<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


雨、虚ろな声


 雨。
 止め処なく降る、雨――
 それは、キミの意思なんだ。

 雨期がある。
 丁度、今の季節に。
 大気の運動に過ぎない。
 けれど――、キミこそが雨を望んでいた、…のだと思う。
 キミが一体何者なのか、私はまだ知らない。
 でもこれだけは云える。
 キミは、雨を好んでいるんだ。

 私は…、《実験体68》。
 こう呼ばれていた記憶があるだけだ。
 私には特に名前は無い。
 種族は妖精だそうだ。
 だがそれだけだ。
 私は自分の正体を知らない。
 私の言葉が正しいのか否かも定かでは無い。
 存在しているか否かも疑わしい。
 唯、意識が揺蕩うのみ…、世界のどこかに。
 そう――、私の意識だけが剥き出しのまま大気中に存在している――
 キミにはそんな風に見えるのかもしれない。
 或いは――、私はソーン世界に紛れ込んだ異物なのかもしれない。
 私については、これぐらいしか自分でも分からない。

 では、再び、キミの事を訊きたい。
 ――「キミ」は…?
 …それは、何?
「私」以外の存在者、と云う意味?
「私」以外…。
「私」の外側に――
「私」の枠に収まらない、別の意識…?
 ――私は混乱する。
 だから…、と云う訳ではないけれど。
 出来る限り「キミ」の視点で語ってみようと思う。
 …「思う」と云う表現が正しいかどうかも分からない。
 けれど。
 じゃあ…、「キミ」――、キミは、雨期に直面している。
 そしてここは――
 ここは…、白山羊亭だ。

 雨の中。
 キミは何故ここに来たのだろうか。
 雨。
 厚い灰色の雲が太陽を覆い隠し。
 涙が止まらないかの様に。
 雨がどうしようもなく降り続いている。
 それは、キミの意思なんだ。
 キミは白山羊亭の前に立っている。
 雨が降り注ぐ中。
 傘も差さず。
 雨滴を顔に受けて。
 動かない雲をじっと見ている。
 じっと、だよ。
 冷たいのかもしれない。
 雨粒が大きいと感じているかもしれない。
 太陽がどこにあるのか、分からないと思う。
 大体、そんな感じの、雨。

 それがどうやら――、キミの意思らしいんだ。
 信じられない。
 キミはそんな顔をしているかもしれない。
 だから。
 キミの言葉を聞きたい。

 雨は…、本当にキミの意思とは無関係なのか。
 雨は…、キミと何らかの接点を見出せるのだろうか。

 私にはこれ以上の事が分からない。
 分からない。
 だから、教えて…――

     +

 ――雨。
 良い物だと思う。雨。誰かが雨を雨と名付けたのは、雨に意味や価値を見出した者が少なからず存在していたと云う事かもしれない。それはただ、太陽の照り付ける鮮やかな日と単に対立させる為でも無く、ましてや区別する為でも無く、雨は雨として、それ自身として、考えられて来たのかもしれない。
 それは、雨を愉しむ為。
 鈍く沈んだ空気の湿り気を、それでも好きになる為。
 天からの恵みとして称える為。
 詩を詠む為…――
 雨を語る者は多い。雨の日に挨拶を交わした時、雨の話題から始めるのは今日の常套手段ともなっている。斯く云う私も雨の話を切り出すのがお決まりになっている。それが好きだからなのかもしれない。いや…、その時にはなるほど、雨に対する想い入れと云った物は直接的には自覚してはいないのだと思う。単に挨拶しているだけだ。そして対話を交わす相手だって、特に雨に愛着が無い事も別段気にもしないで、ただ笑顔で、雨の日は嫌ですね、とか、雨が続くと鬱陶しいですね、とか、当たり障りの無い返事が待っている。
 それでも――心の底から雨を憎む者もいるけれど――大抵の場合は雨だけで会話が弾むらしい。雨に悪態を吐く姿だって、例えば謙遜の意味を籠めて自分の欠点を吐露する時の様な、そうした愛嬌たっぷりに語っているかの様。さらに面白いのは、どんなに生真面目な人だって、その時ばかりは皮肉めいた台詞が一時的にせよ許される、そんな不思議な時間となる。
 不思議な感覚ならば他にもある。
 朝目覚めた時、既に雨が降っていたとしたら――
 それも、眠りに入る以前には、確かに星空を眺めていて、その記憶が鮮明だった時、現実に雨の降り注ぐ様を目撃すると、まるで別世界に訪れたかの様な感覚に襲われる。
 丁度――…、今朝の目覚めの様に。
 目覚めた時から、喜びで一杯だった。雨の日の雰囲気はとても好きなのだ。嬉しくて嬉しくて、ずっと歌を歌っていた――

     +

 私が白山羊亭にやって来たのは、ここに用事があったからでは無い。ただ、歩いていた。この雨を楽しみつつ。
 今は雨は止んでいるけれど、いつ降り出してもおかしく無いような、灰色の雲に覆われている。その空の様子から、晴れた日とはまた違った印象を受ける白山羊亭だった。
 だが、違ったのは印象だけでは無かった。誰か――、入り口で立ち止まっている。
 …一人で何をしているのだろう?
 ――いえ、一人では無くて…。
 私はその人に近づく。“何か”と向き合っている様に見えた。その長身の男性は、背中に長剣を携えた――ケヴィン・フォレストさんだと分かった。彼は私に気付く。私は微笑んだ。彼は何時もの無愛想な感じだったが、私の会釈に応えてくれた様だった。
 問題はケヴィンさんと向き合う、それ。それと云っては失礼だろうか。小さな妖精で、人間の少女の様な姿に羽を生やした、典型的なものだった。私は妖精にも微笑みかけた。
 再びケヴィンさんの方を向いて、一体何の妖精でしょうね、と云った具合に無言で訊いてみる。無論彼には答える術は無かったのだろうが、それでも互いの関心がこの妖精にある事だけは分かった。私は目を細め、彼と妖精とを交互に見つめる。
「キミ達は――」
 妖精が声を出した。透き通る様な、綺麗な声だった。
「…知り合いか何かだろうか?」
「ええ、そんな所ね」
 私が答えた。何か不思議そうに尋ねる様子に、今度は私が訊く。
「あなたは?」
「さあ…、な。《実験体68》だ。そう私を呼ぶ者としか出会った事が無い。これが私の名かどうかも知らない。自由に呼べば良い…」
 唐突な答えに私は少し戸惑った。戸惑ったと云っても、困惑すると云うよりは、何か思いがけずに歌の題材を見つけてそれだけれ喜びの感情が湧き上がって来る時の様な、好奇心に由来する戸惑いだった。
 私は益々この妖精に興味を抱き、素直な感想を述べる。
「面白いわ」
「面白い? 滑稽と云う意味だろうか?」
 そんなはずは無い。
「“いいえ”。生ある者には名が授けられる。誰にとっても、等しく。名の本質に相違は無い」
 その時、少しばかりの雨粒が私の顔に滴る。降り出して来た。
 私はそれも楽しみつつ、更に尋ねてみる。
「あなたは――、この白山羊亭に御用入り?」
「分からない。ただ、雨の中にに佇んでいるだけ。雨だけが頼り。雨の無い所は信じられない」
 やはり不思議な事を云う。雨が…、どうしたというのだろう?
「――キミたちは?」
 妖精の問いに、ケヴィンさんが答えた。
「…俺は昼飯が食べたいだけだ」
 私も続く。
「私は――、ただ歩き、ただ歌いつづけ、そしてここへ辿り着いた」
 特に目的があった訳でも無い。ただ、雨の日を楽しむ、それだけで私には価値があるのだ。ケヴィンさんも特別な用事があった訳では無いらしかった。相変らずぶっきらぼうだけれど、その様子からはリラックスしたムードが伝わって来る。
 ケヴィンさんが私に話し掛けてきた。
「おい…、特に用が無いならそろそろ――」
「あら、この珍しい出会い、もう少し楽しみたいわ?」
 彼はこうした静かな戯れは好みでは無いのだろうか。やや退屈そうにも見えた。
「――キミ達は時間に追われているか?」
 その様子を見て、妖精が問う。
「“いいえ”」
 私は努めて優しく語り掛ける。ケヴィンさんの様子を察して、そのせいで気分を害してしまっては、互いにいけないと思ったのだ。
 知らぬ間に雨が強くなり始めていた。今日は降ったり止んだりの繰り返しの様だ。
 ――いえ…、これは確か…。
 私はある事を思い出していた。ルディアが以前云っていた言葉を。急に強くなる雨。妖精。そして――
 私は記憶を辿った。確か、彼女はこんな事を云った。

「最近妙な妖精が出没するらしいの。雨がどうとか云っているらしいのだけれど――、その妖精の質問に『いいえ』と答え続けると、雨がどんどん激しくなって行くのだとか! くれぐれも気をつけてくださいねっ!」

 ――もしかして、この妖精の事では? 確か、私は「いいえ」と二度云った。この雨は私の否定語に同調したのだろうか? タイミングから考えてもその様な気はするのだが。
 そしてケヴィンさんもその事に気付いているのだろうか。何かを確認するかの様に私の方をちらっと見る。ルディアは彼にも件の話題を話していたのかもしれない。
 私は彼に問う。
「…ケヴィンさん。もしかすると、今朝からの雨と云うのは――…この妖精の問いに否定語を投げかけた誰かがいた、そう云う事かしらね?」
 彼は答えなかった。心当たりだけで頷く事も首を振る事も出来ない、そう云う事だろうか。
 私は続ける。
「…仮にそうすると、何だか厄介ね。私、既に二度ほど答えてしまったわ」
 厄介と云っても、私自身は別段雨を嫌っている訳では無いのだから、それはそれで面白い。そして、この雨が妖精の仕業だとしたら、不思議な印象は受けるものの、益々興味が湧く。
 そして急にこの様な表現を思い付く。
「あなたは――雨の人、なのかしら?」
 雨に拘りを持つらしい事を考えての事だ。
「雨…、そうか――、この雨は、キミ達の意思なのか…」
 ――私達の意志? 何だろうかそれは。
「この雨は、キミ達の意思。…そうだね?」
 そう問われて、どう答えて良いものか。私個人としては雨は自然に降る物だと考えている。私自身の意思に関わり無く、降る時には降る、全ては天の気紛れ、雨についてはこんな事を考えていた。だから――、「キミ達の意思」とは、唐突過ぎるのだが。
 けれど、妖精の問いに肯定で答えられるだけの、雨に対する思い入れは私にはあった。
「そうかもしれないわね。――あなたの言う通り、これは私が望んでいた天気なのでしょう。心の底からかもしれないし、夢の中でかもしれない。…私の羽が乾ききっていたのでしょうね」
 ケヴィンさんは何も答えない。当然と云えば当然なのだろうけれど。
「――…やはり、キミ達の意思なんだ」ケヴィンさんの無言を肯定と悟ったのだろうか。「雨…。そして、雨を好む者のもとに、雨は降り注ぐ。――その解釈で間違い無い…」もしそうだとしたら、素敵な事ね。「では…、何故、私の問いを否定した者が多かったのだろう?」…今朝から時折降り注ぐ雨、それはもしかしたら、この妖精に否定語を発し続けた人がいたからかもしれない。「何故、雨を否定するのに、雨は降るのか」斬新な視点ね。
 妖精は何か考え込んでいる様だった。しばらくして、再び声を出す。
「…こう問うてみたい。キミ達は、雨が好きだろうか?」
「――仕事が入ってるなら降らない方がいい」
 ケヴィンさんが先に答えた。彼らしい意見だ。同意も出来る。
 私は更に云う。
「ケヴィンさんの言葉は勿論の事だけどね。でも雨の好きな理由はあるわ。――雨は、世界の見せる表情の一つ。とてもとても美しい…。――…音も景色も気温も、私の心を躍らせる」
 途中から詩を詠む様になっている事に自分でも気付いた。
「――否定するでも無い…。キミ達は――」しかし、妖精は何かひっかかりがある様だ。「…キミ達が雨を望むのならば、雨は私を否定するのだろうか?」妖精も詩を詠むのかしら。それとも、独特の価値観を持っているのかしら。「私を否定…、否定――、私は悪なのだろうか、雨にとっては…?」
 悪…。どう答えて良いのやら。
「…晴れの日の人から見れば、ね。私から見れば、ただの出会った人。ひとつの出会い。時間が経てば、これから、他の何にもなりえるのですよ」
 吟遊詩人としての答えを止め、私は幾分ストレートに伝えてみる。
 晴れだけが良いのでは無い。そして、雨があるからその分晴れが良い、そんな単純な事でも無い。晴れには晴れの良さがあるし、雨もまた然り。
 だがそれにも関わらず、この妖精は価値観に妙に偏りがある。雨に対する態度だけが、執拗に何かを求める様な、生きる上で決して譲れない何かを守るかの様な、そうした頑固さがある。
 或いは――、それは生まれ付き? 種族柄? 種族…――
 私は一つの単純な仮説に行き当たった。
「――ははぁん…、あなた、――水の精霊ね?」
 妖精は妖精でも、一体何を司る妖精なのか考えていなかった。…私の推測通りだとして、その先に何が見えて来るのかは今一つ分からなかったけれど、“水”に関わりがあるのは少なくとも間違い無いと思った。
「…それで雨に拘る。雨が気になる。…雨との接し方にどこか戸惑いを感じている様だけれど――」
 妖精は首を縦には振らなかった。しかし、どうやら私の言葉は間違ってはいないらしく、妖精は私の推察を受け入れる様な仕草をした。
「水、か…。」ケヴィンさんも何かを考え付いているらしかった。「…記憶がないのは生れたばかりだからだ、自分が分からないなら自分探しに世界を旅して来い」なるほどね。「…旅が嫌なら広場の噴水で遊んでいればいい、水の精霊なんだし」
 それも良いのかもしれない。最終的に、妖精の行動は妖精が決めれば良いのだが、――…雨の好きな私としては、少し寂しい気もした。
「あなたがここにいる限り、あなたには力があるのです。…私のような、雨が好きな人を喜ばせる力が。私は出来れば、あなたにここにいて欲しい。これからあなたに出会うであろう、沢山の人々と街が羨ましい…。本当です」
 私は優しく声を掛けた。妖精は黙ったままだ。ケヴィンさんの台詞と私の台詞、その間で揺れているのだろうか。
「…分からない。――雨、それが私の頼り、それも、唯一の頼り。何故唯一だと思うのか、自分でも分からないけれど…、でも、そうとしか思えないんだ。――でも、もしかしたら白山羊亭では無いのかもしれない」
 白山羊亭…、では無い?
 ――そうか、妖精と白山羊亭との関係性も、僅かながら思い付いていたのだが、どうやら違うらしい。たまたま白山羊亭の前にいた。私と同じだったのだろうか?
「どこか、…――まだどこかに、私の訪れるべき場所があるのかもしれない。そんな気もする」
 私は問う。
「――どこかに行ってしまうの?」
「…それが私らしい。どこか、ではなく、私にとっては常に“此処”でありたい。雨さえあれば、どこであっても――」
 そう云うなり、妖精は静かに飛び去って行った。緩やかに飛ぶ軌道の曲線を目で追って、知らぬ間に雨が止んでいる事に気付いた。
「行ってしまいましたね…」
 私の羽は雨ですっかり湿っていた。だが、それでも良かった。
「取り敢えず俺はメシだ…」
 ケヴィンさんはどこか疲れた様に云った。彼は私や妖精とは違って、少なからず店に用事があったらしい。…引き止めたみたいで少し悪かっただろうか、とも思った。
 私は迷わず云った。
「では、私はこの辺で――」
「…店に用は無かったのか?」
「云ったでしょう? ただ、訪れたのだ、と…。そして、私はまだこのエルザードのどこかを彷徨うかも知れない妖精の事を思い出しつつ、しばしの散歩でも、と…」
 半分はケヴィンさんへの拙い気遣い、半分は本心だった。自分自身の安価な振舞いも相まって、私は苦笑交じりに彼を見た。無表情な彼も、私に合わせる様に手を振ってくれた。それを確認し、私は白山羊亭を後にした。
 路面の湿り気が足に伝わる。曇り空は相変らずで、いずれまた降り出して来る様な予感がした。その雨が、天候に依る物なのか、それとも、またあの妖精の仕業となっているのか――、未来の事を想像しつつ、私はアルマ通りをゆっくり歩く。次の歌の生まれる瞬間を心待ちにしつつ。


■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)

 整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業 /

 3425 / ケヴィン・フォレスト / 男性 / 23歳 / 賞金稼ぎ
 3619 / トリ・アマグ(ノベル本文の視点) / 無性 / 28歳 / 歌姫/吟遊詩人


■NPC

 《実験体68》
 ルディア・カナーズ(想起のみの登場)