<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


■Le stagioni −たたえたたえて−■





 称え、讃えて。

 求めるそれは、湛えるそれは。



 ** *** *



 舞台の上にその女性が立つと、男は僅かに唇を動かした。
 常人なら気付くこともないささやかなそれ。
 けれどもキング=オセロットは隣席からの気配を察して読み取れる。
 それは名前だった。
(――『ア、ン、ナ』)
 最初の音が零れかけてから塞き止められ、続く音は男の咽喉を滑り落ちて戻っていく。吐息と絡めて戻されたのは舞台上の歌い手の名前。飲み込まれた音を拾い上げてオセロットは、視界に男の横顔を捕える為に蒼瞳をちらりと滑らせた。硬い線で引かれた男の輪郭に未成熟さはとうにない。その面差しに透かし見られる微かな高揚。歌い手に注がれる男の好意が感じられる様子。
「随分とお好きなようだ」
 だからオセロットは歌の余韻に重ねて鳴らされる音に、自身も手を打って合わせながら男へと静かに話しかけた。
 何を指すかを含まずのオセロットの言葉に男は舞台に向けた微笑のまま振り向き、え、と小さく洩らして拍手を乱す。それからゆるりと手を離して眉尻を少しばかり下方向へと動かして応え。
「ええ、まあ。長く、好きです」
 こちらも示す先を含まず返されるのに、ふ、とオセロットは笑みを刷くと音の消えた舞台を見遣る。
 歌い手はもう、居なかった。
「以前からとても、とても、好きでして」
 オセロットの視線に続いて男の視線も舞台へ戻る。
 男の横顔は、舞台からさがった歌い手がまだ居るかのように先程と似通ったままだ。
「おわかりになりますか?」
「貴方の気配が随分と違っていた」
「はあ、なるほど」
 そんなものですか、と首を捻りながら男は頷く。
 一見して職種が知れぬとてもオセロットと自分とが同系統の仕事だとは思わなかったのだろう。そもソーンでは様々な能力の持ち主が居るのだからして、この凛々しい女性が一舞台を同席しただけで自分の気持ちを察してしまっても不思議はなかろう。そんな結論にも至った風であった。
 まあ実際には男の様子はわかりやすいものであったし、オセロットが何も知らぬわけでもなかったのだけれども。
「それだけの歌い手だということかな」
 男にはそんなことは関係なく、ただこうして隣り合わせた人物が歌姫を、彼女を認めてくれることが嬉しくてならない。
 でしょう?と身を乗り出してオセロットの同意をまた求める。頷かれると嬉しげに、男はまた笑った。


 * * *


 男の名前はディー。これもオセロットは知らぬわけでもなかったが、ごくごく普通に受けておいて自身も名乗る。
 舞台の前から聴衆が去って閉じられた正面扉の前にと場所を変えて、二人はそのまま会話を継続中だった。
 とはいえ話し手と聞き手の役回りが巡ることは殆どない。
「顔見知り、程度なんですけどね」
「会えば言葉を交わすような?」
「言葉、といいますか、挨拶をするだけより少し、といった」
 相槌を打ち、ときに軽い問いかけを挟むオセロットに促される風にディーがするすると口を動かしているばかり。
 瞬く街の灯火を視界の端に収めつつ、暗くなる一方の建物の前。柵に軽く身体を預けて男が話す内容をオセロットは穏やかに聞く。つまらない話をと途中でディーが言葉を切り上げようとしたのには、知らぬことを聞けて興味深いと制しておいた。ディーの語る言葉を得るのは、そこに垣間見えるディーの心を確かめることになる。これもまた知らぬわけでもないながら、実際の様子や雰囲気から心情を量ることはすべきだった。
「若い頃からそういう、知り合いで」
「ふむ。貴方はその頃から彼女の――歌を?」
「……そう、そうですね」
 間近であればこそ確かに見て取れるディーの気持ち。語る声や表情の些細な変化をオセロットは探し当てていく。
 その彼女が指先で火の点いていない紙巻煙草を動かしながら問うた言葉。それがつと間を挟んだのにディーは気付かず、歌、と選ばれた言葉に頷いた。閉じてしまった舞台への扉を見遣って仄かに笑う。
「ずっと好きです。どうしてだか、いつも背中を押して貰っているみたいに、勇気付けられてきました」
 多くの経験を積めばこそ感じ取れるような感情の滲み。そんなものを見出されているとディー自身は知らないまま、更にぽつぽつと記憶を辿って話を続けた。オセロットはそれに相槌を打ち、ディーの様子を見、水面を前に立つ影に重なる彼の言葉の奥を見る。
「それ以来の、か」
「ええ、ええ。他の歌い手ではこうはいかないんですよ」
「ふむ」
 ディーが話す程に、オセロットが聞く程に。
 水場の影の声とディーの言葉とは重なっていくばかり。
「若い歌い手も増えてきましたが、うん、やはりね」
 少なくとも私にはと呟いて、ディーはそこで表情を曇らせた。
 それと判らぬ程度に瞳を眇め、オセロットは先を待つ。
 少しだけ思案する風に視線を彷徨わせてから言葉は続いて。
「だけどそんなこと、アンナは、知らない。代わりがいないことを彼女は、知らない」

 ――舞台に立つようになってから今迄、アンナの年月はそれなりにある。
 それだけの間、声を響かせ高らかに歌い上げてきた彼女だが、しかし続く者がないわけではない。
 歌い手は何人もが彼女と同じように舞台に上がる。声を響かせ高らかに歌い上げる。
 それは等しく、舞台で為す事は変わらず、では何が歌い手達を分けていったのか。
 称賛の声。手を打つ音。それらはとても確かなものだと彼等には、思えるもので――

「一番の歌姫は誰某だと言う声も多くなりました」
「……リベラ、だとか?」
 記憶を浚うまでもなく浮かぶ名前をオセロットが落とせば、そうですね、と頷く。
 ディーはまた舞台と客席とに繋がる扉を見遣ってから聞き手――隣席であっただけで、知り合って間もないはずの金髪を束ねた女性の顔を窺った。相槌を打ってくれているが呆れているのではなかろうか。そう思ってのことだったけれども、その人はそこに姿勢良く佇むままに表情も穏やかだ。無言のまま小さく首を上下させてオセロットは続きを促して、ディーは苦笑を浮かべて口を開いた。
「客が彼女を称えます。贔屓の歌い手の名を呼びます」
「評価だとするのには判り易いな」
「ええ。それがどれだけかで歌い手は変わる。アンナにとってもきっと重要でしょう」
「ステージに立つ側からすれば確かにそうかもしれない」
 かもしれない、どころではないだろうがオセロットはそれを最たるものだと確定させるようには言わなかった。
 ディーの声と言葉、表情、目線、そういったものに潜む心をおおよそ推し量ることが叶ったように思われたこともある。
「その通りです。歌い終えて名を呼ばれる。称えられる。アンナはそれを誇らしげに受けていた」
 そうして客からの評価が最も意味があるようには言わず、今、オセロットは機会を待っている。
「今は違うと言いたげだが」
「……気のせいかもしれません。そう、私の気のせいだといい。だけど以前よりも自信を無くしたみたいに、客の様子を窺うみたいに、歌い終わってから反応を待っていると思えるんです。どれだけ称えて手を打っても、彼女はいつだって、不安そうに」
「成程」
 ずっと見ていたから、ずっと聴いていたから、だからこそ思うのだと。
 案じる声にオセロットが思い出したアンナの表情は舞台の上では充分な笑みであったのだが。
(焦燥、苛立ち、といった辺りならば――ふむ)
 確かに長く見詰めてきただけのことはあると記憶された歌姫の様子を細かに辿り、内心で納得した。
 そしてならば尚更に、あるいはアンナの為にも一石を投じてみるかと思う。
「私みたいに、彼女の歌が特別な人間もいるのに」
 たとえばそれはこのときに。
「彼女の歌があればいいと思うのに、知らないんです。きっと」
「ならば知らせてみてはどうだろう?」

 オセロットが待っていたのはディーの背中を押す機会。
 彼が彼女をたたえるべくと腕を伸ばす、その切欠を作る為に待っていた。
 常ならばアンナの歌であろうそれは、今回ばかりは他者によってであろうから。

「貴方のその気持ち――言葉を彼女に」
 だからと投じた一石にディーはしばし呆けた風に口を開け、それから慌てて首を振った。
 いえそんなことは、私は、ただ彼女が心配で――ぼそぼそと聞き取り辛く小声で忙しなくオセロットの言葉を拒もうとする。それをオセロットは遮るでなく、ただそこに言葉を重ねて置いていく。
「話を伺うに、貴方は彼女に何も告げていないようだが」
「知り合いとはいっても特別親しい程じゃないんです」
「だから話さない?彼女の歌に代わるものはないということも?」
「でも……彼女には、大勢の称賛が、きっといい」
 ふむと相手にも判るようにひとつ頷いてみせてからオセロットは思案する様子を作って紙巻を揺らして間を挟む。
 言葉の空白に居心地悪く感じたディーがそろりと顔を巡らせ、傍らに立つ人物を見れば、片眼鏡に光を添えて黄金を束ねたその人はディーを見ている。その眼差しとぶつかって、言葉がまた繋がった。
「つまり」
 ディーがアンナについて語るのを聞いてくれていたその人がいっそ淡々と変わらず話す。
「貴方は彼女に充分な称賛を与えること――そう、彼女を満たすことが出来ないから声をかけないのかな?」
 相槌を打ってくれていたのと変わらない調子の声で、普段通り、何の意図もない純粋な遣り取りのような声で。
 ただのちょっとした会話のように、ほんの少しだけ気持ちに踏み込みそうな程度の問いをディーに向ける。
「それとも声をかけた結果、彼女を満たせなかったことで、貴方自身が満たされないことが怖くてかな?」
 続いた問いには肩が揺れた。彼女の歌が、と話す中の『歌』だけでなく『彼女』もと。ディーの内の心がとんと叩かれて、弾んだように。
「ああいや。それを責めるつもりはない。誰しもが抱える悩みだ」
 落ち着きの無い子供めいて視線を逃がす姿にオセロットは宥める声をかけ、それからまた紙巻を動かした。
 くるりと持ち上げられた腕の先、指が操る一本にディーはなんとなし意識が向かう。ひそりと収めていた特別な好意を覚られることへの動揺がそれで折良く誤魔化され、そうなんでしょうね、と中途半端な返事。それから幾度目か、舞台へ至る扉を見遣った。長話になってしまっている。ふと思うディーの耳にまた落ちてきたのはオセロットの静かな声。
「しかしどうなのだろうな」
「なにがです?」
「歌い終わっても不安そうだと貴方は言う。と、なれば今の彼女は求めるだけを得ていないのではないか」
「…………」
「貴方だけではなく、彼女もまた満たされず……渇いている、とでも言うべきか」
 そうかもしれないとふと思った。アンナにとって自信を保つに充分な称賛が今は無いのかもしれない。
 今日はもう使われない舞台を扉の向こうに想像しながらディーは、そこに立つアンナも脳裏に描き見る。
 堂々と中央で声を響かせる彼女。その曲が終わる、歌が終わる。称賛の声。
「ステージの上で、歌姫でなければ誰も称賛してくれない。自分を潤してくれないと思い込んでいる。その可能性はないだろうか。舞台で受ける称賛は歌い手にとって判り易い。そしてそれが全てだと思っているのかもしれない」
 一度は手を打つ音と名を呼ぶ声に微笑むも、すぐにそれが頼りなく変わる。誇らしさは隠れてしまう。
 オセロットの言葉はディーが思い描いた最近のアンナの様子にぴたりとはまる気がしてならなかった。
「仮にそうだとすれば、彼女はステージで客席からの賞賛をどれだけ浴びようと、そこを降りれば――」
 誰も彼女を潤してくれない、と落ち着き払った声音でオセロットが話す。
 ディーは知り合ったばかりのこの人物を真正面から見ることが出来ずに扉へ視線を定めたままでいた。
 それは同時にアンナを見詰めるような気持ちにもなっていたけれど。
「以前……いつだったか」
 舞台の上の彼女、精彩を欠いた最近の姿を思い出しながら声を出す。
「歌声に励まされるんだと言ったことは、あります」
 称賛を受けて微笑む彼女。アンナを充足させる称賛の一部の自分。
 ときに交わされる知り合いとしての挨拶のたびに名残惜しく、もう少しだけ、と。
 その中で告げたことだったはずだ。ありがとう、と言われたのを覚えている。
「歌を聴ければ、いいと、嬉しいと」
 ほんの少しだけ特別な気持ちになったときだった。
 アンナはそれを舞台で歌うことへの称賛だと受け取って、そのままなのだろうか。
 今更に浮かんだ事柄にディーの顔が知らず伏せられかけ、
「ならば再び声をかけてみるといい」
 オセロットの言葉にそれは途中で止められた。
 じり、と扉へ続く階段から視線を滑らせる。扉は閉じたまま。今日はもう開かない。
 終わった舞台。今日もアンナは不安げだった。あんなにも素晴らしく歌うのに。
「無論、声をかけたところで満たせないかもしれない。満たされないかもしれない――でも」
 靴音が一つして、オセロットの着ていた黒のコートの裾が揺れるのが見えた。靴先は扉へ。
「歌姫でもなんでもない、ただのアンナにそっと浸透する最初の一滴になるつもりはないかな?」
 一滴。それが最初の一歩たるべき行動を指しているとディーは感じ取った。
 ゆるゆると、横目にオセロットの顔を見る。黄金の髪が束ねられているのが見えてから、片眼鏡の向こうの青い瞳。ディーの視線に気付いていたその人はほんの少し口元を上げて、笑んだ。
「貴方にとってどれだけ特別かと告げてみるといい」


 * * *


(……そしてこれが均衡を崩す一滴にも、なるかもしれない)
 一石を投じてみた後にひとり、オセロットは街路に控えめな靴音を響かせていた。
 陽が落ちてから随分と経っている。舞台の後の会話は相応に時間を使ったらしい。
「彼はどうするかな」
 静かな街並み。静かな靴音。それに相応しい静かな声で呟くオセロット。
 ディーの行動は見届けなかった。今日明日に彼が動くとは思わない。
 出会ったばかりのオセロットの言葉は、彼の背を押すことが出来ればそれで十分だというものだ。それによってディーがアンナへと言葉を贈れば、アンナにも何某かの影響があるかもしれない。その程度の、けれど水面を揺らして波立たせることも有り得る一石。
(ディーが思いを告げ、アンナがステージ以外の拠り所を見つければ)
 内側にと幾らか意識を傾けながら足を動かす。
 思い返すのは舞台に立った他の歌い手。その中でも瑞々しく挑戦的な娘。
 リベラと呼ぶ声にあれがと記憶した彼女は、一番の歌い手にと望んでも不思議のない気がしたものだ。その彼女の先に立つのがアンナ。となれば今回の事で変化があれば、リベラにも新しい道が拓けるかもしれない。
 そこまで考えてオセロットは一度歩みを止めた。かつりと靴が硬く鳴る。
 振り返ってみても歌を聴いた場所からは遠くて建物の屋根も見えはしない。その中で声を響かせる人の名残なぞ感じ取れはしない。それでもオセロットは僅かばかりそちらを見遣り、ふいと再び歩き出した。
(それが満ち足りたものであるか、あり続けられるかは、わからないが)
 誰に拾われることもない呟きを己の胸の内で落としてから。
 同時に、街路にひそりと落とした呟きも、ひとつ。
「さて彼は満たせるのか、そして満たされるのか」

 それは更に幾許かの日々を重ね、それからのときに、知れること。



 ** * ***



 称え、讃えて――湛えて満たして。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【2872/キング=オセロット/女性/23歳(実年齢23歳)/コマンドー】

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■         ライター通信          ■
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お久し振りにて御参加有難うございます。ライター珠洲です。
男の背中を押して下さるプレイングから、こんな感じになりました。
結構気弱というか自信のないNPCになったわけですが、多分このあと何日も悩んでから勇気を出してみるんじゃないかなーと勝手に考えております。