<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


【ソーン芸術祭2009】らくがきをはじめよう

■何故か絵筆を渡されて。

 芸術祭と言う事で、賑やかな街の中。
 なんとなく、家壁にらくがきをしている小柄な旅装のその姿をずっと見ていたら。
 その人は、興味があるのかと自分の使っていた絵具滴る絵筆を私に一本渡し。
 すたこらさと何処ぞへ駆け去ってしまった。

 …それから見たのが、描かれたらくがきが目の前で実体化して動き出している…と言う状況で。

 千獣は渡された絵筆を見、少し考え込む。
 後ろからはさっきの人を追っている騎士団か何かと思しき足音と声がする。…だから、駆け去った――どうやら逃げたと言う事らしい。

 …それで、絵筆を渡されて残された自分はどうするか。

 あまり考えるまでもなく、すぐ決める。
 千獣は絵筆の持ち主を――すたこらさと逃げるように去ってしまった旅装の人物を追って、駆け出した。



 前方に、ツンツンのいがぐりみたいな真っ赤な頭が見えた。
 服装は、旅装。
 小柄な姿。
 ――千獣に絵筆を渡した相手。

 程無く追い付く。
 …それでもやっぱり走っているので、並走してみた。
 すぐ横で、わ、と驚かれる。
 驚いてから、その相手は納得したように千獣を見返してきた。
「あ、さっき僕の事見てた子だよね?」
 立ち止まる。
 それを認めて、千獣も頷いた。
 その人に合わせて、自分も止まる。
「うん…私、千獣」
「ん。僕は…離音ってゆーんだけど、うっれしいなあ。君、こういうの、興味あるって事だよね?」
 言いながら、離音は片手の指に数本挟んだ絵筆を見せ付けるようにぞろり。
 見せられたそこで、千獣は離音のその絵筆をじーっと見る。
 それから、先程自分に渡されたもう一本の方に視線を移動させ、またじーっと見ている。
 離音はそんな千獣の態度に小首を傾げた。
「? …どしたの?」
「……これで、描いた、もの……動くの……?」
 質問。
 …それがぶつけたくて、千獣は離音を追ってきた。
 自分が間の当たりにした、離音が描いた実体化した絵。
 その動き方。
 まるで、意志や心まであるような、様々な動き方をしていて。絵に描かれたものによって、動き方がそれぞれ違っていて。動いた結果、ちゃんと現実の世界にも影響が、あって。
「……動き、出した、絵……どう、して、動くの……?」
 そうは言っても、何故動くのか、の原理が知りたいって訳じゃなくて。
 描いたものは。
 …生きてるのか。
 ちゃんと、わかるのか。
 私が誰だとか、自分が何をしているのかとか。
 絵自身が動きたくて、動いているのか、とか。
「……心は、あるの……?」
「え」
 離音がきょとんと眼を瞬かせる。
 一拍置いて、千獣に訊かれた意味を理解すると、ああ、と感嘆符を吐いてくる。
「あるよ」
 それから、ふわりとした微笑み。
 同時に、少年らしい顔の金色の瞳に何処か謎めいた――何もかもを達観し遠くを見ているような、不思議な色が浮かぶ。
 千獣の問いに答える形に、唇が、動いた。
「それを描く時に君が思うなら」
「私が……思う、なら……?」
「うん」
「…」
 心は、ある。
 私がそう思って、描くなら。
 離音はそう言った。
「……絵に、心、ある、なら……」
 千獣は虚空を見つめてぼんやり考える。
 絵に心があるのなら。
 心の中に思い浮かんだ灯火一つ。
 なつかしい、おもいで。
「……描き、たい、もの、ある……描いて、いい……?」
 こくりと頷かれる。
 渡された絵筆を見る。
 …描くところ。
 探す。
 ちょうどいい、キャンバス。
 何処かに。
 探していると、とんとん、と肩を叩かれる。離音。気付いて振り返った千獣に、指差して家の壁を示すと、悪戯っぽくにやり。
 そうされて、離音の顔を改めて見返す。
 それで、千獣もこくり。

 …そこに、描いてみる事にする。

 おかあさん。



 まだ人の中に入る事など考えもしなかった頃の。
 野生の中にいた頃の。
 まだ、幼い獣でしかなかった頃の。
 自分を。
 ずっと、守って育ててくれていた、『母親』。
 千獣はその姿を思い出しながら、絵筆を使って描いてみる。

 こんな感じだったかな。
 色は、黒いような茶色いような、青いような、夜がそのまま凝った色、みたいな。
 …使っている筆は一本なのに、描いている内に――望んだ通りに色が付く。
 四本足の、孤高の森の王者、狼。
 そんな形に、近くて。
 でも普通の狼じゃなくて、もっと、大きくて。
 強そうで。
 体毛が、鬣が、尻尾が、炎みたいにゆるやかに波打っていて。
 大きくて鋭い爪と牙を持っていて。
 とってもとっても強い、目で。
 あたたかくて。
 千獣は、ざ、と派手に筆の先を何度も家壁に滑らせる。
 うん。
 こんな感じだ。
 納得したところで、筆を止める。
 描いた絵を見直して、頷いた。

 …ワイルドな魔狼がそこに居た。

 あまり上手いとは言えないかもしれないけれど、でも、ちゃんと『母親』を描けていると、思う。
 ふと、横を見た。筆を貸してくれた相手が居た筈の場所。
 けれど、気が付いたら離音の姿は無くなっていた。
 あれ? と思う。
 …でもまぁ、いいやとも思う。
 思っている間に、描かれた絵が実体化する。

 実体化したその姿は、千獣が思い描いた『母親』、そのもので。



 夜色な、ふかふかの毛並みなお腹に顔をうずめる。
 とっても久しぶりの感触。
 …おかあさん。
 そのままごろごろ甘えていると、ぐるる、と転がすようにおかあさんの喉が鳴る。威嚇でではなくて、私を見て、それで、甘やかしてくれているのだとわかる。舌で、髪を舐めてくれる。
 …昔と同じ。
 そのまんま。
 嬉しかった。
 久しぶりに会えて。
 甘えられて。
 …多分、今だけ、なんだろうけど。
 だからこそ、今の内にいっぱい甘えておく。
 絵なんだって、わかっているけど。
 でも。
 ちゃんと、本当におかあさんだと、思えるから。

 その内、千獣の耳にざわざわと外野の声が聞こえてきた。
 …悲鳴もした気がした。
 顔を上げ、確認する。
 ちょっとした人垣が出来ていた。
 その人垣を作る人たちの目に、気が付いた。
 息を呑む。
 …怯えの目、恐怖の目、排除対象を見る敵意の目。

 どうしよう、と一瞬思う。
 思った次の瞬間には思い付く。
 逃げよう。
 …『母親』にも、伝えつつ、立ち上がる。
 応えて『母親』も、身体を起こし立ち上がった。

 …それだけで再度人垣から大きな悲鳴が、聞こえた。



 走る。
 走る、走る。
 千獣は『母親』と一緒にエルザードの町中を逃げている。
 …何処をどう逃げているのかよくわからなくなって来てしまった。
 今は芸術祭の最中で、色々飾ってあったりしているから普段と街中の様子が随分違う。その上に、離音の描いた実体化した絵がたくさん動き出してもいるから、更に混乱していて、よくわからなくなっている。
 その方が、人目を避けて逃げるのにも都合が良いのは確かだけれど。
 …千獣の『母親』は、普通なら人目を避けるのが難しいくらい大きい姿だから。だから、混乱した中の方が逃げ易い事は逃げ易い。
 逃げている最中、時折、騎士団や自警団、有志の人らしき人たちと遭遇する。…やっぱり『母親』は街の中には居られない存在なのだと思い知る。少し走り回っただけで、剣を向けてくる人たちが居る。その度に千獣は『母親』を庇うように前に出て――楯になるように、攻撃の動線上になるように自分の身を置く。…攻撃の意志がぶつけられれば『母親』も黙っていない。千獣はそんな意志を『母親』から感じた時点で、待って、と制止する。それで間に合わない時は自分を『母親』の攻撃の動線上に出して止める。何故止めるの、と不思議がる『母親』。…それは。傷付けたくもないし、傷付けられたくもないから。周りの人たちも、おかあさんも。そう伝えると、『母親』は更に不思議がる。…意味がわからなくて。…それは。魔や獣なら両立しない考え方――人間、の考え方になってしまうからかもしれない。
 でもそれでも、必死で制止する。
 それで、誰も傷付けず傷付けられない場所まで、必死で逃げる。

 と。
 不意に誰かとぶつかりそうになった。
 千獣はぎりぎりで踏み止まり、相手を見る。
 ぶつかりそうになった相手は、右目に眼帯を付け、両肩に鎧の付いたコートを纏った青年。
 見覚えがあった。

 …リルド・ラーケン。



■更なる騒動勃発。

 互いに、一瞬、何が起きたかわからない。
 …千獣は渡された絵筆で自ら描いた『母親』と共に逃走、偶然飛び込んだ路地で――魔獣と対峙していたリルドの背中に激突しそうになったところ。
 …リルドは渡された絵筆で自ら描いた魔獣といざ対決――しようとし、そこで不意に背後から突進して来た千獣を慌てて回避したところ。
 次の瞬間には、その路地に顔を出す人がちらほら。千獣と『母親』が飛び込んだ先。そう見て何事かと思ったらしい――同時に、リルドの描いた凶暴な魔獣も再びリルドに向かって躍り掛かって来ている――結果的に千獣と『母親』、路地を覗き込んだ人々がその魔獣と正面から鉢合わせる形になる。幾つかの悲鳴が木霊した。咄嗟に目の前の魔獣の殺気に反応する千獣と『母親』。リルドも自分が描いた魔獣がひとまず現時点では一番危険と認識、抜いたままだった剣を振り上げ改めてそちらに躍り掛かる――千獣の方は今にも前に出ようとしている『母親』を押さえつつ――何故か庇うようにしつつ、精一杯警戒して防御に徹していた。

 目の前の状況。何だかよくわからないが、それでもこうなれば早々にケリを付ける必要がある事だけは確か。思いつつ、リルドは一足飛びに自分が描いた魔獣に肉薄、斬撃を浴びせる。雷撃の魔法を纏わせた上に、確りと膂力の乗った重い斬撃。身が軽く直撃は避けられてしまったが、雷撃が掠った時点で魔獣の裏返った悲鳴が発される――『絵』の元の素材の伝導率が良いのかどうなのか、雷撃がやけにあっさり効く。…こんなもんかよと思う――まぁ、状況からするとこんなもん程度の方が良い事は良いのだが。今のこの状況で周囲構わず自分の楽しみの為だけの戦闘行為を強行する程リルドも無神経では無い。…ノッてしまっていたらここまで冷静ではいられなかったかもしれないが、まだこの魔獣と交わしたのはたったの二手。それも千獣と遭遇する直前の拮抗した一手と、雷撃魔法を籠めた時点で圧倒してしまった一手だけ。
 …だからまだそのくらいの理性はあった。
 リルドは今の二手から思考する。熱に浮かされての絶対に相手を倒すと言う『願望』では無く、彼我の実力差からして実際に相手を倒せると言う『確信』が持てる。
 着地し、再びリルドを見る魔獣。リルドもすかさず魔獣に対し雷撃を纏わせた剣を構え直している。ほんの僅かな間の後、再び激突――するが、その時にぶつかったのは、魔獣とリルドだけではなかった。
 もう一体。
 魔獣と張るような――否、ひょっとするとその魔獣より大きいくらいの、大柄な体躯が割って入っている。
 三者が再び離れた時には、リルドが描いた魔獣だけがその場に残っている。刃で深い傷を刻まれた上に、噛み切られたように腹を深く抉られ――同時に全身に電撃の名残を纏って、倒れ伏していた。…時折ぴくぴくと痙攣を起こしている。…本当に生きている――それまでは生きていたように。
 魔獣以外の二者。少し離れた位置に軽やかに着地したのは――まだ剣に雷撃を纏わせたままのリルドと、たった今魔獣から噛み千切ったのだろう腹の肉を吐き捨てた千獣の『母親』。
 吐き出されたその『肉』は、地面に落ちるなり解けるように消滅する。前後して、リルドが描いた魔獣の方も掻き消えた。
 まだ戦闘態勢を解いていないリルドと、暗く目を光らせた千獣の『母親』が今度は互いを視界に入れる。
 そこで、千獣が『母親』の前に、リルドから庇うように――そして何処か『母親』に縋るようにも見える姿で、走り出た。
 …自分の『母親』を見るリルドの目に不穏な光が宿ったのに、いち早く気付いて。

 今度は、リルドと千獣の視線がかち合う。
 リルドの青く冴えた左目が――新たな獲物の予感に期待する。

「なぁ…一つ訊くがよ。…『そりゃあ、何』だ?」

 …千獣の『母親』。
 その姿は夜色の毛並みを靡かせた、巨大な、魔狼。



 リルドの問い。
 受けて、千獣はすぐに答える。
「おかあ、さん」
「――は?」
 予想外の答え。
 リルドは瞬間的に反応に困る。
 けれど千獣の表情は――本気で。と言うより千獣はそもそも普段から殆ど無表情だし、冗談を言うような人物でもない事をリルドは改めて思い出す。
 ならば、その答えは信じて良い。
 けれど。

 …おかあさん、だと?

 リルドにしてみれば、まさかそう来るとは思わない。
 千獣は答えたそのまま、わかってくれとばかりにリルドをじっと見る。
 そして『母親』を庇ったまま、動こうとしない。
 と、その『母親』が――自分を庇う千獣のそのまた前に出ようとしてくる。だめ、と止める千獣。リルドはその一連の様子をじっと見ている。自分の描いたものより強そうな魔狼の姿。それが射抜くようにリルドを見ている。リルドも真正面から睨み返している。
 リルドは千獣の『母親』を見ながら口を開いた。
「…あんたはそう言っても、『おかあさん』の方はやる気みたいだけどよ」
 言葉だけは千獣に投げる。
 そしてまだ抜いたままの剣を――千獣の『母親』に向けた。途端、止めて、と叫ぶ千獣の声。『母親』の方も千獣を押し退けリルドに立ち向かおうとする――と。

 そこに更なる人が雪崩れ込んできた。
 …雪崩れ込んできたのは街中に魔狼出没の通報を受け駆け付けてきた、騎士団――そして同時に、リルドにとっては先程見た面子でもあった。思わず、げ、と口に出る。
 騎士団の方でも少し顔色が変わった。リルドを見、お前っ、と叫ぶ者も居る。
 そんな中、千獣は今度は――リルドではなく騎士団から『母親』を庇うようにしつつ、『母親』に対して逃げようと必死に促し始める。
 リルドもそれに気が付いた。途端、殆ど反射的に自分も騎士団の方に剣を向ける。その事でまた騎士団の面子から荒げられた声が上がる。…リルドにしてみれば元々言い訳不可能な相手ではあったのだが、それにしても何やら事態は悪化の一途。
 それでも取り敢えず、千獣の態度に騎士団連中の態度を瞬間的に秤に掛けてみれば、こうしてしまうのは――口では何を言おうが、リルドの性なのかもしれない。
 剣を騎士団に向けたまま、リルドは千獣に対して声を張り上げる。
「…何だかよくわからんが後で説明しろよ!?」
 ここは引き受けた。
 そこまでは声には出さず態度で示す。
 千獣はリルドに頷くと、更に強く『母親』を促した。
 させまい、と騎士団連中が地を蹴り出そうとする。
 リルドも剣のみならず一気に魔法を併用して、騎士団連中を足止めようとする。
 …全ての動きが一触即発。

 の、筈が。
 そこに。
 絶妙のタイミングで気の抜けるような声がした。

「まぁまぁまぁ皆さんそんな怖い顔しないでってば。戦うならグラフィティの質でやろうよ。…僕そんなつもりでタギングしてたんでも君たちに絵筆渡したんでもないんだけどなぁ。色々難しいもんだねぇ?」

 声の源。
 すぐそこの、屋根の上。
 …鮮やかな紅色のツンツン頭に色黒な肌を持つ旅人らしい子供が――両手に絵具滴る絵筆を複数本持った状態で一同を見下ろしていた。



 まず我に返ったのは、リルド。
「てめぇっ!! よくも巻き込みやがったなこのクソガキ!!」
「? …巻き込んだ? …。…ああごめん、ひょっとして僕と間違えて騎士団に追われてた?」
「…コラ。そのくらい予想してから行動しろ俺は別に絵なんぞに興味ねぇ!!」
「え、でも君も描いてたよねさっき?」
「…う。…うるせぇっ!!」
 確かに描いた事は事実だが、絵自体が目的だった訳ではない。…あくまで良さそうな戦闘相手にならないかと思ってしまったまでで。
 だが、それでも描いた事実は変わりないので、強く言い返せない。
 リルドが歯噛みしたそこで、今度は千獣が――『母親』を庇いつつ、不安そうに離音の名をぽつりと呟く。
 と、そう呼ばれた紅色のツンツン頭――離音は千獣を安心させようとしてにっこり微笑んだ。
「大丈夫だよ。好きなだけ甘えたらいい。…何も害は無いから。芸術祭が終われば、全部元に戻るから。そういう事にしてあるから。騎士団の人たちも。大きな狼さんだからって心配しなくていいから。退治しようとか余計な事考えなければ誰も襲ったりしないから。…うーん。もーこうなっちゃったら…聖獣王陛下の方から話通してもらった方が早いかもしんないな? なんか反則技みたいだからあんまりやりたくなかったんだけど」
「!?」
 いきなり振られ、騎士団の面子もぎょっとする。
 聖獣王。
 ここでいきなりその名が出されるとは思わない。
 そしてその名が出た時点で――二つの可能性が浮かんでくる。
 単にその名を利用してこの場を凌ごうとする卑怯な犯罪者か、本当に聖獣王に話が通せるだけの材料があるかのどちらか。
 どちらにしても、放り出せない。
 騎士団の面子は思わず、千獣の『母親』と離音の両方を交互に見る。それから――取り敢えず千獣の『母親』が大人しくしている様子を確かめてから、騎士団連中の内一人が屋根の上の離音に向かって声を張り上げた。
「…取り敢えず降りて来い!!!」
「え、信じてくれないの。千獣ちゃんの事もあるし、僕もう逃げないよ?」
「…だからちょっと話を聞かせてもらおうと言っている」
 一緒に来い。
「えー、もっと描きたいんだけど」
 絵。
「…。…いい加減にしろ!!!」
 幾ら離音の言う通り芸術祭が終われば元に戻るのだとしても、今現在の時点で既に街は大混乱である。
 すぱっと言われ、離音は一度きょとんとしてから、渋々と言った風に屋根から降りてくる。と、着地するなり待ってましたとばかりに騎士団の方々がその両脇をホールド、ずるずるずると離音を引き摺り去って行く。えーちょっと待ってよここでも話させてよーとの妙に呑気な離音の抗議の声も少しずつ遠ざかっている。

 千獣の『母親』や、念の為残された数名の騎士団員含め――後に残された者は、思わず顔を見合わせた。



■後日談。

 …それから数日後、祭りの後。
 芸術祭が終わったかと思ったら、離音の言った通りに実体化していた絵は全て消滅した。同時に、その実体化した絵により街の人が被った物理的な被害も何故か何事も無かったように元通りになっている。…これもまた離音の言った通り。
 …千獣が描いた『母親』の絵も、その時に、消滅した。

 街中、天使の広場。
 造成された池の縁に座り込んで、何事も無かったようになっている街の様子をただぼーっと眺めていた千獣の前に――リルドが偶然通りがかった。リルドの方でもそこに千獣が居る事にすぐ気付く。
 気付いた時点で、側に来た。
 千獣に、話し掛ける。
「…よぉ」
 こないだは。
「うん…。説明、まだ、だった」
 芸術祭の時の。
 後で説明しろって言われたおかあさん、の事。
 声を掛けられた千獣がそう切り出すと、リルドの方でも察して先回りする。…あのガキ――離音の言っていた事、あの時の千獣の態度、そして今の状況を鑑みて、思い付く事。
「『あれ』、あんたが描いた絵って事か」
 千獣が『母親』だと言っていた巨大な魔狼。
「…うん。昔の。森で、生きてた、頃、の。私、育てて、くれた、おかあ、さん」
 思い出しながら、描いてみた。
「人間、じゃ、ない、から、追われ、てた。おかあ、さん、人に、傷付け、られ、たく、なかった、し、人を、傷付け、させたく、も、なかった、から」
 だからずっと、逃げていた。
「…そうかよ」
「うん」
「凄え強そうなのな」
「…うん。強くて、優しい…」
 千獣は何処か嬉しそうに頷く。
「今度機会があったら一手手合わせしてもらいてぇもんだが」
「…だめ」
 今度は何処か表情が陰る。
 その様を見て、リルドは話題を変えた。…まぁ、手合わせと言ってもどうしてもって訳でもない。
「…何だったんだろうな、あいつァ」
 離音と言う名の旅人…であるらしいあのガキ。
 騎士団に連れて行かれた後、全く音沙汰は無い。…ちなみにあの後、離音に渡された絵筆も騎士団連中に没収されている。それ以上は千獣もリルドも一応お咎めなしだったが。ただ、一応名前と住所――と言うか何かあったらすぐに連絡が取れるようにエルザード滞在中の所在地は確りと訊かれたけれど。
 けれど二人とも、特に改めて騎士団から呼ばれてもいない。
 …それで今に至っている。

 と。
 そんな二人の上に、不意に何処かで聞いたような声が降ってきた。

「…僕は芸術祭って聞いたから単に賑やかしに来ただけなんだけどなぁ」
 離音。
 声の源を振り返ってみれば、いつの間にそこに居たのか――造成された池の真ん中に立っている像の上、真っ赤なツンツン頭が座り込み、や、と片手を挙げている。
「…あ、離音」
「…つーか何処居るんだあんた」
 やや呆れ混じりのリルドの突っ込みを涼しげな顔でスルーし、離音は二人の前に着地。
 凝りを解しでもするような仕草で、ぐるぐると肩を回して見せている。
「やー、結構絞られちゃったよ。今に始まった事でも無いのにな。…あ、そういやエルザードでするのは初めてだったっけ。だからか」
「…絞られたで済むのかよ」
「そりゃー僕一応ソーンの主だった都市ではだいたい治外法権持ってるし。エルザードでもそう。…実際に被害は残ってないんだから街の人たちだって大丈夫でしょ?」
「…治外法権?」
「ん、僕、ティアマット地区にある竜都バブ・イルの議会前議長だからね、こう見えても一応。聖獣王陛下とは昔からの馴染み。…基本的にはそれ振り翳すの嫌いなんだけど、ああなっちゃったら使える肩書きだと思ってさ」
 そう言って、離音は千獣を見てばちりと片目を瞑ってみせる。
 千獣はその態度にきょとん。
 一拍置いて、その意味に気付く。…つまりは、千獣の『母親』を庇う為にあの時も皆の前に出て来て、その肩書きを使って騎士団から聖獣王の方にも話を通し、千獣とその『母親』に手を出させないようにした――と言う事なのだろう。
 事実、あの後千獣と『母親』は誰にも追われずに済んだ。
「…離音」
「で、いっぱい甘えられた?」
「…うん」
「また描いてみたい? 筆、一本くらいならあげてもいいよ?」
「…」
 言われ、千獣は離音を見上げる。
 それから、ふるふると首を横に振った。
 …そんな風に、逃げられるような慰めを持ってもよくないと思うから。あのひとときだけで、充分過ぎる。
 離音が頷く。
「そっか」
 離音は二人に絵筆を渡した時同様、ふわりと笑う。
 それで――今度はリルドに振って来た。
「君の方は?」
 絵筆、要る?
 話を振られ、リルドは反射的に一瞬考える。
 が。
 同時に――絵筆を渡されてからの一連の出来事が脳裏を巡る。
 その時点で答えが出た。
「…要らねぇ」
 面倒臭ぇ。
 …戦うのにイイ相手は、自分で描くより直接探した方がいい。
 心底嫌そうなリルドのその声に、離音は、そっか、とまた笑う。
「やっぱり蜃気楼はちゃーんと生きてる人たちにとっては結果的に要らなくなるモノみたいだよねぇ」
「…しんきろう?」
「あの絵だよ。僕の息が籠めてあるから、あの絵筆と絵具で何か描くとああやって一定期間だけ実体化する。結局正体は蜃気楼――幻ではあるんだけどね。で、どういう風に実体化するかは――画力も大事だけど、籠めた想いにも寄ったりする。色々になる。…千獣ちゃん、おかあさんの事、とっても大事だったんだね」
 離音に言われ、千獣は頷く。
 うんうんと同意するように離音は頷き返している――そこに、ぼそりとリルドの声。
「んじゃ俺の描いたのが雷に激弱だった件はどーなんだよ」
「想いの強さが足りなかったんじゃないかなぁと」
「…あーそうかよ」
「嘘嘘。…あの絵は雷には基本弱いんだ。それだけ」
「…。…つーかあんた…さっき竜都とか言ってたが、ひょっとして、竜なのか?」
「うん」
「…やっぱりな」
「もっとちゃんと自己紹介するとね、種族は蜃族雷竜種、竜都では『猛き幻に響む那由他の音』、の称号で通ってる個体が僕になる。…個体名は特に無いのが竜都の流儀なんだけど、他のところだとそれはあんまり通らない。で、外に来る時だけ使ってる便宜上の名前が『離音』。改めて宜しくね」
「…宜しくっつか…宜しくしたくねぇんだが」
 今回の事を考えると。
「あーそんなつれない事言うんだー。千獣ちゃんも同意見?」
「…ううん。私は…そんな、事、ない。宜しく。離音」
「そっか、よかった。…じゃあ僕は、もう行く事にするね? まだまだ描き足りないからさ」
 と、離音はあっさり告げる。
 言葉と共に見せ付けられたのは――両手の指に挟む形で複数本持たれた、また、絵筆。
 リルドが呆れ顔になる。
「…あんたまだどっかで同じような事やるってのか。懲りねぇなぁ」
「そりゃあねぇ。これが僕の生きがいだからね」
「…」
 何と言うか、傍迷惑な。
 と、思いはするが、この相手はどうもそれを言っても聞きそうにない。
「…そうかよ」
「うん」
 にっこり笑うと、離音は軽い足取りで踵を返し、背を向ける。
「じゃ、またね」
 千獣とリルドにそう言ったかと思うと、離音のその姿が不意に浮き上がった――浮き上がるようにその姿がずるりと長く上空に向かって伸び上がり、防塵ケープごと解けるようにして黒褐色の鱗を持つ太い柱のような蛇身に変化する。次いで、短髪のツンツン頭だった鮮やかな紅の髪はざっと伸び鬣の如くその身を――背筋を沿う。更には頭部に二本、鹿のように枝分かれした角まで伸び出した。
 そこに至り、千獣とリルドを微かに振り返ったその頭部は明らかに人のものではなく。
 金の眼と紅の鬣を持つ、黒い、竜。
 一度振り返ったかと思うと、すぐに向き直りその竜は空へと向かう――その過程で、竜身の姿自体が、あの絵筆で描かれた幻のように掻き消える。

 まるで離音自体が、幻ででも――彼の描いていた絵と同じものででもあったかのように。
 …呼び止める間も何も無いまま、離音はあっさりと何処かへ行ってしまった。

 恐らくは何処か――彼が描きたい絵が描ける街に、だろうが。

【了】


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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

■PC
 ■3087/千獣(せんじゅ)
 女/17歳(実年齢999歳)/獣使い

 ■3544/リルド・ラーケン
 男/19歳/冒険者

■NPC
 ■離音

 □聖獣王(名前と存在のみ)

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          ライター通信
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 千獣様、リルド・ラーケン様共に、いつも御世話になっております。
 今回は予告の欠片も無いような突発も突発、更には募集期間も短いと言う非道なところを発注頂けまして、有難う御座いました。
 なお今回、「■何故か絵筆を渡されて。」部分が個別描写、「■更なる騒動勃発。」以降が共通部分になっております。

 内容ですが…千獣様のプレイングからして何だかちょっとしんみり?した感じにもなりました。放っておくと単にドタバタしそうなところでしたがあまりそうでもない感じに。
 また、リルド様の仰ってました顔見知りですが…何となく蓮聖が通りすがってみました。絵の評価については良い評価だったのか悪い評価だったのか謎な評価ではありますが…その辺は御想像にお任せします(笑)
 そしてどう終わらせるべきかどうも迷ってしまいまして…結果的にこんな感じになりました。

 ちなみに離音とそのバックボーンな設定ですが、今後黒山羊亭白山羊亭各冒険記やPCゲームノベルで(要は炎舞ノ抄以外の商品で)登場してくる可能性があったりもします。

 …如何だったでしょうか。
 少なくとも対価分は満足して頂ければ幸いなのですが。

 では、また機会を頂ける時がありましたら、その時は。

 深海残月 拝