<東京怪談ノベル(シングル)>


O r i e n t a l e


  ∇             ∇


 笛の音が聞こえる。
 それは耳慣れた金管の音ではない。誘(いざな)う誘蛾灯のような、甘く擦れた木管の音色だ。まさにその音色に誘われるように、クレア・マクドガルは目を開いた。
(ここは…どこなのだろう…)
 足元がふわふわと定まらない。視界も白く濁りはっきりしない。まるで霞の中をふわふわと漂っているような感覚。クレアは目を覚ますようにゆっくりと首を振ってみるが、それがきちんと出来たのかどうかさえ、判然としない。
(どうなっているのだろう…どうして私は…)

 ピィ――――。

 クレアの曖昧な思考を切り裂くように、突然、笛の音が強く尾を曳いた。それに呼応するが如く、冷たい風がふわりと吹き抜け、クレアの視界の霞がすぅと晴れていく。
 それでもそこが何処なのかは依然、はっきりとはしない。
 だが、その霞の中から一人の人影が現れた。
 それは極彩色の服を重ね着た背の高い女性だった。手には刃紋も美しい片刃の剣を携えている。
(あれは確か、遙か東方の着物と刀…)
 それはクレアが伝説に伝え聞いた東方の品々。昔、手に入れることを幾度も夢見て成し得なかった品々なのだ。
 だが。
(でも…あの女性は…)
 クレアは女性の顔を見て、奇妙な既視感を覚える。
(あれは…あの顔は…若い時の私!?)
 そう、女性は若き日のクレアと同じ顔を持っていた。いや、何故かクレアには解っていた。あの女性は他ならぬクレア自身なのだと。
 女性―本来なら彼女のこともクレアと呼ぶべきなのか―は不意にすいと目を眇め、ゆらりと揺らぐように動き、刀を構える。
 その目の見つめる先、霞の中で何かが蠢いていた。
 それは始め、ぐにゃぐにゃとしたただの黒い塊であった。だが、幾度も形を変えながら次第に固定の形を取り始め、最後には鋭い爪と牙、そして角を持つ異形の人間形に成りあがる。
 その異様な姿を見てクレアは瞬時に、これは「鬼」なのだと悟った。その禍々しい生物は、そう呼称するのが正しいように咄嗟に思ったのだ。
 対峙した眼下のクレアと鬼。クレアは刀を、鬼はその長く鋭い爪を構え、視線を交錯させた。
 瞬間。

 キィィィィン!

 クレアの剣と鬼の爪がかち合い、美しい音を奏でる。しかし、余韻に酔う暇もなくすかさず鬼がもう片手でクレアの胸を抉ろうとする。それを飛び退いて躱したクレアは、咄嗟に剣を逆手に持ち、身体を半回転させ弧を描くように鬼を横一文字に斬りつけた。だが、それも鬼の爪に弾かれてしまう。
 クレアと鬼は一瞬たりとも動きを止めない。あれだけ激しく剣を交わしているというのに、二人は息一つ乱さず、舞を舞うかのように優美に戦っていた。
 だが、クレアは堪えきれぬ焦燥を感じてもいた。何故なのか、自分でも解らない。心の中で「止めて、止めて!」と何度も繰り返す。
 血が、ぽたりと垂れた。
 美しい剣舞のようなそれは、それでも「戦」だった。ついに、クレアの袖口か斬られ、袖口が朱に染まる。その朱さえ目には美しく映える。だが、その美しさが一層クレアの焦燥をかき立てた。
 そして、遂にクレアの口から、絶叫がほどばしった。
「だめです!傷つかないで、死なないで!―――!!」
 クレアは自分が最後に何と口走ったのか理解することは出来なかった。
その言葉を口走った途端、世界はまた霞に覆われ、そしてクレアの意識も―途絶えた。


  ∇             ∇


「…………っ!!」
 眩しい光の中、クレアは声にならない叫びを上げて飛び起きた。
 はあはあと荒い息をついて、辺りに視線を走らせる。そこが見慣れた自分の部屋のベッドの上だと気付いて、クレアははあと大きな溜息と共に頭を垂れた。眩しいと思った光も、どうやらカーテンの隙間から漏れた朝日だったようだ。
(…夢…)
 寝汗で濡れた額に手を遣り、汗で張り付いた髪に風を通すと、クレアはベッドから抜け出した。まずはカーテンを開けて朝日を部屋の中に採り入れ、ベッドサイドのローテーブルに置いた水差しから水を少しだけくんで飲み干す。そうすると、ようやく人心地ついた気分になる。
(不思議な夢…)
 遙か東方の異国の衣装を着た若かりし頃の自分が鬼と立ち回りを演じる夢。幻想的で美しかったが、それ以上に焦りを感じた夢だった。
 確かに昔、クレアは冒険商人をしていて、何度も危険な目に遭いながら生活していた。だが、今は結婚して子供もいる。冒険者としての仕事は夫に任せ、危険な生活からはしばらく離れていたのに。
 ふとベッドの枕元を見る。そこには一冊の分厚い本が置かれていた。
(ああ、そうだった…)
 この本は先だって図書館から借りてきた、東方の伝説をいくつも納めた本だった。クレアは前の晩、珍しい冒険譚をせがむ娘に、この本を読み聞かせてやったのだ。
 クレアはくすりと微笑んで、若い頃の冒険の数々を思い出した。
(無茶もしたし、危険も多かった…珍しい品物一つに命を掛けたこともありましたね)
 クレアは本の表紙を撫でるようにして穏やかに追憶にふける。
 だが、あることに思い至って、つ、と眉を寄せた。
(あの時、私は…)
 夢の終わり、クレアは何かを口走っていた。それが何なのか、今更になって理解した。
 あの若い頃の姿のクレアは、今のクレアの娘と同い年くらいではなかっただろうか。母子だけあって、どこか面影を宿してはいなかっただろうか。
(今のあの子は…あの頃の私のようにまだ若くて無謀。危険も無茶も顧みないところがある…)
 冒険者を目指すクレアの一人娘。今までも厳しく冒険のイロハをたたき込んだつもりだった。だけれど、急に不安になる。
(もしも、あの子がどこか私の知らないところで危険な目に遭ってしまったら…。あの子にもしものことがあったら、私は…)
 クレアは朝日の中で、きゅ、と唇を噛み締めた。本の表紙を撫でていた手にも力が入ってしまっているのを感じて、慌てて力を抜く。
 そして、決意と共に顔を上げた。
(いつか、あの子がその気になったのなら、私は私の持てる知識と技術、全てをあの子に教え込みましょう。厳しい母と思われても、それが私なりの優しさ、愛なのですから)


<了>