<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


out of your images -未来の嘘-


 何時来ても、ベルファ通りは独特の重い空気。
 でもそれだけじゃなくて――、依頼を終えた体に、疲労を覚えているのかもしれない。
 ボクは黒山羊亭への階段を下りる。報酬を受け取る為に。
 特に大きな仕事でも無かった。何時もの様にエスメラルダから受け取り、受け取ったその後は仕事での出来事の記憶もやがて薄れて行く――
 そんな事をぼんやり考えていた。
 その時だ。
 入口でふとすれ違った者――
 お互いの右肩が触れるか触れないかだった。
 ボクもしばらくは気付かなかった。
 でも慌てて振り向く。

 ボクだった…。

 ボクと同じ姿をした者。
 向こうは何も気付いていない…。
 何者なんだろう…。
 しばらく呆然と眺めていて。
 そして、そいつが丁度ベルファ通りへの階段を昇り切った所だった。
 ボクがその姿に驚いてずっと目を凝らしていた事を嘲笑うかの様に、そして、まるでその瞬間が訪れるのを前以て準備していたかの様に、冷たい目を向けて来た。
 ボクは嫌悪感に襲われた。自分と同じ顔をしたそいつが、自分の事を冷たく見下す、その事が無性に腹立たしく感じられた。
 けれど。
 それだけじゃ無い様な気もした。
 皮肉な笑みを口元に浮かべるそいつの表情を見ていて、何か悪い事でも起こる予感がして、ボクはどうにも落ち着かない気分に陥った。
 どうする?
 だがボクの戸惑いを他所に、あいつは踵を返し、ベルファ通りのけたたましい界隈に姿を紛らせる。
 その動作をじっと見ていて――、気が付けば、ボクはあいつを追っていた。
 疲労も今は気にならない。とにかく、追いかけなければいけない、直感的に思ったのだ。
 何も根拠は無かったのだけれど、でも、放っていてはいけない。
 ボクは階段を上る。あいつは…、あいつの姿は既に喧騒に紛れ込んで、中々見当たらない。
 ――いた。
 ボクと同じ背丈、或いは少し高いだろうか、あいつの後姿が垣間見えた。通りを行く人々の頭に隠れてその姿を見失いそうになるが、ボクと同じ髪の色の頭だけに集中して目を走らせる。
 そして早足で追う。途中で誰かにぶつかりそうになりながらも、徐々に距離を縮める。
 その時、あいつは突然立ち止まる。ボクの足も思わず止まりそうになる。追っている事に気付いたのか?
 …違う様だ。その頭が、通りの左側の脇を横断する様に走る薄暗い路地の方を向いている。何かを見ている様だ。横顔から察するに、ボクに気付いている様には見えなかった。その瞳は相変らず冷たさを感じさせる物だったが。
 やがてあいつはそのまま通りをはずれて進み出した。ボクも再び足を進める。
 そして路地の手前で少し立ち止まり、そこから路地を覗き込む様に注意深く視線を這わせる。
 あいつは――、足元に佇む小さな影を見下ろしていた。
 何だろう。暗くて分からない。ベルファ通りの灯りから漏れ出る光が、ボクと同じ姿をしたあいつの、魔法使い然とした黒い法衣を鈍く照らしているだけだ。
 魔法使い…? けれど、どこかイメージが違う。違うのはイメージなのか、雰囲気なのか――
 けれど、ボクの些細な疑念はすぐにどこかに吹き飛ぶ。目を凝らしている内に、あいつの視線の先に、地に伏して動かない子どもがいる事に漸く気付いた。

 その子どもは死んでいる様にも見えた。
 でも、そんな事を考えるより早く、ボクの足は動いていた。あいつは足元の子どもをまるで物同然に眺めていた。ボクの感情は今一つはっきりとはしなかったけれど、冷酷に徹して哀れみの表情を見せないその姿に、どうしても我慢ならなかったのだ。
 その時、黒い法衣のそいつはボクに漸く気付いて振り返る。
 魔法使いの出立ち。そして――、その冷たい顔貌を見て、ボクは新たな事に気付いた。彼女は、正確にはボクじゃ無い様だった。ほんの少しだけ、大人びた様な顔付きだ。
 これは…。
 どうしてだろう。
 こんな事を思い付きたくは無かったのだけれど。
 まさか、未来のボク――?
「何の用だ」
 何の感情も感じられなかった。この素っ気無い一言を口に出す事さえ無駄だとでも言う様な、抑揚の無い声だった。
 確かに、声はボクと同じ様に感じられる。気落ちしたり泣きたくなったり、或いは今の様に疲れ切ってしまってついぶっきらぼうになってしまう時の様な、そんなボクの口調にそっくりだと思う。
 それを見ているのは凄く辛い――
 自分の考えを振り切る様に、ボクは叫んだ。
「どうするんだよ、その子どもを!」
 ところが、通称未来のボクは、何も云わずに薄ら笑いを浮かべただけで、再び足元の子どもに視線を戻した。
「――さあ、どうする? ボクに従うのか、それとも、命の尽きるのを待つのか…」
 何か、子どもと取引でもしているのだろうか。目を凝らせば、確かにその子どもは衰弱して死にかけている様にも見受けられる。その子を、どうするつもりなのか。
「黙っていては分からない」子どもを突き放す様に云う。
「…、…」
 子どもの声はここからは良く聞き取れなかった。けれど未来のボクは、何かに納得したかの様に笑みを浮かべ、子どもの左腕を乱暴に掴み、立ち上がらせようとする。
 子どもの頬は、涙で濡れている様に見えた。
 ボクは再び叫ぶ。
「何やってるんだ! 泣いてるじゃないか!!」
「まだいたのか」未来のボクは依然としてボクを冷たくあしらおうとする。
「キミは何とも思わないの!!」
 ボクの台詞に対し、まるで「何とも思わない」とでも云わんばかりの皮肉な笑みを見せつけて、こう云った。
「ボクは命を助ける契約をした。泣くこの子が悪い」
 云い終わると、立ち上がる気力の無い子どもの方を向き、「立て。そして歩け」と冷徹に云い放った。
 ボクはもう耐えられなかった。
 我慢ならない。
 これが未来の自分であるなら、尚更だ。
 止めなきゃ。
 止めなければ。
 魔術は自分の欲の為だけに使ってはいけない。
 身体に疲労を感じてはいたが、そんな事は今は気にしない。
 ボクは、戦闘態勢に入る。
 ボクの動きに気付いたのか、未来のボクがこちらを見る。
 冷たい目で。
 嘲笑う。
 そしてまたしても乱暴に、子どもを突き飛ばす。
 その態度にボクは再び怒りを覚えたけれど、構わず術に集中する。
 止刻の印。
 向こうも何かの術を組み立てている。
 その指の動きは――
 ボクの知らない物だった。
 けれど今は詮索している時じゃない。
 完成は――、ボクの方が早い。
 そう思った時。
 ボクの術は突如、途中で掻き消えていた。
 何故…?
 何が起こったんだ? ボクは呆気に取られた。
 未来のボクは、ボクの戸惑う様子を眺めている。
 ――封じたのか…! まさか…。
「時を止める、否…、周囲の空気を止める――、そんな魔術もあったね」静かに云う。ボクの口調で。「その仕組みの分かる者なら、逆算して、封じ技の一つや二つ、考え付く事が出来てもおかしくは無い。――そうだよね?」
 ボクはその微笑に戦慄を覚えた。「仕組みの分かる者」と云った。
 と云う事は…、目の前の相手はボクの思った通り――、未来の自分なんだ。今のあいつの術と台詞が、その事を裏付けていた。
 ボクの動きや力を完全に見切っている。性格やパターンも、きっと読まれている――
 まさか、封じ技を使ってくるなんて…。
 どうする…? どうやって、戦えば良い?
 だが相手は少しの時間も許さなかった。
 再び何かの術を組み立て始める。またボクの知らない術の様だった。
 今度は攻撃の魔術かもしれない。
 ただし、今のボクには相手の術を予測する事など到底出来ない。想像する余裕すら無い。何となく、そう思っただけだった。
 ただ、ボクの魔術そのものを封じられたのでは無いらしい。それは身体の感じで分かる。
 今のあいつの術を見た限りでは、逐一封じるタイプの術の様だった。
 それならば。
 一先ず防御に徹し、隙を見てボクの術を発動させる事さえ出来れば――
 刹那。
 衝撃がボクを貫いた。
 攻撃では無かったが、正体不明の、強烈な圧力を全身に感じていた。
 これは、一体、何。
 それに気を取られている内に――
 未来のボクが、まるで氷の上を滑るかの様に、あっと云う間に接近する。
 ボクは思わず後退りする。
 だが相手は既に――、ボクの背後にいた。
 そして驚く程静かに、その手をボクの右肩に置いて、何かを呟く。
「――」
 声を聞き取る事は出来なかった。
 その前に、ボクの身体は吹き飛ばされていた。

 右肩を中心にして、何かか破裂する様な衝撃が走った。
 ボクはうつ伏せに倒れている。冷たく湿った石畳が頬に触れていた。一瞬だけ気を失っていたのかもしれない。
 そしてボクの倒れた様を、あいつ――未来のボクは、相変らずの冷徹な目で見下ろしているらしい。その気配を背中に感じた。
「すぐに分かるよ」後ろの方から冷たい声が響いた。「ボクは今無駄なことに時間を費やしていることを…」
 そんな事。ボクがそんな事を云うなんて、信じられない。
 もし本当にあいつがボクだとして、そいつから見て過去の自分であるはずのボクを、何故傷つけるんだ? しかもそれを、無駄だって…。
 ボクは激痛に耐えて、両腕を地面に押し付け、何とか身体を起こそうとする。
「寝ていればこれ以上の苦痛を感じないと云うのに」残酷な言葉を突き付けて来る。
「ボクは生きているんだ…!」傍にいる子どもの事を思い出しながら、ボクは叫んでいた。少し首を動かすと、あの子の姿があった。再び石畳の上に寝そべって、意識を朦朧とさせている様に見えた。「あの子だって…、生きている。どう云う理由で、あの子がああなったかは分からないけれど、でも…、まだ、生きているんだ。…それを助けるフリして、――自分の為に利用しようなんて…!」
 ボクじゃない。
 そんな事、ボクはしない。
 絶対に、しない。
 力を振り絞った。
 足は、動いた。
 少しだけふらついたけれど、ボクは立ち上がっていた。
 そして未来のボクの姿を見据える。
 キミは、敵だ。
 ボクは再び術を開始する。右腕の自由が利かない。少し動かしただけで肩が酷く痛む。それでも、構わない。
「またか…」未来のボクは呆れた様に呟く。「何度も同じ手を――」
 相手の台詞を遮る様に、ボクは術を中断し――
 そのまま相手に向かって走る。
 予想外だったのだろうか、相手は少し戸惑いの表情を浮かべた。
「何をする気だ――」
 それでも相手はまた術を組み立てている。ボクは構わずに距離を詰める。
 そして、相手が何かを放った。
 炎の様な眩い光が左手から放たれ、空中でその軌道を残しながらボクに迫る。
 ボクはこれを寸前でかわし、尚も走る。
 相手の懐に飛び込み――
 聖獣装具シルバーファングを一閃。
 だが――
「…っあぐぅ!!」
 悲鳴を上げたのはボクだった。
 腹部に凄まじい灼熱を感じた。
 相手が先程放ったのと恐らくは同じ炎が、あろう事か、右手にも、宿っていた。
 それをボクの腹に押し付けてきたのだ。
 シルバーファングが右手から離れ、回転しながら宙を舞う。
「…まだそんな力が残っていたか」
 ぶっきらぼうに云い放つ声。
 だが、ボクはまだ諦めてはいない。
 密かに、止刻の印を完成させている。
「――!」
 気付いた。でも今度は相手も間に合わない。
 ボクは激痛に耐えて、印を描いた。
 驚愕の表情を浮かべたまま、未来のボクの周囲の空気が、静止した。
 そして。
 宙を舞っていたシルバーファングが、動かないその背中に突き刺さった――

 …倒れる音が、暗い路地に響いた。二度。一度目のは未来のボク。二度目のは、ボク自身。
 でも、ボクはまだ絶命していなかった。意識が朦朧とし、そして身体に走る痛みのせいで、しばらくは動く事が出来なかったのだが。
 そう云えば――、さっきの子どもは。
 視線を向ける事さえ今は無理だった。考えるだけで精一杯だった。
 けれど、恐らくはもう大丈夫だろう。ボクの体力がもう少し回復したら、あの子を安全な場所に連れて行こう…。今はそれぐらいしか思いつかなかった。
 でも――、恐ろしいモノを見てしまった様な気がしていた。
 未来のボク。
 いや、あんな未来にはさせない。
 確かに…、ボクは魔術に没頭する事がある。
 周囲の色んな事に気付かない、そんな日だってあったのかもしれない。
 集中力を保つのは自分でも良い事だと思う。けれど、行き過ぎると、さっきのあいつの様な…、あんな冷徹な魔法使いになってしまうのかもしれない。
 最近のボクはどうだった?
 このままでは、あの様になってしまうのだろうか?
 ああはならない、今のボクはそう云い切れるか?
 しばらくして、ボクはなんとか身体を起こす事が出来た。
 ――ボクは、何かを変えなきゃいけないのだろうか。
 立ち上がりつつ、思う。
 あのボクは、ボクじゃない。
 ボクであってはならない。
 あれは、嘘でなければならないのだ。
 誰だって、未来は変えられるのだから…。
 そう――、あの子どもの未来だって。
 子どもの姿を探す。ところが――
 どこにも見当たらなかった。
 …どうして? どこに行ったんだ?
 キョロキョロと周囲を見渡す。
 気付けば。
 未来のボクまで消えていた。
 これは、一体…。
 疲労と苦痛に苛まれる今のボクには、何が起こったのかを想像する事は出来そうに無い。けれど、子どもが倒れていた場所にまで歩み、その姿が完全に消えてしまった事を確認する。確かにここに倒れていた。衰弱が激しい様子だった。今は、何も無い。
 けれど。
 大丈夫だ。
 そんな気だけがした。
 何故だか分からないけれど、疑念よりも安心感の方が勝った。
 変えていける。そして、作っていける。未来を。
 ――今は、それで良い。
 踵を返す。そしてもう一度だけ振り返る。やはり消えたままだった。
 それだけを確認して、ボクは歩き出した。未来の嘘から離れる様に。


■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
 整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業

 3368 / ウィノナ・ライプニッツ / 女性 / 14歳 / 郵便屋