<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


例えばこんな叙事詩







 黒山羊亭のカウンターでペラペラと本のページをめくりながら、アクラ=ジンク ホワイトは頬杖をついて、カクテルを傾ける。
「珍しいじゃない。あなたがここに来るなんて」
「ちょっとね」
 白山羊亭はちょっとライト過ぎて合わないから、危険な依頼が多い黒山羊亭に来た。
「何を考えているのかしら」
 ふふと笑うエスメラルダに、アクラは誤魔化すように肩をすくめて笑う。
 そして、ばっと椅子から立ち上がると、挑戦的な笑みを浮かべて黒山羊亭のホールを見渡した。
「さぁ、挑戦者は居ないかな? この物語は夢じゃない。物語で怪我をすれば、現実でも怪我をする。死んでしまったら……あは☆ そんなこと考えたくないね」
 アクラの手の中で浮かぶ、1冊の厚塗りの本。
「ふむ……今回はなかなかに物騒みたいだな」
 声がかかった方にアクラが視線を向ければ、そこにはキング=オセロットが不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「物騒だなんてとんでもない! これはただの叙事詩さ。ちょっとだけ細工してあるけど……ね♪」
 アクラはオセロットに向けてウィンク1回。
 オセロットはその笑顔を受けてやれやれと肩をすくめる。
「ううむ……アクラ殿が以前、持ってこられた物語はコール殿の物語であった。現実そのものは変えることができずとも、コール殿の夢を変えることができた。今回の書も、どなたかの何かなのだろうか?」
 生真面目な意見にアクラはぶっと噴出す。こんな事を言うのはアレスディア・ヴォルフリートしかいない。
「考えすぎ! まぁコールが考えた物語の冒頭なのは間違いないけど」
 アクラは只の物語に本当に人を取り込むような力を持っている。ただ、それだけ。
「……とり、あえず……その、開いた、扉……から、こん、とん……? ……ていう、のが、出て、きたん、だよね……」
 それに、アクラは物語内で怪我をすれば現実でも影響すると言っていた。とりあえず、よくわからないが、怪我も死亡もせずに、
「その、扉、閉じる……開いた、ものは、閉じる……」
 ことを実行すればいいのだろう。
「確かにプロローグはそうだけど。ふふ、それで終わるかな」
 千獣の言葉に反応してにやりと笑って呟いた声にオセロットが反応する。
「それはどういう意味かな」
「もちろん秘密!」
 本の中での生死が現実にも及ぶというのに、アクラの口調は至極楽しそうだ。
「さぁ行っといで! 最高の物語を期待してるよ!」
 かくして物語の運命は、君の手に委ねられた。





 〜〜プロローグ〜〜


 古の文献は語る。
 資格無き者。閉ざされしその扉、開けること無かれ。
 閉ざされし意味を理解せよ。
 資格亡き者。代は時を経て、意味を変えたる。
 再びその扉開けること無かれ。


 古の文献が語る扉。
 かつて世界が滅びようとした時、人々に10の力を与え、その危機を救ったとされる。


 資格持つ者にのみ正しき道が開かれる扉。
 資格無き一人の者がその扉の前に立つ。
 かくて扉は開かれ、混沌が世界を覆いつくした。


 そして、世界が混沌に覆われてどれくらいの時が経っただろうか。気が付けば世界はもうこの状態で、人々は伝説の扉を再び正しい者が開けることを望んでいた。
 かつて、世界を救う力を人々に与えたように―――























 幼い娘の手を握り、ベッドに沈んだ男は寝物語のように告げる。
「……オセロット。お前は、ゲブラーを受け継ぎし我が娘……」
 オセロットは伝説だの伝承だのそう言ったものを軽視するわけではないが、正直それはご先祖様の話であって、今の自分の価値ではないと思っていた。
 そのため病床の父を看病しながら、事あるごとに繰り返されたその言葉もその身にしみこまなかった。
 それから月日が流れ、今に至っている。
 かつての祖先のようにとか、子孫としての使命だとか、そんな大層なもので動いているわけではない。
「かつての英雄達はどのように世界を救ったのか……」
 過去の記録を紐解きながら、オセロットはまるでオブジェのように飾られた弓に視線を送る。
 過去の英雄たちの功績の過程を知ることが出来れば、今世界に怒っている哀しみも晴らせる糸口が見つかるのではないか。そう思って。
 扉より齎された聖なる弓ゲプラー。綺麗な装飾が施されたそれは、実用に耐えうるもののように思えない。
 けれど、この弓を使ってキング家の祖は確かに過去の混沌を退けたのだという。
 10人の仲間と共に。
「そもそもこういったものは事実を読みやすく誇張している節もあるだろうしな」
 オセロットは一人呟きパタンと本を閉じる。
 今残る伝承はこうだ。

 弓形の月先駆けの矢を放つ
 振り上げし鎚時を薙ぎ
 来訪を告げる鐘鳴らす
 迫り来る混沌
 拳を持って潰し
 剣を持って滅す
 槍神風に乗りて行く手を阻み
 守護の要たる盾を抜けども
 待ち構えしは万象の杖
 広がる傷典を持って癒し
 鼓舞の鏡光を受けて輝く

 小難しく書いてはあるが、こういうことだろう。
 街を守る城壁の見張り番の武器が弓であり、まず応戦。知らせを受けた人が、鎚を持って鐘を鳴らし、拳や剣、槍など戦闘力を持ったものを集め、それに応戦。城壁は盾であり、その門を抜けられたとしても、魔法職がそれを食い止めた、というところだろう。
 よくある話だ。
 そんな真実を、扉などという伝説を持ち出し美化したもの。オセロットの認識はそんなものだった。
 なぜならば、扉を開けた結果の伝承はあっても、その扉がどこにあるかという伝承は何一つ伝わっていなかったから。
「オセロット様。出立のご準備を」
「分かっている」
 腹辺りに手を当てて軽く腰を折った従者に短く答える。
(ゲプラーは……)
 オセロットはガラスケースの戸を開けて、手に持ってみるとやけに軽い弓を手にする。この弓のための矢はない。
(持っていくか)
 験担ぎではないが、あれほど父が世界を救ったと信じて疑っていない弓だ。何かしら幸運をもたらしてくれるかもしれない。
「行くぞ」
「はっ」
 オセロットは弓を肩にかけ、屋敷を後にした。






 戦況はあまり芳しくない。
 隣国の軍隊は、何故だか心ここにあらずといった様相で、まるで獣の群れのように襲いくる。
 傷つくことを厭わない敵ほどやりにくいものはない。最近ではその形相に慄き、士気が下がり始めている。
 なぜそこまでして争わねばならないのか。
 何度目かの衝突。オセロットは双眼鏡で衝突点を見つめる。
「…!!?」
 肉眼で見えるわけではないのだが、双眼鏡で見えた状況を信じることができず、つい肉眼で見ようと双眼鏡を外して眼を細める。
 あれは、波か?
 薄く金の光を伴った風が吹き、その風に煽られた自軍の仲間が見境なく攻撃を始めたのだ。
「た…大佐!」
 息絶え絶えにテントに駆け込む部下。
「どうした?」
「仲間割れを…じ、自分には理解が出来ません!」
 目の前で狂った仲間たち。
 辛うじて正気を保った部下たちは、この状況を報告するため急いで引き返してきたのだ。
 大佐は部下を宥めている。
 その様を見ながら、オセロットは薄く唇をかみ、衝突点に視線を戻す。
 どうすれば。
 どうすればいい!
 退却の命令さえも届かない。
「…………」
 立てかけた弓が微かに光った気がした。






 オセロットはふっと笑う。
 伊達でも酔狂でもなかったのだ。
 あの場で咄嗟に手にした弓は、光の矢を生み、まるで隼のように戦場を駆け抜けた。
 その光に当てられた人々は、我を取り戻したかのように戦いをやめたのだ。
「扉…か……」
 弓は扉より齎されたと言われる道具。
 古の扉。
 それは、ただの伝承だと思っていた。この混沌も他から齎されたものではなく、人の心が疲弊し起こった哀しい争いだと思っていた。
 けれど扉は存在し、そして、伝承の通り資格の無いものによって開け放たれ、混沌が広がってしまった。
 これでやることが分かった。
「まず扉を閉めねばな」
 開け放たれたままだからこそ、混沌が続くのかもしれない。かといって閉じただけで根本的な解決には至るとは思えないが、開け放たれたままよりはましだろう。
 あの隣の国の軍隊は完全に混沌に呑まれていたのだろう。
 このままではいつ自分の国が呑まれてしまうか分からない。ならば、伝承者たる自分は―――
「っふ……」
 いや、私自身の意思を持って、この混沌を収束させよう。だが、その前にやることがある。組織を構成する人間である以上、ここで勝手に抜け出してしまうことはできない。
「全軍一時撤退だ」
 オセロットは暫く単独行動を取るため、一度軍を補給拠点となっている町まで戻ることにした。






















 国境付近に位置するこの町は、今や戦況深まる争いの只中に陥っていた。
 町の中心に立つ等身大の銅像は、本物の盾と矛を持ち、象徴として町を守っている。
 直接町に攻撃を加えてくるわけではないが、物資の補給点、休戦時の滞在地として、元々の町の住人だけではなく、あわよくば戦いに加わり功績をあげようとする人、軍人を相手に商売を行おうという人、いろいろな人が溢れかえり、本当の町の顔を曇らせていた。
 町に人が増えるということは、それに比例して犯罪も増えるということ。
 本家の軍人が悪さを行った場合は対処に困るが、それ以外の人々が起こした悪さは町の自警団が取り仕切っていた。
「それにしても…」
 日誌に新たに捕らえた犯罪者の記録を残しながら、アレスディアは背後の鉄格子を流し見る。
 牢に入れた犯罪者は、まるで獣のように唸り、ガシャガシャと鉄格子を揺らしている。
「また狂い人か……」
 普通の人が突然正気をなくし、誰彼構わず襲うという事件が最近多発していた。
 いや、正確には突然ではない。確かにこの町で狂い人が出るようになったのは突然だが、風の噂で他の国や町ではそう言った人々が増え始めたと耳に入ってはいたのだ。よもや、この町にまでそんな人々が出るなんて思いもせず。
「…………」
 何か思い立ったかのようにアレスディアのペンを走らせる手が止まる。
 徐々に蔓延する狂い人。人を狂わす病か何かで、それが人と人の出会いを媒介として広がったのでは―――…
「まさか…な……」
 だが、その可能性の方が何倍もいいことだってある。
 それならば、発症した人、発症した人と関わった人。その人たちを隔離するだけで済むのだから。ただ、本当に病だったとしても、今ここに捕まっている人が誰と出会ったかなんて分からないため、結局は解決に至らない。
 アレスディアは残りの日誌を書き終え、椅子を立った。
 囚人の足元には昼に出された料理が、そのまま手付かずで残っている。アレスディアはそれを見下ろして、ぎゅっと唇を噛む。
 どうしてここまで―――
 人として、生きることに必要な、食べる事。寝る事。それを忘れて、ただ彼らは何者かに囚われたような声音で叫ぶ。
「出せぇ! ここから出せぇえ!!」
 滴る涎さえも気にせずガシャガシャと鉄格子を揺する狂い人。
「殺す! 殺してやるぅううう!!!」
 その叫びを背に受けながら、アレスディアは詰め所から町へと出た。
 太陽の位置はまだ高い。
 微かな眩しさに掌で目元に影を作り、視界が明るさに慣れるまでしばし待つ。
 自警団員に配布されている槍を構え、心意気も新たに歩き出す。
 人は増えたが、この町はあの狂い人さえ出なければ、基本的には平和な町だ。
「あぁああん。うああああん」
 小さな子供の泣き声が聞こえる。親とでも逸れたのだろうか。
 どうしたのかとアレスディアが近付く前に、町の女性がぬいぐるみを抱きしめて泣いている少女に近付き、膝を折った。
 それは、酷く平和な光景で、アレスディアはつい口角を緩める。これでもうあの少女は大丈夫だろう。
 アレスディアは安心して二人に背を向けてその場を離れる。
 しゃくりあげていた少女は、女性の優しい声音に徐々に落ち着きを取り戻し、微かにだが笑った。
 見上げた少女の瞳が一瞬見開かれる。
 ぬいぐるみの奥から少女の腕力を超えて繰り出されたナイフ。それは躊躇いもなく駆け寄った女性の腹に突き刺さった。
「きゃぁあああああ!!」
 突然の凶行。通行人の悲鳴が上がる。
 アレスディアは足を止め振り返った。
「何だ!?」
 呆然と立ち竦む人、逃げる人を掻き分け、アレスディアは喧騒の只中へ顔を突っ込む。
「…っ!!」
 あの眼は…あの、血走ったような眼は、見覚えがある。
 先ほどまで詰め所で一緒だったあの狂い人の眼と――同じ。
 あんな幼い子供まで、狂わしてしまうものは何だ?
 歪んだ嗤いをその顔に湛え、少女はその場で高笑う。
「しね! しね! しんじゃえ!!」
 少女は腹からナイフを抜き、蹲る女性の傷口を蹴る。
 女性の口から咳と共に鮮血が飛んだ。
(まだ息が…!)
 アレスディアは駆け出す。
 女性を助け、少女を止めるため。
「みんなきらい! だいっきらい!! いなくなっちゃえ!」
 少女の狂った瞳は回りを映さず、ただ闇雲にナイフを振り回す。
 同じだ。
 他の狂い人たちと。
 アレスディアは苦渋に満ちた表情で奥歯を咬み、少女を後ろから拘束した。
 脇から両手を回して抱き上げれば、少女は自由を失ったことに獣のような咆哮を上げ、滴る涎をポタポタと地面に落とす。
 アレスディアは片手で少女を抱えるように持ち方をかえ、握り締めているナイフを叩き落とす。そして、うなじに手刀を落とせば、少女は糸が切れた人形のように動きを止めた。
 ぎゅっと少女を抱きしめる。
「この世界はどうしてしまったというのだ!」
 気を失った少女を抱え、アレスディアは空に叫んだ。
 足元から、滲み出すように光があふれ出す。
「な…?」
 何が起こっているのだろう、アレスディアだけれはなく、町の人さえも自分が今立つ足元から立ち上る光に、困惑に瞳を揺らせた。






















 平和だった。つい最近までは。だが、突然幻獣が暴れだしたのだ。
 まるで何かに操られるように、苛まれるように、千獣と共に育った幻獣たちが牙を剥く。
「母、様……」
 千獣は白く長い毛並みに覆われた、幻獣の母にしがみつき、何が起こったのか分からない困惑した表情で、母の穏やかな瞳を見上げる。
『心配ありませんよ。千獣』
 母の周りには千獣を含め、何人もの幻獣が寄り添う。
 穏やかな声音で怯える兄弟たちを慰め、母は狂う兄弟にきつい視線を浴びせかける。
 森の幻獣の母という存在、立場は伊達ではない。
 甲高い悲鳴を上げて、幻獣が森の木々にその身をぶつける。
「……止め、な、きゃ……」
 母に、子を傷つけるようなことをさせてはいけない。
 襲う兄弟も、母も、止めなくては。
 千獣は震える兄弟に微笑みかけ、立ち上がる。
 牙を剥いた兄弟は、激しくその身を木にぶつけた筈なのに、唸り声を上げて今にも飛び掛らんとしている。
「…止め、な、さい……!」
『千獣!?』
 驚きの声を上げる母を背に、千獣は我を忘れている兄弟を見据えた。
 兄弟は、牙を突き刺しやすいように大きく口を開けて襲いくる。
 千獣は迎撃するように構えを取り、その拳を、勢いをつけて突き出した。
 瞬間。千獣の右手に付いた腕輪が輝く。
 その輝きは千獣の拳を薄い光の膜で被い、殴り飛ばした反動で傷つくはずの千獣の手を守った。
 突然のことに、当の本人でさえも自分の両手を見つめる。気を失った幻獣の兄弟からは、危うさが消えうせていた。
 信じられない光景でも見たように千獣は自分の両手を見下ろす。
 今のは、何?
 困惑する千獣をよそに、幻獣の母は悟るような視線で千獣を見つめ、告げる。
『千獣。あなたは行かねばなりません』
 開け放たれた古の扉へと。
『今やもう意味を変えたるものでしょうが、それでも可能性が無ではないのですから』
 小首をかしげる千獣に、母は続ける。
『人の世に伝承で伝わる扉―――…』
 幻獣たる自分たちは関係のない、いずこかより齎された救いの扉。あれは、どれほど昔のことだっただろう。
 伝承とは、教えや戒めを子に分かりやすく教えるための意味合いが強い。だからこそ、忘れ去られたと思っていた。
『以前扉が開いた折もたらされた救いは、魔を打ち倒す10の道具でした。扉を開けた者が、どのようにして古の扉を見つけたのかわらわには知るよしはありません。けれど、以前のように害意なす者たちが世界を脅かしているわけではありません』
「……母、様…?」
 言っている意味が分からなかった。いや、なぜその話を今自分にするのか千獣には全く理解が出来ない。
『今は分からずとも、分かるときがきます。覚えなさい千獣。そして、わらわの言の葉を伝えるのです』
 千獣は頷く。母は満足そうな微笑をその瞳に浮かべる。
『扉を開ける。それだけならば、わらわも捨て置くつもりでいました』
 母は未だ眼を覚まさない兄弟に、哀しみの視線を送り、また千獣に向き直る。
『我らが狂うほどの混沌の来訪……。人の世はさぞや廃退していることでしょう』
「こん、とん……?」
 母は頷く。
 混沌には形がない。まるで風のようにその身を吹きぬけ、纏わりつき、そして狂わす。
 形がないものに、対処をすることは難しい。
 出来るとすれば、
「分かった…。その、扉、閉じる……」
 そう、その扉を閉めることくらい。
 母は優しく微笑み、その大きな手で千獣を抱きしめる。
『貴女が森を選ぶならば、わらわたちは貴女の帰りを待ちましょう』
 本当のあなたの世は、人の世なのだから。





 千獣は何時もの幻獣の身形ではなく、人の世に出るための身形を整える。
 自分たちには必要ないが、森で迷い朽ちた人間が持っていた路銀が、まさか役に立つ日がこようとは。
「行って、くる……」
 千獣は短く告げ、森に背を向けて歩き出す。
 まずは森に一番近い町へ行けと言ってある。そこで人の世の情報を収集せよと。
 旅立つ娘の背を見送り、幻獣の母は初めて千獣と出会ったときのことを思い出した。
『ごめん。ごめんよ。これは俺の家に伝わっている腕輪だ。これで…赦してくれ。俺は人として生きたいんだ』
 男は布に包んだ狼のような赤子の手を握り、その手に自分が持っていた腕輪をはめ、地面に赤子を置いて森から逃げるように走り去る。
『………』
 大樹に隠れ、幻獣の母は棄てられた赤子を見つめる。その姿にすっと眼を細めた。
『狡の一族……先祖返りのようですね』
 かの大戦の後、人との交わりによって血が薄れ、狡の一族の行方は歴史の海から消えていた。
 よもや今ここで見えようとは。
 幻獣の母は、意識を現実に引き戻すように視線を上げる。
『救うのです千獣。混沌に惑わされたものたちを』
 その声は、千獣の背中にそっと贈られた言葉だった。






















 町へ向かう道を歩きながら、千獣は風をきる音に顔をあげる。
「………?」
 翼をはためかさずに飛ぶなどという所業は、幻獣にしかできない。
 一直線上に飛んでいく幻獣の腹を、軌跡を追うように視線を移動させる。その先には、千獣が母より教えられた町があった。
 何か嫌な予感を感じて千獣はその背から翼を顕現させる。
 そして、急ぐように今飛んでいった幻獣を追いかけた。
 町を囲む壁の門をくぐり、千獣は辺りを見回す。
 あの幻獣たちは通り過ぎたのだろうか。それならば、いいのだけれど。
「町、が、光って、る……」
 声なき嘆きが、幻獣としての千獣の耳に聞こえる。
 千獣は人の隙間を抜けて騒動の中心へと進んだ。
 通路に残る血溜りに、ここで何かしらの事件が起こったのだろうことを物語っている。
 けれど、それ以上に女性を中心とした足元から立ち上る光に眼を奪われる。
「…どう、した、の……?」
 嘆いていたのはきっとこの人。
 声をかけた千獣に、女性――アレスディアは泣きたいのに泣けない瞳で顔をあげた。
「……すまない。自警団員である私が取り乱してはいけなかったな」
 いったいこれは、何が起こっているのだろう。

 ――――シャアアァァアアアアア!!

 獣の咆哮に町人たちはびくっと肩を震わせる。
「…やっぱり……」
 一人平然としている千獣は、空を見上げ、眼を細めた。
「あれは…?」
 次から次へと起こる事態についていけず、アレスディアが困惑した声を漏らす。
 1匹の幻獣が町に向かって突撃してきた。
 悲鳴が上がる。
「……幻獣。でも、狂って、る……」
 狂っているの言葉に、アレスディアはぐっと息を呑んだ。
 狂う人。狂う幻獣。この、世界は本当に―――
 腰が抜けた町の人々は、互いに抱きしめあい身を低くする。
 けれど、
「……え?…」
 町に入ろうとして弾かれたことに、千獣は驚きに眼を見開く。
 その瞬間、矢のような閃光が幻獣の頭に炸裂した。
「やれやれ、とうとう幻獣まで狂ったか」
 悠々と現れたのは、矢のない実用性のなさそうな弓を構えた金髪の美女。
 美女――オセロットが弓を引くような仕草をすれば、光の矢が手の中に生まれ、通常の矢では考えられないような速さで飛んでいく光に、先ほどの閃光を放ったのはこの女性だと確信させる。
「ん…?」
 アレスディアの腕に抱かれたままだった少女が薄らと眼を開ける。けれど、その眼にはあの狂気はどこにもなかった。
「正気に戻ったのか!?」
 町の足元から上る光。この光は、オセロットの矢の力に良く似ている。
(“守護の要たる盾”というのは、町のことか?)
 確かに町が光だし、あの狂った幻獣を退けた。
「あなた、も、わたし、と、同じ…?」
 千獣は、オセロットの光に自分の拳に集まる光と同質のものを感じて問いかける。
「ん?」
 何のことを問われているのか一瞬分からず、オセロットは微かに首を傾げる。
 説明するより見せた方が速いと、千獣は翼を広げ、狂った幻獣の中に飛び込むとその横っ面を拳で殴り飛ばした。
「なるほど」
 あの少女は、拳――ネツアクの継承者か。
「あなた方は…?」
 今目の前で起こっていることが分からず、アレスディアは問いかける。
「身分を問うているのなら、私はこの国の軍人だが、彼女とは初対面だ」
 彼女とは空を飛ぶ千獣をさしている。
「いえ、その狂気を払う、力……」
 躊躇いがちに問い直すアレスディアに、オセロットはふむっと口元に手を当てる。
 どうやら、この娘は自分の存在に気がついていないらしい。
 確かに遠い伝承だ。オセロットのように受け継いでいる一族の方が少ないのかもしれない。
「なに、偶然力を持ってしまったのでね。その力を有効に使おうと思っているだけさ」
 例えそれが他人の眼から見て、人助けと映ったとしても、自分の目的の過程での出来事に過ぎない。
「私にも、あなた方のように狂い人を元に戻す力があれば、今まで処刑されてしまった狂い人を救えたものを…」
 悔しさに唇を噛むアレスディアにオセロットは瞳を細める。
 そこへ、全ての狂った幻獣に鉄拳を喰らわせた千獣が戻ってきた。
「……同じ、なら、伝える」
 千獣はオセロットを見上げ、母から言付かった言葉をオセロットに伝える。
 それは、扉が開き、混沌が広がっているというもの。混沌は形がなく、命あるものに狂気を植えつける。
「やはりな…」
 ただ形がなく広がった混沌をどうすればいいのかは、分からない。
 けれど、扉を閉め、これ以上の混沌を広げないようにしなければならない。
「あなたの母君も扉の位置までは知らないということか」
 千獣は頷く。
 これは長旅になりそうだ。
 二人の話を聞いていたアレスディアは意を決したように口を開く。
「私も、連れて行ってはもらえないだろうか…!」
「……でも…」
「いいだろう」
 止めようとした千獣を遮り、オセロットは頷く。
 形として眼に見えない扉より齎された10の道具の一つ、盾マルクト。
 町かもしれないし、アレスディア自身が盾そのものである可能性だってある。
 伝承者は、多い方がいい。例え、自ら気がついていなくても。





 千獣は二人を待ちながら、人の世というのは大変なのだなぁと漠然と思った。
 町から旅立つまでにイロイロと事後処理なるものをしなければならないらしく、直ぐに出発とはいかなかったのだ。
 余談だが、詰め所に捕らえられていた狂い人も正気を取り戻したらしい。
「お待たせした…!」
 千獣は首を振る。
「では行こうか」
 頷く。
 果てない伝承でしか残らない扉を目指して。
(開けた、人……どう、したの、かな……)
 たったと二人の後についていきながら、千獣はふと、まだ知らぬ誰かのことを考えた。

























next time...






















「うっわー冒頭だけで一冊終わっちゃったよ」
 軽快なアクラの声に、はっとして辺りを見回す。
 その景色は何時もと変わらない黒山羊亭だった。
「コール殿の時とは違うと、一言なぜ言ってくださらぬ」
 コールの夢のような本に入った時は、そのままの自分だった。
 だが、今回は完全にアクラの手の中にある本の住人になっていた。
「ふふ♪ それを言ったら面白くないでしょ」
 アレスディアの抗議の声にも満足そうに笑うアクラを見つめ、オセロットはやれやれと髪をかきあげると、懐から煙草を1本取り出して火をつける。
「あの時と、今日とでは違うとうことか」
「そ。あの時はマジで、今日はお遊び♪」
 お遊びで死ぬかもしれない危険性か……。
「続き……」
 千獣はアクラのコートをくいくいっと引っ張る。
 あのままでは、本の世界は救われないままだ。何とかしてあげないと。
「続きはまた今度ね。新しい白紙の本持ってこないといけないから」
 じゃ、またねー。と軽やかに去っていくアクラの背を見つめ、一同は人心地ついたように、やれやれと椅子に腰を下ろした。













☆―――登場人物(この物語に登場した人物の一覧)―――☆



【2872】
キング=オセロット(23歳・女性)
コマンドー

【2919】
アレスディア・ヴォルフリート(18歳・女性)
ルーンアームナイト

【3087】
千獣――センジュ(17歳・女性)
異界職【獣使い】



☆――――――――――ライター通信――――――――――☆


 例えばこんな叙事詩にご参加くださりありがとうございます。ライターの紺藤 碧です。
 血筋に対して知らなかったり、固執していないのに、扉の場所を知っているのはあまりにも可笑しいということで、扉に向かうために旅立ったところまでとさせていただきました。
 続きは続きでまた忘れた頃になるかもしれませんがOPをご用意いたします。
 この中で全てを理解しているのはオセロット様のみとなります。何気に気付きつつも、重要なのは自分であることなわけですし、伝えないだろうなぁと思いまして。
 それではまた、オセロット様に出会えることを祈って……