錯した瞬間に上体を屈め、私に足払いを仕掛けて来る。鳥の姿をした私の両の足が一瞬バランスを崩す。
 まだ甘い。私は大鎌を地面に立て、自分の身体を支えつつ盗賊の頭を飛び越えて着地し、尚も傷口の疼くであろう盗賊の右脇腹を狙って、即座に蹴りを見舞う。盗賊は再び小さく呻き、路面を転がる様に倒れ込む。その跡に、所々に血糊が黒く浮いていた。
 そして私はまた同じ様に大鎌を構え、盗賊が立ち上がるのをじっと待つ。
「あなたが生きてきた世界は、恐らく血に塗れていたのでしょう。自らの命を懸けなければ、生き残れない状況もあったのかもしれない…。それを受け入れて、強くなったつもりでしょうが、その程度では、私はおろか、この大鎌にさえ、傷を付ける事は出来ない」
 盗賊の動きは少しずつ無駄が無くなっている。あれだけの傷を負いながら、尚もその自慢の俊敏さを保ち、さらに私に向かって来る。
 一体、盗賊の何が変わるのか。それとも、『戻る』のか。過去に、戻るのか。
 何故盗賊へと変貌した? 何があった。過去に。
 まだ戦うつもりか。それならば――
「…最後まで付き合ってあげましょう。何らかの答えが得られるまで、見届けましょう――」
 アマグは呟いた。盗賊がゆらりと立ち上がった。今度は、暗闇のせいでその顔を垣間見る事が出来なかった。
「まだ終わりではありません――」
 盗賊の言葉だった。声が少し掠れていたが、既に落ち着きを取り戻している様だった。その口調からは、いつもの穏やかさは感じられなかった。
 盗賊の口調に私が疑念を感じた瞬間――、既に盗賊は動き出していた。驚くべき速さで差を詰める。その速さに盗賊を見失いそうになり、私は直感的に後ろに跳ぶ。
 だが。
「――!」
 どうやったのか、盗賊は既に私の背後に身を屈めていた。
 そして低姿勢から膝を伸ばし、ばねの様に上体を起こす。細剣を右肩の辺りに構え、先端を私に奔らせる。
 私はその突きを辛うじてかわす。しかし、左腕が刃に軽く擦る様に触れ、摩擦熱を感じた。
 構わず大鎌の柄で盗賊の喉を突く。この牽制はあくまで咄嗟の動作だ。大したダメージは与えられてはいない。単に距離を取るだけの動きだった。
 それよりも…、今の動きは私には理解出来なかった。初めて盗賊の方から仕掛けた攻撃だった。動きが全く見えなかった。何時の間に背後に回り込んだと云うのか。今になって疼き出した左腕を軽く摩る。気が付けば、血が滲んでいた。
 だが、それに気を取られる暇は無かった。
 盗賊の呼吸が完全に整っている。重症を負っているにも関わらず、それを忘れさせる様な落ち着きを感じた。
 闇の中で、細剣を構える。
 そして、瞳を静かにこちらに向けて来た。
 殺気が迸った。
 初めて、私は戦慄を覚えた。
 殺気。
 この戦いの中で一度も感じた事の無い殺気が、その赤い瞳に秘められていた。
 予測はしていたが…、これが。
 この女こそが恐らくは――、LizEst。
 経緯は相変らず不明だが、かつてそう呼ばれた人間、その状態に戻ったのか。
 LizFexとはまるで別人だ。今対峙している女からは、あの微笑とは程遠い、凍り付く様な憎悪しか感じない。あの微笑が作り物である事は一目瞭然であったが、その穏やかな仮面の裏側に隠していた物は、想像以上の冷酷な過去だった。私は何故か、自分の顔が少し綻んでいる事に気付いた。
 しかし疑問も残る。この氷の如き赤い瞳に対し、LizFexやクローデットが黒山羊亭に残して行った依頼、――LizEstとして再び眠れ、…これは一体如何なる意味を孕むと云うのか。
 再び、眠れ。再び、とは一体何だ。眠れとは、死、忘却、それとも…?
 だが、私には思案の猶予は無かった。LizEstが無言のまま、ゆっくりと、まるでその一歩を確かめるかの様に、歩み寄って来る。
 まだ戦いを続ける気か。
 否――、これからが戦いなのか。
 私はもう一度、大鎌を構え直す。今度は、本当に仕留める事になるかもしれない。そんな気がしていた。今の彼女からは、相手の機を伺う素振りは微塵も感じない。凄まじい殺気、そしてそのどうしようも無く吹き出る殺気を抑えようとする、微かに残された理性の赤眼、その二重の視線が、私の身体を貫いている感覚だった。
 これが通常の依頼ならば…、エスメラルダへの文句の一言も考えておかなければならない、その様な他愛の無い雑念が過ぎった。しかしそれも一瞬の事だった。
 来る。私は迎え撃つ。
 だが、やはり動きを捉え切れない。暗闇のせいでは無い。
 或いはこれは彼女の術か何かなのか。LizEstの身体は残像だけを残す様に、瞬く間に接近してくる。
 私は彼女の気配のみを頼りに大鎌を振り下ろす。
 何も感触は無かった。
 しかし、その動きが鈍った。
 右のやや後ろ。この動きは予想通りだった。
 私は大鎌を水平に一閃させる。
 だが、今度は私の方が一歩遅かった。
 LizEstの叫び。
 同時に、細剣の先端が、振り向いた瞬間の私の右肩を貫通する。
 私は呻いた。
 焦りが生じる。右肩に途轍もない圧力を感じた。
 しかしまだ攻めは終わらなかった。
 LizEstの一撃はそのまま裏路地の煉瓦造りの塀にまで達し、私ごと塀に衝突させる。
 塀が粉々になる。
 その弾みで漸く私の右肩から刃が抜かれる。
 激しく血が吹き出る。同時に背中に強い衝撃が走り、大鎌を握る手が一瞬緩む。
 LizEstは一撃の勢いが余り、既に廃墟と化している、塀の向こうの建物を粉砕しながら奥にまで滑り込み、そこで漸く止まった。
 私は右肩の激痛を堪えながらゆっくり起き上がり、LizEstの方を向いて彼女の姿を確認する。塀と建物を形作っていた煉瓦の欠片が舞うと共に、私の黒い翼が幾つか抜け落ちた。額に滑りを感じる。左手を当てると、鮮血が付着した。
「確かに…、消せない過去が、時として生きる妨げとなる事もある」LizEstが静かに語り始めた。どこか独り言の様であったが、その口調は冷徹そのものだった。「どれ程強靭な精神の持ち主であろうとも、自分自身の生み出す綻びから生じる傷口には抗えない。絶対に、拒めない…。それを受け入れる器を持ち得るか否かで、未来は変わってくる。――私はこの有様だ」
 LizEstは細剣の刀身を右肩に乗せ、倒れ込んだこちらを見下ろすように眺める。本来は鋼鉄の鎧を貫通する為に作られたこの得物には、刀身に刃が付いていない。戦う為ではなく、唯、相手の心臓を貫く為だけの武器だ。
 私の目には、自慢の得物を見せ付けるかの様に映った。
 殺す。
 そう云っているのか。
「それがあなたの正体――、それとも、まだまだ他の人格が眠っているのかしらね」右肩に重症を負った私は、全身に奔る痺れを感じつつも、自分でも驚くほど落ち着き払った口調だった。そして、思わず、彼女たちの依頼の一節に含まれていた「眠る」と云う言葉を使っていた事に気付く。…或いは、「眠る」とは、ある人格を封じ込め、目を覚まさない様にする、そう云う意味で彼女たちは云ったのだろうか。そんな推察が頭を過ぎった。
 再び、眠れ…。
「――つまり、何が目的かは知らないけれど、あなたは、今のあなたの意志となっているLizFexを封じろ、…その様な不可思議な依頼を黒山羊亭に残したとでも?」
 女は答えなかった。私を静かに見据えるのみだった。
「茶番にしては派手過ぎる。けれど、依頼にしては余りにも荷が重過ぎる。…あの黒山羊亭でも、ここまで偏屈でシビアな依頼は聞いた事が無い」私は思わず苦笑して、こんな事を云う。「一体――、解決の方向は何なのかしらね。それとも…、解決出来ない事を確かめる為に、わざわざこんな事を――」
 私はゆっくり立ち上がる。右肩の痛みが激しい。戦闘を回避するのが得策なのだろうが、今の彼女に、私の逃走を許す気は無いと見るべきか。
 私は言い放つ。
「私は――、あなたがとても好きですよ。あなたがあなたでいると認識できるあなたが」再び苦笑して、そして苦痛を堪えて大鎌を構える。「…あなたは私の事を嫌っているのかもしれないけれど、今は考えない事にしましょう。LizFex、或いはLizEstかしら? あなたが、自分が死んだと思える瞬間まで、私は付き合いましょう。何にでも、何時までも――」
「LizFexは解決など見つけるつもりも無かったが――、気が変わった。LizEstとして、決着まで導く…」
「導くのは私の方よ」
 私は静かに相手を見る。女の口調は完全に別の人間となっていた。まさか、彼女本人も予想していなかった事態なのか。気が変わった、とは。長年眠らせていた過去の人格に支配され、自分自身の行動の原理さえも、最早自分で操作出来ないのか。それとも、これこそが元々の人格だと云うのか。

     +

 あの目だ。何も信じない、自分さえも信じているか疑わしい、最早冷徹を通り過ぎた目だ。クローデットは思った。傍らで自分の顔色を伺うセルペンテに、動揺の気配を漏らさない様にする。本当はその様な小細工をしても、彼には一目瞭然であり、心の裡をを隠し通す事は出来ない。それは頭で理解はしているのだが、クローデットはつい彼の前では知らぬ存ぜぬを付き通そうとする。
「手筈は整ったね」
 案の定、セルペンテが場違いな程に嬉々とした声で云った。クローデットはそれでも表情を変えない。薄目のまま、アマグと、それに対峙する因縁の女の姿を、映像として捉えている。
 徐に、クローデットは左の掌を床に向けて――、そのまま何もせずに床を眺めた。
「…どうしたんだい?」
 クローデットは黙ったままだった。自分が何を始めようとしていたのか、今一つ判然としなかった。
「会いに行くんだろう、LizEstに」
 久々にあの女を目撃した。LizEst。かつて私の駒として利用していた頃と変わらない様に思える。いつから、LizEstは死んでしまったのか。そんな事を考えていた。何故LizEstはLizEstを終わらせたのか。私から離れる事で、一体何を変えたのか――、否、何を「生み出した」のか。
 そして、何を否定したのだ? 過去、冷酷、憤怒、焦燥…。あの微笑はLizEstとは全く結び付かない。何故、お前は笑う。微笑の向こうに、何を見たのだ。
「行こうよ?」
 時折差し挟まれるセルペンテの催促に、とうとうクローデットは痺れを切らし、眼鏡を掛け直しつつ鬱陶しそうに呟く。
「分からんね…」
 セルペンテは、やっぱり、と云った顔をした。
「分からないんなら、尚更行けば良いのに」
「あいつの事では無い。何故私は――、続きを目撃したくなるのか」
「…へ?」
 珍しく、セルペンテは驚いていた。クローデットは単にLizEstに会いに行くつもりで、唯それだけの為に、あの様な回りくどい依頼を黒山羊亭に残した、そうでは無かったのか。
「あの顔を拝んで一体何になる? 己のみが知る懸念を、何故他者に委ねる必要がある?」
「一体どうしたんだい、クローデット?」
「あれは本当に以前のLizEstなのか。あいつにとって殺戮は手段でしかなかった。それが――、今は、自己の為に血を流そうとしている。まるで、自己の生の表現を、殺意に委ねるかの様に。その厳かとも云うべき舞台に対峙するトリ・アマグとか云う鳥人――、あの場に於いて、あの鳥人以上の目撃者になれる者などいない。…私は邪魔だ。私が例え間近であいつらを目撃しても、何も見えない。見るべき物が、見えない」
 クローデットの声はいつもより感情が込められている様に思えた。その口調は、セルペンテに対する嘲りなのか、自分自身に対する哀れみなのか、判然とはしなかった。それでも、セルペンテは少しの間クローデットの表情に見惚れていた。笑っている。決して素直な笑みでは無いが、笑っているのだ。

     +

 LizEstは傷付いているはずの右脇腹の裂傷を物ともせず、その静かな殺意を細剣に集中し、私に襲い掛かって来る。彼女が刃を激しく一閃させる度、その脇腹から鮮血が迸っていた。何がそこまで彼女を突き動かすのか。気が変わったと云っていた。本当は何を企んでいたのか。その目的は、私と戦うと云う唯その事だけで、放棄してしまう様な物だったのか。
 私も隙を見て大鎌を振る。しばらくは互いに決定打を欠いていた。だがそれでも、彼女の一撃はまともに食らえば絶命に至る。刃を交錯させる度、全身が軋む様な圧力を感じる。私の右肩の痛みは消えない。戦いの流れをこちらに引き寄せる必要がある。
 私は機会を伺った。相手は人間だ。人形でも機械でも無い。私に向けられる圧倒的な殺意にも、必ず綻びが生まれるはずだ。
 気が付けば、LizEstが冷たい瞳を向けていた。何かを云いたそうにし、それでも押し黙る様に、赤く煌かせたまま、じっと睨み付けて来る。
 私の方も、敢えて何も語らない事にした。暗闇の中に一際輝く赤い意思を目撃し、言葉にする事が無意味と思える程に、微かに湧き上がる震えを楽しんだ。本来、殺しとは一方的な殺戮が好ましい。この様な力の拮抗は単なる浪費にしかならない。だが、これは既に殺戮では無かった。絶え間無く続く刃の交錯が、一種の対話の様に思えるのだった。伝えるべき事など何も見出せない、しかしそれでいて受け止めざるを得ない、血を流す事だけが真実であり続ける対話だ。
 そして、細剣は動きを見せた。
 私は今度は柄の部分で細剣を受け流そうとする。
 しかし、相手の方が速かった。
 交錯する瞬間、私は躊躇した。構わず彼女の懐に潜り込み、右脇腹の傷にダメージを与える様に当身をし、細剣の一撃を遣り過ごす。
 そして両者はやや距離を置いて静止する。私は呼吸を即座に整える。LizEstは何の感情も感じさせない。脇腹に負った傷は確実に彼女の体力を奪っているはずなのだ。それを全く庇おうともせず、仕掛けてきた。そして、一つの牽制を成功させた女は、細剣の切っ先をやや地面に向けて、円を描く様に軽く素振りをする。
 私の背後で、鈍い金属音が響き、それは、埃を立てながらやがて地面に伏した。
 私の大鎌の刃だった。
 LizEstの一閃が、私の得物を捉えたのだ。
 柄の先を折られた大鎌を握り締める私に、淡々と言い放つ。
「心臓」
 それだけを呟いた。剣を構えようともせず、勝ち誇った風でも無く。
 次は、心臓を狙うと云うのか。
 私は次の手を失った。
 勝機は、あるのか。私は殺されるのか。死に対する一種の恐れが過ぎった。
 その時だった。

 全く何の前触れも無かった。
 エスメラルダの声がしたのだ。
 騒ぎを聞きつけてこの場にやって来たのでは無く――
 私は。
 …席に着いていた。
 先程の、カウンター席。
 瞬きをしたのか。
 分からない。
 何が起こったのか。
 だが気が付けば、私はカウンター席に着き、エスメラルダの話を聞いているのだ。
 右肩の傷は消えている。額に左手の甲を宛がっても、今度は血が付着しなかった。
 エスメラルダの話が続いている。
「――あたしが男性だったら思わず見とれちゃうんだろうな…。ねえ、アマグは寡黙な女性って好き?」
 私は何を答えて良いのか分からなかった。質問の意味は分かる。エスメラルダの話の話題は、ついこの瞬間まで死闘を繰り広げていた、LizEst、否、LizFex。…これは、時間が操作されたと云うのか? 一体何が起こったのだ。
 考えるより早く、今度は別の誰かがカウンターの方に歩み寄って来る。私が振り返ると、見慣れぬ眼鏡の女だった。その顔は無表情。まさか――
「果たされた」
 女と云うには似つかないぶっきらぼうな口調で、エスメラルダに向かって云った。私の方を振り向きもせず。だが、唐突な空間の変化に加え、このタイミングで都合良く現れる所を見る限り…、この人物こそ、クローデットとか云う女なのか。
 魔術師…、否、その雰囲気からはその色を確かに垣間見る事が出来たものの、出立ちと振る舞いからはそれとは異質な要素も滲み出ていた。そのせいで私は女の素性に対して確信を持てず、こちらから話を切り出す事が躊躇われた。もし本当にこの女がクローデットであるのならば、この女から私に何かを仕掛けてくる様に思われもしたのだ。
 しかし、女は私に振り向きもせず、エスメラルダにしか興味が無いかの様だった。エスメラルダの方と云えばどこかうんざりした様な表情を見せている。
「ちょっとー…、また来たの? 今度は何かしら?」
 なるほど、「また」と云う事は――、私の推察は外れてはいなかったらしい。
「ご挨拶だな。依頼人を冷たくあしらう店なのか?」
「依頼って…、あの訳の分かんない――、え…、何だっけ?」
「どうした」
「あれ…? あなた、誰?」
 エスメラルダの様子がおかしい。女との会話の途中から、エスメラルダは何か記憶違いでもした様な戸惑いを見せていた。私は目を見張った。何故か、女の方は笑みを浮かべている様に見えた。
 ――この女、一体何をした…?
「『過去』を操作しただけだ」まるで私の心を読んだかの様に、女は私に言い放った。「過去と呼ばれる物が、全て、何者かによって仕組まれていたとしたら――、そんな事を考えた事はあるか?」
 私は女を睨み付けた。
「唐突過ぎるわね」
「『過去』は一瞬で蘇る。そう、唐突に…」
 気付けば、黒山羊亭から、私とこの女以外の存在が消えていた。客達の色騒ぎも、客席を占領していた酒瓶やグラスも同時に消えている。どう云う訳か煙草の放つ白い煙までが立ち消え、薄暗く仄かに燃えるランプが、使い古されたテーブルや椅子、カウンターを鈍く照らすのみだ。元々殺風景な黒山羊亭の店内が、益々閑散とした空間に成り果てている様に感じられた。私の驚愕を他所に、女は続ける。
「――戦いの最中済まないが、既に答えが出たのでな。邪魔させて貰った」戦い――、そうだ。LizFex――LizEstは一体どこに? 女は尚も言葉を紡ぐ。「確か、お前は『反逆者』と云ったな? 誰の事か、敢えて問うつもりは無いが」
「そうね、言葉の綾以上の意味は含ませたわよ…」
「報酬が欲しいか?」
「この依頼、まだ終わってはいないわ」
「依頼主が終わったと主張しても、か?」
「それ故――、あなたは反逆者、と云う事かしら?」
 私は淡々と云った。どう云った細工かは判じないが、このクローデットと云う女、顛末を全て見通している様だ。私の暗喩に少しも動じない所を見ると、或いは私自身の事も筒抜けではないのかと云う疑念さえ起こる。
「過去、そう云ったわね」今度は私が問う。「その順序を仕切っていたのが、あなたと云う事なのかしら?」
「だとしたら?」
「ナンセンスね。出来事の羅列の中に身を投じるのは舞台役者だけ。そんな当たり前の事にも気付かず、動かしようの無い過去に呵責を感じ、負の遺産からしか未来を見出せない…。その意味では、過去は腐っている…――」
 私は大鎌を構えた。
 その途端。

 やはりこれも先程と同じだ。
 瞬きの様に一瞬の出来事。
 私は、再び夜空の下にいた。
 手にした大鎌は、刃の部分が折られ、柄だけとなっている。
 右肩に激痛。全身に疲労感。
 そして――、左脇腹から鮮血を流す女の姿を見て取れる。
 だが私はその彼女の餌食になろうとしている。右手に細剣を手にし、刀身を鈍く光らせて、そして赤い瞳が冷たくこちらを見据える。そう、その場面に戻っていた。
 疑問はあった。これがクローデットの仕業である事は疑い無い。そして、当のクローデットは既にどこにも見当たらないが、この状況をどこかで観察している、直感的に思った。だが、何の為に? 何故再び、この場面に誘導したと云うのか。
 しかし私は構わず、目の前の敵手との対話を再開する。
「――退く事が輝かしい未来を約束するとは限らない。腐敗への運動を続ける現在に、後悔と呼ぶべき負債を残し、そうやって老衰した過去だけが私の脳裏に焼き付く――、そんな物が背景となっては、私の生など何の価値も見出せなくなる」私は、目の前の相手だけで無く、クローデットに対しても言い放つつもりで、この言葉を紡いだ。死を覚悟して。
「死を恐れない、か…」
「詩を詠む物がこの世に生きる限りは」
 私はLizEstに迫って行く。柄だけとなった私の得物では、最早彼女に傷を付ける事は出来ない。それは私もLizEstも分かっている事だ。
 だが、得物に頼っているのは私だけでは無い――
 私はLizEstの剣の間合いにまで詰め寄る。
 彼女の剣が一閃する。
 私はこれを避けず、左腕で受ける。
 刃が貫通し、血が飛び散る。
 LizFexの表情に驚愕の色。
 私は激痛のまま、構わず更に間合いを詰め――
 左腕が千切れそうになる程の力を加える。
 バランスを崩したLizEstの脇腹の傷に、私は柄を一閃させる。
 渾身の力を込めて叩き込む。
 LizEstの口から悲鳴と鮮血が吹き出る。
 そして、彼女の右手から完全に細剣が離れる。
 私はこの機を逃さず、彼女の喉を右手で掴み、裏路地の塀に押し付ける。
 だが、LizEstは尚も身体をくねらせ、左足で私の右腕に強烈な蹴りを浴びせて来る。
 思わず右手の力を緩めそうになり、もう一度彼女の首を塀に押し付ける。
 だが彼女の力は衰えない。今度は私の右の脇腹に蹴りを見舞う。
 息が止まる様な感覚と共に鈍い破裂音が響いた。
 肋骨を折られたのだ。
 今度はさすがに右手の力が抜けた。
 LizEstは私の頭上を飛び越える様に攻撃から脱出し、そして地面にへたり込む。
 互いに立ち上がる事が出来ない。既に息が荒くなり、意識も朦朧としていた。私は、左腕に刺さったままだった細剣を漸く引き抜く。激痛が走り、血が噴出すと共に、傷跡から全身に伝わるような痺れに襲われる。最早獣同士の行う生存競争の様相だ。両者の関係に意味は無い。唯、生きるか死ぬかだ。相打ち。私の頭に言葉が過ぎった。このままでは、両者が死ぬ。
 死ぬ。違う。私はこんな状況でさえ、自己主張を止めない。
「死を体験する事は出来ない…」LizEstの耳に届いているか否かなど構わず、嘆息の合間に、私は搾り出す様に云う。「死ぬ、とは…、ある世界から、忘却される事…」
 忘却――、その単語に、過去と云う意味が付随していた。
 また。
 目の前の世界が変化した。

 やはり、私の全身に纏わりついた苦痛も今は消えている。
 そして、私の目の前にいる二人は、まるで私の存在に気付かないかの様に会話を進めて行く。
 エスメラルダは女に呼び掛けた。私の席の横で、瞳を閉じたまま微動だにしない女に向かって。傍らには飲みかけのグラス。女は静かに瞼を擡げ、横顔に赤い瞳が薄らと浮かび上がる。
「あなたにはキツ過ぎるんじゃない、そのお酒」
 他愛の無い、女主人の言葉だ。その言葉に、客の女は淡々と答える。
「…素敵な思い出を考えると、どうしても飲みたくなる時があるのですよ」
「へぇ…、例えば、どんな思い出?」
「誰にも話せない過去――」
 私は会話をただ聞いていた。直接顔を眺めるでも無く、唯じっと耳を傾けていた。穏やかな微笑を浮かべているであろう女は、この様な下衆共の溜まり場には似つかない、凛とした声で話している。
「自分自身でも触れたく無い、けれど、何故だか魅惑される様な過去、――その様な過去を晒すのは、本当に心許せる方の前か、私自身の気紛れの時か、或いはその両方ですよ…」

 次の瞬間、クローデットの声が聞こえた。
「それが分からない。何の為に過去が存在するのか」
 私からは僅かに垣間見える位置――、左側のテープルに腰を寄り掛けて、腕を組んで難しい顔をしている様だ。今度は、エスメラルダが消えている。どうやら、先程から私や他の人物達が誘導されている空間には、クローデットに依って任意に存在が決定されているらしかった。今は、私の右隣で、LizFexがグラスを傾けている所だ。彼女は私やクローデットの存在など、気にも留めていないかの様に見える。無論、その素振りを見せているだけなのだろうが。
「人格を人格で覆い、現在を除く全ての要素を『過去』とする――」クローデットが云った。「その価値が見出せない。出来事は記憶として頭脳に保存される。これは魔法でも何でも無く、摂理だ。そこに、何故わざわざ余計な意味を付加する?」
「簡単な事よ」私が答えた。少しだけ、呆れた様な口調になっていた。「あなたがあなたであるから。私が私であるから。他人と自分の思想には必ず相違がある。分かり合う事なんて出来ない。でも、それで良いのよ。記憶や、そこから生まれる印象に対する想いは、生きる者それぞれ違う…」
「同感です――」LizFexが言葉を発した途端――
 私は小さく呻き声を上げていた。

 全身に痛みが蘇る。
 右肩、左腕、右の胸部に痺れる程の激痛。
 眩い灯りを遥か遠くに辛うじて垣間見る事が出来る路地裏は、月光すらも無い常闇の夜と同じ色に染まりつつある。その中で、私は膝を付き、不安定な呼吸を繰り返している。少し離れた所に、LizEstも両手を大地に付き、ほんの少しでも体力の回復を期待しているかの様だ。
「終わらせましょう、か…」
 私は呟いた。
 私に得物は無い。そして、少し身体を動かしただけで、理性を保てない程の苦痛が訪れる。次の交錯で立っていた者だけが生き残る様な気がした。焦点の合わない視界を必死で整え、LizEstを見る。彼女にはまだ武器が残されている。腰に携えた小さな鞘には、依然として短剣が収められている。本来の得物では無いとは云え、果たして、丸腰の私に勝ち目はあるのか。
 だが――、返事をした女は、LizEstでは無かった。
「――クローデットは去って行った様です」静かな口調だった。たった今まで死闘を繰り広げていたとは思えない程に。そして、相当の手負いであるにも関わらず、既に落ち着きを取り戻している。こちらを振り向く余裕は無い様だったのだが。「命取りになるのは、一瞬の気の緩み。いえ…、下手な芝居、でしょうか」
「どう云う意味?」
「私は既に、LizEstでは無い、そう云う事です」
「…過去に置き去りにして来た、そうかしら?」
「それはクローデットの勘違いです。私は、今も昔も、私ですから」
 その言葉を聞いて、一つの真実を思い浮かべた。一つの死は、一瞬の忘却。だが、生きている限り、一つの死と同時に、一つの生も現れる。それが変化だ。
 私は大きく息を吐き、今となってはさして重要とも思えなくなった事を、敢えて訊いてみる。
「報酬は、頂けるのかしら?」
 盗賊は笑うだけだった。彼女は、既にLizEstでは無い、そう云った。LizEstでは無い事が即ち忘却であるのならば、LizEstは既に死んだ事になるのかもしれない。それにも関わらず彼女が「LizEstの命」を報酬として提示したのは、クローデットの口車に乗った振りをすると云う彼女らしい皮肉だったと云う事だろう。LizFexの一寸前に黒山羊亭に現れたクローデットの挑発、依頼とは名ばかりのLizFexへの挑発、それに対する云わば戯言…。
 それでも戯言が真実を導く事もある。LizFexはそれを知っていたが、クローデットは知らなかった。  
 だが、LizFexにも気付いていない事があるのかもしれない。
 盗賊は、下手な演技と云った。しかし、盗賊がLizEstであった事は紛れもない事実だ。あの夥しい殺意を孕ませた殺戮機械の記憶は依然として残っているに違いない。それを普段は微笑と云う強靭な精神で押さえ付け、決して現れない様にしているのかもしれない。だから、何か少しでも切っ掛けがあれば、一人の人間には抱え切れない程の葛藤に苛まれ、その綻びからあの冷酷な顔が姿を現す。
 だから、彼女は「眠る」のだ。何度も。ただし、LizEstとしてでは無く、LizFexとして。
 全ては、「今」と云う瞬間に依って、塗りつぶされて行く。過去は好きな様に捏造出来る。例え過去に触れない様に努力したとしても、無意識の内に、過去は書き換えられて行くのかもしれない。そして、あの微笑が目撃する自分自身の過去は、最早永遠に蘇る事の無い過去だ。
 私は、依然として身体中を支配する苦痛を思い出し、私に負傷を負わせた冷酷な女と、穏やかさに微笑を浮かべるこの女との、余りにも大きな齟齬に、思わず笑っていた。
 疲労の引き起こすまどろみのせいで、次に黒山羊亭に向かった時、エスメラルダに何を語るべきか、考えを纏める事は出来なかった。詩稿など以ての外だった。



■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
 整理番号/PC名/性別/年齢/職業

 3619/トリ・アマグ/24歳/無性/歌姫/吟遊詩人

■NPC
 LizFex
 クローデット・ドゥルバール
 セルペンテ
 エスメラルダ