<聖獣界ソーン・PCゲームノベル>


■真白の書−深更の色−■





 陽光が硝子森を刺して輝くのではなく、撫でて輝くようになりつつある季節。
 千獣様がおいでになったのはそんな頃。マスタが久し振りに書棚を披いた折のことです。
 葉を鳴らした風が先触れのように響いて通り抜けた間を抜けていらっしゃった千獣様。
 私はすまして扉を開き、艶々と美しい黒髪が靡くのを見送りました。
 生憎と、マスタはそういった余韻とでもいうべきものを気にされることはありません。
 ずずいと書を差し出しまして、たいそう乱雑に頁を繰っておられます。破れたらどうするんでしょうね。
「……」
 いえまあ破れることなんてありませんけれども。
 ですからどうぞ千獣様。安心して遠慮なく書に記して下さいませ。
 何かを想っておられるならばどうぞそれを、そのままに。
「夜は」
 ぽつりと呟かれる千獣様。
 言葉を探しつつお話になられるので口数は少ない方です。
「いろんなものを包み込む」
 ですがその心の中では多くのことを考えていらっしゃるのでしょう。感じていらっしゃるのでしょう。
 私は千獣様が来られて言葉を探されるたびにそんな風にも思うのです。
 ええ、マスタはまったくもってそんなことなく書を差し出してばかりなんですけどね!
「……そんな感じ」
 いけません。世界が織られる様を見逃すところでした。
 書に綴られた言葉と名前が織り上げるささやかな物語。
 虚実定かではないそれは、どのように広がっていくのか――あら。
 どなたかのことを思い浮かべていらっしゃったのでしょうか。
 書は千獣様の言葉に染み込んだ感情を頁に滲みませて織り上げます。

 ああ、どなたかへ抱く気持ちに溢れた世界になりそうですね。



 ** *** *





 幾重にもかかる木々の枝葉は天の色を隠して知らぬ顔。
 微かな隙間を潜り抜けて落ちる光の滴がなければ朝も昼も判らないだろうと思わせるほど、その森は深く沈むようにして存在していた。
 あるいは古い時代であるとか、異世界であるとか、そういった特別な在り様なのか。
 はっきりしないのよね、と苦笑した人の言葉を胸の内に浮かび上がらせながら、千獣は静かに視線を下げる。
 ぽつりぽつりと遠慮がちに注ぐ光は、千獣が森に踏み入ったときから違っているのやら、いないのやら。
 とはいえ彼女が頭上を覆われたからといって差し込む光の種類に惑うわけでもない――はずなのだけれど。
「……特別……って、こういう、こと……?」
 控えめに首を傾けて千獣は呟いた。
 張り出した枝も、盛り上がった根と土も、全てが人の手を受け入れずに育ったのだと見えるのに、そのくせまるきり歩みを阻むことがないと気付いたのは踏み入って早々だ。千獣が森に馴染み深く在るからだとかいう理由ではない歩き易さ。土の感触があるというのにそれが錯覚で、実際には何処かの廊下を歩いていると言われても頷けるような。それは逆に人の手によって組み上げられたかと感じさせる風。
 その感覚は見上げた枝葉の向こう側、隙間から降る光にも等しくあった。陽と月を模した灯火であると言われてしまえば否定しきれない者も多かろう、そんなどこかが異なる気配。雰囲気。惑う森。
 おかげさまで千獣にさえも時間経過などの細かい判断がいささかつけづらい。
 培った諸々があってこうなのだ。何の経験も感覚も有さない、たとえば市街の人々などであれば昼と夜さえも見る間にわからなくなってしまう可能性も高かろう。
 うーん、と思案するように視線を上下左右に巡らせつつ、千獣は足を止めて音へと意識を傾けてみた。
 ひたりと森の声音に浸る聴覚。聞き拾い、聞き分ける、音達。そこから何かを探ってみた。
「…………」
 森は、飽くことなく、ただひそやかに囁き交わす。それだけが千獣の耳をくすぐり続ける。
 静かにのびゆく緑陰の回廊。仄暗くさざめく天蓋の葉脈。微かな気配はその狭間。
 その絶対の沈黙のない世界の中。
 自身の綴る息を聞きながら千獣は澄んだ紅の眸を瞼の下にそっと下ろした。
(なんだか、似てる、と思う)
 脳裏に描いたのは深い色。流れ落ちる彼女の色。



 それはほんの少し、ごくごく僅かに前のこと。

「あら」
 賑わいも未だ満ちるには遠い時間の酒場。
 扉を潜って現れた千獣に気付いて女店主は微笑んだ。流れる黒髪の艶。
「いらっしゃい、千獣」
 その向かい側にはひとりの客がペンを片手になにやら考え込んでいるところ。
 ちらりと見えたのは依頼書の類。彼女はその相談に乗っているようだ。
 邪魔をしては悪いと離れた席に着こうとした千獣は、ちょいと磨かれた爪を輝かせる手に招かれて進行方向を修正した。ひとつだけ席を空けてペンを握る客の近くに腰を下ろす。客は依頼書を覗き見れる――そんな真似をしたりはしないけれど、見えそうな位置に人が来たことを気にするでもなくトントンと先端で天板を叩いていた。あるいは気付いていないのかもしれない。
 そちらを見遣ってから女店主を見る。返される頷き。千獣も頷き返す。
 まだ書き出されていない空白の依頼書。客が考える理由は内容か、報酬か、依頼をするのかしないのか。段階はわかるわけもないけれど、ちょっと聞いてやってくれとばかりの彼女の素振り。千獣がそう感じたのは間違ってはいないらしい。客の邪魔をしない声量で注文をした千獣に頷いた女店主は、唇だけでありがとうと綴ったから。
 そうして厨房からほっこり漂う温かい匂い付の空気に包まれながら、千獣は傍の遣り取りを聞いた。
「いつもと同じ場所なのでしょう?それなら待ってみようと思うのも間違いじゃないと思うわよ」
 彼女の声はごくごく当たり前に、自然な相槌を打って相手の言葉に先を促す。
 さらりと挟まれた言葉に頷いて段々と気持ちまでが語る声に増していく。
 酒場の主であるのだから会話などには慣れてもいようが、それだけではない。
 無理に聞き暴こうということもない。遠ざけようと突き放すこともない。
 語る者との距離をとても上手に保ち、相手の吐き出す様々な事柄を受け止める。
「――ああ、怪我が。だから心配なのね。そう」
 相変わらずペンが文字を綴るのでなく板を叩くばかりの音と、彼女の相槌と。
 客の言葉を共に聞こえるそれらを耳に通す自身の前に出された品に手を伸ばし、出来上がったばかりのそれを含みながら千獣は女店主のさりげない応対にも気持ちを向けていた。そうねえと思案する素振りを作る彼女はまだ客の話す内容を確かめている最中で。
「依頼をというのなら、ちょうどいいタイミングだとは思うのだけど」
 その視線がついと千獣に向けられたのはもうしばらくの遣り取りの後。
 客の視線がそれに誘われたように動くのを迎えた千獣の前には食後の飲物が置かれていて。
 こくりと一口含んで飲み下す。それだけの間を挟んで彼女はにこりと笑みを浮かべて客へ頷いた。
「彼女ね、とても頼りになるの」
 言い切る彼女になんとなしの面映さを、千獣が感じたかどうかはまあ当人にしか知りようもない。
 頼まれれば引き受けようかとなんとなし思ったりもしていたわけでもあるし、そんな風に紹介されるのに会釈のように頭を揺らした千獣の表情からは、その辺りはきっと読み取れなかったことだろう。
 ただ女店主は酔客を相手にするのとは異なる種類の笑みをやんわり刷いて、応じた千獣を見詰める。
 彼女は、千獣のものとはまた違った風合いの黒髪を、ぼやけた光の中で揺らしていた。

 彼女の深い色に見送られて、千獣は『森』を訪れた。



 ――木々の翳りと黒髪の深さが似ているというのではない。
 そんなことではなく、気配というべきか。感覚的な部分での印象なのだ。
「通してもらう、ね」
 大きな毛玉もとい丸まった獣の巨躯で塞がれた辺りを擦り抜けた千獣は、ひらけた空間に出て顔を上げた。
 見上げる空は暗い。無数の星が瞬く中に月がゆったりと寛いでいる。
 さてこの頭上に広がる夜空は本物か、作り物か。千獣の感覚では本物だと思えるのだけれど。
「……」
 森に入って歩くうち、広場のような空間に幾度か入り込んだ。ここもそうだ。
 その空間だけは森の中と違って千獣に何の違和感も抱かせなかった。遠慮がちに撫でていく風もひんやりと上方から擦れ違っていく。そこには人工物ではない大気の香りともいうべきものが含まれている。そう感じる。
 夜空にひらけた空間。佇んでいた千獣は数度瞬いて顎を引くと、周囲をくるりと見回した。
 幾度目かの広場。幾度目であろうとも変わらない光景。
 ただそこに在る数が異なるだけ、在る種が異なるだけ。
 しんと降りて周囲の木を支えとする夜の幕。
 その下のひらけた場所にはゆったりと伏せる生命達。
 小さな獣が数匹集まって鼻を鳴らしている。大きな獣が咽喉を低く鳴らして耳を揺らしている。鳥がそこに埋もれるようにしている。硬い角が他のものに当たらぬようにと首を傾けて窮屈そうにしているのは、魔物。様々な関係の様々な生命がささやかな休息を取っている空間。
 最初だけ、驚いた。けれど二度目からは千獣はそれをこの『森』の当たり前なのだと受け入れた。
 見上げる天蓋の真偽は相も変わらず枝葉越しにはいささか疑わしいものの、それがどうしたというのだろう。
 広場を包む空の延長である森にかかる空は、結局のところは同じなのだ。深い色の夜。その光も大気もこの場の生命の全てを安らがせている。深く深く沈みこませ、陽光の下では鮮明に過ぎて知らぬ顔が出来ない獣達の力関係までもを覆い隠してしまっている。そういったものなのだ――この『森』は、きっと。この、夜、は。
(やっぱり、似てる)
 飢えた獣がいた場所もあった。
 傷ついた獣がいた場所もあった。
 眠りに落ちる獣達はこの場のように。
 様々な生命が在るままに、夜の幕は色深く広がり全てを包む。
 等しく晒させるのではなく、等しく包み込む。色々なものを。
(エスメラルダ、に)
 その寛容はやはりどこかしら彼女を感じさせてならなかった。
 常の通りに微笑んで見送った姿を思い出し、そうして千獣は再び歩き出す。
 彼女が客に「頼りになるの」と言い切った件について果たすには、まだ森の中を進まねばならない。それでも深く進む間に獣のが促すように頭を巡らせたのも何度かあったし、段々と目当ては近付いていることは違いなかろう。
 預かってある袋を確かめて千獣はまた頭を上げた。
 枝葉の下から見上げるとやはりどこかが奇妙な光。だが降り落ちるそれは今はぼんやりとあるかなしかの月のものだと訴えるようだ。偽物でも深夜の光源となれば変化はするということか。でも本物のような気もする、などと考えたりしながら千獣は歩き易さが不自然な森の中を進んだ。
 足元の土を踏みしめて、微かな足音をあえてそのままに立てて聞く。
 森の中はとても穏やかな音に満ちている。強く主張してくる音はない。
 なんだかそんなところまでもが繋がっていく気がして、やたらと思い出される彼女の深い色に千獣はひとり頬を緩めた。
 そうして歩く間にまた森の中のささやかな空間が現れる。
 やはりぴりぴりと張り詰める空気は無く、どの生物も緩やかに腹を上下させて安らいでいた。休息所が幾つも収められているかのような森の中だ。くるりくるりと視線を巡らせて千獣はそこに入っていく。
 と、止まる足取りと視線。向かう先が定まる。
「……いた……」
 それは空間の隅の隅。木の根の間にすっぽりとはまりこむ小さな獣。
 ぽつりと零れた千獣の声に反応を返すことはなく、すぴ、と鼻を鳴らして。
「…………」
 千獣は獣が丸々と綿毛の塊めいた状態で寝息を零す姿を見、皆を起こす事のないようにこれまで通り、音も気配も控えてするりと目的の獣の傍まで近付いた。
 隣の木の根元に腰を下ろす。預かった袋の中身は獣の好物だということなので、目を覚ますまでは意味がない。とりあえず傍らに置いておく。一瞬だけ獣が動いたのは袋の中身の匂いでも拾ったからかもしれないけれど、結局目を開けずにまた鼻を鳴らしてそれきりだった。
「……あのね」
 とはいえど、完全に眠りこんでいるのでもないらしいので、千獣は控えめに声をかけた。知らぬ者が出す好物よりも、知る者から預かったと知らぬ者が出す好物の方がいいだろうし。
「いつもより長く……ずっと、出掛けたままで、心配だって……」
 千獣の言葉に揺れる獣の耳。じんわりと動く。
 頭の上から弱い風。それに髪を遊ばせながら千獣は訥々と獣に語りかける。
「……怪我が治ったばかり、だから……様子を知りたい……って」
 何の変哲のない森でも慣れぬ者が進むのは難しい。
 ましてやこんな常とは異なる森では入って出て来れなくなったりする可能性も低くはないのだから、あの客は彼女の言う通り千獣に任せて正解だったのだろう。別にそれを千獣が思うわけでもないが、当人が来たら大変な苦労だっただろうとは考える。だけど放っておいて、この小さな獣が戻らなければ、無茶をしたかもしれない。それくらい気にしていた。
「調子、どう?」
 そんなことを話し、千獣が問いを付け加えれば獣は小さな頭を上げる。
 ぴ、と耳を一際大きく動かしてから身を起こすとおもむろに好物の入った袋へ近付き鼻面を突っ込んだ。でも食べないまま更に動いて千獣の傍へ。
「……帰る?」
 見上げる姿に更に問う千獣。
 その紅色の瞳を見返す獣は、相手を真似るように首を傾げてから座りこんだ。
 千獣にくっつくようにして。つまりは多分、それが答えなわけで。
「じゃあ、明日……だね」
 もう真夜中を過ぎるからと獣の小さな頭に触れて千獣は語りかけた。
 返事代わりのように鼻を鳴らす音を聞きながら見上げる先は、深い色。
 ずっとずっと、あちこちの広場も枝葉の下も、森の全てを包み込む天蓋の。
 その夜の優しさに眸を細め、閉ざす寸前に胸の内で浮かべた言葉を改めた。

 夜は優しい――そうではなくて。
 ここから見るこの深い色の様が、森を包むこの夜が。
 ただ、優しい夜であるということなのだと。

 見上げる深更の色は、やはり彼女を思わせた。





 ** *** *



 それは、真白の書が映した物語。
 望むものか、望まぬものか。
 有り得るものか、有り得たものか、あるいはけして有り得ぬものか。

 ――小さな世界が書の中にひとつ。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【3087/千獣/女性/17歳/異界職】

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■         ライター通信          ■
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御参加有難うございます。ライター珠洲です。
思い浮かべて書かれるだろう。ならば映り込むだろう。
そんな方向でエスメラルダ風味というべき話となりました。
真白の虚実はどちらでも。お楽しみ頂ければ幸いです。