<東京怪談ノベル(シングル)>


○灯火の雨

 シトシト シトシトシトシト‥‥。
「もう! どうしてこんな時に雨が降るのかなあ!」
 シノン・ルースティーンはぷうと頬を膨らませ、恨めしそうに空を見上げて呟きました。
 勿論、雨雲は答えてくれませんし、目に見える緑の草花も久しぶりの雨をむしろ嬉しそうに葉音と共に受けています。
「はあ〜〜」
 深く、大きなため息をつきながら、シノンは唯一雨を喜んでいない緑、自分の髪の水滴を払いながら静かに壁に背をつけて座りました。
 雨は、まだ当分止む気配がありません。

「ちょっと、油断したかなあ〜」
 何度目かのため息と共にシノンは自分の行動を分析します。
 特にこの状況下に陥ってしまった理由を、です。
 秋晴れの青空に誘われて薬草摘みに出たのはいつもの事。
 何も問題は無かったと思います。
 直ぐに戻るつもりだったので、バックパックだけの持ち物で出たのは、慣れた場所で近場とはいえ山に入るには油断だったかもしれません。
 夏が終わったばかりでまだ微かに残暑の残る日に油断し外套も、靴も特に変えず、街での服装のままやってきたのも失敗だったでしょう。
「でも、一番の失敗はあれだよね〜」
 多分、今年最初のあけび。
 主目的ではない、だがそれを見つけられたことに幸運を感じて駆け寄ったとき、思いっきり彼女は足を滑らせたのでした。
「うわああっっ!」
 夏の勢いの残る草は細い道を隠していて、シノンの足と身体を思いっきり下方に誘います。手荒な招待を断る余裕もなく彼女は崖下に落下したのでした。
 崖、と言ってもせいぜい1m。立って本気で手を伸ばせば道に戻るのは簡単なこと。
 でも、その時のシノンにはそれが、できませんでした。
「いったああ‥‥」
 ズキン。
 鈍い痛みの走った足をシノンは押さえます。落ちた拍子にくじいたのでしょう。
 見れば足首は赤く腫れ上がっていました。
 しかも、最悪のタイミングでぽつり、ぽつりと雨が降ってきます。
 雫が足を、服を、せっかく摘んだ薬草を濡らしはじめたのを見て
「わっ! どこか、どこかない?」
 シノンは首を振りました。探していたのは雨宿りする場所。幸い落ちて来た場所の直ぐ近くに小さな岩の割れ目を見つけることができました。
 痛む足を引きずりながら、シノンはそこに身を滑らせます。
 それを待っていたかのように強く降り始めた雨。
 でもそれをナイスタイミング、と喜ぶ事はできず、シノンの言葉は最初の雨雲への愚痴へと繋がるのでした。

 考察が一回りして後、シノンはもう一度大きく息を吐き出しました。
 足の痛みはもう消えています。命の水の呪文で取る事ができました。
 でも捩れた筋肉はまだ完全に元に戻ってはいない様子、立ったり走ると痛みはまたぶり返してきそうです。
「まあ、こうなっちゃった以上しょうがないよね。雨が止むまでここで雨宿りしよう」
 薬草のバックパックを濡らさないように横に置いて、シノンは空を見上げます。
 自身が言うとおり後はもうシノンにできる事はありません。
 知らず膝を抱えてシノンは静かに目を閉じて、雨音に耳を傾けていました。

 厚い雲はまだまだ消える事がなく、雨も降り続いています。
 けれどその向こうで確実に太陽は落ちかけている様子。周囲はだんだんと暗くなってきました。
 考えるしかすることの無い時間。
 シノンはいろいろな事を、いろいろな人の顔を思い浮かべていました。
 家族、友達。けれど、一番に思い浮かぶのはやはり孤児院の子供達です。
「みんな、ちゃんと夕ご飯の準備してるかな? ケンカとかしてないかな? 怪我とか病気している子はいないかな?」 
 微かに浮かんでくる心配にシノンは自分から首を振りました。
「大丈夫。貯金もあるし、いざとなったら兄貴もいるし、それに‥‥きっと、あたしがいなくてもちゃんとできるから‥‥」
 自分自身に言い聞かせるように言った最後の台詞が、シノンの心に静かに響いていきます。
 最初に出会った頃の子供達は貧困に心を蝕まれ、本当に生きるのがやっとで暮らしていました。その頃の子供達であれば、シノンはもっと心配したでしょう。
 けれど、今は違うとシノンはちゃんと知っていました。
 人を、他人を思いやる心をあの子達はちゃんと知っています。
 生きていくのにもっとも大事な事。
 それを知ったあの子達に今はシノンが教わる事の方が多いのです。
「あの子達は‥‥きっと大丈夫」
 そう思った時、シノンはふと、心の中がほんわりと暖かくなるのを感じていました。
 灯りもなく、火もない暗い森の冷え切った岩陰。輝くのは時折光る雨の雫のみ、
 でも、その雫がいつしか、彼女の中に光を灯し心に波紋のように広がっていきます。
 ‥‥いつか、髪が前のように伸びたら、神殿に帰ろう‥‥
 シノンはそう決めていました。
 こっそり髪を伸ばし始めた事や、その意味をまだ殆どの子は知らないでしょう。
 その事を話せばきっと子供達は寂しがる子もいるかもしれません。
 ひょっとしたら、泣く子もいるかもしれない。
 ‥‥けれど
「けれど、最後にはきっと解ってくれる。あの子達は、もう大丈夫だから‥‥」
 シノンはそう言うとまた静かに目を閉じました。
 太陽はすっかり落ちて当たりは真の闇。
 けれど、シノンの心から眩しく、暖かい光が消える事は無かったのです。

 ‥‥い。お‥‥い!
「?」
 シノンはふと、顔を上げ瞬きをしました。
 どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようです。
「何か、聞こえたような気がしたんだけど‥‥気のせい?」
 雨音も止んでいます。そっと足を庇いながらシノンは立ち上がって岩陰から身体を外に出しました。
「ううん! やっぱり、何か聞こえる?」
「おーい、おーい!!」
「シノン姉ちゃん、どーこだー!」
 見れば闇の中、いくつかの小さな灯りが揺れています。
 そしてその灯りは確かに自分の名前を呼んでいるのです。
「シノン! どこにいるんだ!」
「あ! ここ! ここだよー!」
 自分の頭上に来た明かりに向けてシノンは声を上げ、手を振りました。
 灯りの一つが止まり大きく揺れます。
「こっちこっち! シノン姉ちゃんがいたよ!」
 声に導かれるように走ってきた影の一つが崖に気づき、それでも躊躇わずそこを滑り落ちて来ます。
「シノン! 無事だったか?」
「探しに‥‥来てくれたの?」
 側に来るまでもなく誰か解ったよく知った顔は、当たり前だろと頷きます。
「話は後だ。早く帰ろう。‥‥歩けるか?」
「うん、大丈夫」
「早く上がっておいでよ。姉ちゃん」
「皆があったかいスープ作って待ってるからさ」
「みんな‥‥ありがとう‥‥。帰ったら、美味しいチャイ入れるからね!」
 シノンは手を振ると歩き出します。
 暖かい光に溢れた自分の今の居場所へ。

 帰り道、ふとシノンは思います。
(「もしかしたら、あたしの方が一番みんなに甘えて居るのかもね」)
 苦笑するシノン。
 そんなシノンの髪を柔らかく、優しい風がふわりと撫でるように揺らしていきました。

 雨の雫は髪からも、周りの緑からもすっかり消えて、頭上には満天の星空が輝いていました。
 周囲はもう、秋色の空気。
 静かな虫の音に送られてシノンはそっと森を後にしました。

‥‥おしまい‥‥


☆ライターより
 いつも大事な一時を描かせていただきありがとうございます。
 今回は少し趣向を変えて、物語風に仕上げてみました。
 絵本を開くような優しい気持ちで見れる話を目指しましたがいかがでしょうか?
 子供はいつまでも子供ではなく、いつか大人になっていきます。
 それを優しく見つめるシノンさんが私も大好きです。

 気に入って頂ける事、そしてまたシノンさんに出会える時が来ることを願いつつ。