<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>


例えばこんな物語







 白山羊亭には毎日のように1人のお客がやってくる。
 彼は、店内全てを見渡せるようなカウンターの椅子に座り、ウェイトレスのルディアに無邪気に話しかける。
 彼の名はコール。
 この世界に始めて降り立った際に、凍るように冷たい瞳をしていると誰かに言われてから、そう名乗るようになった。いわゆる記憶喪失である。
 年の頃20代中ごろといった風貌なのだが、記憶をなくしてしまった反動か、どこかその性格は幼い。
 服装は、暗色を基調としており、どことなく若い魔法使いを思わせる。
 カラン。と小さく扉の音を立てて、千獣は白山羊亭に足を踏み入れた。ぼんやりと店内を見回し、開いている席を探す。
「………あ……」
 見知った背中……いや、頭を見つけ、千獣はつつっと歩み寄る。
 物語の冒頭を考えているのか、思案げに虚空を見つめているコールは、千獣が近づいてきたことにも気がついていないようだ。
「……コール……久、しぶり、だね……」
 千獣の声にコールは振り返る。ふと、その隙間から見えるカウンターに本が置かれていることに気がつき、千獣はコールを見上げた。
「今日、も、物語……?」
「うん。主役はまだ決めてないんだけどね」
 ぼんやりと主役はまだなのかと頭の中で反芻し、千獣はふと顔を上げる。
「この、前、話して、もらった……お、話……」
「氷の鳥のこと?」
「そう……フロックス……」
 千獣は小さく頷く。そして、伺うようにコールを見上げた。
「フロックス、は……氷の、鳥、なのに……暖かかった……私、には、お、父さん、は、いない、から……よく、わから、ない、けど……」
 母という愛情を注いでくれたヒト、そして今、母という愛情を注いでくれるヒトは、いる。
 けれど、父とは、父とは―――
「ああいう、感じ、なのかな……?」
 千獣のその言葉に、コールは優しく微笑んだ。








【サンシュユの鏡】





 きっかけはほんの些細なことだった。
 今まで氷鳥の王の力を手に入れようと襲い掛かってきた魔物とは違う、ただの人間が千獣に戦いを挑んだ。
「あなた、も……私、と、同じ………?」
 千獣は人間に問うた。
 生きるためにフロックスに戦いを挑み、その身を喰らって後継者となった自分。後継者になってしまったことは不可抗力だったが、生きるために戦いを挑んだことは本当。
「違う。俺の目的はフロックスが守るサンシュユの鏡」
「かが、み……?」
 そんな話は聞いたことがない。
 千獣は自分の中のフロックスに問いかける。
 サンシュユの鏡とは何か、を―――
 その姿を映した者の願いを叶える。そんな月並みな力を持った鏡だった。
 魔力を帯びた氷が鍛え上げられて作られた鏡は大きな氷の塊。ただその面が磨かれすぎたために鏡のようにその姿が映せるだけ。それに鏡と言われただけならば関連性が見出せずに首を傾げるしかなかったが、その正体が氷の塊ならば正に氷鳥の王が守っていたとしても不思議ではない。
『千獣には必要の無いものだ』
「どう、して……?」
 彼はフロックスがその鏡……ならぬ、氷の塊を守っているといった。
 だとしたらその鏡を守るのは後継者たる自分の役目。
『あの鏡は守るべきものではない』
 願いを叶える力があるのならば、邪な人々がたくさん集まってきてしまいそうなものである。
「……見、たい……」
『何?』
「私……見たい………」
 初めてのわがままに、フロックスは見えない瞳を瞬かせ、しょうがないとばかりに息を吐いた。







 どれだけ飛んだだろう。
 フロックスと出会った場所からもっと北。纏わりつく空気が突き刺さるように鋭くなっていく。
 突き出すような断崖絶壁が連なる頂に、何者かの手によって造られた神殿のような洞窟が見えた。
 千獣は洞窟の入り口に足をつける。中から微かに冷たい風が吹いた。
 確かにここならば翼の無いものは訪れられない。加えこの寒さだ。氷の眷属しか近づけないだろう。
 後継者といえど千獣の肉体が変わってしまったわけではない。
 口から吐く息は白く、手は微かにかじかむ。
『寒いか?』
「大丈、夫………」
 一歩一歩踏みしめるように千獣は奥へと進んでいく。
 この先に、人の言い伝えでサンシュユの鏡と呼ばれるフロックスの氷があるのだ。
 洞窟の通路を抜け、大きなドームのような空間が現れる。
 その部屋の中央には、研磨されたかのような氷の塊が浮かび、青白い光で部屋中を照らしていた。
 確かに鏡と言われているだけのことはある。
 千獣は鏡に近づいていく。
 鏡の面が一瞬反射するように輝き、その面を揺らして、次に千獣の姿を捉えたとき、その面に映る千獣は、千獣ではなくなっていた。
『見せたくは無かった』
 地面に立っている千獣と、氷に映る千獣の姿は明らかに違っている。
『この氷は、真実を映す』
「うん……分か、る………」
 今まで喰べてきた生き物たちが千獣の至るところから重なり、その身から這い出ようとうごめく姿が映る鏡。
 思いのほか冷静な千獣に、フロックスはただ驚く。
 千獣はもう一歩氷に近づいた。
 ――――ピシャ。
 足元に眼を向ける。
 コレだけ寒いのに、その氷の塊の下に出来ている水溜り。
「……溶けて、る、の………?」
『…………』
 フロックスの沈黙。それはどういう意味か。
「もしか、して………私、の、せい……?」
 後継者となったときに捨ててしまったフロックスの魔力。
 この氷の大きさは魔力の強さなのか。
 だが、氷鳥の王は違うと告げる。
『この氷は、我が命』
 それが小さくなっているということは、フロックスの命が後わずかだということを告げている。しかし、千獣の中で生きているフロックスに明確な死というものが有るのか。
「消え、て、しまう、の……?」
 この氷が溶けてしまったら、もう二度と声が聞こえなくなるの?
『そうだ』
「どう、して…!」
 見えないフロックスに対して、千獣は声を荒げる。
『何時までも、我が影響下のままいてはならぬ』
 サンシュユの鏡が溶けきった事実は、氷の眷属たち全てに行き渡り、氷鳥の王の一族は途絶えたのだと知らしめるだろう。
 そうすれば、千獣はもう謂れもなく襲われることはなくなるのだ。
『自由になるのだ』
 不可抗力などではない。この氷がある限り、氷鳥の王は現世に残る。だからフロックスは千獣に何も告げずに氷が溶けきるのを待つつもりだった。そうすれば氷鳥の王は滅び、小さな娘は自由になれる。
「ううん……私、は、フロックス、の、責任を……負う………」
 誰が何と言おうと、生きる者は死なせてしまった者の責任を負って生きなければいけない。
『私はこれ以上、私のせいでお前を傷付けたくないのだ』
 どうか理解して欲しい。と告げるフロックス。
 今までだって自由じゃないと思ったことなんて無い。
 独りは寂しい。
 そんな事を思うなんて。
『…そんな哀しい顔をするな。言葉が交わせないだけで、居なくなるわけではない』
「消え、るって…言った……!」
 他人というものは、都合の悪いことはよく覚えているものだ。
『千獣………』
 千獣は踵を返した。
 本能が告げている。氷を触れと。そうすれば、全てが手に入るのだと。
『……やめろ!』
 その手が、氷に触れた。


―――無茶をする娘だ
―――今しばし、お前の傍にいよう





終わり。(※この話はフィクションです)






























 父親とは何たるか的な話を書きたいなぁと思っていたのに、気がついたらどう考えてもずれているような気がしなくもなくて、コールはうーんとペンの頭をあごに当てて考える。
 当の千獣は書いてもらった物語を噛み締めるように、ぼんやりと思いをはせる。
 娘――子供には無理をさせたくないという親心。これもまた、有りようなのかも知れない。
 コールはそんな千獣に気がつき、パタリと本を閉じる。すると、ふっと気がついたように千獣の視線がコールを見返した。
「どうだった?」
 見計らったように告げた言葉。
「……物、語……ありが、とう……」
 千獣は微かに微笑む。
「こちらこそ、ありがとう」
 コールはふわっと優しく微笑んで、そっとその頭を撫でた。













☆―――登場人物(この物語に登場した人物の一覧)―――☆


【3087】
千獣――センジュ(17歳・女性)
異界職【獣使い】


☆――――――――――ライター通信――――――――――☆


 例えばこんな物語にご参加ありがとうございます。ライターの紺藤 碧です。
 他の父親っぽい父親も考えたんですが、二人の考え方の違いが多少出ていたらいいなぁと続き物としてかかせていただきました。楽しんでいただけたら幸いです。
 それではまた、千獣様に出会えることを祈って……